http://news.stv.tv/scotland/211269-poll-shows-huge-public-support-for-assisted-suicide-law/
英国で、支援サービスにつなげるべくGPが新たに介護者を見つけられるよう、今後4年間で600万ポンドの予算。:社会保障費大幅カットの中、英国政府が次々に飴玉を繰り出している? それとも介護者支援を充実させて、その代わり家族で介護を担ってね、という方向での経費削減策?
http://www.thegovmonitor.com/world_news/britain/uk-invests-6-million-to-identify-new-carers-43294.html
高齢化見据える韓国で、子どもたちに認知症サポーター養成講座。
http://www.nytimes.com/2010/11/26/health/26alzheimers.html?nl=todaysheadlines&emc=a2
【関連エントリー】「大人なら誰でも基本的な家事・育児・介護ができる社会」というコスト削減策(2009/5/25)
米国のメディケアの給付カットで、高齢患者が診察予約をとろうと思っても何カ月も待たなければならない事態に?
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/11/25/AR2010112503638.html?wpisrc=nl_cuzhead
ネット上の健康や医療関連サイトが、利用者からゲットした個人情報を製薬会社などにマーケッティングのための資料として流している、と米国のプライバシー監視団体。
http://www.nytimes.com/2010/11/24/business/24drug.html?_r=1
ミシガン大学の調査で、妊娠34-36週で生まれた未熟児は、母親のIQその他の属性とは無関係に、後に認知・情緒障害を生じる確率が高い。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/209036.php
【関連エントリー】
未熟児はどうせ早死にするから助けるのをやめようって?(2008/4/15)
超未熟児には行動障害、情緒障害が4倍(2008/9/13)
未熟児にかかる社会的コストを試算(2009/2/2)
未熟児を産ませず、生まれても救命しないための科学的エビデンス作りが進んでいる(2009/6/10)
ALSのミュータント遺伝子研究でブレイクスルー。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/209035.php
命にかかわるほどの血栓症でも、血小板を制御する遺伝子発見のブレイクスルー。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/209118.php
ある調査で、南アフリカの男性の3人に1人がレイプの経験があると答えた。女性は4人に1人が被害に遭った、と。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/nov/25/south-african-rape-survey?CMP=EMCGT_261110&
米国ライフル協会がテキサス州で18歳から銃を買って持ち歩くことを認めさせようと訴訟を起こしているらしい。
http://www.nytimes.com/2010/11/26/opinion/26fri1.html?nl=todaysheadlines&emc=a211
英国でオモチャのトランスフォーマー・シリーズに、spastic(不随意運動でピクつきのある)と箱に銘打った新型トランスフォーマーが登場。
http://www.bbc.co.uk/ouch/opinion/b1tch/db_transformer.shtml
事故で道路が渋滞して、いつもより20分も遅くなってしまった。
部屋に入ったら、
テレビの前で車いすに座っている娘は
鼻も目も真っ赤に泣き腫らしていた。
ミュウは金曜日には、どうかすると師長さんを大声で呼びつけて
「あたしは今日、家に帰ることになっている?」と確認してもらっていた時期もあるので
(彼女には言葉はないけど、今の師長さんとは、かなり細かく会話が成立します)
てっきり迎えが遅くなったから泣かせてしまったのかと思って
