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The Euthanasia Prevention Coalitionの調査で、カナダで安楽死合法化を支持する人は59%。去年の61%よりも減。
http://www.lifenews.com/2010/11/08/bio-3209/

米連邦政府のMarriage Actに、同性愛カップル2組から訴訟。
http://www.nytimes.com/2010/11/09/us/09marriage.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a22

    

決して、そう意図したわけではないのですが、
たまたま、この1ヶ月は“Peter Singer月間”みたいになってしまったので、
関連エントリーをこのあたりで一度まとめておこうと思います。


「なぜ人間は動物と違って特別なのか?」種差別批判からの問い(2010/10/7)
(ここから3つエントリー続きます)

「障害者の権利と動物の権利を一緒にするな」とNDYのStephen Drake(2010/11/1)

「Kaylee事件」と「当事者性」それから「Peter Singer」(2010/11/3)

Singerらの「大型類人猿の権利宣言」って、あんがい種差別的?(2010/11/5)
(「大型類人猿の権利宣言」に関するエントリー、ここから3つ続きます)


ちなみに、私が
シンガーって、実は、ただ「頭のいい5歳児」……? と初めて思ったのは、
こちらの発言を聞いた時。↓

P.シンガーの障害新生児安楽死正当化の大タワケ(2010/8/23)


それ以前のPeter Singer関連エントリー一覧は
上記の8月23日のエントリーの末尾にあります。
2010.11.09 / Top↑
ちょっと前、某SNSの納豆コミュニティにハマっていたことがある

私自身はたいして好きなわけでもなく
ミュウが納豆大好き人間だから覗いてみただけなのだけれども

みんなが納豆に注ぐ情熱が実にまぶしくて、
つい、やってみたくなるのだな、これが。

どうせやるなら……と思わせるだけ、
ここに集う納豆好きはマニアックでもある。

とはいえ、初回はなかなか勇気もいることとて、
ウソだろ、それ……と思わずひるんでしまう食べ方の中から
まぁ、やってみてもいいか……と思える許容範囲を夫婦で相談しつつ絞っていくと
とりあえず「納豆チーズ・トースト」が楽しそうだった。

そこで、納豆もチーズも共に大好きなミュウと一緒に食べてみることに。

時は休日のお昼。

朝から「今日のお昼は納豆チーズ・トーストだよ!」と父も母も騒ぐのだが、
ミュウにはイマイチぴんときていない模様。

まぁ、騒いでいる親の方も確たるイメージには乏しいわけだし。

車椅子で食卓の定位置についたミュウの前に材料をすべて運び、
トースターのワゴンもテーブルの傍にセット。

皿の上に食パンを取り出し、スライスチーズを載せる母の手つきを
大して興味もなさそうに見ていたミュウの目は、

母がパックの中でタレと合わせてかき混ぜた納豆を
おもむろにその上にスプーンで広げ始めるや、

「おや?」と俄かに焦点を結び、
次いで見開かれて「え?」と言った。目が。

え? え? えぇぇー? 

見る見る釘付けになった目は、
それから「なんてこと、するんだ?」と困惑し、
もの問いたげに母の顔を見た。

うっふっふ。まぁ、待ってなさいって。

チーズと納豆をのっけた食パンは母から父の手に渡り、
父の手でオーブントースターに……。

思ったほど臭くないね。
どれくらい焼けばいいかな?
もうちょっとカリカリにならんかな。

はしゃぎ気味に焼け具合を確かめる親たちを
ちょっと距離を置いて冷静に眺めるミュウ。

「はいよ、納豆チーズ・トースト、できたよっ」

皿に移して目の前に差し出すと
ミュウは車椅子で、ろくろっ首になった。

「えー? なんでー? ミュウの好きな納豆なのに」

いいよ、じゃぁ、お父さんとお母さんで食べるから。

親が二つ折りにした、そいつに齧りつくのを
ミュウは薄気味悪そうに、ナナメ目線で……。

父にはイマイチだったが、
母はそれなりにクリーミーで旨いと思った。

母がどんどん食べるうち
ミュウの目つきが、ちょっとずつ変わる。

「――食べる?」

バツ悪そうに小さな声で「ハ」
「やっぱり、あたしもちょっと食べてみたい……」てか。

小さくちぎったのを口に入れてやると、
遠くを見るような目つきで慎重に味わい、
「あら、割と……」という顔。

「もっと食べる?」
「ハ」

でも、結局5口だった。
彼女はその後、納豆抜きのチーズ・トーストを所望した。

「納豆はやっぱり普通にゴハンで食べたい人ォ?」

おそらく同意見だったらしい父が聞くと、
ミュウは、くそまじめな顔で答えた。

「ハ!!」
2010.11.09 / Top↑
「大型類人猿の権利宣言」シリーズの最後③です。
①Singerらの「大型類人猿の権利宣言」って、あんがい種差別的?
②Peter Singerの”ちゃぶ台返し”

