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“無益な治療”論、フランスでは
「一方的に拒否することは許されるか」とか
「どういう状況なやめてもよいか」という問題から
「どういう状況ならやめなければならないか」という問題になりつつあるらしい。


Thaddeus Mason Popeの以下の2つのエントリー情報によると、

2009年に子宮内低酸素脳症で生まれた新生児に
25分間の蘇生を行って救命した病院が
その子どもが重症の障害を負ったことに対して裁判所から
「25分もの蘇生は“unreasonable obstinacy(理不尽なやり過ぎ)”だった」と判断され、
賠償金の支払いを命じられている。

去年フランスの医学雑誌でこのケースを取り上げた論文では
以下の論点が指摘されており、

① 蘇生開始そのものは問題とされなかったが長過ぎたとされている。
② 子どもが死んだと親に誤って伝えたことは罪に問われなかった。
③ 両親と子どもに対して賠償の支払いが命じられたことは
 障害のある子どもが生きていることが賠償の対象ということになる。
④ 子どもの障害が無益に長すぎる蘇生のよるものか
それとも元々の無酸素脳症によるものかは判別しにくい。

結論として、
こういう判決が出ると
結果的にその子が障害を負うリスク故にではなく
訴訟でこうした責任を問われるリスクを回避するために
新生児科医らが子どもの蘇生をやらない選択をするようになるだろう、と。

この事件そのものは上訴されてまだ結審していないらしいけれど、

上記の判決が出た後でできた法律があるらしくて、
その法律は医師らに対して「理不尽なやり過ぎは慎むよう」求め、
「不必要だったり、度を越していたり、人工的な延命以外の目的や効果のない治療を
開始したり続けたりしてはならない」と規定している、とのこと。

なお、同様の法律はスペインでもできた、とのこと。

European Journal of Health Lawというジャーナルに掲載された
この事件を巡る論文”A French Hospital Sentenced for Unreasonable Obstinacy”では
法律そのものに問題はないが、それを実際に適用するとなると
特に上記のケースのような救急の場面などでは疑問である、と結論。

Hospital Ordered to Pay Damages for Providing Futile Medical Treatment
Medical Futility Blog, June 6, 2011

Hospital Sentences for Providing Futile Treatment
Medical Futility Blog, January 30, 2012


訴訟そのものは、
ずいぶん前からあった例の「ロングフル・ライフ訴訟」なのだろうと思うのだけど、

その判決が「無益な治療を不当に長くやり過ぎたことの責任」を問うという形で出たことで、

「無益なら一方的に拒絶してもよい」から「無益な治療をやること、まかりならぬ」へと
Popeが言うように”無益な治療”概念そのものが一歩また先に踏み込まれた、と。


関連の日本語記事 ↓

【海外ルポ】治療差し控え進むフランス 法制定を機に緩和ケアが充実
日経メディカル 2011/12/27



【ロングフル・バース関連エントリー】注:「バース」と「ライフ」の違いは5つ目のコメント欄に。
「出生前診断やらないとロングフル・バース訴訟で負けますよ」と加医師会(2008/11/8)

ロングフル・バース訴訟をテーマにPicoult近刊(2009/2/19)
ロングフル・バース訴訟がテーマ、Picoultの近刊を読む(2009/8/10)
Picoult作品のモデル、NH州のロングフル・バース訴訟(2009/8/11)

【フランス関連エントリー】
“救済者兄弟”フランスでも2004年に合法化(2009/9/18)
フランス生命倫理における「連帯性」(2009/9/28)
フランス上院が自殺幇助合法化法案を否決(2011/1/27)

【スペイン関連エントリー】
チンパンジーに法的権利認める(スペイン)(2008/9/3)
名前は「尊厳死」法でもスペインでは趣がぜんぜん違う(2009/6/11)
「死んだ」と偽り、医療職が組織的に新生児を売買(スペイン)(2011/1/30)
2012.02.03 / Top↑
「弱者の居場所がない社会 ― 貧困・格差と社会的包摂」
阿部彩 講談社現代新書

