あ~あ。
そういう結果になるんだろうなぁ、と予想はしていたけど、
タイトルを見たとたんにがっくりきて、
記事をしっかり読む元気が出ないので
取り急ぎのご報告のみ。
タイトルを見たとたんにがっくりきて、
記事をしっかり読む元気が出ないので
取り急ぎのご報告のみ。
住民投票で賛成58%、反対42%。
【追記】
その後、気を取り直して、
記事の中の主だった部分を以下に。
記事の中の主だった部分を以下に。
いままでのところ、Oregon以外では自殺幇助の合法化は認められておらず、
California、Michigan、Maine州で住民投票はNOと出ている。
Washington州でも1991年の投票時には医師による自殺幇助は却下されたが
今回は医師が直接に幇助するのではなく、
医師に処方された薬を自分で飲むという方法に変えられ、
自分で飲むことができない人に医師が投与することは認められない。
致死的な薬物を求めることができるのは18歳以上で、
意思決定能力があるWashington州の住民。
病気の末期であること。
患者は口頭で2回、15日間の間隔を置いて要望することが必要で、
さらに文書の提出も求められる。
文書の提出には証人が2人必要で、
そのうちの1人は親族、後継ぎ、主治医、患者の住んでいる地域の医療職でないこと。
また2人の医師によって、その患者がターミナルな状態にあり
余命が6ヶ月以内であることが証明されること。
Oregonでは尊厳死法の成立からこちら340人が自殺しており、
去年は49人。
その多くはがん患者で、
報告されている最も多い幇助自殺の理由は
自己決定権の喪失、尊厳の喪失、それまで楽しんでいた活動に参加できなくなったこと。
California、Michigan、Maine州で住民投票はNOと出ている。
Washington州でも1991年の投票時には医師による自殺幇助は却下されたが
今回は医師が直接に幇助するのではなく、
医師に処方された薬を自分で飲むという方法に変えられ、
自分で飲むことができない人に医師が投与することは認められない。
致死的な薬物を求めることができるのは18歳以上で、
意思決定能力があるWashington州の住民。
病気の末期であること。
患者は口頭で2回、15日間の間隔を置いて要望することが必要で、
さらに文書の提出も求められる。
文書の提出には証人が2人必要で、
そのうちの1人は親族、後継ぎ、主治医、患者の住んでいる地域の医療職でないこと。
また2人の医師によって、その患者がターミナルな状態にあり
余命が6ヶ月以内であることが証明されること。
Oregonでは尊厳死法の成立からこちら340人が自殺しており、
去年は49人。
その多くはがん患者で、
報告されている最も多い幇助自殺の理由は
自己決定権の喪失、尊厳の喪失、それまで楽しんでいた活動に参加できなくなったこと。
肩入れ(癒着とまでは言わないけど)している辺りの動きになると
地元新聞のクセに自社記事を打たず、
知らん顔してAP記事なんか持ってくる……。
地元新聞のクセに自社記事を打たず、
知らん顔してAP記事なんか持ってくる……。
Ashley事件の時もそうだったけど。
(Ashley事件から透けて見えるSeattle Timesのアヤシサについては
「シアトル・タイムズの不思議」の書庫に。
「シアトル・タイムズの不思議」の書庫に。
シアトルがGates財団のお膝元であることを念頭に
「ゲイツ財団とUW・IHME」の書庫も一緒に読んでいただけると
よりいっそうのアヤシサも……。)2008.11.07 / Top↑
前のエントリー「ない」研究は「ない」ことが見えないだけという科学のカラクリ?を書いているうちに、
頭に引っかかっていながら、どうしても言葉にできず、
ずうっと、もどかしかったAshley療法論争の問題点が
ふっと言葉になったような気がする。
ずうっと、もどかしかったAshley療法論争の問題点が
ふっと言葉になったような気がする。
あの論争の間、私にとって、たいそう苛立たしかったのは
多くの人が「語られること」だけに目を奪われてしまって
「語られていないこと」の存在に気付こうとしなかったこと。
