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2011年のオレゴン州の尊厳死法の報告書が3月6日付で出ている。

2010年は
97人が致死薬の処方を受け、
65人が自殺したが、

2011年に致死薬の処方を受けた人は114人。
自殺した人は71人という新記録を更新。

71人のうち、精神科医または心理学者にアセスメントの依頼があったのは1人のみで、
処方した医師が自殺の場面に同席していたのは6ケースのみ。

71人のうち

90%が挙げた懸念は
「人生を楽しむ活動に参加できなくなったこと」

89%が挙げた懸念が
「自律・自己決定の喪失」

75%が挙げたのが
「尊厳の喪失」。

1997年の同法施行以来、同法による自殺者はこれで596人となった。

Wesley Smithが
自殺幇助で儲けている医師からの自己申告に基づいたもので、
州政府には濫用や違法行為を調査する権限も予算もない、
報告書が刊行された後に関連文書が破棄されるため、
中立の立場ではチェックが不可能、などの理由を挙げて、
こんな報告書は茶番だ、とブログに書いているらしい。

また米国の関連の大きな動きとして、
MA州が11月に自殺幇助合法化について住民投票を行う模様。

FEN事件の関連で
自殺幇助関連州法に言論の自由の観点から違憲判決が出たGA州では
3月7日に自殺幇助を明確に違法とする州法案が下院を通過。
上院の投票待ちとなっている。

Oregon breaks its assisted suicide record
Baptist Press, March 13, 2012


【関連エントリー】
Oregon尊厳死法による自殺者増加(2008/3/21)
WA州とOR州における尊厳死法の実態(2009/7/6)
WA州とOR州の2009年尊厳死法データ(2010/3/5)
OR州の「尊厳死」:97%にC&Cが関与、たった20人の医師がせっせと処方(2010/3/11)
OR州の2010年のPAS報告書 自殺者また増加(2011/1/28)

FENが「GA州法の自殺幇助関連規定は言論の自由を侵す」と訴訟(2010/12/11)
GA州「自殺幇助の宣伝禁じる州法は憲法違反」裁判、FENの勝訴(2012/2/7)
2012年3月1日の補遺(違法とする州法案、下院を通過)

MA州で自殺幇助合法化巡り住民投票を求める動き(2011/8/25)
MA州医師会が自殺幇助合法化反対を確認(2011/12/6)
2012年3月7日の補遺(結局、訳せていませんが、以下に抜粋)

自殺幇助合法化ロビーが着々と住民投票に向けて動く中、MA州の障害者運動からSecond Thoughtsと題した抵抗声明が出た。下はSmithのブログ。:できたら明日訳したい。
http://www.prweb.com/releases/2012/3/prweb9251201.htm
http://www.firstthings.com/blogs/secondhandsmoke/2012/03/06/second-thoughts-disability-rights-group-opposes-assisted-suicide-in-ma/
2012.03.14 / Top↑
脳卒中の後遺症が重く、自殺幇助を希望している英国人男性
Tony Nicklingさん(57)については、2010年に以下のエントリーで紹介し、

“ロックト・イン症候群”の男性が「妻に殺してもらう権利」求め提訴(英)(2010/7/20)

その後も続報を以下の補遺で拾いながら、毎回しつこく
「この人がロックト・インといわれるのは承服できない」と書き続けているのですが、

http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62322826.html
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62362665.html
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64662384.html


Nicklinsonさんが起こしていた訴訟の判決が12日に出た模様。

英国のメディアも多数報じているのですが、
なんとなく警戒したいところもあって、NYTの記事を。
(BBCなんかは、もう歴然とPAS合法化ロビーだからね)

この判決、なんとも微妙で、読み説き方に戸惑うのですが、

一応NYTの記事は、まずは冷静に
認められたのは「合法的な安楽死ができるよう法改正を求める権利」としている。

原告がPAS合法化に向けた法改正を訴えていた論拠は3点で、

① 「必要」により正当化される(the defense of necessity)

全身性障害者のNicklinsonさんは自ら自殺行為を行うことができないので
幇助してもらうことは彼にとって必要。

これまでの判例では、
例えば、身体が繋がって生まれた双子などのケースで、
一方を死なせても一方の命を救うことが「必要」により正当化されてきた。

② 人権について定めた法に照らして、
現在の殺人と自殺幇助に関する法律は
Nicklinsonさん個人のプライバシーの権利と両立しない。

③ 現行法は、自発的なものかどうかを問わず、
積極的安楽死の実際を適切に規制するものとなっていない。


このうち、今回の判決が認めたのは①と②。

① が今回のNicklinsonさんのケースで認められたことについては
今後、医師が患者を殺害する法的根拠を与えてしまったことになると
懸念する声が医師らから早くも出ている。

最後の③については、
それは「議会の問題」であるとして退けた。


この記事に引用されているNiklinsonさんのコメントは以下。

his stroke had “left me paralyzed below the neck and unable to speak. I need help in almost every aspect of my life. I cannot scratch if I itch, I cannot pick my nose if it is blocked and I can only eat if I am fed like a baby ― only I won’t grow out of it, unlike the baby.”
“I have no privacy or dignity left,” he said. “I have locked-in syndrome and I can expect no cure or improvement in my condition as my muscles and joints seize up through lack of use. Indeed, I can expect to dribble my way into old age.”


私は2010年のエントリーの時から、
この人の奥さんのコメントには抵抗を覚えていたのだけど、今回もちょっとすごくて、

“Nothing is going to get better,” his wife, Jane Nicklinson, told the BBC on Monday. “The only way to relieve Tony’s suffering will be to kill him. There is absolutely nothing else that can be done for him.”


「トニーの苦しみを癒す方法はただ一つ、彼を殺すことでしょう」

「殺す」 kill という剥き出しの言葉を使って――。


Stroke Victim Wins Right to Seek Legal Euthanasia
NYT, March 12, 2012


他の記事にもざっと目を通してみて、この判決が意味するところは、
さらに訴訟を上へ持っていってもいいよ、ということに過ぎないように思えるのですが、

ただ、分からないのは、
「合法的PASを求める権利がこの人にはある」と裁判所が認めるということは、
この人と同じ条件の人には、合法的にPASを受ける合法性がある、と認めるということと
一体どこが違うんだろう。

あなたの訴えには合法性があるんだけど、法改正そのものは裁判所ではできないから
このまま訴訟を続けて最高裁まで持っていき、議会に法改正を迫りなさい、ということ?

ちょっと、その辺が私には読み解けないところ。

2012.03.14 / Top↑
07年当初のアシュリー療法論争が終息した後にも
事件に何らかの展開がある前後になると、ネット上の
たいていはテクノと科学系のサイトに07年当時の記事がコピペされる、という
怪現象が起こっていることについては、以下のエントリーなどで指摘しました。

“ A療法”批判が出るとネット上で起こること(2009/2/13)
また出たぞ、“A療法”批判が出るとネットで起こる怪現象(2010/2/3)


他にも、こんな現象が起こったことも ↓
“Ashley療法”にオープンな態度を呼び掛けるナースの動画YouTubeに(2010/8/9)


とはいえ、長い間、この現象を見ることもなくなっていたのですが、
いきなり今日、以下のようなものが出てきました。

Pillow Angel: Daughter Frozen In Time
THE DISCLOSURE PROJECT, March 10, 2012


コピペされているのは、
以下のIndependent紙の07年1月5日の記事。

http://www.independent.co.uk/news/world/americas/parents-who-froze-girl-in-time-defend-their-actions-430852.html


ちょっと擁護の立場に傾斜した印象の記事です。

長いこと、起こらなかった怪現象が、
ここへきて、復活したのだとすると、

私の頭に浮かぶのはやはり、こういうこと ↓
シアトルこども病院は、5年の合意期限が切れるのを待っている?(2010/11/8)

その「合意期限」がくるのは、今年の5月――。
2012.03.14 / Top↑
イタリアの功利学者Alberto Giubilini とFrancesca Minervaの共著で
“出生後中絶”と称して新生児殺しを正当化した論文がネットであっという間に広がり、
著者らに脅迫状まで届く事態になっていることは、以下のエントリーで拾ってきました。

中絶してもいいなら“出生後中絶”と称して新生児殺してもOK(2012/2/27)
“出生後中絶”正当化論は「純粋に論理のエクササイズ」(2012/3/5)


下の方のエントリーで紹介した著者らの公開書簡が出た日に、
別のサイトで、ついに御大Peter Singer が登場していました。

Peter Singer Weighs In on Infanticide Paper
The Chronicle, March 5, 2012


本人が直接ここに寄稿したというわけではなく、
この記事の著者 Tom Bartlertが頼んで書いてもらったものを掲載・紹介するという、
ちょっと変則的な恰好になっています。文章も短いです。

最初のあたりには、ちょっと面倒くさそうなトーンもあって、
書いてと求められて(問題の論文の掲載誌編集長は愛弟子だし)
しぶしぶ書いた……とでもいった感じ。あくまでも個人的な印象ですが。

(これはアシュリー事件でもNYTの論考について、
「誰かに引っ張り出されて書いている感じ」と感想を書いてた人がいた)

でも、書いていくうちに少しずつ熱が入ってくる感じが、、ちょっと興味深いです。
以下、多少の省略などしながらの、雑駁な訳。

72年にトゥリーが論文を書いてこの40年来、応用倫理学では、状況次第で新生児殺しは正当化できるということになっている。今回の論文がすごく目新しいことを言ってるというわけではない。養子にしたいという夫婦がいる場合でも殺すことは正当化できる、ということなどが追加されているだけで。

自分たちの論文をそういうものと捉えていた著者が、脅迫状までくるような反響の激烈さに驚くのは無理もないが、40年前には、オンラインで論文が刊行されることもなければ、プロ・ライフのウェブ・サイトも存在していなかった。現在は、アカデミックなジャーナルに掲載される論文に批判が起こりやすくなっている。

新生児の道徳的地位というのは現実問題(a real issue)だから、アカデミックな雑誌が、真摯かつ論理的にこの問題を論じている論文を掲載するのは当たり前のこと。旧来の生命の神聖という考えを擁護したい人たちは、暴言を浴びせるのではなく著者らの議論に応答すべきだ。それにしても、生命の神聖を守ろうとする手段が、疑問視する人間を殺してやるぞと脅すことだというのは皮肉なものだ!

And it is ironic that some seek to "defend" the sanctity of human life by threatening to kill those who question it!  

中絶反対論者は、胎児と新生児で道徳的地位は違わないと、この論文と同じことを主張してきたのだから歓迎すればよい。両者の道徳的地位は同じだと言いつつ、同時にan innocent living human being (「赤ん坊のように知的レベルが低いままで生きている人間」の意では)というだけでは生きる権利に値しない、と主張する人間に、ちゃんと反論できるだけの人物が、中絶反対論者の中にほとんどいないようだから、そこが気の毒な ところだが。

脅迫や脅しでなく、理性と議論でこの論争に勝てると思うなら、それをすればよい。


最初に一読した時には
大したことは何も言っていないと思ったのですが、

再読しながら、ツイッターでメモ的に訳していくと、
いくつかの疑問点が頭に浮かびました。

① 一番気になるのは a real issue。

Giubiliniらは非難に対して
「知的な議論、論理のエクササイズをしただけで政策提言じゃない」と弁明したけど、
シンガーはそうは思っていないのでは?

ただ、とりあえず「現実問題」と訳してみたものの
「学問的に意義のある大問題」の可能性もあるので、その辺りはちょっと保留。

一方、それであったとしても
Giubiliniらが引いた「論理のエクササイズ」と「政策提言」の線引きを
シンガーはしていないこと、

冒頭を「現代応用倫理の世界では」と始めていることの2点を考えると、
やはりシンガーはこの点については著者らとは別の立場に立っているのでは?

② 「新生児殺し擁護派」VS「中絶反対派」の対立の構図を描くことは、
問題を過剰に単純化していると思う。

これは既に拙ブログで問題の論文を拾った時に、補遺で「なんだか、読んでいると、
功利主義のトンデモ御用倫理学者さんたちと、どんどん原理主義的になる保守層の間に、
実は全く筋違いな対立の構図が描かれてしまいそうで、それが一番イヤだ」と書いたけど、
やっぱり、そこへ持ち込まれている。

議論されるべきことは、実際は、その対立の外というか間というか、
そのどちらにも与しきらない中間的な立場の広がりと深さの中にこそ
まだまだ多様に存在しているはずなのでは?

③ オンラインで刊行されるようになったから
「学者の論文に批判が起きやすくなった」という解釈の、一方向性。

シンガーは「論文への批判が起こりやすくなった」だけを言っている。

インターネット上には、暴言や脅迫以外にも
問題の論文の内容について冷静な議論も出ているはずなのだけれど、
「ネットによりアカデミックな世界の外の人も議論に参加できるようになった」とは言っていない。

この不均衡は、双方向は想定されていないということ?

