http://www.onenewsnow.com/Culture/Default.aspx?id=1230492
チンパンジーの社会を50年間研究した学者さん。:この前シンガーらの「大型類人猿の権利宣言」を読んだ時に、その中で、知的障害者より大型類人猿の方が知的レベルが高いと主張する“特別教育”の専門家の文章で、なんで学者って、障害のために言語をもたない人間の非言語コミュニケーションよりも、チンパンジーの非言語コミュニケーションの方に研究意欲をそそられるんだろう……と、すごく不思議だった。でもって、すごく研究されているチンパンジーの非言語コミュニケーションの能力を評価しつつ、障害者の非言語コミュニケーション能力は単に研究されていないというだけで、その能力がないと決めつけられる、その思考の非論理性というか非科学性をなぜ誰も問わないのだろう? 少なくとも、あの文章はそういう結論の導き方をしていたけど?
http://www.nytimes.com/2010/11/16/science/16conversation.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a210
世界で初めて登場した生命倫理の出版物、Hastings Center Reportの40周年を記念して、若手研究者らに向け、次世代の生命倫理の課題とは? と寄稿を呼び掛け。:Ashley事件を通して同センターを眺めると、結構うさんくさい感じがするけど。それにしても次世代の生命倫理の課題って……、考えただけでも背筋に冷たいものが走る。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/207733.php
BBCが若年介護者の特集を組んでいる。若年介護者(young carer)の他に子ども介護者(child carer)という言葉も新しく登場。この記事は双極性障害の母親のケアをしている8歳のLeighちゃんの日常を、介護の必要のないクラスメイトMeganの日常と比較するもの。:日本でも、この問題、意識をもつべきだと思う。医療や福祉が患者や高齢者や障害者のところで切り捨てられていけば、必然的に、その周辺にいる子どもたちへの負担となってのしかかる。その問題は、日本ではまだ可視化されていない。
http://www.bbc.co.uk/news/uk-11745231
人さまのブログのコメント欄から拾ってきたニュース。デパスとかソラナックスとか一般的な安定剤として使われているベンゾジアゼピンに長期間の服用で脳委縮の副作用があることが30年も前に分かっていたとの秘密文書が出てきているらしい。:そういえば松平健さんの妻の自殺に関するコメントの中に、「心通じ合う医師に出会うことができませんでした」とあったのが、妙に心に残った。
http://www.independent.co.uk/life-style/health-and-families/health-news/drugs-linked-to-brain-damage-30-years-ago-2127504.html
アルビノ殺しが横行しているタンザニアで、初めて選挙で選ばれたアルビノの政治家。命の危険を感じている、と。この記事によると07年からこちら、59人が殺されたとのこと。アルビノの血や内臓が呪術に使われるため。
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/africaandindianocean/tanzania/8134841/Tanzanias-first-elected-albino-MP-fears-for-his-life.html?utm_source=Telegraph&utm_medium=Tweetdeck
NY市警が犯罪容疑者の指紋と写真だけでなく、眼球の虹彩の写真も撮り始めた。
http://news.yahoo.com/s/ap/20101116/ap_on_re_us/us_iris_scanners
米共和党の一部から、テロ容疑者は裁判なしに無期限の拘留を可能にするよう法改正を、との声。:サラ・パレツキーの著書が頭に浮かぶ。
http://news.yahoo.com/s/afp/20101116/pl_afp/usattacksjusticepoliticscongress
CO州で、自転車の14歳をはねて死なせたトラック運転手が、過失致死で有罪判決を受けた後、少年の親を訴えた。ヘルメットをかぶるように注意する責任があったのに、それを怠って息子を自転車に乗せたことで、自分が結果的に過失致死の判決を受けた、と。事故当時、道の真ん中で目に余る2人乗りをやっていたらしいのだけど。
http://news.yahoo.com/video/us-15749625/23048947#video=23050189
ヨーロッパでも極右勢力が台頭。移民に対する攻撃が激化している。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/nov/15/europe-immigration-far-right-threat?CMP=EMCGT_161110&
英国看護学会が、NHSの職員リストラが政府の予定通りに行われると患者は医療を受けられなくなる、と警告。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/207767.php
いわゆる超重症児にあたる息子Segevくんについて、
また重症児の意識や尊厳や、それから成長抑制療法について
イスラエル在住のカナダ人で指圧と生体人間工学の専門家Erikさんが
ブログで興味深いエントリーを書いている。
500.000 seizures have not killed my son
Erik
I am a broken man/You can’t break me, November 14, 2010
毎日けいれん発作を起こしては呼吸が止まったり、ぐったりして
これまでに、もうざっと50万回もの発作を繰り返しているSegev、
何度も手術台の上で死んだと思われた息子は、しかし、
それでも死なずに生き延びてきた。
A person like that is quite special and deserving of respect. Deserving of having someone nurture him and thus give him a dignified existence. For me nurturing is a complex issue that encompasses this idea of dignity while maximizing his ability to experience positive things in life. Maximizing may mean treatments and therapies but, having tried and seen Segev's potential does not lie with trying to make him stand or turn over since he cannot control his body, the maximizing lies with physical contact, the holding but also with using that moment to apply techniques of pressure to steady, change and encourage not only his bodily functioning but his knowledge that there is this love where one person takes care of another.
