Quelletteの“BIOETHICS AND DISABILITY Toward a Disability-Conscious Bioethics”の
大まかな構成が見えてきたので、それについて。
① イントロダクション
冒頭で、Quelletteが本書を書く契機となった出来事が紹介されていて、
これがなかなか興味深い。その部分の概要は ↓
10年ほど前、QuelletteはNY州の上訴検察官として、重症障害がある女性患者の延命治療停止の決定を巡る訴訟を担当した。
当時のNY州では、その生涯に一度も自己決定能力を有したことのない患者の場合、延命治療の中止または差し控えの決定を医師にも家族にも認めていなかったが、その女性は既に明らかに末期で、栄養も水分も身体がもはや受け付けない状態だったので、経管栄養が患者の負担でしかないことは誰にとっても自明なことであり、誰が考えても中止が本人の最善の利益だと判断されるだろうと思い込んでいた。
ところが公判の当日、裁判所の前にやってきて、まるで日本の右翼の街宣車のような物々しい抗議行動を繰り広げたNot Dead Yetに心底たまげたのだという。(その時に自分が受けた攻撃や非難に比べれば、シャイボ事件の際の障害者運動の抵抗だって霞むほどだ……と書いているのは、ちょっと微笑ましい。よほど青天の霹靂で、理解の外だったのだろう)
Quelletteは、それを機に、障害学や障害者運動の主張するところに、とりあえず耳を傾ける努力を始める。(ここがQuelletteという人が並ではない、すごいところだと思う。)
そして10年――。
今なおQuelletteは、あのNYのケースの女性にとっては栄養と水分の停止が本人の最善の利益だったとする考えそのものは変わっていないが、障害学や障害者運動の歴史や理論を学び、またその後に起きた事件をそちらの視点からも検討するうちに、生命倫理学には障害学や障害者運動から学ぶべきことがある、と感じるようになった。(そういうあからさまな表現は避けて、あくまで中立的に書かれてはいるけれど)
で、この10年間に自分が考えてきたことの総括として本書を書き、
障害者に配慮ある生命倫理学というものに向かって
双方が歩み寄ろうと提言するというのが著者の意図。
② 生命倫理学と障害学のこれまでの概要
イントロダクションに続く章で
生命倫理学と障害学・障害者運動それぞれの議論や主張の変遷を概観。
同時に、どういう点で両者が際立って異なっているのか、
どこに対立点があるのかを簡単に眺めていく。
③ ケース・スタディ
3章から7章がいよいよ中心部分のケース・スタディ。
ここでは、
人の生涯を「乳児期」「児童期」「生殖期」「成人期」「終末期」に分け、
それぞれの時期の障害者の医療判断を巡って両者が対立した事件をとりあげ、
生命倫理学と障害学・障害者運動から出た議論を振り返り、考察する。
幼児期では Miller事件と Gonzalez事件。
児童期では Lee Larson’s Boys事件とAshley事件。
生殖期では Valevie N.事件と、Bob and Julie Egan事件。
成人期では Mary 事件、Larry McAfee事件、Scott Matthews事件。
終末期では Schiavo事件、Sheila Pouliot事件。
私が知っているのは4つだけで、
Miller事件はどこかで何度か読みかじった程度。
Schiavo事件については「知っている」という程度だけど
エントリーだけは結構あるかもしれない。(以下のエントリーの最後に関連をリンク)
Terry Shiavoさんの命日の寄せて(2010/3/3)
Gonzalez事件は私が初めて遭遇した「無益な治療」事件だったので、
ものすごく印象が強く、いくつかのエントリーで触れている。
テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件(2007/8/28)
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判
Ashley事件はご存知のように、当ブログのテーマそのもの。
Shiavo事件とAshley事件くらいしか日本語インターネットで見かけた記憶がないので
日本ではまだあまり広く知られていない事件が多いのかもしれない。
④ 和解に向けての提言
これらのケース・スタディを踏まえて、
最終第8章では、まず「和解に向けて」
互いの言い分に耳を傾け、共通のグラウンドを模索することの必要を説き、
実際に障害者に配慮した生命倫理学の構築に向けて何ができるか、
原理原則の点からの考察に続いて
濫用に対するセーフガードとしてプロセス重視を提言。
この「プロセス重視」というのは
Ashley事件を教訓にしてデュー・プロセスを構築せよという
Quelletteの成長抑制批判論文の主張を思い起こさせる。
その上で、ケース・スタディで取り上げた事件を
「障害者に配慮ある生命倫理」で考えるとどうなるか、