プロローグでも述べたように、近年ヨーロッパ諸国では、従来の貧困の概念を、より広くとらえ深く掘り下げた「社会的排除」という概念が、社会政策の考え方の主流となりつつある。
従来の貧困の概念は、ただ単に金銭的・物品的な資源(その人が持っているもの)が不足している状況を示したものであった。たとえば、所得が低い、所有物が少ない、大多数の人が楽しむ休暇やレクリエーションが金銭的な理由で楽しむことができない……などの状況を表したものであった。
これに対して「社会的排除」という概念は、資源の不足そのものだけを問題視するのではなく、その資源の不足をきっかけに、徐々に、社会における仕組み(たとえば、社会保険や町内会など)から脱落し、人間関係が希薄になり、社会の一員としての価値存在を奪われていくことを問題視する。社会の中心から、外へ外へと追い出され、社会の周縁に押しやられるという意味で、社会的排除(ソーシャル・エクスクルージョン)という言葉が用いられている。一言で言えば、社会的排除は、人と人、人と社会の「関係」に着目した概念なのである。
(p.93)

日本の生活保護を始めとする公的扶助からの給付額も給付対象者数も、増えてきているとはいえ、ヨーロッパ諸国に比べて大幅に少ない。その中で「就労支援」ばかりが強調されると、「働かざるもの、食うべからず」的な、スパルタな制度となってしまう恐れがある。
繰り返すが、まっとうな生活を保つための貧困対策と、社会的包摂対策は、両者とも必要である。ヨーロッパにおける就労支援は、「食うための手段としての就労」、すなわち公的な給付を代替するための就労ではなく、あくまでも包摂の手段としての就労の支援なのである。
(p.111)


ここの最後の数行は、
少なくとも最近の報道からする限りは、
連立政権になってからの英国には当てはまらないような印象がある。

日本と同じような自己責任論による、
公的給付を代替えするための就労達成への努力を義務付けて、
それが達成されなければ一定期限で給付を切る方向に向かっているような?

従来の貧困の概念と社会的排除の概念が異なるのは、後者が、金銭的・物質的な欠乏から人間関係の欠乏に視野を広げたということだけではない。
社会的排除が、貧困と異なるいちばん大きな点は、貧困は「低い生活水準である状態」を示す概念であるのに対し、社会的排除は「低い生活水準にされた状態」を示すという点である。
(中略)
従来の貧困の考え方は、市場経済の営みそのものは不問としたうえで、その中で発生する貧困問題は「自然の成り行き」と理解し、貧困は、その貧困の当事者側の問題であると理解するものであった。
(中略)
そこには、いつも、「自己責任だから」という暗黙の了解が流れている。
これに対して、社会的排除は、問題が社会の側にあると理解する概念である。社会のどのような仕組みが、孤立した人を生みだしたのか、制度やコミュニティがどのようにして個人を排除しているのか。社会的は維持御に対する第一の政策は、「排除しないようにすること」なのである。
たとえば、なぜ、担任世帯であることが、社会的孤立につながるのか。なぜ、同居の家族以外の社会サポートが築きにくいのか。……(中略)…
社会的排除の概念は、社会のありようを疑問視しているのである。これは、大きな発想の転換である。
(p.124-126:ゴチックの個所、原文は傍点)


イギリス、ノッティンガム大学医学部の社会疫学者
リチャード・ウィルキンソン教授による「格差極悪論」を説明して、

格差が大きい国や地域に住むと、格差の下方に転落することによる心理的打撃が大きく、格差の上の方に存在する人々は自分の社会的地位を守ろうと躍起になり、格差の下の方に存在する人々は強い劣等感や自己肯定感の低下を感じることとなる。人々は攻撃的になり、信頼感が損なわれ、差別が助長され、コミュニティや社会のつながりは弱くなる。強いストレスにさらされた人々は、その結果として健康を害したり、死亡率さえも高くなったりする。これらの影響は、社会の底辺の人々のみならず、社会のどの階層の人々にも及ぶ。これが、格差極悪論の要約である。
(p.127:ここのゴチックはspitzibara)