④ どうせ、論破などできまい、というゴーマンを、
私は個人的には感じます。

「どうせ論破などできまいが、できるものならしてみるがいい」と見下してかかる、
傲岸な響きがあるような感じがする。

⑤ 「脅迫や脅しではなく、理性と議論で」というのは私も思うけれど、
それを実際にアカデミックな世界の外からやってしまうと、
どういうことが身に降りかかり得るかを考えると、
ここでspitzibaraがこの記事と出会ってしまったのも、
何かの必然かもしれない。

(ツイッターでフォローしてくださっている方以外には分かりにくいと思いますが、
そういうことをやろうとすると、反感を買い、ツライ目に遭う可能性もあるかも、との意。
当ブログでも時々ありますが)

⑥ 「勝てると思うなら」というところがムチャ気になる。

上記④とも繋がっているのだけど、
「勝てると思うならかかってこい」姿勢は、
相手の言うことを最初から全否定する構えでしかなく、

シンガーが奇しくもその言葉を使っているように
それはディベートではあっても、誠実な議論や対話の姿勢とはいえない。

人の命は勝ち負けじゃない。

⑦「知的議論」と「政策提言」との線引きについては?

上記に見られるように、中絶反対論者との対立の構図を描き、
 そこでの議論を「勝ち負け」で捉えているシンガーの感覚は
正に「論理のエクササイズ」なのだと思う。

しかしシンガー自身はこちらのインタビューで語っているように
現場医師らからの問い合わせを受けて、その判断に関与してもいる。
(クーゼと相談して「決めた」という文言を、自ら使っていることに注目)

つまり、一方で、中絶反対論者に向けては「論理のエクササイズ」で挑戦しつつ、
自身の言動においては、「政策提言」どころか直接的に現場にスタンダードを敷いている。

ここで①の疑問に戻るのだけれど、
シンガーは著者らの線引きを肯定する立場に立つのか、否定する立場に立つのか。

また、その立場と、
自らの論争のスタンス、倫理学者として直接的に医療判断に影響する立場が
どのように整合されるのか?

⑧ これは、ついでだけど、
せめて元論文の著者名くらい書いてあげればいいのに。

トゥリーの論文はタイトルも掲載誌もちゃんと書いている一方で、
Giubilini らについては、最初から「著者ら」。
論文のタイトルも書かない。

同じ世界でメシ食ってんだし
誰だって論文を書こうと思えば、それなりの苦労をしているのだし、
自分がその世界で大物だと思うならそれだけに、
下には心遣いをしてあげればいいのに。
2012.03.14 / Top↑
某所で「障害は不幸か」「障害は不便か」を巡って
議論が交わされているのを見て、考えてみた。

ピーター・シンガーのDNAを持ち、
生殖補助医療で大金持ちの家にそこそこ健康に生まれ、
3歳の時に、事業に失敗した父親が自殺、一家はジリ貧に落ち込み、
10歳で母親が再婚してかろうじて生活はそこそこになったけど、
その代わりに義父から酷い虐待を受け続けて成人することになった人は――?


本当に問うべき問いは
「なぜ『障害は不幸か』という問いだけが、死なせることや殺すこととの繋がりで問われるのか」では?

「障害は不幸か」議論の危うさは、
その問いの設定枠内に参加者の視野を限定し、
他に問うべきものを見えなくすることにあるような気がする。

私自身は、障害については、

人が人生を生きていく過程で、
誰の責任でもなく、どうにも避けがたく見舞われることがある、
数え切れないほどの種類と形態と大きさの「不運」の一つ、

と、とりあえず考えていますが、
最終的な結論ではありません。

結論なんか出ません。

また、
結論を見いだそうとする方向で議論すべき類のことではないように思います。


【関連エントリー】
「健康で5年しか生きられない」のと「重症障害者として15年生きる」のでは、どっちがいい?(2010年8月20日)
2012.03.14 / Top↑
自殺幇助合法化ロビーが着々と住民投票に向けて動く中、MA州の障害者運動からSecond Thoughtsと題した抵抗声明が出た。下はSmithのブログ。:できたら明日訳したい。
http://www.prweb.com/releases/2012/3/prweb9251201.htm
http://www.firstthings.com/blogs/secondhandsmoke/2012/03/06/second-thoughts-disability-rights-group-opposes-assisted-suicide-in-ma/

オランダで「宅配安楽死制度」がスタートしたことについて、国際的な自殺幇助ロビー団体EXITのブログ。宅配で十分にセーフガードが機能するのか、という疑問も医師らから。:機能するわけがないと私は思う。
http://exiteuthanasia.wordpress.com/2012/03/03/assisted-suicide-at-home-is-it-safe/

OR州の尊厳死法を作った医師 Peter Goodwinがパーキンソンに似た病気で死に瀕している。パーキンソンよりも苛酷な死になるので、今後、尊厳死法を利用するのではないかと見られている。
http://www.thedailybeast.com/articles/2012/03/04/peter-goodwin-is-dying-an-assisted-suicide-doctor-invokes-law-he-built.html

スコットランドで一方的な治療停止訴訟。白血病のKathryn Beattie(13)が、04年6月21日、脳手術の後で両親の同意なく生命維持装置を切られた。母親は切るにしても、せめて司祭さんと家族がそばにいる形にしてやりたかったのに、娘はひとりで死んでいった、と。:「せめてもの温情」すら贅沢になりつつあるのか。せめて知らせてもらえば駆けつけてやれたのに、我が子がひとりで死ななければならなかった、なんて、子にとっても親にとっても、あまりにも惨い。
http://medicalfutility.blogspot.com/2012/03/kathryn-beattie-scottish-court-hears.html?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed%3A+MedicalFutilityBlog+%28Medical+Futility+Blog%29
http://www.dailyrecord.co.uk/news/health-news/2012/03/06/mum-hits-out-at-doctors-who-left-daughter-to-die-alone-after-turning-off-life-support-machine-86908-23776694/

一方、Rasouliさんは、ICUで頑張って持ちこたえている。回復の兆しも?
http://medicalfutility.blogspot.com/2012/03/rasouli-case-mooted-by-patients.html?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed%3A+MedicalFutilityBlog+%28Medical+Futility+Blog%29

【Ras(z)ouli事件関連エントリー】
「“治療停止”も“治療”だから同意は必要」とOntario上位裁判所(2011/5/17)
「患者に選択や同意させてて医療がやってられるか」Razouli裁判続報(2011/5/19)
カナダのRasouli事件、最高裁へ(2011/12/23)


米国医師会新聞の記事。タイトル「慢性的に一番カネかかってる患者は誰だ?」全体の1%の患者が米国の医療費の5分の1を使っている。この不均衡は何とかしないといかん、と。:つまりは高齢者医療の切り捨てへ、と論は展開する。もちろんのことながら。日本でもこういう話、すごくよく耳にするようになったけど、医療費は使うことが贅沢だから使いたくて使っているのと違う。できれば使わないで済むなら誰でもその方がいいけど、やむを得ず医療にかからざるを得ない。上記の子どもの虫歯の話からしても、目先の医療費を削減することは、結局、先で大きな医療出費を招くことにしかならない。これは介護でも同じ。
http://www.ama-assn.org/amednews/2012/03/05/gvsa0305.htm

死後に脳を研究目的に提供したいのに、制度の不備でかなわない、と嘆く夫婦。
http://www.guardian.co.uk/society/2012/mar/06/brain-donation-hampered-red-tape

米国の子どもの虫歯が増えて、一人の子どもの複数の虫歯を治療しなければならないので、奥歯の治療が沢山ある場合には全身麻酔をかけざるを得ない事態に。:この前、ERで歯科治療を受ける人が増えたというニュースがあった。あれと繋がっているんだと思う。経済格差の拡大が、医療格差につながり、ひどくなってから受診するから2歳半の子どもが全身麻酔で歯の治療を受ける事態になる。なんという悪循環か。
http://www.nytimes.com/2012/03/06/health/rise-in-preschool-cavities-prompts-anesthesia-use.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=edit_th_20120306

検査データのIT化で経費削減できると言うが、実際にはIT化によって、むしろ検査のオーダーが増えている、との調査結果。
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/doctors-order-more-x-rays-not-fewer-with-computer-access/2012/03/05/gIQATghCtR_story.html?wpisrc=nl_cuzheads

米小児科学会が男児包皮切除に関するスタンスを再検討。:Diekema、まだねばってる。
http://www.examiner.com/health-in-national/american-academy-of-pediatrics-is-re-examining-neutral-position-on-circumcision

「インフルエンザとその対策の長期変動」akihito_suzuki2000さんのブログ記事。たいへん興味深い。「抗インフルエンザ薬が劇的に効いて死亡率が下がったように見えることが事実であると同時に、その効果が引き立つような状況、インフルエンザでの死亡率が高い状況が、90年代の半ばにいったん作られたということにも注意しなければならないだろう」
http://blogs.yahoo.co.jp/akihito_suzuki2000/61714417.html

豪で大規模な洪水。
click.mail.guardian.co.uk/?qs=e432278219857c71081d431a590d049aa681328886d7074d9436cc68ea104e0c

豪で、IDチェックのためにはイスラム教徒の女性も顔を見せなければならない、とする新法。
click.mail.guardian.co.uk/?qs=ffe673df18ed3226d04f94d057df4fc6f6a3b375b38ba31beb398e6cb1362f9a
2012.03.14 / Top↑
5年前にアシュリー事件と出会い、

アシュリーの写真を見た時、
最初に私が思ったのは、「あ、私はこの子を知っている。

この子の髪の匂いも、ひんやりした肌も、
布団にこもった甘ったるい体臭まで、私は知っている……」だった。

それから長い長い間、
頭からアシュリーのことが離れない、誰に会っても
口を開けばアシュリーのことしかしゃべらないような時間が続く中で、
アシュリーは私にとって我が子のような存在になった。

今日、気付いた。

私はアシュリーを守るべきところにいながら、それを自覚していながら、
その本分を果たさなかった人たちを心から軽蔑し、憎んですらいるんだ、と。

「アシュリー事件」の原稿の新しい個所を書こうとするたび、
花屋へ行ってその日一番きれいだと感じる花を買って来て、
机に飾ってから書き始める自分が、あの頃とても不思議だった。

それ以前に、そんなことをしたことはなかったのに、
なんでこんなことをしたいんだろう、と、ずっと不思議に思っていた。

あの本を書く作業を終えてから、
花なんか買わなくなったまま、なんとも思っていなかったし。

あれは、自分の中の憎しみが原稿に滲まないように、
花を買うことで自分を清める禊だったんじゃないかと、今日気付いた。

私が出会いがしらにぶつかった時、生命倫理は、
大人の世界の都合で6歳の子どもの健康な身体にメスを入れ、
自分たちがしたことを詭弁を弄してごまかそうとする人たちの学問でした。

そこに加担した人たちを、私は憎みます。
2012.03.14 / Top↑
以下のエントリーで書いたことについて、ずいぶん前にツイッターで京都女子大学教授の江口聡先生から
誤読しているとのご批判をいただいていたのですが、

P・シンガーの障害新生児安楽死正当化の大タワケ(2010/8/23)

なかなか体勢を整えて原文を読み返す余裕がなかったので、これまで手をつけることができずにいました。
今回のイタリアの功利主義の学者さんの「出生後中絶」論文から巻き起こった
言論の自由論争と、「知的な議論に過ぎない」という声から思いがまたぞろ上記のシンガーの発言に至り、
この際でもあるので全訳してみました。

質問:病気の乳児を安楽死させることが許されるべきだと、あなたはなぜ考えるのですか?
シンガー:まず最初に、どうしてこの問題について書こうと思ったかをお話しします。私はオーストラリアの生命倫理センターのディレクターをしていて、倫理的なジレンマを抱えた医師らからよく相談されました。NICUで働いている医師らです。NICUというのは生後間もない子ども達、例えば二分脊椎などの病気や障害のある子ども達に集中治療をするユニットです。二分脊椎の子どもというのは、そういう医師らからすれば、助かってもそれがいいこととは言えない。仮に命が助かったとしても、そういう乳児は何度も手術を受けなければならないし、様々な重い障害を負うことになります。両親もそういう説明を聞くと、子どもが助かるのはいいことではないと考えることが多いわけです。
そこで、こうした乳児は基本的には治療されませんでした。その結果、ほとんどの子どもたちが生後6か月以内に死にました。1、2週で死ぬ子どももいたし、1、2カ月で死ぬ子どももいますが、それ以外でもだいたい6カ月以内に死にます。
これは、親、医師、看護師にとって、たいへん消耗的な体験でした。小さな赤ん坊が病院にいて、でも生きるための治療は行われていない。それでも彼らはそれなりに長い期間生きているわけです。
そこで医師から「我々がここでやっているのは果たして正しいことなのだろうか。こんなことが正当化できるのだろうか」と問い合わせがあり、私は同僚のヘルガ・クーゼと一緒に検討して、この病気(二分脊椎)の乳児は生きない方がよいと両親と医師とで決めるのは理にかなったことである、この病気が重い子どもたちは基本的には生きるべきではない、と決めたのです。しかし、だからといって死なせるのが正しいことだという考えが擁護できなかったのは、そうすると長く苦しい死となるために、前に言ったように、両親にとってもその他医療職にとっても感情的な消耗が大きいからです。
そこで我々が言ったのは、「難しいのは、この子を生かすかどうかの決断であり、症状について可能な限りすべての情報に基づいて親と医師とが決めること。しかし、一旦決断したなら、その子がすぐに人間的な死に方ができるようにしなければならない。この子は生きるべきではない、と決めるなら、それはあなたがたの決断だけれども、子どもがすぐに人間的に死ねる保証が必要だ、と。
それが我々の提言でした。
その後、様々な批判を受けてきました。プロ・ライフの運動と、戦闘的な障害者運動の人たちの両方からです。実は、我々が最初にこの問題で論文を書いた時には、障害者運動というのはまだちゃんと存在していなかったのですが、我々がこういう障害のある乳児にはそういう扱いをすべきだと思うと、堂々と言っているものだから、我々を悪者として標的にするようになりました。
プロ・ライフが我々のいうことをそういうふうに受け止めるというのはある程度私には理解できるのですが、私に言わせると、障害があるという理由で子どもを死なせることについては障害者運動こそ私に怒っているのと同じだけ怒るべきでしょう。多くの病院で、実際普通に行われていることなのだから。なぜ障害者運動が、実際に乳児を死なせていた医師をターゲットにするのではなく、我々をターゲットにすることにしたのか、私にはよく分かりません。子どもを死なせることと、彼らの死が速やかに人間的なものであるよう保証することに違いがいあるとは私には思えません。