夫婦で娘に向かってしきりに謝っていたら、
娘と一緒にテレビを見ていた身障の女性が「おかーさん、ちがうよ」。
なんでも、1年だか1年半だか短い間働いて、この春辞めた元職員の男性が
今日、園に来て、つい、さっき帰ったのだとのこと。
働いていた頃にミュウのことをずいぶん気にとめてかわいがってくれた人で
ミュウは再開を大層喜んだ。
その人もミュウとの再会を喜んでくれたそうな。
そして、その人が帰る時に、ミュウは大号泣したのだという。
(最近のマスコミは、ただ涙を流すことを大げさに「号泣」と称しますが、
ウチの娘が泣く時には、本来の「号」の意味通り、わぁわぁ大声で号泣を放ちます)
「ふ~ん。そうだったのかぁ。で、その人って、だれ?」と訊くと、
その女性が「たぶん、お母さんの知らない人」
「あ……そう……。ふ~ん。そっかぁ。
ミュウ、泣いたかぁ。別れが悲しかったんだぁ」
こういう時、親としては、ちょっと複雑な気分にはなる。
迎えが遅くなったから泣かせたんだと早とちりしてしまったのは、
とっくに大人になったミュウを前に、親の自意識過剰だったのね……。
これは、ちょっとバツが悪いし、ちょっとヘコむ。
でも、ヘコみつつ、どこか、猛烈に嬉しい。
こんなにも重い障害があり、言葉という表現手段を持たない娘が
親の知らないところにちゃんと自分の暮らしを築いていて、そこで
親の知らない人と、それほどの繋がりを作っているということ。
それは、やっぱり、すごいじゃないか。
それって、なんだか、わくわくするじゃないか。
今までも、どこかで親の知らないミュウの知り合いに声をかけられると、
「親の知らないミュウの知り合い」に心躍ったことは何度かあった。
でも、これは、また、それ以上に、
ああ、この子は自分の力でそれだけの広い世界を作り生きているんだなぁ、
言葉を持たないこの子を受け止めてくれる人がちゃんといるんだなぁ、
その人と再会して別れるのが、こんなにも悲しいほど、
ミュウはその人が大好きだったんだなぁ……。
ミュウ、あんた、すごい人間だねぇ……。
泣き疲れてブスッと泣き腫らした娘の顔を見ながら、つくづく思う。
そして、会う機会も話す機会もなかった、その元職員さんに、
心から、ありがとう、と、つぶやく。
だって、それは、
この子をいつか社会に託して逝く勇気があるか
それだけ総体としての人間を信じられるか、と
ずっと自分に問い続けている私にとって、
私の方こそ大声あげて泣きたいほど、
嬉しく勇気の湧いてくる話だったからさ。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/208901.php
ギリシア状態のアイルランド政府が財政立て直し案。大増税と福祉の大幅カット。:ネオリベ・グローバリゼーションの果てに、実は世界中がこういう方向に向かいつつあるような気がする。こわい。
http://www.nytimes.com/2010/11/25/world/europe/25ireland.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a22
サラ・ペイリンさんが、今度は「同盟国である北朝鮮を支えなければ」と規視感の強い失言。
http://www.guardian.co.uk/world/richard-adams-blog/2010/nov/24/sarah-palin-north-korea-allies?CMP=EMCGT_251110&
英国の警察に、DV夫に48時間自宅から去るよう命じる権限。被害者の妻が支援を見つけるための時間稼ぎとして。
http://www.guardian.co.uk/society/2010/nov/25/domestic-violence-police?CMP=EMCGT_251110&
ここしばらく補遺で拾っている英国の大学学費値上げ問題で、大規模デモ。
http://www.guardian.co.uk/education/2010/nov/24/student-protests-school-children-streets?CMP=EMCGT_251110&
FDAが自殺リスクを警告したことで、子どもへの抗ウツ剤の処方が減ったとの調査結果。特に12歳以下のうつ病では心理療法を主要な治療とするケースが増えた。:前に、でも、こういう現象が起きた時に自殺率は上がったんだぞ、と誰かが言っていたような記憶があるんだけど……。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/209080.php