現在の日本の社会保険制度、
特に人々を労働市場に戻すことだけを目的とした就労支援など、

これらの制度は、限られた「よい仕事」への競争を激化し、誰もが企業戦士のようにふるまわなければならない強迫観念を植え付け、その競争からふるい落とされる人々を、非正規労働など社会の周縁に追い込んでいく。これが、社会的排除である。そして、格差社会は、社会的排除を助長させる大きな要因となる。
社会的排除に抗うためには、誰もが尊重され、包摂されるユニバーサル・デザイン型の社会が必要である。誰もが自分の存在価値を発揮できるような働き方ができ、誰もが人から必要とされ、誰もが包摂される社会。それは理想論かもしれない。だが、誰もが生きにくさを感じるようになった現在、そのような包摂の視点が、これからの日本を考えるときに不可欠なのではないだろうか。
(p.190)


しょーもないエピソードだけど、
何年も前に、ある場所にユニバーサル・デザインの公園を作る話があって、
その企画に関わっている人たちに障害のある子どもの親としての意見を、と言われて
夫婦で出掛けたことがあった。

そこには行政の人の他に、いわばコンサルのような立場の若い人がいて、
その人が、トイレもユニバーサルなものにして、
障害者も高齢者も男性も女性も子どもも
誰でも使えるようにするのだと力説した時に、

「だから安心して子どもも使えるように
女性の生理用品のゴミ箱は設置しません」
と宣言したのに度肝を抜かれた。

「じゃぁ、女性は使用済みの生理用品をどうするんですか?」
と、思わず、例によって真っすぐな口調で聞いてしまったのだけど、

むしろ相手にムッとされてしまい、
さも「だから無知なおばさんはダメなんだよ」とでもいったイライラ口調で、

「それは女性にはちゃんと自己責任で持ち帰ってもらわないと。
誰もが使える、すなわち子どもが使っても不快にならないトイレなんですから」。

「ユニバーサル・デザイン」もこうして排除の論理に繋がっていくなら
いったい何のためのユニバーサル・デザインなのよっ?

世の中には、たぶん、この手の話がウジャウジャしている。
そして、そういう話の根っこにある意識こそが「社会的排除」。

ちがう――?
2012.02.03 / Top↑
住民投票実施に向け、PAS合法化ロビーが活発に動いているミネソタ州で、ドキュメンタリー映画“How to Die in Oregon”の上映会とシンポが企画されている。
http://www.columbiamissourian.com/stories/2012/01/29/award-winning-film-about-assisted-suicide-comes-columbia/

この映画については 2011年1月31日の補遺で、
ユタ州のサンダンス映画祭で“How to Die in Oregon(オレゴン州の死に方)” がドキュメンタリー部門で受賞。
http://www.reuters.com/article/2011/01/30/uk-sundance-awards-idUKTRE70T0A920110130


英国精神科学会など関連機関のパートナーシップにより、イングランドとウェールズの総合病院における認知症ケアの実態調査が数年にわたって実施され、去年12月に報告書が刊行されている。”Report of the national Audit of Dementia Care in General Hospitals 2011”。
http://www.rcpsych.ac.uk/pdf/NATIONAL%20REPORT%20-%20Full%20Report%200512.pdf

英国精神科学会は去年12月に、「精神疾患のある人は15-20年寿命が短い」とのリリースも出している。
http://www.rcpsych.ac.uk/press/pressreleases2011/lifeexpectancy.aspx

遺伝子組み換えトウモロコシの殺虫成分に、ヒト細胞への害?
http://www.criigen.org/SiteEn/index.php?option=com_content&task=view&id=351&Itemid=1

ハチが世界中で急速に死滅している。Colony Collapse Disorder(CCD)と呼ばれる現象。英米では2010年に3分の1が死滅。イタリアでは半分が死滅。この傾向は中国やインドにも広がっている。そのため米国で売られている蜂蜜の中には鉛や抗生物質の混入した偽物があるとか。
http://articles.mercola.com/sites/articles/archive/2012/01/28/bees-death-destroy-food-supply.aspx?e_cid=20120128_DNL_art_1