(以下、本文です)
8日のエントリーPeter Singerの“ちゃぶ台返し”の最後のところで、
「見てみろ、知的障害があってチンパンジーほどの知能もない人間が、
人間だというだけで保護されているじゃないか、そんなのフェアじゃない」と書いた部分は、
「大型類人猿の権利宣言」の中の、特殊教育の専門家による
「重度の知的障害を持つ人間と大型類人猿」という文章の
以下の一節を、私の耳に聞こえたままに翻訳したものでした。

……もっとも知的なチンパンジーでさえ、直接であれ、自分たち自身の種から選ばれた代表を通してであれ、自由が剥奪されていることに、あるいは苦痛を加えられる医学実験に使われることに、食料として殺されることに、動物園とかサーカスで見世物にされていることに講義することが出来ないのである。他方で、「国連の宣言」にしたがって、重度の精神障害をもつ人間の方はいかなる種類の虐待と凌辱からも守られている。その根拠といえば、ただホモ・サピエンスという種の成員であるというだけである。
P.96



同時に、この文章のタイトル・ページにある短い「序」のような部分では
著者は、以下のようにも、その比較の意図を述べている。

……この比較を倫理の議論の中にもちこむ意図は、平等権を知的障害者へと拡大した卓越した進歩に傷をつけることではもちろんない。むしろ、この進歩の基本になる原理は、いやおうなくそれ以上の一歩を踏み出すようにさせるということにある。
(p.177)



「いやおうなしに」それ以上の一歩、つまり
大型類人猿への平等圏の拡大という一歩を「踏み出すようにさせる」……。

知的障害者が人間だというだけで保護されているじゃないか、
そんなのフェアじゃないじゃないか、といって障害者を引き合いにでも出さない限り
大型類人猿に平等な権利を拡大する「それ以上の一歩」を
踏み出すように「させる」ことができないから、
「いやおうなしに」それを「させる」ために、
本来は無関係な知的障害者を巻き込んで比較の対象とする、と――。

あたしたちは確かに私語をしていたから、それだけでは、どうせセンセイは
あたしたちの自尊心を傷つけた自分の行為の不当を認めないから
「否応なしに」それを認めるように「させる」ために
でもAさんだってしゃべっていたじゃないか、
Bさんなんか、こっそり漫画を読んでいたんだぞ、と
無関係な他人を引き合いに出して巻き込みます。
こういう人たちをセンセイは怒らずに放置しましたよね。
それなのに私たちだけが怒られたのだから、そんなのフェアじゃない。
それはセンセイの行為が不当だったということの証拠であり、つまり、
私たちを怒ったセンセイの行為は道徳的な誤りだったという証拠ですよね。
違いますか? 違うというなら、私たちの言うことを論破してみせてください。
論破できなかったら、あたしたちの言うことが正しいって証明されたんですからねっ。
学長室に訴えていきますよ、あたしたちっ。

行けよ、勝手に……。


ところで、
「ドルトムント大学の特殊教育の教授で、知的障害者のための教育法を教えている」とされる
この文章の著者のクリストフ・アンシュテッツ氏は、なんとも不可解な用語の使い方を見せます。
タイトルでもタイトル・ページの梗概でも「知的障害」が使われているのだけれど、
なぜか本文は「重度の精神障害者」で、ほぼ統一されているのです。

全体の論旨としては、
「重度の精神障害者の特殊教育の分野」では、
そういう子どもたちには教育を施しても何ら成果がないことが通説となっていて、一方、
これまでの研究から大型類人猿の方がよほど高い言語習得能力を持っていることが明らか。
「重度の精神障害」を持つ子どもは人間らしいところがほとんどないのに対して
大型類人猿の方が言語、情緒、精神能力のすべてにおいて、より人間らしい。……といったもの。

もちろん結論は、例の「だから、平等な者の共同体を拡大して大型類人猿を含めよう」。

それを特殊教育の専門家の立場で説くわけだから、
上記のような見解がただの偏見ではなく事実であると、専門家が実証する文章として、
このアンソロジーの中では位置づけられているわけですね。

しかし、「知的障害」と「精神障害」の区別もつけられない特殊教育の専門家って
いったい、それは、どういう専門家よ――?