こういう人は特別な存在で、敬意に値する。
誰かにケアして(nurturing)もらい、尊厳のある生を生きさせてもらうに値する。
私にとって、ケアすることとは、
人生における良いものを経験できる能力を最大限に生かしながら
尊厳という考えも広くカバーする複雑な問題だ。
もちろん、その人の能力を最大限に生かすとは治療やセラピーのことでもあるけれど、
立たせたり寝返りさせたり身体を自分で動かせるようにするということだけが
Segevの潜在能力を捉えて伸ばそうとすることなのではなく、
身体に触れたり抱いて身体を支えてやったり着替えさせたりするケアの瞬間にも、
彼の身体機能を伸ばそうとすると同時に、彼の知識をも伸ばそうと働き掛けることなのだ。
人が人をケアするところには愛があることを、
Segevが知ることができるように――。
(Nurturingには適当な訳語が思いつかなかったので、
とりあえずケアとしておきました)
施設の職員さんが「忙しいから“関わりの時間”が持てない」というのを聞くたびに、
この人は、無言で着替えさせ、無言でトンラスファーをし、
無言で食事介助をするのだろうか……と、私は考えてしまう。
その人を人として尊重し、尊厳ある存在として遇しているならば
黙って着替えさせたり、オムツを交換したり、食事を食べせたりしておいて
「さぁ、関わりの時間だから、お話ししましょう」なんてことは、
ありえないはずなのに……と。
もっともErikも、
あまりにも依存度の高い人の場合には、ケアする側がだんだんと
その人自身よりも障害や病気の方に気を取られて、
まるでその人が障害そのものであるかのような意識になってしまう、と指摘する。
しかし、Segevの頭の中で何が進行しているのかについては
たぶん、こちらの目に見える以上のことが進行しているのだろうと
Erikは考えているし(私もそう思う)、
実際、これほど重度のSegevは、50万回もけいれんを起こしつつも、
今なお、新しいことを身につけ続けている。
舌を突きだすことが新たにできるようになったと思うや、
立て続けに突きだして見せることまでできるようになった。
思いがけない時に、おや、やっぱりこの子は分かっている、と
かすかな信号を出して、こちらを驚かせてくれる。
だから、たぶん、こちらの目に見える以上に、
この子は分かっているのだと思う。
そういう子どもの父親として、Erikは
全介助の重症児の身体が小さいことのメリットを考えないではないけれど、
しかし、成長抑制には大いに疑問があるという。
第一に、Ashleyに行われた乳房摘出。
あれが一体どうしたら正当化できるというのか。
健康上の必要のない、本来、治療ですらないものを
成長抑制と称して医師らは提唱している。
人類の歴史を振り返れば、
自分で選択できないAshleyに違法な手続きでの前例ができると、
ただ話題になり騒ぎになって、無意味な議論でガイドラインなどが作られ、
後先を考えずに、ひたすら、まろび進んでいくのだろう。
人類は、そうして進歩を生んできたというわけなのだから。
この後でErikが書いていることが私には非常に興味深かった。
It may seem tempting to view her parents as either brave or heroic for putting Ashley under this treatment since they apparently acted upon information that she would never develop mentally, never have any body control. This may accurately describe her condition even, I know that such a description fit my boy perfectly. But they were wrong about my son's chance of development because we are in need of better assessments. Assessments which can be written by medical professionals who are guided by the parent.
Ashleyは生涯に渡って、知的発達を見ることも身体的な自立を見ることもないと
言われたことに基づいてAshleyの親があのような医療介入を受けさせたことをもって
勇気ある親だとか英雄的な所業だと思いたい気分にもなるかもしれないし、
確かに、そういうふうに言われればAshleyはそういう子どもなのかもしれないし、
うちの息子にもぴたりと当てはまる。
しかし、ウチの息子の発達の可能性を考えれば、
そういう言い方はやはり間違っている。
本当は、もっとマシなアセスメントがあって然りなのだ。
ただ医療職が書いたアセスメントだというのではなく、
親の言うことを指針にした医療職のアセスメントが。
Erikは、この後、息子の頭の中で起こっていることについて
最後の最後まであきらめない、と書いて締めくくっている。
Assessments which can be written by medical professionals who are guided by the parent.