上のニュースで思い出したけど、つい先日は、ブラジルとカナダからの輸入オレンジ・ジュースに米国で禁止されている防かび剤が使われているとして輸入停止、というニュースもあった。
http://money.cnn.com/2012/01/27/markets/orange_juice_canada/index.htm

ナノ素材使用の製品が世の中に増えているけれど、ナノ素材については健康リスクも環境リスクも十分に分かっていない。さらなる研究が必要、と米国科学アカデミー。:でも科学マインドのある筋からは、こういうのが非科学的「ゼロ・トラレンス」姿勢だと非難されていたんでは? 2010年に大統領がんパネルが「化学物質はやっぱりヤバい」(米)というエントリーを書いた際に、はてぶで「ヤバくない証明は不可能。それが理解できず、こんなことを書くシロウトはバカ」とspitzibaraをコキ下ろして喜んでいた科学マインドのある方々がおられたけど、あの時も「ヤバい」と書いたのはspitzibaraではなく「大統領がんパネル」だったんすけど? 言っておくけど今回も、ナノ素材のリスクを警告しているのはspitzibaraではなく「米国科学アカデミー」なのね。間違えて「だから科学マインドのないシロウトはバカ」と叩かないように。
http://www.rcpsych.ac.uk/press/pressreleases2011/lifeexpectancy.aspx

MNTに「犯罪学者の研究によれば、犯罪行為に遺伝子が影響している」というタイトルで、冒頭「この論文によれば、あなたが犯罪者人生に迷い込むかどうか、遺伝子で分かるかも」と論文の結論を要約紹介する記事。:読んでみると、遺伝子決定論の仮説を検証するべく調査した結果、「確かに子どもの頃の反社会的行為が成人まで続いた人では環境要因よりも遺伝要因の方が関係していると思われる結果になったけれども、その遺伝子が特定されない限りそんな仮説は立てられないし、犯罪行為は学習するもの」という趣旨の論文だった。先週もPAS合法化訴訟で証拠提出の情報収集を認めただけで「合法化へ高裁が一歩」とメディアが報じていたけど、結局あれと同じか?
http://www.medicalnewstoday.com/releases/240824.php

陪審員にレイプ被害者の女性に対する偏見が根深く、証拠を読み誤らせているとの指摘、公訴局のAlison Saunders検事から。
http://www.guardian.co.uk/society/2012/jan/30/rape-victims-acquittals-chief-prosecutor?CMP=EMCNEWEML1355

NYT。女性のリプロダクティブ・ヘルスへのアクセスが攻撃されている時だけに、行政が安価な避妊の実現を目指していることは歓迎。
NYT. Birth Control and Reproductive Rights: The administration’s commitment to affordable birth control is welcome at a moment when women’s access to reproductive health care is under assault.

NYT. ニューヨーク警察は強大な権力を握っているだけに、独立した監督なしに勝手に機能させてはならない。:映画で散々描かれてきたLAPDの悪事とか、それからテキサスの学校で「授業妨害」を過剰に取り締まっているスクール・ポリスとか、頭に浮かぶ。
It’s Time to Police the N.Y.P.D.: The Police Department, with its immense powers, should not operate free from independent oversight.