再考察の試みが展開されている。
――――――
私は系統立てて勉強していないので
②の概要は入門的な内容で、とても勉強になったけど、
「生命倫理学は、個別のケースでの判断を巡って
患者の利益と自己決定とを重視・考察する姿勢であるのに対して
障害学は、社会の出来事や在り方が障害者全般に及ぼす影響を中心的な問題とする」
という、括り方を始めとして、
いくつか、著者は生命倫理学の方にずいぶん甘いのではないかという印象を受ける個所も。
甘い、というよりも、ナイーブという方が正しいのか……。
Ashley事件の成長抑制批判論文にも強く感じたことなのだけど、
私はQuelletteの「学者的世間知らずの純情」に時々イラッとさせられることがある。
まるで
アカデミズムが政治的配慮や意図とは無縁なものであるかのように、
学問や学者が権力や利権からの要請でチョーチンを振ったことなど皆無であるかのように……。
2010年1月の成長抑制シンポでWilfondが使い、
その後のHCRの成長抑制WGの論文でも使われている
「共通のグラウンド」という言葉がどれだけ胡散臭いものかを考えると
もともと一部倫理学者は“承知”でやっていることではないか……と、
私はとてもQuelletteのように素直になれないし、
「無益な治療」論や臓器不足解消を巡る、
一部の非常にラディカルな生命倫理学者の発言に触れ、
その学問的な誠実を全く感じさせない強引な論理に呆れると、
医療コスト削減の社会的要請と「科学とテクノの簡単解決文化」の利権という
社会権力の御用学問としての生命倫理学の徒でしかない人たちの存在を疑わないではいられない。
私には
生命倫理学という学問の、学問的な誠実というものを
Quelletteが素直に本気で信じているように見えることが不思議でもあるのだけれど、
Quelletteが Miller事件の節で Peter Singer に言及した際のトーンから推測すると、
そうしたラディカルな生命倫理学者の主張はほとんどの学者には相手にされていない、
今なお異端に過ぎないと考えているのかもしれないし、
Quelletteは「和解への道 a path toward reconciliation」などという表現も、
もしかしたら、本気で信じて使っているのかもしれないし、
あるいは、生命倫理学という学問に対して、
障害への捉え方への再考を正面から求めるとしたら、
こういう姿勢が最も有効だということなのかも。
この辺りは、最後の章での
Quellette版「障害者に配慮ある生命倫理」による具体的な考察を読んでみたら
著者の意図がもう少しはっきりと見えてくるのだろうと思う。
いずれにせよ、
当ブログ周知のゴンザレス事件やアシュリー事件が
どのように考察されているのか非常に興味深いので、
まずはこれらの事件について楽しみに読んでみようと思います。
【Quellette“Bioethics and Disability”関連エントリー】
Alicia Quelletteの新刊「生命倫理と障害: 障害者に配慮ある生命倫理を目指して」(2011/6/22)
エリザベス・ブーヴィア事件: Quellette「生命倫理と障害」から(2011/8/9)
Sidney Miller事件: 障害新生児の救命と親の選択権(2011/8/16)
【Quelletteの論文関連エントリー】
09年のAshley事件批判論文については以下から4本。
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
10年の、子の身体改造をめぐる親の決定権批判論文については以下から4本。
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
http://worldradio.ch/wrs/news/switzerland/tv-hosts-assisted-suicide-in-zurich-shines-light-o.shtml?26001
中国で精神障害のある友人の自殺を幇助した男性が禁固2年に処せられ、自殺幇助合法化議論が起こっている。一人っ子政策を進めてきた中国では、高齢者の介護を子ども世代が担うことに限界があり、その解決策として自殺幇助が議論されそうな雰囲気。
http://www.chinahearsay.com/assisted-suicide-in-china-a-new-case-and-a-new-debate/
フランスのNicolas Bonnemaison医師による安楽死事件。Bayonne病院救急病棟で複数の高齢患者にhelping to die。
http://www.connexionfrance.com/euthanasia-debate-physician-assisted-suicide-debate-france-illegal-doctor-bayonne-charged-12954-view-article.html