訳してみても、2010年8月23日のエントリーで読んだ時と私の捉え方は変わりませんでした。

江口先生のご指摘の1つは、
このトークは新生児の(積極的)治療の差し控えではなく、
(もしそれが正当化されるとすれば)積極的安楽死が正当化されるかどうかの話をしているはずです。

江口先生がおっしゃる通り、質問は「なぜあなたは安楽死が許容されるべきだと思うか」。
しかし質問には江口先生が追加されている(もしも差し控えが正当化されるとすれば)は存在しません。

それに対して、シンガーは、話の前提を治療の差し控えにもっていき、
勝手に質問を再構成してしまっているように私には思えます。

治療の差し控えによって倫理のジレンマを抱えた医師の問い合わせを受けたのが
安楽死を論じることになったきっかけだと述べることから回答を始め、
まず消極的安楽死について、親と医師とで子どもを死なせることを決めてもよい、と決めた、という。

ここで提示されている判断の根拠については、
二分脊椎に関するはなはだしい認識不足があるとBill Peaceが指摘しています。

それでもシンガーは、消極的安楽死の許容を前提に、
① 子どもが長く苦しむ、②ケアし、見ている医療職と親が消耗する、の2点を理由に、
それなら親と医師が決めた以上すみやかに死なせてやるのがよい、と
積極的安楽死を容認すべきだとの考えに至った、と説明しています。

つまり「なぜ積極的安楽死を許容するのか」という問いに対して、
「消極的安楽死では、子も親も医療職も苦しむから」と答えていることになるのでは?

私が2010年8月23日のエントリーで指摘したのは、
消極的安楽死を前提にするなら、「十分な緩和ケア」という選択肢によって
シンガーが問題にしている本人の苦痛も、親と医師の消耗というジレンマも解消する以上、
本来の問いの「なぜ(積極的)安楽死をあなたは許容できると思うのか」には
消極的安楽死での苦痛を根拠にしているシンガーはまともに答えていない、ということです。

また、シンガーの興味関心が、本人が苦しむことよりも、
むしろ親と医療職の苦しみの方に向けられているのでは、とも指摘しました。
そこにはまた別の倫理問題が生じているはずですが、
シンガーは混同・曖昧にしたまま論じるという誤魔化しをしているのではないでしょうか。

もう1つ、シンガーが「実際に死なせているのは医師たちなのに、
その医師を攻撃せずに、なんで自分が攻撃されるのか分からない」と言っているのは
卑怯ではないか、と私が書いたことに対して、江口先生からの反論は以下。

「障害者運動家たちは、(障害をもっている新生児の(積極的)安楽死と同じように)障害を理由とした新生児を(積極的に治療せずに)死ぬにまかせることにも同じように腹を立てるべきだ」と言ってると紹介するべきだと思います。()内は私の解釈。
だからぜんぜん卑怯じゃない。むしろ「安楽死だけじゃなくて治療停止や積極的治療のさしひかえにも反対しなければならないはずだ」と言ってるわけです。これはspitzibaraさん自身の立場でもあるはずです。
"I’m not so sure why they’ve gone after us in particular rather than after the doctors who were actually doing it." が *were*になってるのも注意してください。


しかし、改めて質問とシンガーの回答を全訳してみて、この点についても私の捉え方は変わりません。

私にはシンガーが言いたいのは、あくまでも
「障害者運動がなぜ自分たちをターゲットにしたのか理解できない」であり、
江口先生が言われるように障害者運動の主張を分析的に批判しているというよりも、
自分たちをターゲットにすることの不当さをこういう形で訴えているだけのように思えます。

仮に分析的に批判しているとしても、その批判は的外れです。
障害者運動の主張は「障害のある生を生きるに値しないとすること」そのものへの批判なので、
当然のこととして、ここでシンガーが挙げている理由での消極的安楽死は否定されます。

実際Bill Peaceは否定しているし、militantと呼ばれているNot Dead YETは名称にもみられるように、
「まだ死んでいない」のだから障害があるからと言って死なせるな、との主張。
「消極的安楽死を批判している」のだから「消極的安楽死も批判すべき」との批判は的外れ。

ここでシンガーが言っていることの趣旨は、私には
「私たちが積極的安楽死を許容せよと言っていることに腹を立てるのだったら、
消極的安楽死はあちこちで行われているんだから、それにだって腹を立てるべきなのに、
実際に消極的安楽死で死なせている医師をターゲットにするんじゃなくて、
どうせ死なせるんだったら殺してやれと言っている私をターゲットにしたのは不当だ」と聞こえます。

そして、ついでのように
「死なせることと殺すことに違いがあるとは思えない」と、ここにもあるはずの
omissionとcomissionという別の倫理問題はスル―されてしまう。

さらに、上記のエントリーを書いた時には頭に浮かばなかったけれど、
今こうして改めて読んでみて、やっぱり卑怯じゃないかと思うのは、
シンガーは2008年のゴラブチャック事件で既に「社会のコスト」を持ち出していること。
Singer、Golubchukケースに論評(2008/3/24)

去年のMaraachli事件では、「こういう子どもの命に拘泥するか、
その金で途上国の子どもにワクチンを売って多数の命を救うか」とまで発言しています。
Peter Singer が Maraachli事件で「同じゼニ出すなら、途上国の多数を救え」(2011/3/22)

上記インタビューが2つの事件の間で行われたとすれば、
「なぜ思うのか」の答えには「コストに値しない」を彼は含めるべきでは?
2012.03.14 / Top↑
以下のエントリーで紹介した論文著者らに
脅迫状が送られるほどの過激な非難がまきおこっていることから、
掲載誌のブログに著者らからの公開書簡が掲載されました。

中絶してもいいなら“出生後中絶”と称して新生児殺してもOK(2012/2/27)


主に言われていることは、

・アカデミックな世界では既に40年来議論されてきた問題を論じただけなので
まさか、これほど激烈な憎悪に満ちた批判を受けるとは予想していなかった。

・アカデミックな論文を書いたのだから、
アカデミックな業界からの反論は予想していたが、
まさかインターネットでアブストラクトが一人歩きをして
ここまで一般社会に広まり、宗教的背景があるサイトやプロライフのサイトに拾われて、
それらを含む一般からこれほどの批判を受けるとは思わなかった。

・しかし、私たちの論文の趣旨は「もしもXであったらYでなければならない」という
純粋に論理のエクササイズ(pure exercise of logic)であって、
実際に出生後中絶を合法化せよと説いたつもりはない。

・我々は政策立案者ではなく哲学者なので、
我々が扱うのは概念。法的施策を扱うわけではない。

・もし政策を扱いたいなら、
例えばグローニンゲン・プロトコルなどを論じたはずだが、
我々はガイドラインについては論じていないし、むしろ、
このようなプロトコルが存在するから議論する意味も
論文を書く意味もがあると指摘している。

・40年間の議論の文脈で論文を読んでもらえれば分かるし、
この論文で想定した読者対象はそうした文脈で読めるアカデミックな人だったのだが、
広くインターネットやメディアで取り上げられて、そうした背景を持たない人たちに届き、
我々は人を殺すこと自体に賛成なのだと誤解されている。

・そのため我々の論文に気分を害したり、脅かされたりした人には
本当に申し訳なく思い、謝罪する。

・しかし、我々の趣旨がメディアによって捻じ曲げられていることや
そこで我々が論じられていると書かれていることには同意できないし、なによりも
物議を醸す話題についてアカデミックな論文を書いたことで
誰かが不当な攻撃の対象となるということはあってはならないと思う。

・一方で、「アカデミックな」(ここはイタリックで強調)意味で、
議論を喚起したことに感謝してくれる人からのEメールも多数届いている。
こうした人たちは、我々が論文でなんら「どうすべきか」具体的な示唆・提言を
しているわけではないことを理解してくれている人たちである。

・気分を害された方には申し訳ないが、この論文が
アカデミックな言説とメディアのミスリーディングな報道、
またアカデミックな論文で論じられうる範囲と、実際に法的に許容されるべき範囲の
本質的な区別について、広く理解される契機となるよう願っている。

An open letter from Giubilini and Minerva
BMJ Broup Blogs, March 2, 2012


ぱっと頭に浮かぶのは、

広く生命倫理が、現場の医療実践や、先端医療が許容されていく過程にいかに影響してきたかという
さらに大きな図を念頭に考えた時に、

本当に
アカデミックな議論で言われることは
実際の医療の実践や、医療を巡る司法のあり方に全く影響を与えない
全然別のただの「論理のエクササイズ」だと言えるんだろうか。

私は中絶の是非議論については詳しくないから、これ以上何も言えないけど、

アシュリー事件や、死の自己決定権や、無益な治療論、移植医療の周辺では
アカデミックな世界の人たちの言動が世論形成に大きな影響を及ぼしていて、

しかも年を追うごとに、一定方向への誘導が非常に露骨になってきている観さえある。

「再分配ではなく収奪の場となった」と誰かが書いていたネオリベ強欲ひとでなし金融(慈善)資本主義や
その利権と、医療とその周辺が直結してしまっていることに、

むしろ医療の世界の人や生命倫理のアカデミックな世界の人が、
そろそろ自覚的になるべき時期だということなのでは?
2012.03.14 / Top↑
3月4日

結局、生命倫理学って、科学とテクノの価値意識で世論を誘導し、メディカル・コントロールと人体の資源化を実現していくための洗脳装置なのかと思うこと、ありますよね。

「『いのちの思想』を掘り起こす」で、編著者の安藤泰至さんが 「生命倫理(学)は、医学や医療あるいは生命科学研究をめぐるシステムの一部として、それに付随するある種の『手続き』のようなものになり下がりつつ」ある、と指摘されていました。

例の「出生後中絶」論文の著者らには「アンタらこそ死ねよ」などのコメントや脅迫状が届いているらしい。そういう行為を肯定するつもりはないのだけれど、 生命倫理の議論が実際に医療現場で起こっている弱者切り捨てを正当化してきた以上、「ただ知的な議論をしただけ」と言って済むのか、とは思う。

「オレら頭のいい人間だけが興じることができる形而上学的な議論(つまり論理のパズル)」とか「単なる知的な議論」という意識が、目の前の人間が重症障害 のある子どもを持つ親であると知っていても、平然と「障害児は生きても自分のように大学教授にはなれない」と言える意識につながっていないか。

この発言を批判したことについて「憐みや配慮を求めちゃダメよね~」とたいそうな上から目線の批判があったので、断っておくけれど、私はこうした発言をする人の意識(?)における欠落(マイナス)を指摘したのであって、配慮(プラス)を求めたわけではありません。

昔、病院の廊下で、患者が挨拶しているのに平気で無視して歩いていく医師や、自分よりも年上の患者や家族をぞんざいに怒鳴りつける医師を見て、いつも「この人って、自分の家の近所の人にも、こういう態度を取るのかしら」と不思議だった。

「殺してもいい、と言ったのは、知的な議論に過ぎないから。だって生命倫理学者ですから、それが仕事ですから」という類のことを言っている人がこの前からあちこちで目について、なんとなく、こういうお医者さんの態度の使い分け方のことを考えた。

お医者さんのゴーマンに何度もそれを考えて以来、私にとって「道徳的にふるまう」基準の1つは「自分が住んでいる近所の人に向かってできないことは、誰に対してもしない」。それを考えたら、道徳的でない人が論じるからロバート・マーフィがいう「精神なき道徳」になる?