カナダの3人の姉妹と成人女性1人に対する「名誉殺人」で、アフガン人3人に有罪判決。
http://www.guardian.co.uk/world/2012/jan/30/honour-killings-jury-afghan-family?CMP=EMCNEWEML1355

【関連】
「男の子と話をした」と家族会議にかけられ生き埋めにされた16歳の少女(トルコ)(2010/2/6)

2011年11月22日の補遺
イラクのバスラで、イギリス人兵士と恋をしたと腹を立て、17歳の娘Rand Abdel-Qadarを窒息・刺殺した父親が一度は連行されたものの警察は2時間後に彼の行いを称えて釈放。「警官は男だからね。名誉のなんたるかを分かっているさ」と父親。
http://www.guardian.co.uk/world/2008/may/11/iraq.humanrights?CMP=EMCNEWEML1355

2010年12月10日の補遺
アフガニスタンの女性は結婚の強要や名誉殺人など、今だに虐待されている、と国連の報告書。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/dec/09/afghan-women-abuse-united-nations?CMP=EMCGT_101210&


東京新聞。車いすの搭乗予約断る 格安航空ピーチ社
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012013002000026.html

札幌市が知的障害者生活調査 姉妹死亡受け
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000001201300011
2012.02.03 / Top↑
福祉職の担当職員の方から

今日はグループ活動の日で、ティータイムの後に「今年どんな1年にしたいか」を描きました。まず台紙を選んだのですが、5~6色ある中で一番にオレンジ色、二番に青色を選ばれました。

紙の配置を変えても、その順番は変わりませんでした。ミュウさん、すごく堅い意思です。



看護科の担当職員の方から


夕ごはんの介助に入らせてもらいました。ごはん、魚の煮もの、キュウリのシーチキンあえ、オクラと人参の煮もの、白桃、お茶ゼリー(山盛り)でした。前回の教訓を生かし、2~3口ごはん・おかずの間に1~2口お茶ゼリーを食べてもらうようにしました。かなりお茶ゼリーが順調に減りました。

他の方の介助に入るために私がミュウさんに背を向けた途端!!

ガッシャ――――――ン

コロコロと私の足元までころがったものは、赤いミッキーの音の出るおもちゃでした。その時のドヤ顔といったら!! めっちゃ私狙いです。思わず、上手に投げれたね~でした。

となりのYさんの顔の上へ落ちなくて良かった どれくらい上手かと言うとYさんとテーブルの間30㎝の間を投げてますから! Yさんも、もちろん本人も私も大笑いでした。狙いは本当、よかったんです。角度かな。

2012.02.03 / Top↑
Philosophy, Ethics and Humanities in Medicine誌の昨年12月号で
何人かの小児科医が、DCDドナーは臓器摘出時に死んでなどいないのだから
DCDプロトコルは一時中止とすべきだ、と主張しているとのこと。

Doctors call for a moratorium on donation after cardiac death
BioEdge, January 27, 2012


直前の「雑草引き抜くのと同じ」論文について読んだ後だけに、
こういうことを言ってくれる小児科医の存在には少しほっとしますが、

なにしろ前の論文の衝撃が大きすぎて……。


【2011年の関連エントリー】
「“生きるに値する命”でも“与えるに値する命”なら死なせてもOK」と、Savulescuの相方が(2011/3/2)
WHOが「人為的DCDによる臓器提供を検討しよう」と(2011/7/19)
UNOSが「心臓は動いていても“循環死後提供”で」「脊損やALSの人は特定ドナー候補に」(2011/9/26)
「DCDで生命維持停止直後に脳波が変動」するから「丁寧なドナー・ケアのために麻酔を」という米国医療の“倫理”(2011/11/24)
「丁寧なドナー・ケア」は医療職の抵抗感をなくしてDCDをさらに推進するため?(2011/11/24)

これまでの臓器移植関連エントリーのまとめ(2011/11/1)
2012.02.03 / Top↑
The Journal of Medical Ethics のオンライン版で
デューク大の Walter Sinnott-ArmstrongとNIHのFranklin G. Millerが共著論文を書き、
DCD(人為的心臓死後臓器提供)推進のためにデッド・ドナー・ルール(死亡者提供ルール)の撤廃を
説いているらしく、

それについてBioEdgeのMichael Cookがエントリーを書いているのだけれど、
2人の正当化論の乱暴さに心が折れそうになった。

基本的にはこれまでFostやTruogが説いてきたような
「どうせ今でも拍動が戻る可能性を考えると
DCDのドナーは臓器摘出時に死んではいないわけで
現場では死亡者提供ルールなんて頻繁に違反されているのだし、
死ぬ人間をドナーにせず助かる命も助からなくなることを考えると、
いっそのことルールの方を撤廃すればよい」というもの。