日本語記事でウォーレン・バフェット師がNYTに寄稿し富裕層への増税を提言。:http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/63666851.htmlオバマ大統領が先月バフェット、ゲイツ両氏と会談していたし。そういえば、あの時「途上国じゃなくて米国政府にゼニ出せって言えば?」という声があったけど、「金持ち代表から金持ちに政府にゼニ出せって声を上げて」ってお願いしたのかな。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110816-00000010-jij-int
上記関連……と思う、たまたま目についた4月の日本語記事。「財政赤字334兆円削減=米大統領が包括案―共和党は富裕層増税に反発」
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201104/2011041400018&rel=y&g=int
ゲイツ財団がComcastの株を取得。
http://blogs.wsj.com/deals/2011/08/15/bill-gatess-foundation-buys-comcast-stock/
老後の資金の準備意識が足りない「ベビー・ブーマーズ時限爆弾」についてLAT社説。
http://www.latimes.com/news/opinion/opinionla/la-ed-longterm-20110815,0,4855506.story
CTによる肺がん検診の是非が米国で論争になっている。:CTスキャンでの被ばくは前にもNYTなどで議論になっていた。医療機器を巡るスキャンダルも。
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/ct-scans-for-lung-cancer-triggers-debate/2011/08/10/gIQASTbhHJ_story.html?wpisrc=nl_cuzheads
これまで何度か見聞きしたことがあるという程度だったMiller事件について
Quellette“Bioethics and Disability”から取りまとめておきたい。
Signey Millerは1990年8月17日にテキサス州で生まれた。
妊娠23週で陣痛が起こって母親が入院。
胎児は629グラムで余りに未熟なため陣痛を薬で止めたが、
母体の方に感染があることが分かり、陣痛の抑制も帝王切開も中絶も無理な状態に。
そこで産ませるしかないことになるのだけれど、
その際、両親は医師らから23週の超未熟児は生まれても助からないこと、
助かっても人工呼吸器をつけること、将来重い障害を負うことなどを聞かされて
救命も新生児専門医の立ち会いも望まず、緩和ケアのみを希望した。
それについてはカルテにも記載。
ところが、父親が葬儀の手配で病院を出た後、
スタッフの一人から事情が伝わり、病院側は会議を開く。
病院には、500グラムを超えた新生児の場合には
出産に新生児科医師を立ち合せ、救命することが方針があったため
その会議で病院は両親との話し合いを撤回し、救命へと方針転換する。
戻ってきて方針変更を聞かされた父親はショックを受けるが
止めるすべはなく、そうこうするうちにSidneyが生まれる。
両親が「英雄的な措置」は望まないと回答して11時間後のことだった。
産声を上げ、特に障害も目につかなかった。
待機していた新生児科医師によって手動で呼吸補助の上、保育器に入れて人工呼吸器が繋がれた。
当初の治療の経過は良好でNICUに入れられるが、
4日目には当初両親に説明された通りの合併症が起きる。
脳出血。それが原因となる血栓症。そして水頭症。
両親は次々に求められる治療への同意書にサインをする。
手術への同意書にもサインした。誰からも治療差し控えの話など出なかったという。
NICUに2カ月いた後、SidneyはTexas子ども病院へ転院。
生後6カ月で退院し、以来、定期的に脳のシャントの交換手術を受けるなど
入退院を繰り返しながら、両親が家でケアしているが
7歳児のSidneyには重症障害があり、全介助。
Could not walk, talk, feed herself, or sit up on her own…..[She]was legally blind, suffered from severe mental retardation, cerebral palsy, seizures, and spastic quadriparesis in her limbs. She could not be toilet-trained and required a shunt in her brain to drain fluids that accumulate that and needed care twenty-four hours a day.