はい。おっしゃる通りです。私も一部のトンデモ御用生命倫理学者のいうことには、臓器移植を含めた、科学とテクノの簡単解決文化と、その背後に繋がっている巨大な利権という視点で、立派なconsistencyがあるように思います。

結局、こういうことなんじゃないか、と。⇒ 「必要を作りだすプロセスがショーバイのキモ」時代と「次世代ワクチン・カンファ」 http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/60707023.html

「出生後中絶」議論で、誰かが「シンガーは新生児殺しの正当化論で名前を売って大物哲学者となった」みたいなことを書いていた。W・Smithも前に「最 近の学者は過激なことを言えば言うほど権威ある大学に迎えられる」と書いていた。まるで爆弾発言やスキャンダルで名前を売るタレントみたいだ。

私、実はアシュリー療法論争の07年からずっと「ピーター・シンガーは自分の友人とか近所の人に重い障害のある子どもがいたとしたら、その人の子を指さ し、その人に面と向かって『この子は動物以下だから尊厳など無用』と言えるんだろうか」って、ずっと考えていたんですよね。

そうしたら私自身が、シンガーを擁護する学者さんから面と向かって似たようなことを言われて、あぁ、この人たちは実際に言えるんだ、と。それを私は「欠落」ととらえていたんですけど、今回「知的な議論をしただけ」というのに「分断」なのかも、と。

まだ、うまく言えないんですけど、人として生きている生身の自分というものをどこかに棚上げにして、それとはまったく「断絶」したところで、論理のパズルをしている。そこで勝利し、アカデミックな世界で業績を作りエラくなっていくために。

その分断を繋いでもなお「殺してもいい」と言えるのかどうか、実際のその人たちが生きている姿に、学者として観察するのではなく、共にこの世に生きる一人の人として触れてみたらどうか、と、アシュリー事件からずっと怨念のように思うことを、またも。

面と向かって言えるとか言えないというのは、当たり前のことですが、比喩。自分が個人として生きている世界と、知的な議論とを断絶させることによって論理 のパズルを学問として成り立たせるこのと危うさを問題にしたいわけで、その比喩はそれに至るプロセス。本題ではありません。

キテイに障害者コミュニティへの訪問を誘われた時にシンガーは断った。それは結局、分断を埋めることを拒んだのであり、つまりは「知的な議論をしているだけ」との言い訳を手放すまいとしているんじゃないのか、と。

エヴァ・キテイ「Singerに限らず、現実の経験的な問題から離れた哲学の世界に隔絶して知識と理論だけで障害者の問題を考えている人たちは、現実の障害に関して呆れるほど無知である」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/47350976.html

でも「知的に議論」している対象である道徳とか倫理は、知的な議論の世界でだけ生きている人たちが前提ではないと思うので、そういうことがnankuru28さんが言われる関係性と切り離すことはできない、ということと繋がらないかな、と。
2012.03.14 / Top↑
以下のエントリーで紹介した論文の著者らに、
脅迫状が送られるなどの騒ぎになっているらしく、

中絶してもいいなら“出生後中絶”と称して新生児殺してもOK(2012/2/27)


掲載誌の編集長であるSavulescuを始め、あちこちから
「一般人には理解しがたいかもしれないが、知的な議論をしているだけ」的な
発言が目につくことから、グルグルしてみた一連のツイート。


3月1日

Savulsecuが「”出生後中絶”論文はトゥリーやハリスの新生児殺しの主張と同じで、ただ家族利益でもOKとしたところが新しいだけ」と書いたことに、ハリスが「自分はあくまでも知的議論を展開したまでで政策として提言したことはない」。セコい。http://blogs.bmj.com/medical-ethics/2012/02/29/john-harris-clarifies-his-position-on-infanticide/

自分は頭がいいのだとゴーマンかいた胡坐の上で、論理のパズルに興じておいて、でも医療倫理も生命倫理も現場の医療とはまったく無世界だからね、とでも? そういや認知症患者には延命治療するなと説いておいて、「自分の母親となると別」だった人もいましたっけね。

じゃぁ、ハリスは去年「臓器売買を認めろと説いた」のも、あれは知的な議論に過ぎなくて、政策提言をしたわけじゃないのかな。⇒Harris「臓器不足排除が最優先」の売買容認論は「私を離さないで」の世界にあと一歩」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/63037403.html

As Editor of the journal・・・Savulescuが編集委員長ってこと? この前のAJOBの利益相反スキャンダルを思い出した。⇒「AJOB巡るスキャンダルには幹細胞治療や日本の医療ツーリズムも“金魚のウンコ” 」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64752863.html

Savulescuの「中絶反対狂信者らが・・・」文章を読んでいると、功利主義のトンデモ御用倫理学者さんたちと、どんどん原理主義的になる保守層の間に、実は全く筋違いな対立の構図が描かれてしまいそうな気がして、それが一番イヤだ。

この両者とも、強権的な操作、コントロール指向はそっくり。、本当は片方がメディカル・コントロール、もう一方が政治と司法による支配と差別の強化と、方法論が違うだけで、方向性は合致している気がしてならない。

この前ホロコーストがトラウマになってきたドイツで最近はイスラム教徒への差別意識が高まっているという話を読んでhttp://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64787822.html気になったけど、Savulescuが引用している「出生後中絶論文」批判にもちらっとその気配が滲んでいる。


3月2日

Savulescu が great と言ってツイートしている例の論文を巡る言論の自由擁護論。http://blog.indexoncensorship.org/2012/03/01/abortion-bmj-free-expression-infanticide-medical-ethics/ 

(↑ここだったと思うけど、ざっとあちこちに目を通した際に、「議論の一貫性consistencyを問題にしているのであり」が目についた。つまり「中絶が是」なら「新生児殺し」も是でないと論理一貫性がない、とか、学問的にはそういう問題なんだ、と説いた個所が目についたことから ↓)

consistency とは言われますけど、一定の人については「殺す」ことばかりが議論され、一定の人については「命を救う」ことばかり、または「欲望を満たしてあげること」ばかりが問題となるという意味では、これら議論を取り囲む大きな不均衡もあるわけで……。

”出生後中絶”論文に関してSavulescuおすすめの論考。https://theconversation.edu.au/theres-no-good-argument-for-infanticide-5672 お? クイーンズランドの方なのね……。

これも同じく。すぐ読めないので、とりあえずのメモとして。 http://blog.practicalethics.ox.ac.uk/2012/03/concern-for-our-vulnerable-prenatal-and-neonatal-children-a-brief-reply-to-giubilini-and-minerva/

consistencyということで言えば、まだコスト論が露骨になる前に(ex.07年ゴンザレス事件)、”無益な治療”停止の正当化だった「人工呼吸 が患者に無益な苦痛を強いている」が、今は臓器確保のための人工呼吸が「十分な鎮静と沈痛がされれば患者の損失はない」と裏返ることの不思議。

consistencyということで言えば、ゴンザレス事件の頃には「コストではない。あくまでも患者の最善の利益」と正当化された治療停止が、事件が続 き議論が繰り返されるにつれて、そこにじわじわとコスト論が紛れ込まされて、いつからか「社会のコストを考えるべき」無益な治療論へと化ける怪。

グラデーションまがいの変質を起こせば、変質そのものがバレないいだろうとでもいうがごとくに。じわじわと変質するのだって議論に一貫性がないという点では立派なinconsistencyのはずなんだけど。あ、これもAshley事件の正当化論の変質マジックと同じ。
2012.03.14 / Top↑
やっと少し暖かくなったので、
ミュウと散歩して近所のモスへ。

ハサミで微細に刻んだバーガーは親が食べさせるけど、
大好きなポテトだけは、いつも「持たせろ」と手を伸ばしてくる。

握らせると、苦労しながらも
一か所だけ噛み切ることができる左奥歯に持っていき、
なんとか自分で上手に食べる。

時々、その手が母親の顔の前にぬっとやってきて、
ポテトを口に突っ込もうとする。

なぜか食べさせてもらえるのは母親だけなので、

ありがたく、
クソ握りでつぶれたポテトをいただく。

そして、言葉を持たない娘は、
私の前に顔を近づけ、

目をきらきら見開いて、
顔全体で「おいっしーねっ、ねっ、おかーさん!」と言う。

弾んだ口調で言う。

「うん。おいしーね」と、私も目だけで応じて、
その瞬間の完全無欠な幸福に、涙ぐみそうになる。
2012.03.14 / Top↑
前のエントリーに報告書の概要があります。
このエントリーは報告書本文 p.131-132 の全訳です。


2011年秋の本報告書の刊行は、政府の意見聴取キャンペーンthe Future of Care and Supportと期を一にするものである。2012年には保健相から介護と支援白書の刊行が予定されており、その後に実施となる新制度に向けて、本報告書によりDS事業から学ぶ重要な機会を提供する。

以下の政策提言は「介護者戦略2010」(セクション7.2)において定められた7つの原則に即したものである。

1. すべての地域で、地方自治体、NHS組織とボランティア団体とが連携して効果的な介護者支援を開発・提供する努力が強化されなければならない。連携の実際はさまざまで、心身の健康委員会(health and well-being boards)の位置づけも異なれば、地域の既存の連携のあり方に依拠する場合もあれば、それをさらに発展させる場合もあろうが、連携機関の間には適切なサービスの企画、開発、実施を可能とする未来志向の戦略と予算に関する合意がなければならない。このアプローチは「介護者戦略2010」によってプライマリー・ケア・トラストに通達されたガイダンスに沿うものである。

2.サービスの開発においては、適切な研修を提供しつつ、地域の関係者の連携の中に多様な介護者を含めなければならない。介護者ニーズの検討、介護者支援を開発するにあたっての地域の優先順位の把握、様々な形態の介護者サービスを届けるために必要な主導機関とサポート機関との選定には、連携に含めた介護者と協働して当たるべきである。

3. 広い範囲の介護者に支援を届け、まだサービスに繋がっていない介護者にも手を差し伸べるためには、地域の関係者の柔軟な連携が必要である。特定のターゲット・グループの介護者と関わりを作ろうとする場合には、時にはグループの特性に応じた特別体制を組むことも必要である。グループの特性によっては、介護者の信頼を得ている機関や実際に介護している人たちと関わっている機関が医療と社会ケア制度の枠組みの外にあるならば、支援を確立・維持するためにそれらの機関との柔軟なネットワークが求められる場合もある。

4. 「この支援だけが最善」という支援策も「これだけであらゆる介護状況、あらゆる介護者への解決策を提供できる」支援策もあり得ない。どの地域レベルにおいても、効果的な介護者支援のためには介護者支援に多様なメニューがあり、それらが個々のニーズに合わせて応用可能であることが必要。柔軟かつ個別的なサービスだからといって必ずしも高価なものにする必要はなく、予測も予想もできない形で生じる介護者のニーズにもタイムリーに素早く利用可能なものでなければならない。

5. 介護者支援のメニューについては地方自治体とNHS組織とボランティア・セクターや、また地域の状況に応じてその他の団体との間での合意形成が必要である。介護者に支援が必要なのは、健康問題とストレス;適切な支援、サービスと要介護者用の用具と住宅改造へのアクセス情報;所得維持と介護期間およびその後の年金保護;セルフケア、健康的な生活スタイルと介護以外の生活の維持;教育、研修、仕事と余暇へのアクセス;緊急時に備えた計画と介護者役割から時々または定期的に休息する手段

6.新規診断や退院や外来受診時など患者に介護者が付き添うことの多い病棟を中心に、病院は新たな介護者を見つけ出しサポートするメカニズムを定常的に提供しなければならない。介護者となったばかりの人や介護責任に変化が生じた人へ支援が、フォロー・アップ・サービスに繋ぐことも含めてタイムリーにうまくコーディネートされるには、それら支援が全ての急性期病院で利用可能となっており、全ての外来クリニックで告知されていることが必要である。

7. 個々の現場で必ずしも認識されているとは限らないが、全てのGPは診療を通じて介護者と接触している。全てのGPの診療所に対して、介護者支援のキー・パーソンとなる担当スタッフを置くよう求めるべきである。キー・パーソンの役割はGPをサポートして介護者を見つけ出し、地域の適切なサービスに繋げ、介護していることによって介護者自身が病院予約を取りにくかったり治療を受けにくくなることがないよう保証すること。こうしたスタッフに介護者理解と介護者支援の研修が必要な場合もある。具体的な進め方については、2010年10月にプリンセス・ロイヤル・トラスト・フォー・ケアラーズと英国家庭医学会が刊行したガイドブック”Supporting Carers”がGPとそのチームに向けて詳細な提言を行っている。

8. 病院、GP診療所、地方自治体、ボランティア・セクターにおいて介護者と接する全てのスタッフは、介護責任が介護者の心身の健康におよぼす影響に配慮できるよう研修を積み、介護者が心身の健康チェックを受けられるようアドバイスできなければならない。今回のDSプログラムで専門家や支援スタッフ向けに開発・検証されたチェックリスト、手法、ガイドラインが医療と社会ケア制度の関係者に広く提供され、研修に生かされて、関係スタッフ全員が介護者のストレスや健康悪化のサインに気付き、適切な支援へのアドバイスができなければならない。

9. 特にNHS(だけとは限らないが)を中心に医療と社会ケア制度の多くの職員が、介護者理解の研修を受けることができないために、介護者支援を効果的に提供できないでいる。すべての関係機関がスタッフに対して定期的に介護者理解の啓発研修を行わなければならない。必ずしもコスト高な研修を行う必要はなく、対象スタッフによってはオンライン研修や、インターネットを利用した研修方法も安価で適切な選択肢であろう。