呆れかえった瞬間に、
07年にNaamの障害観(2007/11/19)というエントリーで引用した、
以下のトランスヒューマニストの、おバカな言葉を思い出した。


……「頭のよくなる薬」「頭のよくなる遺伝子」だけでも、現在、精神障害と闘っている何千万という人々が救われることになるのだ。

「超人類へ! バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会」(p.67)


Ashley事件に登場したTH二ストの親分、James Hughesも
その著書 “Citizen Cyborg”で提案しているサイボーグ社会の市民権の階層の中で
第2番目の「障害市民権:生命と、完全な自己決定を行うための補助の権利」の対象として
「人間の子ども」と「大型類人猿」と一緒に挙げているのは「認知症と精神障害のある人間の大人」。

知的障害者は、Hughesのリストのどこにもないので、
おそらく、この「精神障害」も、アンシュテッツ先生と同じく
Hughes本人は「知的障害」の意味で使っているつもりなのではないでしょうか。

また、大型類人猿と同じカテゴリーに「人間の子ども」が含められていることも興味深い点です。

上記リンクの07年のNaamのエントリーでも書いていますが、
要するに、「頭がいい」ことに至上価値を置く彼らにとって、
知的障害と精神障害の違いなんか、あってもなくても同じことで、
ただ単純に「頭がいい」の「対極」としてイメージされているだけ。
つまり、単に「頭が悪い」ことに過ぎないのでしょう。

知的障害者も精神障害者も、ただ「頭が悪い人たち」。
彼らにとっては、それ以上の区別は無用なのです。
大事なのは「頭が悪い」ことであって「どのように悪いか」ではないからね。

「子どもである」ということも、また彼らにとっては、
「まだ大人並の知能を身につけていない」状態。
それは、やっぱり「頭が悪い」状態なわけね。

チンパンジーに人間の言語を教えると、
個体によっては(また研究者の熱心さによっては)
「幼児並みに」使いこなすことがしきりに強調されていることから考えると、
人間の子どもと大型類人猿は「頭の悪さ」の程度が同等なのだから、
独特的な地位のレベルも同等でいいということになる。

しかし、まぁ、なんとも呆れるほどに単細胞的な人間観――。

口にすると大向こうの反発を買うことが分かっているから公言しないのだろうけど、
彼らの意識は、既にIQによってシンプルに人間を階層化していると思うな、私は。

             ―――――

ちなみに、この前、京都の閻魔堂で立岩真也氏が
江口聡氏の「なぜ人間は特別なのか」という問いに対して
「人間は人間から生まれるから」と答えていたことの意味が
私にはイマイチよく分からないまま、あの会話から触発されて
こちらの3つのエントリー・シリーズを書いたのだけれど、

アンシュテッツ先生の文章の中に、
シュトルクという人の同じような言葉が出てきていた。
シュトルクの提案とは


人間らしさについての問いに答えようとする場合、われわれは人間の間の差異から出発すべきではなくて、その能力と特質にかかわりなく、人間に共通のものは何かということから出発すべきである。
(p.195)



でも、「その共通のものが『重度の精神障害者』にはない」と
アンシュテッツもシンガーも言っているわけで……と、つい直感的に考えたところに、
さらなるシュトルクの言葉。

人間とは、人間から生まれたすべてのものである。
(P.195)



なるほど~。こういう文脈だったのかぁ……。
やっぱり勉強はしてみるものですねぇ。この本のさわりの部分を読んで
ここ2つばかりのエントリーで、あれこれ考えてみたおかげで、
立岩先生の「人間から生まれるから」が、ちょっとだけ分かった気がする。

「人間は人間から生まれるから、人間にとって特別」というのは、要するに、
「人間とは人間という同じ種に属しているものたちのことである」ということですね。

大型類人猿に人間という別の種の言語を無理やり教えこむという虐待を行って、
彼らにおける「人間で問題になる知能」を計測し、
彼らが「人間で問題になる意味で知的に」「人間に近い」から
彼らに「人間との平等」を認めようと主張するのは
優越者としての人間という種を基準にするところからして、彼らの種を否定し、
そもそも種差別ではないのか、ということをこちらのエントリーで考えてみましたが、

「人間から生まれるから」というのは、要するに、そういうことなのでは?

種差別をしない、ということは、
チンパンジーにとっては人間なんか特別でも何でもない、
チンパンジーにとってはチンパンジーが特別なのだとわきまえておくこと。
それが、つまり「人間は人間から生まれる」ということですよね……

――あれぇ? ……それって、結局、
”ちゃぶ台返し”の自己中心的な幼児性に繋がらないかなぁ……?

自分は頭がいいのだという自負が
議論において、自分の主張の正しさを相対化してとらえる視点を失わせていたように、

人間は知能が高いのだという自負があるために、
大型類人猿に対しても、人間は特別な種なのだという意識を相対化できない。
だから、彼らにとっては人間なんか特別でもなんでもなくて彼らの種が特別なのに
エラソーに「特別な人間の共同体を開放して、含めてやろう」と。

一番、人間を特別だと無意識に深く思いこんでいて、
一番、種差別意識が強いのは、実は、この人たちなのでは――?

種差別だけじゃなくて、自分ほど頭が良くないすべての生き物に対して、
この人たちには、ものすごい差別意識があるんだろうな……と思うよ、私は
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