14歳に当たる2004年の報告でも状態は変わっていない。
両親は自分たちの同意なしに救命したとして病院を訴え、
1998年1月の最初の判決では陪審員が両親の訴えを認めて
2940万ドルの医療費とその利息として1750万ドル、賠償金として1350万ドルの支払いを
病院側に命じた。
ところが上訴裁判所は、それを覆し、一切の支払いを認めなかった。
テキサスで認められているのは、
ターミナルな子どもの場合に親が治療を差し控えることのみであり、
Sidneyのようなターミナルでない子どもに緊急に必要な生命維持治療を差し控える権限は親にはなく、
そうした緊急時に医療職が親の希望に従う義務はない。
損傷された命と完全に失われた命(impaired life and no life at all)の
どちらかに決めることは裁判所にもできないので、緊急時には
医師は親の判断を超えて救命することができる、と。
テキサス州の最高裁の判断も、概ね、そうした路線のもので
親は一般的に子どもの最善の利益によって決定するとされているものの
常に親が子どもの利益で行動するとは限らないのだから親の決定権は絶対ではなく、
必要に応じて州が介入することとされる、
また同意なしに治療することは一般には暴行とされるが、
緊急時には親の反対を押し切って治療することが認められる、
よって出産以前の予測に基づいての親の判断は
実際に生まれてきたSidneyの状態を医師がアセスメントしてからの判断に及ばず、
緊急事態で親の同意なく救命治療を行ったことは暴行には当たらない、など。
この事件は障害学や障害者運動家らからは勝利として捉えられた。
治療の中止や差し控えが、障害のある生に対する医療の側の
ステレオタイプや偏見に基づいていると主張し、
障害者にも平等な医療を求める障害学・障害者運動の言説を引き、
Quelletteは、6ページばかりを割いて解説している。
引用されているのは Joseph P. Shapiro, Adrienne Asch, Sam Bagenstos。
一方、生命倫理の側では反応が非常に複雑で、12ページ。
特に興味深い点では
Miller裁判が進行していた5年間、テキサスの医師の間には
親の意思を無視して救命すると訴えられるかもしれないという危機感があった。
しかし判決が、障害新生児のQOLを両親がどのように捉えていようと
治療を提供する判断を医師に与えるものだったために、
では、子どもの苦しみと、QOL判断からの子どもの最善の利益についてはどうなるのだ、
というのが生命倫理学の議論の中心課題となった、という下り。
もともと生命倫理には、
治療をしないことが最善の利益になりうる、との考えが定着していたので、
その点が問題となった。
障害のある子どもに治療可能な病気がある場合、という捉え方では
レーガンの過剰防衛的な施策に結び付いたBaby Doe事件に続く事件となったが、
その間に、社会の姿勢も変化していたことも大きい。
この辺りのことは、個人的には
この事件がテキサス州で起きていることが特に興味深い感じがしました。
同州で「無益な治療」法ができたのは1999年のこと。それはすなわち
ミラー裁判の上訴審と並行して「無益な治療」法制定の議論が行われていたことになるのでは?