キャンペーン
http://caringforourfuture.dh.gov.uk/

介護者戦略2010
http://www.dh.gov.uk/en/Publicationsandstatistics/Publications/PublicationsPolicyAndGuidance/DH_122077

(これ以外にはヒットしないのですが、この文書は6章までで7.2というセクションがないので、
同種の別モノのような気もします)


            ------

これまで当ブログが介護者支援について書いてきたエントリーは相当数に上ったため、
以下のエントリーに一度リンクを取りまとめています ↓

「クローズアップ現代」が英国の介護者支援を紹介(2010/10/14)

オマケとして
母に殺させるな……「介護者支援」への思い(2012/1/12)


介護者支援について「介護保険情報」の連載で書いたものはこちらに ↓
介護者支援シリーズ 1: 英国の介護者支援
介護者支援シリーズ 2: 英国の介護者週間
介護者支援シリーズ 3: 英国のNHS憲章草案と新・全国介護者戦略
介護者支援シリーズ 4: 米国 家族介護者月間
介護者支援シリーズ 5: 障害のある子どもを殺す母親たち
介護者支援シリーズ 6: NHSの介護者支援サイト Carers Direct

【Marriotさんの著書に関するエントリー】
「“身勝手な豚”の介護ガイド」1: セックスもウンコも“殺してやりたい”も(2011/7/22)
「“身勝手な豚”の介護ガイド」2: あなた自身をもう一人の“子豚”に(2011/7/22)
「“身勝手な豚”の介護ガイド」3: “専門家の世界”に心が折れないために(2011/7/22)
「“身勝手な豚”の介護ガイド」3のオマケ: だって、Spitibaraも黙っていられない(2011/7/22)
「“身勝手な豚”の介護ガイド」4: 「階段から突き落としてしまいたい」で止まるために(2011/7/23)
「“身勝手な豚”の介護ガイド」5: ウンコよりキタナイものがある(2011/7/23)
「“身勝手な豚”の介護ガイド」6: セックスを語ると“子豚”への愛が見えてくる“ケアラー哲学”(2011/7/24)
2012.03.14 / Top↑
英国政府は1990年の「全国介護者戦略」を08年に見直し(08年8月号の当欄で既報)たが、その際に介護者支援の新事業や既存事業の拡大など大規模なモデル事業をスタートさせた。1年半にわたって行われた全英25か所でのモデル事業について、保健省の資金提供を受けたリーズ大学の介護・労働・平等国際研究機関(CIRCLE)がアンケートや資料分析による調査を実施。このほど報告書“New Approach to Supporting Carers’ Health and Well-being: Evidence from the National Carers’ Strategy Demonstrator Sites programme”を刊行した。要約版から要点を紹介する。

概要
モデル事業には「休息(レスパイト)」「健康チェック」「NHSの枠組みでの介護者支援策改善」の3つのテーマがあり、それぞれ12か所、6か所、7か所が参加。「休息」テーマのモデル事業サイト(以下DS)では、在宅での代替えケアやオンライン予約など柔軟なアプローチによる個別レスパイトの提供、認知症と精神障害者の介護者に特化した短期レスパイト事業などが実施された。健康チェック」DSでは、多機関の連携によって多様な場所で心身の健康チェックが行われた。「NHSの介護者支援」では、各種サービスの改善、ピア・サポート活動やスタッフの啓発に加えて、GP(家庭医)や病院で未支援の介護者を見つけ出し支援に繋げる方法を模索した。

パートナーシップと多機関アプローチ
 新サービスの開発を通じてチームワークが良好となり、介護者支援への意識が高まり、新たな活動や新たなスキルの開発に繋がるなど、組織間、組織内での協働関係には概ね良い影響が見られた。いずれのDSでも事業内容に応じてボランティア・セクター、NHS組織と地方自治体がそれぞれの役割と責任を担ったが、3者の連携によりモニタリング、医療と福祉の意思疎通が改善され、スタッフへの新たな介護者支援の啓発研修の機会も生れた。一方、手続きの違いや取り組みへの温度差、それぞれの資源へのアクセスの問題など、連携に向けて越えるべき課題も明らかとなった。

介護者を見つけ、関わり、活動に加えていくこと
 25のDSで支援を受けた介護者は18653人で、サービスは利用しなかったが他に28899人の介護者に接触した。多くは長年介護をしている高齢女性で、マイノリティ・コミュニティの介護者や、多様な病気や障害のある人の介護者と関わることができた。関わりを作るカギは、ターゲットに応じた柔軟なアプローチ、連携とネットワーク。マイノリティ・グループにはボランティアによるアウトリーチが有効で、ヤング・ケアラー支援では学校やユース・センターとの連携が役立った。未支援の介護者にアプローチする際は「介護者」という言葉は避ける方がよいとの発見もあった。全DSがサービスの企画や展開、評価などに介護者自身を参加させており、それによって福祉や医療の専門家には欠けた視点がもたらされた。

介護者への影響
モデル事業のサービスを利用した介護者の内、27%に当たる5050人からアンケートによって得た情報を分析した。回答者の8割は、それ以前には数時間以上のレスパイトの経験がなかった。「休息」DSでレスパイトを利用した介護者の3分の1が新たな余暇活動を始めており、「『自分自身の生活』を送れるようになり自信が持てた」「心身の健康のために始めたことがある」「専門職とのコミュニケーションが良好になった」などの報告があった。一方、レスパイトを利用しなかった介護者では心の健康スコアが悪化した。
健康チェックでは特にマイノリティの介護者への影響が大きく、4分の1が「自分の健康に対する見方が変わり運動量が増えた」と回答。ほとんどがその他のサービスにも申し込んだ。

コスト・パフォーマンス
 モデル事業の目的の一つは、最もコスト・パフォーマンスのよいサービス提供方法を探ることだった。報告書は正確な測定はできないとしながらも、モデル事業で導入された介護者支援の多くには医療と福祉でのコスト削減につながる可能性があるとのエビデンスが得られた、と結論づけている。削減効果として挙げられているのは「入院・施設入所の予防」「支援により介護者役割の維持が可能」「心身の健康問題の早期発見」「介護者の心身の健康の改善」「「連携・協働ができやすい」「GP診療の効率化」「介護者の再就労または離職の防止」「介護者間でのインフォーマルな支援ネットワークの構築」。

 これらの分析を踏まえ、報告書は右ページに示した9つの政策提言を行った。

「介護保険情報」2012年1月号
連載「世界の介護と医療の情報を読む」

詳細は ↓
英「全国介護者戦略」モデル事業の総括報告書 リーズ大から 1(2011/12/28)
英「全国介護者戦略」モデル事業の総括報告書 リーズ大から 2(2011/12/28)


なお、右ページに掲載された政策提言は
サマリーではなく報告書本文を全訳したものです。

こちらは次のエントリーに。
2012.03.14 / Top↑
3月1日からオランダで始まった新制度。

特別に訓練を受けたパートタイムの医師と看護師が
Life-end クリニックと称するチームを組んで、

安楽死法に沿って安楽死を希望する患者の元へ
車で駆けつけ、自宅で安楽死させてくれる。

実施主体は安楽死ロビーのNVVEで、

起動チームは6台が稼働。
オランダ国内のどこへでも来てくれる。

だから、自分の主治医が安楽死に手を染めるのは嫌だと言ったり、
やってくれる医師を自分で探せなかったりしても、もう大丈夫。

条件はその他の場合と変わらず、
死にたいとの意思表明をする際に意識が清明であること。

耐え難く、終わりのない苦痛が続くと見られること。
患者も、セコンドオピニオンを経て医師も、不治であると認識していること。

安楽死ケースとして、
実施後に5つのコミッションのいずれかに報告し、
詳細が合法的に行われたか審査の対象となる。

移動安楽死チーム計画は
保健相の認可を受けてはいるものの、

オランダ医師会では
そうした安楽死を専門とする医師では、
患者との関係が希薄で正しいアセスメントができないと懸念。

Assisted-Suicide Squads Launched in Holland
NewsMax, March 1, 2012


オランダでは2年前から、
自分の主治医が安楽死に協力的でないという人のために、
安楽死に特化した医療施設を、との声が出ていたけど ↓

幇助自殺者が毎年1割ずつ増えるオランダで「安楽死クリニック」求める声(2010/8/12)

なるほど、こういう形で、ご要望にお応えしてしまうわけか。


この記事の中で
要望した時点で意識が清明であることという条件に言及されているのが
かなり引っかかるのは、

オランダでは既に意思表明ができなくなっていた認知症患者が
既に安楽死させられているから。↓

「IC出せない男児包皮切除はダメ」でも「IC出せない障害新生児も認知症患者も殺してOK」というオランダの医療倫理(2011/11/12)


となると、“オランダ坂”が次にもんどりうってなだれ込んで行く先は、
やっぱり、ここかな ↓

オランダで「70以上の高齢者には自殺幇助を」と学者・政治家ら(2010/2/10)


ちなみに英国では、こんな提案もあった ↓

「高齢者がいつでも死ねるよう街角ごとに“安楽死ブース”を」と英国作家(2010/2/10)


【その他オランダ関連エントリー】
去年の安楽死・幇助自殺2300人のオランダで自殺幇助アドボケイトに10カ月の禁固刑(2009/5/3)
オランダで安楽死が増加し保健相が調査。緩和ケアの崩壊も(2010/6/21)
2012.03.14 / Top↑
27日に中絶してもいいなら“出生後中絶”と称して新生児殺してもOKのエントリーで紹介した論文に、非難ごうごう巻き起こり大騒ぎに。掲載誌BMJの編集長としてSavulescuが掲載を擁護しつつ、「中絶反対の狂信者どもにより著者らの命を脅かすような脅迫が行われている」などと大げさな非難。なんだか、読んでいると、功利主義のトンデモ御用倫理学者さんたちと、どんどん原理主義的になる保守層の間に、実は全く筋違いな対立の構図が描かれてしまいそうで、それが一番イヤだ。
http://blogs.bmj.com/medical-ethics/2012/02/28/liberals-are-disgusting-in-defence-of-the-publication-of-after-birth-abortion/
http://www.guardian.co.uk/world/2012/feb/29/abortion-ethics-threat-free-speech

上で、Savulescuに「今回の“出生後中絶”論文の主張そのものは、シンガー、トゥリー、ハリスが擁護してきた新生児殺しと同じで、ただ家族利益でもOKとしたところだけが新しい」と書かれたJohn Harrisが「はっきりしておきたいが、自分は知的議論をしただけで、政策提言をしたことはない」と、すばやくセコイ言い訳。
http://blogs.bmj.com/medical-ethics/2012/02/29/john-harris-clarifies-his-position-on-infanticide/

この問題でTauriq Moosaという人の元論文の擁護論。
http://bigthink.com/against-the-new-taboo/killing-infants-the-right-to-argue

BMJに、英国の医師らが男女産み分けのために中絶を行っている、との疑惑。:こういうことで警察が捜査を始めるなら、Savulescuが書いている「広く受け入れられた前提に基づいて議論している」というのは、「今でも中絶は認められているんだから家族利益のために殺したってOK」という上記の論文には当てはまらないことになるんでは?
http://www.bmj.com/content/344/bmj.e1479.short

上記で懸念される対立の構図と絡めて気になるProPublicaの報道で、NYポリスがイスラム教徒を監視しているとの疑惑。
http://www.propublica.org/article/nypd-surveillance-on-muslims-qa

2010年にNYの実践が報じられていた腎臓のペア交換移植を全米に、という主張がNYTに。2010年の報道については⇒「腎臓がほしければ、他人にあげられる腎臓と物々交換で」時代が始まろうとしている?(2010/6/30)
http://www.nytimes.com/2012/02/19/health/lack-of-unified-system-hampers-kidney-transplants.html?_r=3&ref=health

Oxford大の科学者らが、ドナーから取り出した肝臓を移植まで新鮮に保存する装置を開発。最大24時間まで。
http://articles.timesofindia.indiatimes.com/2012-02-28/science/31107035_1_liver-transplants-pig-livers-human-livers

DPI日本会議から「尊厳死」法制化に反対する緊急アピール
http://www.arsvi.com/2010/1202dpij.htm

尊厳死宣言書(リビングウィル)作成相談サポートを謳っている行政書士さんの事務所名が「家族愛法務事務所」。『延命措置の拒否』を医療機関へ、『人の本質の最高峰』 である『ありがとう。そして、愛してる。』を のこされる愛すべき家族へ:なに、この意味不明な文章は。だから家族愛って、気持ち悪いんだよ。
http://www.kazokuai.jp/

家族介護者の医療感、道徳観によって、植物状態の患者の代理決定がどのように影響されるかというドイツの質的調査。:これは一度ゆっくり読みたい。
http://jme.bmj.com/content/early/2012/02/27/medethics-2011-100373.full.pdf+html?rss=1

FENが言論の自由訴訟で勝利したGA州では、自殺幇助を明確に違法とする法案が下院の委員会を通過。:いいぞ。
http://www.gpb.org/news/2012/02/28/assisted-suicide-bill-moves-forward