医師と障害児の親との、あるべきパートナーシップの1側面が
このフレーズよって提言されている……と、私は思う。
障害一般について知識があるからといって
医師が特定の障害児その子についてすべてを知っているわけではない。
正直、期待はずれだった。
やっぱり小説家は小説で表現するのが仕事なんだなぁ……と
改めて痛感させられる散漫な容だったけど、
パレツキーさんにしてみれば、
小説では表現しきれないことを言わないでいられない切迫した気持ちになったんだな……
というのは、ブッシュがブイブイ言わしていた当時の状況を考えれば分かる気がする。
原書が書かれたのは06年、刊行が07年なので
Obama大統領の誕生をはさんで今、翻訳を読むと
多少のギャップを感じるのもやむを得ないのかもしれない。
ただ、Obama政権への失望で
(その過剰な期待と過剰な失望はどちらも私には理不尽に思えるのだけど)、
06年当時以上に極端に右に触れそうな現在の米国の不穏な空気を思うと、
逆に今読むのもタイムリーなのかも……と考えてしまうことが、けっこう恐ろしかったりもする。
例によって、全く個人的に(特にフェミニズムの視点から)メモしておきたい個所を以下に。
この(レーガンと二人のブッシュによる中絶反対の)恐怖のキャンペーンは絶大な効果をあげた。中絶医の大部分が中絶手術をやめてしまった。十三パーセントを覗くアメリカの郡のすべてで中絶が禁止されるか、姿を消すかした。中絶手術の方法を教えるメディカル・スクールは十パーセントにも満たない。わたしたちはこのアメリカで、存在しない医療処置に対して法的権利をもつという状態に近づきつつある。貧しい女性と未成年者が社会でいちばんの弱者なので、合衆国議会は悪名高きハイド修正条項を使って早めに動き、貧しい女性の中絶費用を公費から出すことを禁じた。女性の中絶費用をメディケイドで負担する州はほんのひと握りだ(ニューヨーク州は負担しているが、わたしの住んでいるイリノイ州はしていない)。また、大部分の州が未成年の中絶を禁じている。しかし、男性の性行動に注意を向ける州はどこにもない。
(P.121)
宗教界の右派は、女性が一九七0年以降獲得してきたすべてのものを害悪とみなしている。女性に対する怒りの最大の矛先は生殖の権利に向けられている。これら女嫌いの連中は中絶との戦いに勝利を収めたことで得意満面になり、現在は、避妊ピルに反対する運動をくりひろげている。四分の一の州がすでに、薬剤師にピルの調剤を拒否する権利を与える法律を制定した。あとの州のうち二十ほどは考慮中である。“信教の自由”という名のもとに、全国レベルでこの法律が提議されたときには、リベラルで知られるジョン・ケリー上院議員までがやむなく署名しなくてはならなかった。
(p.123)
最近のわたしたちアメリカ人は奇妙な心理状態にある。制約のない資本市場を望んでいる。車の制限速度も、銃規制も、税金も、個人の自由を不当に侵害するものだと思っている。しかし、女性のセクシュアリティは是が非でも取り締まる必要があると感じている。
(p.124)
政府が「われわれはアフリカのエイズと戦う」といっておきながら、「コンドームを流通させてはならない。話題にしてもならない」というとき、私は自分が『一九八四年』の世界にいることを知る。
合衆国大統領が、生命の尊厳を重んじるという理由から、胎児の幹細胞の使用を研究者に許可する法案に対して拒否権を行使し、中絶と避妊を違法とすべく全力を尽くしていながら、その一方で、自国政府による拷問を黙認し、中東で毎日のように多数の男女と子どもが死んでいくのをながめ、さらには、帰還兵やホームレスの子どもたちのための医療費負担を拒否するとき、わたしは自分がたぶん現代の世界にいるのだろうと思う。
(p.210)
その他、パレツキーが思春期・大学時代を過ごしたのはカンザス州ロレンス。
私にとっても、28歳の1年間を過ごした町なので、懐かしかった。
地平線に囲まれたみたいな、の~んびりした田舎町――。
私はパレツキー作品を読んだことがなかったのだけど、
フェミニズムと弱者への視点の確かなハードボイルドというのも興味をそそられて、
売れ筋のPBを2冊ばかりオーダーしてみた。
Bleeding Kansasというタイトルのものもあったので、
ハマったら、そのうち読んでみよう。