多くの人が「語られること」だけに目を奪われてしまって
「語られていないこと」の存在に気付こうとしなかったこと。
Diekema医師が饒舌に「語る」言葉だけに引きずられ、そればかりを追いかけて
彼が「語らない」ことに耳を済ませることをしなかったこと。
彼が「語らない」ことに耳を済ませることをしなかったこと。
そうして「語られたこと」だけが事実なのだと信じた人たちは、
Ashleyのような子どもたちのことに詳しく直接体験があるために気付くことができる人たちが
「ある」のに「ない」ことにされているものの存在(欠落)を指摘しても、
自分の目には見えないというだけで
または、もはや見たいものだけを見たいというだけの理由から、
それを信じようとしなかったこと。
Ashleyのような子どもたちのことに詳しく直接体験があるために気付くことができる人たちが
「ある」のに「ない」ことにされているものの存在(欠落)を指摘しても、
自分の目には見えないというだけで
または、もはや見たいものだけを見たいというだけの理由から、
それを信じようとしなかったこと。
そうして、「ある」から「見えやすい」し「分かりやすい」情報だけで
多くの人があの事件を理解しようとしたために
多くの人があの事件を理解しようとしたために
どういう情報が「ない」のか、つまり「隠されている」のか
それはなぜ「ない」のか、なぜ「隠されなければならなかったのか」が不問に付されてしまったこと。
それはなぜ「ない」のか、なぜ「隠されなければならなかったのか」が不問に付されてしまったこと。
コトの本質は「ない」から「見えない」情報にこそ隠されているというのは
Ashley事件に限らないのだろうけれど。
Ashley事件に限らないのだろうけれど。
2008.11.07 / Top↑
以下は、文系頭がごく大雑把に考えることなので、
部分的には「違うよ」ということも沢山あるとは思いますが、
ずっと疑問に思っていることなので、
とりあえず、その素朴な疑問のままに──。
部分的には「違うよ」ということも沢山あるとは思いますが、
ずっと疑問に思っていることなので、
とりあえず、その素朴な疑問のままに──。
科学者がAとBの相関を調査・研究するという時には
AとBの間には相関関係があるはずだという仮説をまず立てるのだろうけれど、
AとBの間には相関関係があるはずだという仮説をまず立てるのだろうけれど、
AとBの相関を調べると決めた段階で、その科学者は同時に、
Aに対して実は無限に存在するB以外の組み合わせを無視したことになるわけだから、
Aに対して実は無限に存在するB以外の組み合わせを無視したことになるわけだから、
そのことを踏まえたうえで考えれば、
仮にAとBとの間に相関が見られたとしても
それ以外の組み合わせも関与している可能性は当然あるのだし
一定の制約と条件のもので見られた相関に過ぎないのだから
それは、あくまで1つの可能性であって、それ以上でも以下でもないとするのが
科学的な理解の仕方というか、正しい解釈の姿勢というものなんじゃないんだろうか。
仮にAとBとの間に相関が見られたとしても
それ以外の組み合わせも関与している可能性は当然あるのだし
一定の制約と条件のもので見られた相関に過ぎないのだから
それは、あくまで1つの可能性であって、それ以上でも以下でもないとするのが
科学的な理解の仕方というか、正しい解釈の姿勢というものなんじゃないんだろうか。
だから、「科学者がAとBの間には相関が見られたと言っている」と報道されたとしても
それは「AがBを決める。これぞ科学が証明した真実!」ということではないし、
仮にメディアがそういうトーンで騒いだとしても、
ちょっと距離を置いて「ふ~ん」くらいに受け止めておくくらいで
ちょうどいいんじゃないか、と。
それは「AがBを決める。これぞ科学が証明した真実!」ということではないし、
仮にメディアがそういうトーンで騒いだとしても、
ちょっと距離を置いて「ふ~ん」くらいに受け止めておくくらいで
ちょうどいいんじゃないか、と。
例えば、ワトソン博士が「知能と人種」の間に相関があるはずだという仮説を立てて
