ずっと書いているClaire Royさんのブログが、その合間に、
テクノロジーの進歩によって重症障害者の意識が証明されたり、
これまで意思疎通不能だと思われていた人たちとコミュニケーションがとれるようになる
可能性について書いた誰かの文章から、
そういうテクノロジーは、Ashley療法を提唱している人たちの
重症児ステレオタイプにどのように影響するのだろうか、という点について
考えを巡らせている。
Will Technology help us avoid more Ashley X’s?
No More Ashley X’s: Say NO to Growth Attenuation, November 18, 2010
私もちょうど先日、ひょんなことから、ある人との間で
重症児・者のコミュニケーションについてメールでやりとりすることがあったばかりで、
そのやりとりのおかげで、
私の中でこれまでイマイチちゃんと整理できずにいたことが、
ほんのちょっとだけ、これまでよりは整理できた気がする。
やりとりしながら最後に書いた自分のメールの文章の一部をメモ的に以下に。
(私信のため、一部に手を入れていますが、ほぼ原文のまま)
今の時代が恐ろしい方向に向かっていることや、
多くの問題が根っこのところで繋がっていることについての問題意識は、
確かに私も共有していますし、
重症障害児・者の認知能力を客観的に証明する必要も、そういう時代の方向性のなかでは、
多分かなり切迫してあるのだろうとも認識はしているのですが、
それを、何を通じて訴えようとするのか、という点で、
○○さんとは相いれないものがあるように感じます。
特にAshley事件を通じて私が考えている重症児のコミュニケーションの問題は、
拙ブログの「A事件・重症障害児を語る方に」という書庫の中の
エントリーを読んでいただければと思うのですが、
ごく普通の当たり前の生活の中で、ごく普通に「共にいる」こと、
その子どもを「障害児」としてではなく名前も顔も個性もある「○○ちゃん」として知ることから、
つまり普通に相手を人としてありのままに尊重し愛することから、
そこはかとなく、であれ、自然に生じてくるはずのコミュニケーションのことです。
それは、実は多くの通園・入所施設や養護学校、デイサービスなどで、
ごく自然にやり取りされていることであり、
そこには奇跡のような特定のメソッドや特別な技能をもった人は無用だ
というのが私の考えです。
意思伝達装置の可能性を私も否定しませんが、装置から始まるのではなく、
当たり前の非言語コミュニケーションが前提として、
また周囲の姿勢として、まず存在して、その中での補助ツールだろうと思います。
もちろん脳死者や植物状態、最少意識状態とされている人たちの意識状態についても
大いに問題は感じ、考える必要も感じていますが、
そこは十分に整理しておかないと非常に危うい議論になるように思うので、
私はとりあえず分けて考えたいです。
ただ、そこを自分としてどのように分けて整理するのかは、まだまだ混沌としているので、
私にとっては今のところ手をつける自信のない問題かなぁ、と思います。
この時には頭に浮かばなかったけれど、
これを書いたことをきっかけに、その後、考えたこととしては
① 脳死者、植物状態、最少意識状態の人のコミュニケーションの問題と
重症心身障害児・者のコミュニケーションの問題には違いがあることを確認しておきたい。
前者のテクノロジーによるコミュニケーションの可能性で問題になるのは、
まず第一に「意識の有無」であるのに対して、
後者では、明らかに「意識はある」ので、
その点の違いを確認しておく必要があること。
(Ashleyの意識についても alertと書かれています。
父親のブログの写真を見て「Ashleyには意識がない」と言える人はいないはず)
② 重症身体障害者のコミュニケーションの問題と、
重症心身障害者のコミュニケーションの問題には違いがあることを確認しておきたい。
例えばALSをはじめ重症身体障害者は、ツールと適切な支援があれば
文字を使った意思表示が可能になりますが、
日本でいわゆる重症心身障害児・者とされている人たちは
文字を使った意思表示ができない人たちです。
もしも、ひらがなが認識できて使えるなら、
その人は、たぶん重心児・者の範疇ではなく、
身体障害を伴う軽度の知的障害者が
重症心身障害者と誤診されていたということだと思う。
そのため、重症身体障害のある人たちに有効なコミュニケーション・テクノロジーの多くは
重症心身障害のある人たちには、有効ではない可能性があります。
ただ、前者の人たちに有効なテクノロジーが後者の人たちに有効でないからといって
それが直ちに、後者の人たちに意思も感情もないことを意味するわけでも、
後者の人たちにコミュニケーション能力が一切ないことを意味するわけでもありません。
ALSをはじめ重症身体障害の人たちのコミュニケーションの問題と
重症重複障害児・者のコミュニケーションの問題とでは、
そこに決定的な違いがあることは、事実として確認しておく必要があると思う。
③ 重症知的障害児・者の意識や意思や感情が「ある」と証明するために、
彼らを天才に祭り上げたり、彼らに高度な議論をさせてみせたりして
知的障害そのものを否定してみせる必要はないことと同時に、
重い知的障害がある事実は、精神活動そのものが乏しいことを意味するわけではないことも
2つ合わせて、きちんと確認しておきたい。
重症の知的障害があるのだから、
知能については私たちと同じではありません。
しかし、知能は
人間の精神活動や、人の心や人格の、わずかな一部に過ぎません。
平仮名さえ認識できず、数の概念すら持たず、
知能の働きが私たちと同じでないなら、じゃあ
「やっぱり幼児や赤ん坊と同じ」じゃないかと言われるなら、
それはやっぱり違うのです。
具体的にそれが「どう違う」のか、ということを
直接体験として重症児・者を知らない人に
どのように伝えていくことができるのか――。
それは、本来なら体験してもらう以外に、了解し得ないことなのかもしれません。
それなら、ミュウを含め、重症心身障害のある人たちが、
どのような人として、そこに生きてあるのか、ということを、
論じたり説明したりするのではなく、ありのままの姿として描くことによって
ある程度それを伝えることができないかという試みとして、今までに書いてみたものは
上記引用にあるように「A事件・重症障害児を語る人に」という書庫にあります。
よかったら、覗いてみてください。
重い知的障害があるのだから、そこはもちろん
私やあなたと全く同じではないかもしれないけど、
彼らは障害があるなりに、自分なりの分かり方で「分かっている」し、
私たちが思っているよりもはるかに多くのことを理解し、感じ、考え、それを
自分なりの方法で「表現している」し「伝えようとしている」のです。
私たちと同じような分かり方をしていないからといって、
何も分かっていないわけじゃない。
私たちと同じ方法でコミュニケーションが取れないからといって
全くコミュニケーションの能力がないわけじゃない。
ところが、現在、一番危ういのは、
これら実はそれぞれ別問題であるものたちが
ちっとも整理されないまま、ぐずぐずに混同されて
「私たちと同じ方法でコミュニケーションが取れないなら意識がない」という
事実無根の短絡が、まかり通ろうとしていること。
そして、それが身体障害、知的障害いずれも含めて
重症者の生死に関わる大問題になろうとしていること。
でも、その大問題の手前で、もっと整理されるべきことが、
意識の有無の問題
知的障害の有無や程度の問題
知能と知能以外の精神活動や情動との別という問題
文字による意思表示の可否の問題
非言語コミュニケーションの問題
……と、実は沢山あるはずなのだと思う。
(誤解を避けるために、追記しておくと、
脳死者、植物状態や最少意識状態の人の意識の有無については
「あると証明できない」とは、あくまでも「ない可能性もある可能性も依然として残っている」のであり、
それならば「ある」とする側に立つべきだと、私は考えています)