ただ、そのために著者らは
「殺すことは悪だ」という規範さえ棄てればよい、と説くのだけれど、

それを正当化する彼らの理屈は
「生きていると言えるだけの能力のない人は殺しても構わない」から。

命はそれ自身が神聖なのではなく、生と死を隔てる唯一の違いは能力の有無。
脳に損傷を受けた人は能力を失っているのだから殺してもよいのだ、と。

Cookが引用している個所を以下にピックアップしてみると、

killing by itself is not morally wrong, although it is still morally wrong to cause totally disability.

殺す行為そのものが道徳的に間違っているわけではない。完全な障害状態を引き起こすことは依然として道徳的な間違いではあるが。

Then killing her cannot disrespect her autonomy, because she has no autonomy left. It also cannot be unfair to kill her if it does her no harm.

重い障害を負った人を殺しても、その人の自律・自己決定権を無視したことにはならない。なぜなら、そういう人には自律・自己決定権など残っていないからだ。殺すことによってその人に何の害もなされないならば、その人を殺すことは不公正にはなり得ない。

[I]f killing were wrong just because it is causing death or the loss of life, then the same principle would apply with the same strength to pulling weeds out of a garden. It it is not immoral to weed a garden, then life as such cannot really be sacred, and killing as such cannot be morally wrong.

もしも殺すことが、ただ単に死を引き起こすまたは命の喪失だから間違っているというなら、同じ原理が同じ強さで庭の雑草を抜くことにも当てはまることになる。庭の雑草を引き抜くことが道徳的に許されるならば、雑草と同じような命が神聖とされることもあり得ないこととなり、雑草と同じような人を殺す行為も道徳的に間違った行為にはなり得ない。

Is it morally wrong to take a life? Not really, say bioethicists
BioEdge, January 27, 2012


気分が悪くて、何も書く気にならないけど、

著者らが重い障害を負った人を受ける人称代名詞が女性形であることだけは特記しておきたい。
非常に不快だけど、これは2007年からトランスヒューマ二ストらもやっていた ↓

he とshe の新たな文法?(2007/11/21)

この2007年のエントリーで私は以下のように書いているのだけど、
この段階で私は既に本質をズバリ見抜いていたということですね。

所詮は

知的レベルが高いことを鼻にかけた白人男性の我田引水的な価値観。

要はただのインテリ・レッドネックなのでは──? 



【関連エントリー】
臓器移植で「死亡者提供ルール」廃止せよと(2008/3/11)
2012.02.03 / Top↑
去年の夏に以下のエントリーで紹介した訴訟の続報。

脳幹出血で全身マヒになった男性が「死ぬ権利」求め提訴(英)(2011/8/19)


英国の高等裁判所はMartin(仮名)さんの弁護士に対して
以下のように述べた、とのこと。

the solicitors may obtain information from third parties and from appropriate experts for the purpose of placing material before the court and that third parties may co-operate in so doing without the people involved acting in any way unlawfully.

裁判所に資料を提出するべく、
Martinさんの弁護士が第三者や適切な専門家から情報を得てもよい。
それに協力したことで、協力者が違法行為に問われることはない。


この部分だけを読むと、私には
裁判所への資料提出のための情報収集が認められただけのように思えるし、

当の弁護士さんたちだって
この決定以前にはDignitasやその他の自殺幇助に協力的な専門職から情報を得ることで
自分たちも起訴される恐れがあった、と述べているのだから、

それは反対運動Care Not Killingの医師が
「まだ始まったばかりの裁判で、法律が変わるという話ではなく、
裁判所に提出する証拠を集める許可が出たというだけのこと」と言っているように、
単にその程度のことなのではないかと思うのだけれど、

