その大半を非常勤講師としてであったにせよ、
大学を卒業して以来、2年前の春にリタイアするまで
30年以上「英語の先生」をやっていた間には、
「忘れ難い学生さん」や「学生さんの忘れ難いセリフ」との出会いがあれこれとあった。
その1つが
「ボクの全身の細胞が先生に謝れ、と言い続けて……」。
福祉学部の男子学生さんだった。
福祉を志す人たちならば、と勝手な思い入れで
教養の英語のテキストに障害児・者に関連したものを選んで使っていた頃で、
その日は脳性マヒの兄弟を持つ子どもたちの作文みたいなものを読んでいた。
その学生さんが指名された時にすぐに答えられないのを見た時に、
周りに座っていた仲間内の誰かがそのことをからかって
「わ~い、答えられないんでやんの」的な子どもっぽいチャチャを入れた。
彼がいつも一緒にいるグループはもともとそういう雰囲気の人たちの集まりで、
その日は授業の始まりから特にグループ全体のテンションが高い感じもあった。
で、そのテンションに煽られるように、
からかわれた彼は「だって、ボク、脳性マヒだから」とふざけ、
グループのみんなは、それに他愛なく、あははは、とウケた。
彼が指名された直前の個所の訳文に「脳性マヒ」という言葉があったのが
何の考えもなく、ただ連想ゲームのように口から転がり出た、という感じだった。
机の間の通路を彼らグループの席の間近まで行き、
目の前でその場面に直面した私は、一瞬、激しく当惑してしまった。
たぶん私自身が障害のある子どもの親ではなかったら、
即座に強い口調で反応し“指導”しただろうと思う。
「これは、教師として、きちんと指導しなければならない発言だ」と
その瞬間に、くっきりと意識したことは覚えている。
でも、私は、たぶん自分自身が障害のある子どもの親であるという理由で
その時、きっぱりとした強い態度に出ることができず、
我ながら情けないほどに弱々しい口調で
「そういうのはやめたほうがいいよ。自分の人格を貶めるよ」と
つぶやくように言ってみただけだった。
日ごろは「口でこの私に勝とうなんて10年早いわ」とばかりに
強い口調と態度でセンセイを張っているくせに、なぜあの時だけ、くじけたんだろう……と
その後ずっと、あの瞬間の自分の心理をあれこれと分析してみるのだけど、
イマイチ自信を持って「こうだった」と言えるところまで掴めていない。
福祉の分野に進もうとする学生さんだから、
少しでも意識を持ってもらいたいと思って選んだテキストが、
却って、こういう軽はずみなジョークを招いてしまうという
全く予想外の展開に、ショックもあった。でも、それだけではなかった。
そんな他愛ない学生さんのジョークに、
まさか「傷ついた」わけではなかったと思うのだけど、
どこかにそれに非常に近い感覚があったんだろうか……。
小学校の先生をしている私の友人は
特に障害児・者について個人的な思い入れがあるわけでも何でもないけれど、
クラスの子ども達が「ガイジ」という言葉を使っているのを聞き、
その意味を知った時、体が震えるほどの憤りに捉えられて、
思わず、自分でもびっくりするほど激しい口調で怒鳴りつけてしまったという。
彼女のようにまっすぐに憤り、強く指導することができなかったのは、
そうした発言が私の中に呼び起すのが「許せないこと」に対する義憤ではなく、
それまでに「障害のある子どもの母親」として味わってきた個人的な感情だったからなんだろうか。
そんな自分の当事者性といきなり思いがけない形で直面して、
そのことに当惑し「停止」してしまっただけなのかもしれない。
ただ、どう対処していいか分からなかっただけなのかもしれないし、
その日、ただ単に疲れ気味で気力が低下していたのかもしれない。
その辺りの自分の心理は今もって判然としないのだけれど、
なにしろ、その時も、
机の間の通路を黒板まで戻りながら友人の話を思い出し、
今しがたの自分の言動に、たいそう割り切れない思いになった。
これは寝る時まで引きずってしまうかもしれないな……とも予感した。
とはいえ、
その後も授業を続けていると頭の中はあれこれとせわしない。
いつまでも拘泥している余裕などなくて、そのうちには意識から消えてしまった。
なので、授業を終えて、学生さんたちがわらわらと教室から出て行きはじめ、