ただQuelletteが引いている複雑な議論を
一読で正確に把握するのは私には無理なので
以下に言及されている学者の名前のみ。
引用されているのは George Annas, John Robertson,
William Winslade(Miller事件の担当倫理学者。後に事件の詳細を論文にまとめた)Loretta Kopelman,
Robert McCormick, Arthur Caplan, Cynthia Cohen,
(この3人はおおむね医師と親との間で個別に諸々を踏まえて判断すべき、との見解)
Hilde Lindrermann, Marian Verkerk,
(この2人はグローニンゲン・プロトコルを持ちだして家族の決定権を全面的に支持)
最後にQuelletteは
重症障害児は殺してもよいとするPeter Singerを“Practical Ethics”から引用し、
QOLについてどう考えるかが全くそれぞれの主観にゆだねられていると指摘している。
【Quellette“Bioethics and Disability”関連エントリー】
Alicia Quelletteの新刊「生命倫理と障害: 障害者に配慮ある生命倫理を目指して」(2011/6/22)
エリザベス・ブーヴィア事件: Quellette「生命倫理と障害」から(2011/8/9)
【Quelletteの論文関連エントリー】
09年のAshley事件批判論文については以下から4本。
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
子の身体改造をめぐる親の決定権批判論文については以下から4本。
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
なお、Caplan、Lindermann、Singerについては、
当ブログでもいくつかエントリ―がありますが、
結構な数になるのでリンクは控えました。
NC州で、かつての強制不妊事業の犠牲者への補償に向け知事命令(2011/3/21)
知事の命令を受けたタスク・フォースから中間報告が出たらしい。
What Sorts of PeopleのWilson氏がエントリーで紹介している
最終委員会でのLarry Womble議員のスピーチが胸を打つ。
和訳するだけの余裕はないので、とりあず英文のまま。
……と思ったのだけど、
コピペしているうちに、あまりにも熱くて、またも感動してしまったので
どうしても……というところだけ、日本語に。
Eugenics [is] a fancy name for sterilization. I am very compassionate about this issue and have worked on it for 10 years. If I’ve been involved for 10 years, what do you think about the victims themselves and it is a shame and disgrace what has happened to them. I thank the Task Force for all their work. But at the same time, I cannot be timid about this, I can’t be Mille mouthed. I cannot be cute about this because it’s not a cute and nice subject. We did to humans what we do to animals, we spade and neuter animals not people. And we did this to children 10 and 11 and 12 years old, they were not criminals, they did nothing wrong. We talk about we are the land the free and the home of the brave and when we do this to children and I’m wondering how sincere we really are.
And whatever term we want to call it to make it seem nice, it is compensation. That’s what I’ve been calling it in my bills and in my legislation. You compensate people for something you’ve done to them that they do not deserve. And I understand being on a committee and being on a Task Force, I’ve been on one myself. Some things you may not say and you don’t want to say, something you may feel are inappropriate. But when you have those live human beings come before you like they did at the last meeting how in the world can you stand to dismiss them?
How do you have victims come forward and speak before you and you don’t stand aggressively for them? I don’t care how much it hurts the State, the State did it. The State should have to pay for it! I’m here to represent the state of NC and not for anyone to like me. This is horrendous. It almost borders on genocide. We talk about the communist countries, Osama Bin Laden, third world counties. Well we have done things just as bad, if not worse. To children!
I come just a little frustrated when I see people try to skip around it. Dance around it, rather than face an issue for what it is. It’s an ungodly thing that we have done to these children. I’m here because right is right and right won’t wrong nobody. It is no amount of money that you can give to somebody. But it can’t be something that will be a double whammy to them. You’re victimizing them again! What is $10,000? What is $20,000? What is $50,000? It is really nothing, that you have destroyed your family. And this was done forcibly, by the welfare department, county departments, and you talking about private rights and citizens rights. They didn’t have any rights and if they did you violated them! I’m not talking about you personally on the panel or the staff. I’m talking about the state of North Carolina, the government. And yes I’m talking about the legislature, I serve in the legislature and it’s a wrong thing what the legislature did.