マサチューセッツ州の保健当局が、製薬会社と医療機器会社から医師や看護師に支払われた金銭情報のデータベースを公開することに。:MA州といえば、ハーバード大学がある、かのB医師スキャンダルのご当地。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/209188.php
ProPublicaのビッグ・ファーマ・シリーズの最新記事。製薬会社が何年も前から、新薬について説明する教育講演に医師を集めるべく、有名アスリートに莫大な金を払って来てもらい、人寄せパンダに使っていたとのこと。有名アスリートと会ったり一緒に写真が撮れると思うとルンルンして集まってくる人が実際に多かったらしい。
http://www.propublica.org/blog/item/for-years-drug-company-paid-top-athletes-to-attract-doctors
きょうびの子育て支援グッズ。赤ちゃんがなぜ泣いているのか、泣き声から意味を読みとってくれるマシーン。親の膝に乗っているのと同じ揺さぶり方をしてくれるベビー・チェア。寝かしつけるときに耳元で囁き続けてくれるアプリ……などなど。
http://www.nytimes.com/2010/11/25/garden/25hometech.html?nl=todaysheadlines&emc=a26
健康なゲイ男性が抗レトロウイルス剤を毎日飲むと、エイズ予防になる、との研究結果。
http://www.nytimes.com/2010/11/24/health/research/24aids.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a2
子どもの時に親の離婚を経験すると、後の人生で脳卒中になる確率が高くなるそうな。:こういう報告を見ると、AとBの因果関係しか調査・実験できない“科学的エビデンス”の限界を感じると同時に、その実験ないし調査によってBが選択されたということは、無限にあり得たはずのB以外は選択されないままになったことを意味する……ということを考える。子どもの時に3回以上引っ越しを経験するとか、何歳までに親と死に分かれた経験があるとか、里子に出されたとか、極貧だったとか、若年介護者だったとか、親から虐待されたとか、雨が多い地域に住んでいたかとか、ペットがいたかいなかったかとか、家から学校が1キロ未満だったか以上だったかとか……。あー、ここまで来ると、さすがに関係ないか。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/209022.php
ヴァチカン、カトリックのコンドーム使用を認める方向。エイズの感染リスクを考えての方向転換。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/nov/23/catholic-church-condom-use?CMP=EMCGT_241110&
サンデル教授の「これからの『正義』の話をしよう」を読みながら思い出されて、
本棚から引っ張り出したのが紀野一義著「私の歎異抄」。
(もう文庫しかないみたいですね。私のは93年の初版16刷ハードカバー。)
読み返すたびに著者の根深い女性蔑視にはなはだしく不快になるのだけれど、
きっと女性に恨みつらみやコンプレックスの多い人生だったのだろう、と決めつけることで、
そこの点だけは“ならぬ堪忍”を自分に強いつつ、何度も読み返してきた本の1つ。
このブログで、英語圏のラディカルな生命倫理の議論、
特に合理合理でゴリゴリと押してゆく論理のパズルのような議論について考えていると、
脂っこく噛みごたえのある洋食続きで弱った胃袋が
「そろそろ滋味のある和食でいたわってくれろ」と助けを求めるかのように
人間の心の綾を丁寧に描いて味わい深い小説や
日本の死生観・自然観について書かれたものを読みたくなる。
……人間は……(略)……無量の光、無量のいのちである大いなるものに生かされているのであることが完全に理解されたとしても、理解され、一体となればなるほど、自己の我執の根の深さを思わせられるのである。自分の中にどうにもならぬものがうごめいていることを思い知らされるのである。この自分のどうしようもなさを思い知らされた人間は、自分のことをどうにもならぬ「悪人」と感ずるのではないか。