私は私で黒板(実は白板)の上の方からびっしり書いたのを
背伸びして腕を振り、黒板消しでサクサク消している時に、
(この時の「あー、今日も終わったぞー」気分はとても良い。つい浸るのです)
教卓の向こうに誰かが寄ってきて背後から「先生」と声をかけられた時も、
いつもの出席日数の確認やら「単位ください」のお願いだろうと、
サクサクしながら「はいよ。なに~?」と、背中で軽く受けた。
「僕の出席日数どーなってますぅ?」とか
「あのねぇー、単位どーしても欲しいんっすよねー」とか
実際はわざわざ問うほどでもお願いするほどでもない、ダルい口調のしょーもない話で
なんとなく寄ってきては、しばしジャれていく人たちというのが何人かいて、
そういう人たちとは黒板(実は白板)を消しながら、また教卓の上を片づけながら、
相手から返ってくるのがダルい口調だけにテンポよくぽんぽん受けては返すのが常なので、
そのつもりでいたら、
「先生、こっちを向いてください。話があるんです」
かつてないパターンに驚いて手を止め、なにごとかと振り向いたら、
あの「だってボク、脳性まひだから」の学生さんが立っていた。
グループのみんなが出て行ったあとで一人残ったらしく、
日ごろヒャラヒャラした感じの子が、ついぞ見たことのないマジな顔で、
うつむきながら押し出すように、言ったのは、
「授業の間中、ボクの全身の細胞が『先生に謝れ』って、ずっと言い続けていて……」
それから、ちょっと固まった後で
「さっきは、すみませんでしたっ」と、ぴょこんと頭を下げた。
あ……、その間あたしったら、コロッと忘れて授業してたんだ……。
それに気付くと、俄かに可哀そうになって、
「いや、悪気じゃないのは分かっているから」とかなんとか言い始めてみるのだけれど、
こっちの言葉は何も彼の耳には届いていかない様子。
それは彼にとっては、
私が彼の謝罪をどう受けるかという問題ではなく、まるで
自分で納得できる落とし前をつけられるかどうかを彼自身の問題として
全身の細胞に背負わされてしまったかのようで。
何を言っても、全身をこわばらせて頭を振っていたかと思うと、
もう一度、勢いよく頭を下げて「ほんと、すみませんでした」。
そう言うと、そそくさと部屋を出て行った。
車を運転して家に帰りながら、
すっかり忘れていたから慌てたとはいえ、
まるで何かを取りつくろうみたいに、あんなにあれこれ言おうとするんじゃなくて、
私も「ありがとう」と一言だけ、心をこめて言えばよかったのに……と悔やまれた。
次の週に教室に行ってみると、彼は
「えーっ。宿題なんか、なかったっすよー。それ先生の錯覚ぅ!」と
軽佻浮薄をウリにしているみたいなグループにカンペキ同化して
いつものようにオチャラけていた。
それを見たら、
「健全」という言葉がデカデカと頭に浮かび、
ま、いっか……と、それきりにしたので、
言いそびれてしまった「ありがとう」を、
ここで、あの時の学生さんに――。
あなたのおかげで、
ピーター・シンガーみたいな頭がいいだけの卑怯者や、
いつか、酒の席とはいえ、私が重症児の親であると知りつつ正面きって
「障害児は殺したっていい」と挑むように断言してみせ、
「どうしてですか?」と問うと、
「生きたって幸せになれないから」
「でも幸せって主観的なものじゃないですか」
「少なくとも俺(大学教授)のような仕事をして、
こうして酒を飲み議論するようなシアワセな生活はできない」
と言い放ってくださった、自称シンガー論者の倫理学者の方のことなどを思う時に、
頭の良さや知識の多さや社会的地位や肩書と
人としての品(しな、と読んでください)の上下はまるきり別物だ、と
私は自信を持って信じることができる。
だから、本当に、ありがとう――。
大学を卒業して以来、2年前の春にリタイアするまで
30年以上「英語の先生」をやっていた間には、
「忘れ難い学生さん」や「学生さんの忘れ難いセリフ」との出会いがあれこれとあった。
その1つが
「ボクの全身の細胞が先生に謝れ、と言い続けて……」。
福祉学部の男子学生さんだった。
福祉を志す人たちならば、と勝手な思い入れで
教養の英語のテキストに障害児・者に関連したものを選んで使っていた頃で、
その日は脳性マヒの兄弟を持つ子どもたちの作文みたいなものを読んでいた。
その学生さんが指名された時にすぐに答えられないのを見た時に、