Mail紙の解釈によると、これは
弁護士がDignitasからそのサービスに関する情報をとっても良い、
さらにMartinさんの「幇助をしても良いとする人または団体を特定する」手段をとっても良い、
という意味なのだそうな。

さらに、同紙の解釈によると、この裁判所の決定は、
医療職による自殺幇助合法化への第一歩が踏み出されたことを意味するのだそうな。

Assisted suicide one step closer after High Court paves the way for doctors to help terminally-ill patients kill themselves
Daily Mail, January 27, 2012


記事の書き方そのものが、ぜんぜん釈然としない。

まずタイトルが
「医師によるターミナルな患者の自殺幇助に高裁が道を開き、自殺幇助へまた一歩」。

しかし、Martinさんは脳卒中の後遺症で寝たきりなのであって、
決して「ターミナルな患者」ではないし、

この記事を読む限り、裁判所が決定したのは
情報収集をして裁判所に資料を出せ、というに過ぎない。
それを「医師による患者の自殺幇助に道を開いた」とは言い過ぎも甚だしいのでは?

また、記事には高齢者の腕に医療用手袋をした人が注射をしている写真があり、
そのキャプションは「間もなく医師が患者に自殺行為を行うことが許される可能性も」。

その写真のすぐ下の段落では
幇助死の支持者らが合法化を望んでいるのは
「医師、看護師またはプロの自殺幇助者が犯罪行為に問われることなく
自殺に手を貸すことができるように」なることだ、と書かれている。

いつのまに看護師や「プロの自殺幇助者」まで対象に入ってきたのだろう?

BBCが合法化ロビーであることは既に誰も疑わないだろうけれど、
Mailもあまりも恥知らずな情報操作だと思う。
2012.02.03 / Top↑
米国医師会誌に
Douglas B. White医師とお馴染み「無益な治療ブログ」の法学者Thaddeus M. Popeが
「無益な治療争議は裁判所へ」と主張する論文を書いたとのこと。
タイトルは”the Courts, Futility, and the Ends of Medicine”。

それに対してWesley Smithがブログで部分的に反論している。

Smithによると、
著者らは無益な治療争議でぶつかる利益を以下の3つとして整理しているらしい。

① 自らの価値観に沿った医療を受ける患者の利益。
② 終末期の患者の尊厳の尊重を巡って自分の信条にそぐわない行為を強制されない医師の利益。
③ 個々人の権利の保護と、少ない医療資源の公平な分配の保障という社会の利益。

それに対して、Smithの批判の中心は、
著者らがこれら3つに均等な重要性を持たせていること。

Smithは最重要なのは第一の患者の利益である、と言い、
②の医師の利益は、患者の利益と同じ比重で考えられるべきではない、と。

これは私も同じにできないと思うのは、
特定の医師の思想信条に合わないからやれないというだけなら、
引き受けるという別の医師に引き継げばいいことに過ぎないという気がするから、
医師の思想信条と治療の無益性判断は直接には無関係のはず。

Smithは基本的には医師の思想信条の権利を主張するスタンスだけれど、
医師に生命維持の無益性を決定させるのは患者の無益性を決めさせることになるので
無益な治療争議においては、その例外だと考える、と。

3つ目の社会の利益のうち、後者についてSmithは
医師が社会の利益を守りつつ患者に最善の医療を行うことは両立するとは限らない、と指摘。

もともと“無益な治療”論が登場した当初、カネは関係ないと言っていたではないか。

これは私も何度かこのブログでも書いたし、
Gonzales事件の頃には誰もが口をそろえてそう言っていたのに
いつのまにか既成事実が重ねられるにつれて
なし崩しにカネが言われるようになってきたことは
拙著「アシュリー事件」でも書いた。

Smithは、
むろん、カネが関係ないはずはないと誰もが思ってはいたけれど、
両者の利益が衝突する場合に医師が守るべきは患者の利益である、と。

この後でSmithが言っていることが
私がこのエントリーを書いておこうと思った動機なのだけど、とても良い。

Besides, it is “fair” that some patients receive far more expensive interventions than most of the rest of us. Yes, such patients are receiving a disproportionate share. But that is due the vicissitudes of life. Indeed, that “expensive” patient could be any one of us. Thus, I disagree that it is unjust that the very few unfortunates among us involved in futility disputes are receiving an unjust benefit.