優生思想とは、うわべはきれいな名前が付いていますが、不妊術のことです。
私にはこれをきれいな言葉で語ることはできません。きれいではない醜い問題だからです。我々は動物にすることを人間に対して行ったのです。……それを10歳や11歳や12歳という子どもたちに行ったのです。犯罪者でもなければ、何の罪もない子どもたちに。アメリカは自由の国だとか勇者の祖国だとか言いながら、子どもたちにこんなことをする。なにが自由の国なのだ勇者の祖国なのだと私は思います。
どんなにきれいごとの名前で誤魔化そうとしても、これは償いです。だから私は提出した法案でも法文でも、そう称してきました。不当な理由で誰かにやってしまったことには、償いをするものです。
それが州にとってどれほど手痛い出費になろうと、州がやったことなのだから、州が償うのが筋というものでしょう!……行われたのはむごいことです。ほとんど大量殺戮に近いほどの。共産圏がどうの、オサマ・ビンラディンがどうの、第三世界がどうのと言いながら、でも我々がやったことだって彼らとちっとも変らない。しかも、子どもたちに対して!
カネをいくら払おうと、そんなものは何にもならない。家族を崩壊させたのですよ! 強制的に、福祉局が、郡の機関が。それで、よくも個人の権利だの市民権だのと言えるものだ。この人たちには何の権利もなかったではないか。あっても踏みにじったではないか。……(略)
North Carolina Eugenics Task Force, Preliminary Report
What Sorts of People, August 2, 2011
州の担当部局
NC Justice for Sterilization Victims Foundationのサイトはこちら。
http://www.worldcrunch.com/journalists-swiss-suicide-sparks-euthanasia-debate-israel/3597
米国で「逆・無益な治療」訴訟2つ。つまり、本人の意思に反して蘇生した、と訴えたもの。
http://medicalfutility.blogspot.com/2011/08/resuscitation-over-patient-objections.html
製薬会社はFacebookでも特別扱いを受けていたらしい。Wallに一般人の書き込みができないようにしてあったとか。その優遇策を中止された途端に、Facebookのページをたたむビッグ・ファーマが相次いでいるとか。
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/pharmaceutical-companies-lose-protections-on-facebook-decide-to-close-pages/2011/07/22/gIQATQGFBJ_story.html?wpisrc=nl_cuzheads
米国の医療改革法が国民に健康保険への加入を義務付けていることについて、憲法違反だとの判決が相次いでいる。
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/appeals-court-strikes-down-health-care-laws-insurance-mandate/2011/08/12/gIQAAml1BJ_story.html?wpisrc=nl_cuzheads
http://www.washingtonpost.com/blogs/ezra-klein/post/health-care-law-individual-mandate-ruled-unconstitutional-by-11th-circuit-federal-appeals-court/2011/08/12/gIQAq1OSBJ_blog.html?wpisrc=nl_cuzheads
上記関連。共和党が同法のメディケア経費削減委員会を攻撃。
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/medicare-cost-cutting-board-is-under-fire/2011/08/09/gIQAyDP8AJ_story.html?wpisrc=nl_cuzheads
高齢者の精神障害での入院は減少傾向にある一方で、若年層での短期入院は増加している。米の報告。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/232642.php
入所施設には空きがあるというのに、高齢者が病院のベッドを占領している、と豪で。
http://www.canberratimes.com.au/news/local/news/general/elderly-in-hospital-despite-agedcare-spaces/2257426.aspx?src=enews
このところ続いている、無用な実験に類人猿を使うな、という話題またも。
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/chimpanzee-research-an-endangered-species-as-experts-debate-usefulness-ethics/2011/08/12/gIQAGt0xDJ_story.html?wpisrc=nl_cuzheads
ガウタマ・シンラン・ソリドゥスさんのブログ記事で「予算委員会公聴会 菊池英博『こうすれば日本は甦る!現在でも財政危機ではない、消費税は0%にできる』」。:日本だけじゃなくて、世界中がこういうところに向かっているような気が私はする。国ごとの経済は、どの国でも、もう、もたなくなっているんじゃないか、と。各国経済を破たんさせてでも、グローバル人でなしネオリベ金融(慈善)資本主義経済によってさらに肥え太る人たちがいるから? あ、もちろん私はただの無知な素人なので根拠はないけど。
http://blogs.yahoo.co.jp/solidussolidarity/34988180.html
若年ALSの遺伝子変異がわかった。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/232682.php