仮に「相関があった」という、どこかの「研究結果」を持ち出したとしても、
ワトソン博士はその仮説を立てた時点で、
「知能と背の高さ」とか
「知能と若ハゲ」
「知能と好みの色」
「知能と1日の排便回数」などなど
その他に数限りなくある組み合わせを無視したことになるのだという事実と共に
その研究結果は受け止めたほうがよいものなんじゃないかという気がして、
仮に「相関があった」という、どこかの「研究結果」を持ち出したとしても、
ワトソン博士はその仮説を立てた時点で、
「知能と背の高さ」とか
「知能と若ハゲ」
「知能と好みの色」
「知能と1日の排便回数」などなど
その他に数限りなくある組み合わせを無視したことになるのだという事実と共に
その研究結果は受け止めたほうがよいものなんじゃないかという気がして、
さらに、もしかしたら
「人種によって知能レベルに違いがある」という仮説やどこかの研究結果の信憑性よりも、
ワトソン博士はなぜそんな仮説を立ててみたかったのだろう、ということの方に
考えるべき興味深い問題があるのかもしれないし、
「人種によって知能レベルに違いがある」という仮説やどこかの研究結果の信憑性よりも、
ワトソン博士はなぜそんな仮説を立ててみたかったのだろう、ということの方に
考えるべき興味深い問題があるのかもしれないし、
なぜ、そっちの方が興味深い問題なのかということは
私には科学的に証明することなど出来なくて
もう、「だって洞察ってそういうことでしょう」みたいな
雲か霞みたいな掴みどころのないことでも言って誤魔化すしかなくなるのだけど。
私には科学的に証明することなど出来なくて
もう、「だって洞察ってそういうことでしょう」みたいな
雲か霞みたいな掴みどころのないことでも言って誤魔化すしかなくなるのだけど。
それに、
介護にロボットを使って人手を節約する研究は進んでも、
例えば、人間の看護師が手を握ってあげていた患者と
「患者の手を取り励ます人造の手ロボット」を利用した患者とでは
痛みに耐えられる度合いや回復の度合いが違うのかどうかを調べる研究というのは、
ないか、あっても非常に少ないだろうと思われるのは、
介護にロボットを使って人手を節約する研究は進んでも、
例えば、人間の看護師が手を握ってあげていた患者と
「患者の手を取り励ます人造の手ロボット」を利用した患者とでは
痛みに耐えられる度合いや回復の度合いが違うのかどうかを調べる研究というのは、
ないか、あっても非常に少ないだろうと思われるのは、
きっと商売になる研究には投資する企業があるけど、
商売にならない研究、または商売に都合の悪い結果が出そうな研究には
誰もお金を出さないからだろうし、
商売にならない研究、または商売に都合の悪い結果が出そうな研究には
誰もお金を出さないからだろうし、
……といったことは
本当はゴロゴロしているのだけど、
「ある」ものの情報しか出てこないから、
ただ単に「ない」ものは見えにくくて
特定の研究だけが「ある」のだということが分かりにくくなっているだけなのかもしれず。
本当はゴロゴロしているのだけど、
「ある」ものの情報しか出てこないから、
ただ単に「ない」ものは見えにくくて
特定の研究だけが「ある」のだということが分かりにくくなっているだけなのかもしれず。
だから、多分、いわゆる科学的な研究や調査の結果というものが報道される時には、
そういう背景というか、カラクリというか、いろいろ雑多な可能性も念頭に
「ある」ものの陰で何が「ない」のか
それは何故「ない」のかということにも、ちょっと気を回して
ただ「ある」から「見える」だけの研究結果に踊らされないように
気をつけた方がいいんじゃないのかなぁ。
そういう背景というか、カラクリというか、いろいろ雑多な可能性も念頭に
「ある」ものの陰で何が「ない」のか
それは何故「ない」のかということにも、ちょっと気を回して
ただ「ある」から「見える」だけの研究結果に踊らされないように
気をつけた方がいいんじゃないのかなぁ。
違うかなぁ……。
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