27日の朝日新聞「カオスの深淵」に出ていた「アップルトピア」に関する英文ブログ記事。:富裕層狙いの人工島・微小国家。自由競争論理でビジネスとして国家を運営。「『貧困からの自由』は視野にない」が「カオスの深淵」の締めくくり。
http://www.geneveith.com/2011/08/24/libertarian-micro-nations/ 
http://www.archerytalk.com/vb/showthread.php?t=1554851
http://andrewsullivan.thedailybeast.com/2011/08/libertarian-colony-on-an-island.html

ロンドンのオキュパイのテントが強制排除された。
http://www.guardian.co.uk/uk/2012/feb/28/occupy-london-camp-police-clearance?CMP=EMCNEWEML1355

英国での社会サービス白書の刊行を前に、NHS Confederation, Age UK、地方自治体協会が作る Commission on Imporoving Dignity in Careから中間報告。独居高齢者が福祉サービスなしに放置されている実態が明らかに。
http://www.guardian.co.uk/society/2012/feb/29/care-older-women-delivering-dignity?CMP=EMCNEWEML1355
http://www.guardian.co.uk/society/2012/feb/29/dignity-in-care-report-staff-selection?CMP=EMCNEWEML1355

英国NHSにはさらなる配給医療の拡大が必要?
http://www.guardian.co.uk/politics/2012/feb/27/nhs-treatment-rationing-gp-warning?CMP=EMCNEWEML1355

米国でもERで歯科医療を受ける人が増えている。貧困の拡大はそのまま医療格差の拡大。
http://hosted.ap.org/dynamic/stories/U/US_MED_DENTAL_ER?SITE=NCKIN&SECTION=HOME&TEMPLATE=DEFAULT

階級社会の英国で、階級が上の人ほど行動が利己的との調査結果。:昔は違っていたのかしら。ノーブル・オブリージュなんて、もうネオリベ文化が死語にしてしまったのかな。あ、なんだ、それを装って旨い汁を吸ってるのがネオリベ慈善資本主義か。ショーチョ―的。
http://www.guardian.co.uk/science/2012/feb/27/upper-class-people-behave-selfishly?CMP=EMCNEWEML1355

Bill Gatesがエネルギー研究にもっとゼニ出せ、と米政府に向けて。
http://gigaom.com/cleantech/bill-gates-the-lack-of-energy-funding-is-crazy/

Bill Gates, IT革命で食べ物を変え、農業を変え、飢餓を「治療しよう」と。
http://naturalresourcereport.com/2012/02/bill-gates-digital-revolution-to-change-food-farming-to-cure-hunger/

Bill GatesのGM農業改革批判が、ちょっと面白いところに出ている。Seattle Times.ここって、アシュリー事件での経緯から推測するに、どう考えてもゲイツ財団の御用新聞なんだけど。
http://seattletimes.nwsource.com/html/opinion/2017612869_guest28ashton.html

HPVワクチンは男児にも、と米国小児科学会。:AAPは、科学とテクノで簡単解決文化と慈善資本主義とのコングロになったのかしら。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/242202.php
http://www.reuters.com/article/2012/02/27/us-hpv-shot-recommendation-boys-idUSTRE81Q0NZ20120227?feedType=RSS&feedName=healthNews

NYTのOp-Edで予防医療批判。
http://www.nytimes.com/2012/02/28/opinion/overdiagnosis-as-a-flaw-in-health-care.html?_r=1&partner=rss&emc=rss

子どもの頃に虐待にあったりすると、遺伝子の発現に影響がある。
http://www.plosone.org/article/info%3Adoi%2F10.1371%2Fjournal.pone.0030148
http://online.wsj.com/article/SB10001424052970204653604577249294233751760.html?mod=rss_Health

黒人は白人よりも寿命が短い。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/242252.php

青年期は成人や児童に比べてスポーツでの脳しんとうを起こしやすい、との調査結果。:科学で解明されることが多いと言われるけど、その知見がむしろ人の活動を制約する結果に繋がっているように思われることの不思議。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/242267.php
2012.03.14 / Top↑
後段は昨日2月28日。

たまたま私がフォローしている方からリツイートされてきた、
知的障害者の地域生活の支援をしておられる方のツイートに
以下のような一節があり、これが頭に噛みついてしまった。

施設入所を希望している保護者から彼の地域生活を守りたい。
施設送りの為に働いてはいない。


思わず血がのぼった頭を冷やそうと思って、
いったんPCを離れて、お昼ごはんを食べてみたのだけど、
頭の中で反論の独り言がどうにも離れなくなった。

で、熱くなった頭のままで、つい連続ツイート。

「よりあい」の下村恵美子さんが、「あれは自分ではなかったか」という本に収録された講演で:通所で来ている昼間だけの、つきあいの時は、家族の余裕のなさを、なかなか理解できないこともあります。泊まりでそういう夜を自分が体験すると(略)「次々に大変なことが起きて、長いことようつきあいんしゃったですね」って、心から共感して、家族に言えるようになりました。

下村さんは、苦しい夜勤を耐えられるのは明けない夜はないと知っているからだと言い、早出の職員がやってきた気配に救われると書いている。家族の介護では救いになる早出の職員はやってこない。それは明けない夜を繰り返すということ。

人はみんなそれぞれに固有の環境と固有の人との繋がりの中で、固有の歴史としがらみといきさつと事情を背負い、その中の誰彼との相互の恨みつらみやゴタゴタに絡みつかれて暮らしている。その固有の現実からスタートせず、「これが正解」からスタートして「支援」になるわけがない。

「親から守る」と敵対するのではなく、そこまで追いつめられ限界を感じている親を理解し支えながら、本人と親とも一緒に解決を探るといった姿勢にはなれないものでしょうか。何年間また日々の何時間その人と関わってきたのかしらないけど、「自分だけが支えている」姿勢は「支援者」の傲慢では?

固有の事情が状況に目を向けて丁寧に考えるべきところで、「施設は絶対悪」「施設に入れようとする親は敵」から、まず姿勢を固めてかかるのも、私には一種の思考停止に思える。

……と、「施設」「親は敵」にまた過剰反応している私。


その後も頭の中の独り言は止まらず、
ものすごい量の思考の断片が豪雨の後の濁流みたいな勢いで流れ続けたのだけど、
コーフンしているものだから、あまり記憶に留まっていなくて、
そのうちのごく一部を、

・親もその人の地域生活を一緒に支えているのではないのでしょうか。
 親も支えているのに、その事実が全く念頭から消えているのは、
親はやって当たり前と思われているからなんでしょうか。

・私だったら、こんなふうに何かの時には「親から守る」と
敵対の目を向けられるような事業所には、とても子どもを通わせる気になれない。
苦しんでおられるところに、こういう冷たい視線を浴びせられる親御さんが気の毒でならない。

・障害者運動が、「親という存在」に対して警戒の念を持っているのは理解できる。
だけど、それは目の前の個々の親である一人ひとりの人間を敵視してかかることや
施設入所を希望するか自立生活を目指すかによって個々の親を仕分けてかかることと同じではないはず。

・親にとっては、目の前で起こっている事態というのは常に
子どもが生まれた時を起点に、その後の長い年月にあったあれやこれやの先に
さらに追加されてくっついて起こっていることなんだけれど、

専門家は、目の前で起こっている事態だけを単独で問題にする。
または、自分が親子と出会った時に親子がそこで初めて地球上に発生したかのように、
自分が関わるようになった時を起点にものを考える。

自分が出会うまでに親子がどういう道をたどってきたかまで
想像力を及ぼして考えてみてくれる専門家はとても少なかった。

そして、その想像力を及ぼしてくれる数少ない専門家からしか、下村さんのような
「よくここまで来られましたね。よく頑張ってこられましたね」という心からの共感は出てこない。

・想像力のないところに共感はない。
想像力のない人には人を助けることはできない。
共感がなければ信頼関係は作れない。

・親が施設入所を望むのが気に入らないなら、
あなたの事業所で支援してきた子どもの親が施設入所を希望しているのだから、
あなたがやってきたはずの支援がもしかしたら十分ではなかったのでは、と
これまでのやり方を振り返ってみようとするつもりはないの?

・それとも、もしかして、この人はとても若いの?
単に未熟な職員さんが気負いこんでいる、というだけ?

・医師は治療が思うように行かないと、どこかで「この患者は○○だから」と言い始める。
学校の先生は生徒がいつまでも自分の思うようにならないと、
いつか「この子の親が○○だから」と言い始める。
「支援者」を名乗る人たちも、結局は同じなんですか?
障害のある子どもの親は、そういう専門家の
結局は「自分のプライドのため」には、ほとほとウンザリなんですけど。

・「施設送りの為に働いていない」も、結局のところ
あなたにとって最も大切だと意識されているのは自分の仕事のスタンスであり、
自分のプライドなのでは? 

・自分たちが支援するのは本人であって、
親に支援は必要ないという意識をそこに感じるのですが、それは一体なぜ? 

・親の支援を考えると、そこに本人の利害との相克が生じるからですか?
家庭の成員のそれぞれの利害には当然のこととして相克がありますが、
障害者を支援する人は、本人以外の事情も権利も利益も丸無視して、
ただ本人の代弁者となるべきだからですか?

・親に代弁するなといいながら
なぜ支援者と名乗る人なら代弁できるのですか。

・もしも、自分たちのことを勝手に決めるな、と訴えてきた障害者運動が
地域生活だけが普遍的に正しくて「施設送り」は絶対悪だというなら、
それもまた、他人がそれぞれ自分の暮らし方について考えたり決めたりするべきところで
勝手に決めていることにはならないのですか?


以上は、まぁ、感情的な反発から頭に浮かんだ
ほとんど言いがかりレベルの断片たちですが、

そんなこんなを考えた先に出てきたのが、
今日、「くつした泥棒」のエントリーに
yaguchiさんから頂いたコメントへのお返事に書いた、以下。

その前のコメントからのつながりで。

Y:「誰ひとりとして自ら望んでそこで暮らしているわけではない施設」なんですよね。幾度も児玉さんの『アシュリー事件』のレビューブログに書きたくてトライしていたのですが、下書き書いては消して書けなかった。自分がその施設に勤めていた人間として書けなかった。

S:yaguchiさん、読んだ瞬間、どばっと涙が……。yaguchiさんも赤剥けでヒリヒリする傷と正面から向かい、自分でそこに手を突っ込んで書きまわ すようなことをしておられる。私もそこのところの果てのない自問が苦しくてならない。「アシュリー事件」を書き、新たに障害学の周辺の方と出会いをいただ いたことから、問いが深まり、余計に苦しくなってもいます。

S:でも、私はその問いに苦しみながら、施設でのミュウの生活を守り少しでも良いものにするために、目の前の具体的な問題解決を目指して微力ながら闘ってもい る。ミュウの施設のスタッフだって、みんなその人なりに闘ったり努力してくださっていると思う。現にそこに生きて暮らしている人がいるのだから、施設をよ り良い場所にする努力も必要だし、その努力をしている人やその人たちの努力が否定されることもないはずだ、と思うのです。この頃。

S:だから、「施設なんて、どうせ何もかもダメだよね」とか「養護学校だから、どうせ分かっていないよね」と全否定してかかってもいいんだ、最初から叩く構え で捉えていいんだ、という論調には、その逆も含めて加担したくない。たぶん実際に自分に課すとしたら案外に難しいことなんだろうと思うけど、そんなことを 最近、強く感じてもいます。

Y:若いころにM新聞のある記者の方(おそらくいまは論説委員をなさっている)のあるML上での(私からしてみれば)一方的な施設批判、施設イコールすべて悪 の論調に、若気のいたりでDMを出し、すごいやりとりとなってしまったことがあります。それが退職したいまでもトラウマになっていて、施設イコール悪論者 とはやりとりできない状態で、私はその手の論戦にはもうついていけなくなってます。施設はある時点で完全に脱施設論に完敗しているわけで、必要悪として 残っているだけなのでしょう。とはいえグループホームの現状もspitzibaraさんが昨日アップされたところにあり、結局携わる人が問題なんだ。「精 神ある道徳」ということが求められることにおいては施設サービスも在宅サービスもある意味それは同じ、と思うところにいます。

S:私もその問題で昨日つい熱くなっていくつか思い切ったツイートをしてしまったので、取りまとめエントリーを立てようと思っています。ある時代に「親が一番 の敵だ」と鮮やかに声を上げた日本の障害者運動の先駆性は素晴らしいと思うけれど、そこから親との関係を前向きな方向に再構築していくのでも、様々な障害 像の人たちへと想像力を広げるのでもなく、今は一部の支援者までが仲間内で「施設は絶対的に悪だよね」「親は敵なんだよね」と立場が共有されている居心地 の良さに安住して、思考停止の正当化に使っているんじゃないか、という気がしてきました。


最後のところで書いたことについては
ずっと前に以下のエントリーでGKチラベルトさんとのやり取りの中で
そういうことがちょっと出てきた記憶があるので、その後、行ってみました。

親の立場から、障害学や障害者運動の人たちにお願いしてみたいこと(2010/3/12)