それは、宿業の恐ろしさを身にしみて感じた人間のことであるといってもよい。
いわゆる「善人」は、文字通り「よい人」であって、日常生活においても、さわりのよい、常識的に人々が善と考えることを抵抗なく実行できる人のことである。この人々は宿善、すなわち、過去の善縁によって善事を行なわしめられているのにすぎないのであるが、それを、どこやら、自分の力で善いことをしていると抵抗なく考えることのできる「幸福なる人」である。
私は、そういう人はそれでよいと思う。親鸞もそういう生き方がいけないといっているのではない。いいわるいの問題ではない。そうであるか、そうでないかだけの問題である。
ただ、自分の力で善いことをしていると抵抗なく考えることのできるこの幸福なる人は、過去の悪縁が働いてきた時は、また抵抗なく「どうしようもなかったのだよ」と無反省に過ぎて行ってしまうであろう。
しかるに「悪人」は、そう無反省に過ぎていくことはできない。いわゆる「悪人」ももちろん善事を行う。しかし本人はとても善事を行っているというような意識はない。……(略)……「悪人」の意識の根底にあるのは「自分は極重悪人だ」という気持ちである。どうしても無我になりきれないかなしみ、無私になりきれない憤ろしさがある。もちろんそれを人に言うのではない。言えば、「自分を極重悪人と思う反省の深さがわたしにはある」という驕慢心が忍び込む。そのことが悪人にはすぐにわかる。わかるからよけいに無我になれなくなる。だから言わぬのである。
(p.73)
ここは、悪人正機説の要諦のような下りなので、
読むたびに、その時々のこちらの精神状態によって、いろいろに受け止め直すのだけれど、
今回はAshley事件からこちら考え続けている「親のプライバシー権」の問題に重なった。
Ashleyの父親はブログで、loving parentsとして我々はこれを考えたのだと
繰り返し書いている。このことに、私は当初から違和感があった。
本当に愛情深い親は、それをわざわざ言葉にして念押しする必要も
感じないものなのだよ……みたいな。
もちろん、ここでは、もともと、それを訴えるためのブログなのだという点は
いくぶん差し引かなければならないだろうけど、それにしても、
親が、子の身体を不必要に侵害することに微塵も疑いを抱かないばかりか、
親と子の間にある利益の相克、権利の衝突に気付きもせず、
したがって親であるということそのもの持つ抑圧性や暴力性にも無感覚なまま、
こんなにも無邪気に、子への愛を盾に取り、言い訳に使い、
なおかつ自分は「こんなにも愛情ある良い親なのだぞ」と胸を張る時に、
そして、そこに世間が
「さわりのよい、常識的に人が善と考える」「良い親」を見て感動し、手を叩く時に、
私は、改めて、
「親は一番の敵だ」と言い放ってくれた日本の障害者運動の先駆性、腹の据わり方のすごさを思う。
親や介護する側に立つ人が、そこに潜む支配―被支配の関係に自覚的であるということの重要さを思う。
10月に来日した哲学者のEva Kittay氏は講演で、
介護者の「透明な自己」という表現を使っていた。
ここには2重の意味があるということを考えながら私は聞いたのだけれど、たぶん、
その1つは、支配せず、介護される者の側に立ち切った介護者ということ。
それからもう1つは、依存者をケアする役割を引き受けることによって
自分自身のニーズや様々な欲求を捨てざるを得ず、
透明になるほど抑圧された介護者の自己。
介護者にとって前者は理想とすべきあり方でありながら、
それを実現しようと努めれば努めるだけ、介護者は後者の抑圧を引き受けることとなる。
介護者はみんな多かれ少なかれ、それぞれの事情の中で、そのジレンマの中に身を置いている。
そのジレンマを、介護者自身も、そして社会も
事実そこにあるものとして認識することの必要と、
その事実を排除したまま論じられてきた社会正義・政治哲学が
その事実を組みこんで新たに考え直されなければならないこと。
Kittay氏の理論が向かっているのはそういうところではないかと思う。
再び、「私の歎異抄」から。
「もういい、仕方の無い事ではないか」ということばは、安易に吐かれると大変危険であるが、悲しみが昇華したあと、あるいは、苦しみ多き長い人生を歩き通して終着点近くなった人の口から言われると、仏から来たことばのような安らぎがある。人間のぶざまさ、足りなさ、恰好の悪さ、どうしようもなさをしみじみと思い知ったとき、もう大きな力に促されるままに生きてゆくほかないな、という自然法爾(じねんほうに)の世界につながってゆくことになるのである。