それに、患者の中にその他の多くの患者よりもはるかにカネのかかる医療介入を受ける人がいるのは“公平”なのだ。確かに、けた外れに費用のかかる患者はいる。しかし、それは人生というのがそういうものだからであって、私だって誰だっていつ“カネのかかる”患者になるか分からない。そう考えると、無益な治療争議の対象となっている数少ない悪運に見舞われた人たちが不当な利益を享受しているから公正ではないと主張することに私は同意できない。

Futile Care Disputes Belong in Court
Secondhand Smoke, January 14, 2012


私も「限られた医療資源の平等な分配」という言葉を聞くたびに頭に浮かぶのは
自立支援法がまだ法案だった段階で御用学者さんたちが言い廻っていた、
あの妙な「不公平論」。

施設で暮らしている障害者には一人当たりこれだけのカネが使われている。
一方、在宅で暮らしている障害者は一人当たりこれだけしか使ってもらっていない。
これは不公平である。在宅で暮らしている障害者にも
施設で暮らしている障害者と同じだけのカネが使われないと損だ、
今の制度は不公平だ、と。

当時そういうことを言っていた人の一人に、
「でも、“公平”と言うのは誰もが同じ金額を使えることではなくて、
誰もが必要になった時に必要なだけのサービスを使えること。
それが“公平”ではないんでしょうか」と反論してみたことがあった。

黙ってスル―されたけれどね。

“無益な治療”論で言われる「医療資源の公平な分配」だって、
みんなが同じカネを使わせてもらえることではなく、
必要となった人なら誰もが必要に応じて使わせてもらえることのはずなのでは?

それならば、「医療資源の公平な分配」という物差しそのものが
ある一定の状態にある患者の場合にだけ持ち出されること自体が
とんでもなく不公平、不公正なことではないかと私は思うのだけれど。


【関連エントリー】
朝日新聞の“損得勘定”からアメリカの医療改革議論、“英語圏イデオロギー”を考える(2009/9/11)
2012.02.03 / Top↑
1月25日、欧州評議会議員会議(PACE)は
リビング・ウィル、事前指示書に関する決議を採択し、
その中で以下のように述べて明確に安楽死を禁じた。

Euthanasia, in the sense of intentional killing by act or omission of a dependent human being for his or her alleged benefit, must always be prohibited.

依存的な人の利益を推測し、その利益を目的として、
行為(act)によってまたは行為の差し控え(omission)によって
意図的に殺害するという意味での安楽死は、常に禁止されなければならない。


さらに、それに続く細則においても、以下のように書かれている。

in case of doubt, the decision must always be pro-life and in favour of the prolongation of life.

疑いのある場合には、決定は常に命を尊重し(プロ・ライフ)延命に沿ったものでなければならない。


EU加盟国の中には安楽死を合法とする国もあり、
今回の決議に法的拘束力はないものの、
加盟47か国の大臣は各国に持ち帰り実施に向けて働きかけるよう勧告されている。

また今後の欧州人権裁判所への影響は大きく、
間もなく開始されるドイツのKochPAS合法化訴訟が注目されるところだ。

Dignitasで自殺した女性の夫が合法化を求めて提訴したKoch裁判については以下に ↓

欧州人権裁判所に「死の自己決定権」提訴(独)(2010/11/23)


ちなみに、欧州人権裁判所はちょうど1年前に以下のような判決を出している。

双極性障害者の自殺希望に召集人権裁判所「自殺する権利より、生きる権利」(2011/1/28)


評議会の中のEPPグループのチェアも、このLife Newsの記事も、
今回の決議採択は、この判決以来の更なる「勝利」だ、と。

Victory: Council of Europe Adopts Resolution Against Ehthanasia
Life News, January 26, 2012
2012.02.03 / Top↑