たぶん、ここだと思う ↓ 

安易に正義の立場にいようとする、その後の障害学者も、障害者運動も、彼らを正義に奉り(彼ら自身は正義を否定したのに!)、その錦の御旗の下にいるだけで、彼らの地平には、全く達していないんです。
(「彼ら」とは当時の青い芝の会)


それにしても、もう一度GKチラベルトさんのコメントを全部読み返してみると、
この当時の私には、GKチラベルトさんが言っておられることがよく分からず、
分かったふりで応対しているだけ。

ここしばらくのツイッターでの煮詰まって焦げ付きそうな密度のグルグルを経て、
GKチラベルトさんが言っておられることの一部は、今度はすっすっと理解されてきた。
が、もちろん、まだ私には学びが足りない。たぶん親としての煩悶も思索も覚悟も足りない。

でも、深くものを考えることもせず「親から守る」などと安易に言える人にも、言いたいことがある。

あなたたちが苦しんできたからといって、あなたたちが闘ってきたからといって、
そのことが、あなたたちに人を断罪する資格を与えるわけじゃない。
2012.03.14 / Top↑
ここしばらく、
たまたま身近で交わした会話やその他あれこれから、
ミュウを施設へ入れてしまった親としての自責を巡って
ツイッターで過剰反応をしているので、

あまり感心した内容でもないのだけど、
今後もうちょっと冷静になって生産的に考えられる日のために、2段に分けて、メモ。

まずは前段の2月24日

私が一番苦しかったミュウの幼児期というのは、今から20年も前。田舎のことで、ヘルパーといえば市全体でもまだ20人数人だとか聞いたし、みんな高齢者 向けだった。ショートステイもなく、親の病気と冠婚葬祭だけに認められる緊急一時保護制度があっただけ。

施設に緊急一保利用登録する時、施設の担当者から「ミュウちゃんを預かるために職員が増やせるわけではないので、そこのところを分かっておいてもらわないと」と暗に「登録はしても、よほどのことでなければ利用するな」と釘を刺されたのを覚えている。基本的には1週間だったと思う。

その後、母親が限界を超えているのに気付いた主治医の計らいで2週間の「短期的な入所」をさせてもらったけど、その時にはまだ「短期入所」が制度になっていなかったような気がする。制度になってはいても、使うことを考えにくい時代だったのかもしれない。

その後その施設に入所となって今に至っているので、私にはこの間の時代の変遷が全く分かっていないのだ、ということに今日初めて気づかさせてもらった。頭で分かったつもりでも自分の体で知らないとは、ここまで分かっていないということ。人と話すって、やっぱり大事だなぁ。


これをツイートした直後、思いがけず、ある方から返信をいただいた。

とても温かい内容で、
親として苦しんでいる私の思いに、
同じ親として手を差し伸べてくださっていることが伝わってきて、
読んだ瞬間に、胸に熱いものが込み上げた。

特に、今その方が知的障害者の地域生活のために
どんなに奔走しておられ、お忙しいかということもツイッターで知っていただけに、
その合間に、こうしてコメントくださったことが、なおのこと胸に沁みた。

ただ、レスポンスをまったく想定していなかったこと、
私には行動を起こせと迫られているように感じられてしまったこと、
その方が本人の自己決定を重視しておられることから、
重症知的障害と重症重複障害での自己決定の問題の差を
どう説明したらいいか、どうにも途方に暮れ、

同時に、ずっと頭にぐるぐるとしていた自責がどっと募ったものだから
一瞬で惑乱してしまった。

たぶん、その方が言われていないことまで言われているかのように感じて
独りよがりの激白めいたツイートになってしまった、私の部分のみを以下に。

ありがとうございます。お気持がありがたくて胸に迫るものがありました。ただ、その方向に頭を振り向ける前に、私の中にも整理しなければならないものが沢山あって、整理すればその方向に向けるのかどうかも分からないまま、今はただ引き裂かれている状態です。

このことを考えようとすると、私自身が「正しくない」と指差されることの痛みと、重症重複障害について「頭で分かったつもりでも自分の体で知らないとは、ここまで分かっていないということ」ということに気づいてもらえない痛みの間で、真っ二つ。

どうにも言葉にできない思いや、言葉にしても通じていかない思い、「正しさ」の前に跳ね返されてしまう言葉や思いで窒息してしまいそうになる。考えるだけでも苦しくてならない。正直、断罪もされず何を迫られることもなしに、考えたいです。

他意はなく、私自身のグルグルをそのままつぶやくものです。「いずれミュウが決める」ということを考えた時に、頭にまずパッと浮かんだのは「ミュウが死 ぬ」ということだった。それほど、「重症身体障害のみ」「重症知的障害のみ」「いずれかが軽度の重症重複」と「重症心身障害」との距離は大きい。

それとは別に、今日、拾った問い。「ヘルパーを入れれば解決するのか」。それはヘルパーと訪問看護でも同じ。

だめだ。とりあえず、明日の朝からミュウといい時間を過ごすことに専念する。


実際、ミュウと一緒に過ごしていると、
この子も親も、こうして生きている。
今は笑顔で過ごせている。それでいいじゃないか、と思えたし、

他人の誰にも分からなくても、
今こうして生き伸びて、ここに生きているだけで
自分を許してやってもいいくらいのところを、かろうじて通り過ぎてきたんじゃないか、
今はこうして生きている自分を許してやろう、と考えてみたりもした。

その他にも、あれこれがあって、
この件では、週末の間に心がすうっと楽になった。


次のエントリーに続きます。
2012.03.14 / Top↑
2005年2月11日に石川県で起きた
グループホームのスタッフによる利用者への虐待致死事件を受けて、
7月に東京と大阪で開催されたセミナーでの、

下村恵美子、高口光子、三好春樹3氏の講演内容をまとめた本、

「あれは自分ではなかったか グループホーム虐待致死事件を考える」
下村恵美子、高口光子、三好春樹、ブリコラージュ


いろいろ考えたこと、書きたいこともあるのですが、
ちょっと余裕がなく、図書館への返却期日も迫っているので、
特に家族介護者・介護者支援に関係した部分を中心に、メモとして。
(ゴチックは全てspitzibara)

まず、前書きで三好春樹氏が、
この事件に関する報道のなさや事件への介護職の沈黙について書いた後で、
次のように書いていることが印象的だった。

 さらに言うと、その深層には、痴呆性老人は生きていても意味のない存在だ、という無意識があると思います。
 なにしろ「尊厳死」を訴える人たちが「尊厳死」してほしい状態として「痴呆」を挙げていたくらいです。これは抗議によって撤回されましたが、そう考える人は多いはずです。
 もちろん私たち介護関係者はそんな考えは論外です。なぜなら痴呆性老人に「尊厳死」ではなく、「尊厳生」を作りだす方法論を持っているからです。
(P.5)


【関連エントリー】
「米国で認知され始めた『介護の力』を書きました(2011/3/5)
「生きるに値しないから死なせて」家族の訴えを、介護士らの証言で裁判所が却下(2011/10/4)


以下、下村さんの講演から。

トイレももちろんなんですけど、「寝らんボケ」ほどつらいものはありません。寝ないお年寄りにつきあうことで、みんなほとほと疲れ果てるわけです。家族もここでほとんど限界がきます。
(略)通所で来ている昼間だけの、つきあいの時は、家族の余裕のなさを、なかなか理解できないこともあります。
 泊まりでそういう夜を自分が体験すると、ご家族が冷たい目でお年寄りを見ていることがあっても、「次々に大変なことが起きて、長いことようつきあいんしゃったですね」って、心から共感して、家族に言えるようになりました。そういうふうに、誰からも言ってもらったことがない介護者が多いわけです。
(略)
 たった一人で介護し続け、孤立し、立派な介護者であることを求められる家族。逃げ場のない家族ほど、同じ立場を共有し、共感してもらえる人がいることで救われます。それは仕事として取り組んでいる私たちが替われることではありません。当事者としての「家族の会」が担える役割であり、その存在意味はとても大きいと思います。
(p.21-22)


私もミュウの施設入所を決断する時に、
師長さんから「いままでよく頑張ってきたね。
これからは一人で頑張らなくてもいいよ。一緒にやろうよ」と言ってもらい、
「やっと許してもらえた……」と何年もの間に凝り固まった心のこわばりが
温かく解け出していくのを感じた。

それまで、誰からもそんなことを言ってもらったことがなかった。


 夜に眠らないと人はおかしくなります。自然の体のリズムに逆らい、起き続けているわけですから。お年寄りだけではなく、職員も同じようにおかしくなっていきます。私はいっしょに右往左往しながら、朝が来るのを本当に待ち焦がれて、しらっと明るくなってくると、「ああ、よかった、朝が来た」という思いを何度もしました。早出の職員が来た物音に救われ、気持ちを切り替えることができます。
 明けない夜はないと言われますけれど、確実に朝が来ることがわかっているから夜中の仕事を乗り切れているように思います。夜の仕事がどれだけしんどいか。睡眠がとれないということは、人を狂わせていくんです。先ほどの3日寝ないと殺人が起こせるという家族の言葉はとても真実味があります。人生を共にし、なくてはならない大切な家族であっても、眠れない夜が続き余裕がなくなれば、普通でいられなくなるわけです。ましてや、赤の他人である私たちの理性など、まったく、当てにならない、もろいものです。
(p.26)


これだけは、直接我が身で体験した人でないと分からないだろうと思う。

それだからか、世間サマは
「2日でも3日でも寝ずに優しく看病する母親の深い愛」などとウルウルしながらホザく。

一生のうちに1度か2度なら、それだってできるかもしれない。
そういうことが毎週のように続いても、やり続けられる母親が、
一体どこにもいるというのか。

その時には、世間サマだけでなく母親自身までが
それができない自分を責めることになるというのに、
その残酷がどうして顧みられないのだろう?


最後に下村さんが紹介した谷川俊太郎の詩「願い」の、
以下の一節に、胸をえぐられた。

全世界が一本の鋭い錐でしかないとき
せめて目をつむり耐えてください
あなたも私の敵であるということに

(p/39)


高口さんの講演から。

 臭い、汚い、わずらわしいと感じるのはあるがままの自分の姿です。そのことが語れないのでは困るのです。あるがままの自分を語れるのは、受け入れてくれる仲間がいるからです。あるがままの自分を語ってもよい職場が前提にあるので、臭い、汚い、わずらわしい、と言うことが言えるのです。
(p.57)


もちろんそれだけがすべてではないけど、
介護は誰にとっても時にしんどいものなのだという事実を
世の中みんなが事実として共有してくれたら、
世の中の介護者はどんなに救われるだろう、と、いつも思う。
2012.03.14 / Top↑
医療倫理のジャーナルに
イタリアの学者さん2人の共著で
乳児の障害の有無を問わず「出生後中絶」を正当化する論文。

After-birth abortion: why should the baby live?
Alberto Giubilini, Francesca Minerva
Journal of Medical Ethics, February 23, 2012

アブストラクトは以下。

Abortion is largely accepted even for reasons that do not have anything to do with the fetus' health. By showing that (1) both fetuses and newborns do not have the same moral status as actual persons, (2) the fact that both are potential persons is morally irrelevant and (3) adoption is not always in the best interest of actual people, the authors argue that what we call ‘after-birth abortion’ (killing a newborn) should be permissible in all the cases where abortion is, including cases where the newborn is not disabled.

中絶は胎児の健康とはまったく無関係な理由であっても広く受け入れられている。

そこで以下の3点を指摘することによって、著者らは
新生児に障害がない場合も含め、中絶が許容されるケースのすべてにおいて
「出生後中絶(新生児の殺害)」が認められるべきである、と説く。

(1) 胎児も新生児も共に実際の成人と同じ道徳的地位を持たない。
(2) いずれにも人格となる可能性があるという事実はこの問題と道徳的には無関係である。
(3) 養子縁組は必ずしも実際の関係者の最善の利益とは限らない。

(actual personの細かいニュアンスが分かりません。
どなたかご教示いただけると幸いです)


この論文について、BioEdgeのMichael Cookが取り上げている ↓
Ethicists give thumbs-up to infanticide
BioEdge, February 25, 2012


Cookの解説によると、著者2人は功利主義の倫理学者で、

上記アブストラクトの結論部分に当たる本文では、
以下のように書かれてもいるとのこと。

Such circumstances include cases where the newborn has the potential to have an (at least) acceptable life, but the well-being of the family is at risk.

このように許容される状況には、新生児には少なくとも許容範囲の人生を送りうる可能性があるが、家族の福祉が危うくなるケースも含まれる。


新生児の利益ではなく、関係者の利益のために行われるものなので
出生後中絶は安楽死ではない、とも著者らは明言。

私もすぐにこれを思ったけど、
「こんなの“すべり坂”じゃん」との批判に対しては
中絶の正当化論をそのまま新生児に拡大すればこうなる、と主張し、

「じゃぁ、出生後どれくらいの期間なら殺してもいいと?」との問題には
神経医学や心理学に下駄を預けつつ、

自意識が生じる数週後に新生児は
「パーソンになる可能性」から「パーソン」になる、とも。


いつも思うのだけど、
倫理問題の最先端の問題が議論されている時に、
その議論の決着が既に着いたかのように装って、
さらにその先の問題を先取りして提示することによって
ゴリ押しに倫理の線引きを先に移動させてしまおうとするのが
功利主義の学者さんたちのヤリクチ……?