(P.222)
三島由紀夫は恥をさらしたという人がある。その人は恥をさらさぬのであろうか。おそらくそういうことをいう人は、恰好よく生き、自らを恰好のいい人間と思っているから、そう言うのであろう。しかし、恥をさらして何が悪いか。恥をさらさぬ人間というものがあろうか。そういう人間は上手に逃げているだけではないのか。……(略)……
人間が恥をさらさずにどうして生きてゆけるのか。病んで身動きもできず、激痛に苦しめられている時、恰好よく、恥をさらさずに生きてゆけるか。老いてなおかつ美しく生きてゆけるか。脳の一部の血管が切れただけで、もう人間は恥をさらすのではないか。
親鸞が「凡夫」といったのは、「人間は恰好の悪い、恥さらしの存在である」ということではないのか。
(p.235)
Kittay氏が提示した、もう1つの重要な概念は「みんな誰かお母さんの子ども」。
これは要するに、親戚のオバサンなんかが、
大人になって“いっぱし”なことを言う甥っ子とかに向かって
「あたしゃ、昔、アンタのオムツを替えてやったんだからね」とピシャリと喰らわせる、アレですね。
今でこそ「恰好よく生き、自らを恰好のいい人間と思っている」高みから頭の良さにゴーマンかまして、
頭の悪い障害者は動物以下だなどとホザいているPeter SingerやTH二ストだって、
生まれた時には、オシッコもウンコも垂れ流しだったやないか。
お腹がすいたら、誰かが来てくれるまで無力にピーピー鳴いてたやないか。
お母さんに全面的に依存した存在だったやないかい。
お母さんがケアしてくれたから今のアンタがあるんと違うんかい?
さも自分は優秀だから誰の力も借りずにここまで来たんだ……みたいな顔しくさってからに。
人間はね。み~んな、そういう無力な存在として生まれてくるの。
そして、そういう無力な存在になって、死んでいくの。
その間を生きていても、ちょっと何かがあると、すぐに誰かのケアが必要な状態になる。
人間てのは、アンタも私も、み~んな、そういう存在なの。
そういうことを自覚し、ちったぁ謙虚になって、そんなゴーマンかましてる暇に、
みんながそういう存在として生きられるような社会を考えたら、どないやねん、こら!
――と、Kittayおばさんは
「みんな誰かお母さんの子」によって言いたいんじゃないかなぁ……。
――と、spitzibaraおばさんは考えるのだけどね。
―――――
もう1つ、上記の最後の2つの引用は、
「死の自己決定権」を唱えている一部の人にも当てはめて読めるような気がする。
恰好よい自分として生きられないなら、生きる価値がないと思う人たちに――。
この2つの個所を読みながら「くぐりぬける」という言葉が私の頭には浮かんだ。
中途障害を負った人や、障害児の親などが、障害を負ったり、子どもの障害を知った直後には
大きな衝撃を受け、自殺を考えるほどに打ちのめされるけれども、それでも多くの人は、その後、
もだえ苦しむ葛藤をくぐりぬけて、弱い人間でしかない自分や子どもを引き受けて
生きていこうと思える場所に這い出してくる。
「くぐりぬける」ということを経ることで、その時、人は、
くぐりぬける必要が生じる前よりも深いところにある何かに触れるんじゃないだろうか。
もはや「恰好をつける」ことも「上手に逃げている」こともできなくなった人間が
もう死んでしまいそうなところを、やっとの思いで命からがら、くぐりぬけた時に、
「もういい、仕方のないことではないか」と以前の自分への執着を解き放ち、
今のありのままの自分として生きることを受け入れることができるのではないんだろうか。
「死の自己決定権」を認めて自殺幇助を合法化し、
例えば事故でマヒを負った23歳の青年の自殺幇助を認めるのは、
彼の持つ「くぐりぬける」力を信頼しないということだ。
人はみんな、全面的に無力な依存者として生まれ
誰かに温かくケアしてもらって生き、大人になってきたのならば
本当はみんなに「くぐりぬける」力は備わっているんじゃないだろうか。
必要なのは、くぐりぬけようとする前から諦めることに手を貸すのではなく、
その人が生まれてきた時に誰かがケアしてあげたように、
その人がくぐりぬけることにも誰かが支える手を差し伸べること、
誰にとっても、そういう社会であろうとすることじゃないのだろうか。