周りに座っていた仲間内の誰かがそのことをからかって
「わ~い、答えられないんでやんの」的な子どもっぽいチャチャを入れた。
彼がいつも一緒にいるグループはもともとそういう雰囲気の人たちの集まりで、
その日は授業の始まりから特にグループ全体のテンションが高い感じもあった。
で、そのテンションに煽られるように、
からかわれた彼は「だって、ボク、脳性マヒだから」とふざけ、
グループのみんなは、それに他愛なく、あははは、とウケた。
彼が指名された直前の個所の訳文に「脳性マヒ」という言葉があったのが
何の考えもなく、ただ連想ゲームのように口から転がり出た、という感じだった。
机の間の通路を彼らグループの席の間近まで行き、
目の前でその場面に直面した私は、一瞬、激しく当惑してしまった。
たぶん私自身が障害のある子どもの親ではなかったら、
即座に強い口調で反応し“指導”しただろうと思う。
「これは、教師として、きちんと指導しなければならない発言だ」と
その瞬間に、くっきりと意識したことは覚えている。
でも、私は、たぶん自分自身が障害のある子どもの親であるという理由で
その時、きっぱりとした強い態度に出ることができず、
我ながら情けないほどに弱々しい口調で
「そういうのはやめたほうがいいよ。自分の人格を貶めるよ」と
つぶやくように言ってみただけだった。
日ごろは「口でこの私に勝とうなんて10年早いわ」とばかりに
強い口調と態度でセンセイを張っているくせに、なぜあの時だけ、くじけたんだろう……と
その後ずっと、あの瞬間の自分の心理をあれこれと分析してみるのだけど、
イマイチ自信を持って「こうだった」と言えるところまで掴めていない。
福祉の分野に進もうとする学生さんだから、
少しでも意識を持ってもらいたいと思って選んだテキストが、
却って、こういう軽はずみなジョークを招いてしまうという
全く予想外の展開に、ショックもあった。でも、それだけではなかった。
そんな他愛ない学生さんのジョークに、
まさか「傷ついた」わけではなかったと思うのだけど、
どこかにそれに非常に近い感覚があったんだろうか……。
小学校の先生をしている私の友人は
特に障害児・者について個人的な思い入れがあるわけでも何でもないけれど、
クラスの子ども達が「ガイジ」という言葉を使っているのを聞き、
その意味を知った時、体が震えるほどの憤りに捉えられて、
思わず、自分でもびっくりするほど激しい口調で怒鳴りつけてしまったという。
彼女のようにまっすぐに憤り、強く指導することができなかったのは、
そうした発言が私の中に呼び起すのが「許せないこと」に対する義憤ではなく、
それまでに「障害のある子どもの母親」として味わってきた個人的な感情だったからなんだろうか。
そんな自分の当事者性といきなり思いがけない形で直面して、
そのことに当惑し「停止」してしまっただけなのかもしれない。
ただ、どう対処していいか分からなかっただけなのかもしれないし、
その日、ただ単に疲れ気味で気力が低下していたのかもしれない。
その辺りの自分の心理は今もって判然としないのだけれど、
なにしろ、その時も、
机の間の通路を黒板まで戻りながら友人の話を思い出し、
今しがたの自分の言動に、たいそう割り切れない思いになった。
これは寝る時まで引きずってしまうかもしれないな……とも予感した。
とはいえ、
その後も授業を続けていると頭の中はあれこれとせわしない。
いつまでも拘泥している余裕などなくて、そのうちには意識から消えてしまった。
なので、授業を終えて、学生さんたちがわらわらと教室から出て行きはじめ、
私は私で黒板(実は白板)の上の方からびっしり書いたのを
背伸びして腕を振り、黒板消しでサクサク消している時に、
(この時の「あー、今日も終わったぞー」気分はとても良い。つい浸るのです)
教卓の向こうに誰かが寄ってきて背後から「先生」と声をかけられた時も、
いつもの出席日数の確認やら「単位ください」のお願いだろうと、
サクサクしながら「はいよ。なに~?」と、背中で軽く受けた。
「僕の出席日数どーなってますぅ?」とか
「あのねぇー、単位どーしても欲しいんっすよねー」とか
実際はわざわざ問うほどでもお願いするほどでもない、ダルい口調のしょーもない話で