「障害があるという理由だけでなく
障害がなくても親や家族の利益のために殺してもよい」と説く人が出てきて、

その人たちが提示した問題が
そこに提示された形で議論に持ち込まれることによって、
そこでは、「障害のある新生児は殺しても構わない」が
未決着の議論から結論を先取りする形で前提されてしまう。

ちょうどSavulescuらの説く「臓器提供安楽死」が
今だに合法化されていない国が大半である積極的安楽死を勝手に前提にして
「今でも安楽死は認められているのだから」と正当化されるように、

また「重症障害児にしかやらないのだから構わない」と正当化される成長抑制が
「重症障害児はその他の障害児とは倫理検討を別扱いして構わない」を
検証されないまま結論先取りで前提し、議論を進めることによって、
その議論が前提を既成事実としていくように。

慎重な議論によって、ギリギリの折り合いが見つけられ、
危ういバランスを保っているような難しい倫理問題を、
「今でもどうせ(実はごく一部またはグレー・ゾーンでのみにせよ)やっているのだから」の
「どうせ」論で、ドヤドヤと無神経に無造作に、さっさと先へ進めていこうとするなら、

それは正に「すべり坂」以外の何でもないじゃないか、と思う。

そして、こういうことを言う人たち、
ここで提示した議論が十分に尽くされない内に
きっと次には言い始めるんでは?

「そうして殺した新生児からの臓器提供や研究利用を認めよう」って。
2012.03.14 / Top↑
Journal of Medical Ethicsにイタリアの功利主義者2人の共著論文で「出生後中絶」の正当化論。一人はSavulescuと同じウエヒロ実践倫理センター所属。
http://jme.bmj.com/content/early/2012/02/22/medethics-2011-100411.abstract
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/9950#comments

FEN事件でFENのボランティアの幇助で自殺した男性の未亡人が起こしていたロングフル・デス訴訟で、FEN側と和解。
http://www.wrcbtv.com/story/17004030/ga-widow-settles-lawsuit-against-suicide-group

「ヤセ薬Quexa、13歳から認可を」と連邦諮問委員会がFDAに勧告。
http://www.nytimes.com/2012/02/23/business/fda-advisory-panel-backs-diet-drug.html

ちなみに、Qnexaについては、2011年8月9日の補遺で ↓

時間差で phentermine と topiramateが効いていくQNEXAというカプセル薬を飲むと、食欲が減退して、肥満や糖尿病、睡眠時無呼吸症候群の人でQOLが有意に上がった……って。:あの~、フェンタミンって向精神薬だったんでは……? 【追記】検索してみたらトピラマートって、抗てんかん薬だった!
http://www.medicalnewstoday.com/releases/232383.php
【その他、関連エントリー】
NHS新たにヤセ薬を解禁(2008/7/9)
6月解禁のヤセ薬、精神障害起こすと早くも販売中止(英)(2008/10/25)
EUがヤセ薬を解禁、「誰の最善の利益」?(2009/1/31)


メキシコの科学者らがヘロイン中毒ワクチンを開発中。マウスで効果を確認し、これから人体実験の段階で、米国ではすでに特許取得済み。接種すると、ヘロインを打っても快感を得られなくなるんだとか。
http://www.reuters.com/article/2012/02/24/us-mexico-heroin-idUSTRE81N01I20120224?feedType=RSS&feedName=healthNews

子ども向け混合ワクチンに熱性けいれんのリスク。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/241961.php

途上国の飢餓対策やイノベーションに絡めてBill Gates農業改革に発言しきり。
westernfarmpress.com/management/gates-says-future-begins-revolution-agricultural-productivity

ゲイツ財団が、干ばつ耐性のある穀物開発、家畜向けワクチンや技術研究などに2億ドルを約束。
http://www.guardian.co.uk/global-development/2012/feb/24/bill-gates-smallholder-farmer-productivity?newsfeed=true

ビル・ゲイツが途上国の農業改革で国連のFAOを批判。:これまでに既に20億ドル出し、今後5年間にさらに20億ドルを出すと言っているからこその発言力。
http://ibnlive.in.com/news/gates-attacks-outdated-un-food-agencies/233407-70.html

前にも補遺で拾った栄養を強化したバナナの開発、ゲイツ財団と組んでいるのはオーストラリアのクイーンズランド大学。:HIMEのMurrayとのつながりも強いしね。
http://www.freshplaza.com/news_detail.asp?id=93189

栄養強化バナナと並んでビル・ゲイツが力を入れているのが、途上国向けトイレのイノベーション。
http://www.businessinsider.com/bill-gates-makes-progress-on-reinvented-toilets-2012-2

NYTのビデオと記事で、囚人の高齢化で認知症患者が増加。CA州の刑務所では重罪の囚人に研修を受けさせて介護を担わせている。
Dementia Behind Bars: Dementia is a fast-growing phenomenon in prisons that many are not prepared to handle. The California Men’s Colony is using convicted killers to care for inmates who can no longer care for themselves.
http://video.nytimes.com/video/2012/02/25/health/100000001367225/dementia-behind-bars.html?nl=todaysheadlines&emc=thab1

抗精神病薬の中には認知症患者に命の危険を伴うものがある。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/242094.php

米国の大学生は血液や遺伝子などをバイオ・バンクに提供することに抵抗を感じていない。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/241987.php

養子関係腎臓移植5例、問題なかったと学会。:移植学会だもの。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20120215-OYT1T00286.htm

人体の不思議点訴訟:原告の訴え棄却地裁「嫌悪感は主観的な感情」/京都。
http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20120217ddlk26040420000c.html

【関連エントリー】
死体の展覧会(2008/2/22)
「人体の不思議展」中止要望書への緊急署名(2008/5/5)
2011年5月30日の補遺
2012.03.14 / Top↑
ミュウを送っていって、
詰め所で看護科の男性職員Aさんとしゃべっていたら、

その人が急に何かを思い出して、一人で大笑いしながら
「この前、ミュウちゃんが思わず『ど』って言いそうになってね~」。

これまで重症心身障害者も入所が認められていたので(この春から制度が変わるが)
ミュウが暮らしている重症心身障害児施設にも様々な年齢の人がいる。

ミュウとちょうど40歳ちがうBさん(男性)は
身体障害と知的障害が重複しているが、その他の入所者に比べるとさほど重度ではない。
言語障害もあるが、慣れれば全く理解できないことはない。

容貌がたいそう渋く「無口で気難しい大工の棟梁」タイプであるうえに、
しゃべる時にはなぜか必ず怒ったような口調で怒鳴るので
ちゃんと知り合う前だと、かなり本気で怖い。

が、実は毎日どこかに赤いものを身につけないと機嫌が悪いとか
若い女性職員にはめっぽう甘いなど、可愛げのあるオモロイ人である。

入所した時からミュウのことをずいぶん可愛がってくれて、
小さい頃はよく抱っこしてくれていた。

ミュウが帰省して夕食時にいないと
「“ちっこいの”はどうした?」と、よくスタッフに聞いてくれるらしい。

デイルームでミュウが「番組替えて~」とか
「DVD見たい~」などとスタッフを相手にワガママを言っているのを
Bさんは時々、遠くから目を細めて見ていたりもする。

私たちがミュウを迎えに行くと、
車いすに乗ったBさんと玄関あたりや廊下で会うことがあり、そんな時Bさんは、
「ぎゃっじっ!」と私たちに向けて大声で激しく怒鳴る。

親切に「ミュウなら、あっちにいるよ!」と
指差しながら教えてくれるんである。

とはいえ、ミュウが4年前に成人を祝ってもらった時に
一緒に還暦を祝ってもらったBさんは、さすがに最近は弱ってきて、
デイルームでみんなと一緒に過ごすことが多くなってきた。

そんなBさんが
知的な刺激の不足からか年齢ゆえか、両方からか、
時々ぼ~っとするようになったことを
看護科の幹部職員であるAさんは心配しているのらしい。

ぼ~っと停止状態になっているBさんに気付くと、
そっと近付いていって、靴下をひっぱってやるのだそうだ。

ツンツンと引っ張りながら靴下を少しずつ脱がしていくと、
Bさんは、はっと、いつものBさんに戻り、
抵抗しつつ、「ごらぁ、どどぼー!」と大声で怒鳴る。

そういう2人のやりとりが繰り返されるのを、
ミュウはいつも興味しんしんで眺めているのらしい。

ついには、
ぼ~っとしているBさんに気付いたAさんが、
こそ~っと近づいていくのを見ると、

これから何が起こるかを予想して
ミュウの方が先に胸を弾ませてしまった。

目は、Bさんの脚に伸びるAさんの手に釘付けで
ミュウはワクワクを募らせていく。

Aさんもミュウのそんな視線を意識しながら、
ついにBさんの靴下の先を掴んだ……その瞬間、

ミュウは募る期待がピークに達し、
思わず「どろぼー!」と……

言葉を持たないミュウが、
その瞬間、本当に「ど」と言いそうだったのだという。

いや~、もうちょっとでミュウちゃんが「ど」と言うところでした。
本当に言うかと思いましたよ~。

Aさんが大笑いしながら語ってくれる。

ねー、ミュウちゃん、
「どろぼー!」って、思わず言ったんだよね~。

ミュウはそれにニヤニヤ顔で応えていた。


誰ひとりとして自ら望んでそこで暮らしているわけではない施設の、
なんてことない普通の生活の一場面――。
2012.03.14 / Top↑
もう10年以上前から、年に数回、
県北の町へ”独りドライブ”に行っている。

ミュウを施設に入れてしまった罪悪感と闘いながら、
人間としての機能停止状態 から回復途上だった頃、
夫に「仕事でちょっと遠くへ行くけど、ドライブがてら乗ってく?」と連れだされた。

その町には、山があり、田んぼが広がり、川が流れていて、

その川沿いの、ポツポツ花を開きかけた桜並木の下に車を止めて、
コンビニで買ったおむすびを2人で食べた。

しばらくして、
あの桜が満開になったところを見たいと思い立ち、
それまで一人で運転したことのない道と距離を、
ずっと心臓をバクバクさせながら運転して行った。

県北の桜はもう満開を少し過ぎていて、
川沿いに車を止めてドキドキが収まるのを待ってから、
桜吹雪の中で、タッパーに詰めてきた前の晩の残り物を食べた。

それから年に何回か、ふいと思い立っては通っている。

行くたびに距離が延び、そのうちに、
お気に入りのCDと、気が向けばカメラを積んでいくことを覚えた。

山肌を霧がまるで巨大な生き物のように這い伝う姿に
息を飲んで見入った日があった。

国道沿いには毎夏、
真っ赤なサルビアのプランターがずらっと並ぶし、

ここを行くと、
正面の山がパワフルな緑にわんわんと燃え立って迫ってくるんだ……と、
夏にはいつも期待に胸を躍らせて曲がる大きなカーブがある。

文字通り黄金色のカーペットになって、ゆさゆさと波打つ田んぼも、
稲刈りが終わると、ずらりと整列した稲藁の三角帽子が可愛らしい。

寒暖の差が大きかった秋には、紅葉があまりに豪華で、
山が目に入った瞬間に熱いもの込み上げてきたことも。

もちろん、あの川沿いの桜並木は、
いつ行っても、その季節ごとの風情を漂わせてくれる。

そんなふうに何度も何度も通ううちに、美術館や博物館のありかを知り、
お昼のメニューも、コンビニのおむすび+デザート(某観光名所の見晴らしの良い駐車場で食す)、
絶品ラーメン、美味しいパスタ、たまにちょっと贅沢な美術館のレディス・ランチ……と選択肢が増え、

お昼ごはんの後には
焼き立てパンやフキノトウ味噌やヒレハムをお土産にゲットしてから
ゆったりと満ち足りて、帰途に着く。

あの町へ行こう! と思い立つ時というのは、だいたい
往きのドライブで頭の中に激しい感情ややこしい物思いがグルグルを続けるのだけど、

目の前がドーーン!と開けていて
山があって、田んぼが広がり、そこに川が流れている景色は
行くたびに鮮やかで、なにやら懐が深く、

その景色の中を走り続けているうちに、いつのまにか心が平たくなっている。
行き詰っていた仕事や問題が、不思議なことに帰り道では必ずふいと解ける。

川沿いの桜吹雪の中で残り物のお弁当を食べた10年以上前のあの日から、
それまでは何の縁もゆかりもなかった遠い町を、
そんなふうにして数えきれないほど訪れてきた。

今では、私の幾多の喜怒哀楽を見知ってくれている、
自分の布団の中みたいな、親しく懐かしい場所だ。

あの遠い日に車の中に座っていた自分を思うと
今でも胸の奥がちょっとジンとなるけれど、

長い年月を経た今、
そういう場所が自分にあることを、何よりの幸せだと思う。
2012.03.14 / Top↑