なんとなく寄ってきては、しばしジャれていく人たちというのが何人かいて、
そういう人たちとは黒板(実は白板)を消しながら、また教卓の上を片づけながら、
相手から返ってくるのがダルい口調だけにテンポよくぽんぽん受けては返すのが常なので、
そのつもりでいたら、
「先生、こっちを向いてください。話があるんです」
かつてないパターンに驚いて手を止め、なにごとかと振り向いたら、
あの「だってボク、脳性まひだから」の学生さんが立っていた。
グループのみんなが出て行ったあとで一人残ったらしく、
日ごろヒャラヒャラした感じの子が、ついぞ見たことのないマジな顔で、
うつむきながら押し出すように、言ったのは、
「授業の間中、ボクの全身の細胞が『先生に謝れ』って、ずっと言い続けていて……」
それから、ちょっと固まった後で
「さっきは、すみませんでしたっ」と、ぴょこんと頭を下げた。
あ……、その間あたしったら、コロッと忘れて授業してたんだ……。
それに気付くと、俄かに可哀そうになって、
「いや、悪気じゃないのは分かっているから」とかなんとか言い始めてみるのだけれど、
こっちの言葉は何も彼の耳には届いていかない様子。
それは彼にとっては、
私が彼の謝罪をどう受けるかという問題ではなく、まるで
自分で納得できる落とし前をつけられるかどうかを彼自身の問題として
全身の細胞に背負わされてしまったかのようで。
何を言っても、全身をこわばらせて頭を振っていたかと思うと、
もう一度、勢いよく頭を下げて「ほんと、すみませんでした」。
そう言うと、そそくさと部屋を出て行った。
車を運転して家に帰りながら、
すっかり忘れていたから慌てたとはいえ、
まるで何かを取りつくろうみたいに、あんなにあれこれ言おうとするんじゃなくて、
私も「ありがとう」と一言だけ、心をこめて言えばよかったのに……と悔やまれた。
次の週に教室に行ってみると、彼は
「えーっ。宿題なんか、なかったっすよー。それ先生の錯覚ぅ!」と
軽佻浮薄をウリにしているみたいなグループにカンペキ同化して
いつものようにオチャラけていた。
それを見たら、
「健全」という言葉がデカデカと頭に浮かび、
ま、いっか……と、それきりにしたので、
言いそびれてしまった「ありがとう」を、
ここで、あの時の学生さんに――。
あなたのおかげで、
ピーター・シンガーみたいな頭がいいだけの卑怯者や、
いつか、酒の席とはいえ、私が重症児の親であると知りつつ正面きって
「障害児は殺したっていい」と挑むように断言してみせ、
「どうしてですか?」と問うと、
「生きたって幸せになれないから」
「でも幸せって主観的なものじゃないですか」
「少なくとも俺(大学教授)のような仕事をして、
こうして酒を飲み議論するようなシアワセな生活はできない」
と言い放ってくださった、自称シンガー論者の倫理学者の方のことなどを思う時に、
頭の良さや知識の多さや社会的地位や肩書と
人としての品(しな、と読んでください)の上下はまるきり別物だ、と
私は自信を持って信じることができる。
だから、本当に、ありがとう――。
2011.09.14 / Top↑
日本語記事 英国で「奴隷」を保護=最長15年監禁、5人逮捕
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110913-00000011-jij-int
【関連エントリー】
世界の「奴隷労働」を、拾った記事から概観してみる(2011/1/20)
英国の子ども病院の医師らがヨーロッパ諸国に向け、子どもからの臓器移植が増えるよう法的、倫理的、文化的バリアを取り除く努力を、と。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/234152.php
カナダで自殺幇助を含めて終末期の意思決定について検討しているthe Royal Societyの委員会の委員長のGlobe and Mail紙のインタビュー。:読んでいないけど、質問そのものがヘン? How do Canadians want to die? とか。
http://www.theglobeandmail.com/news/opinions/editorials/the-assisted-suicide-dilemma/article2161476/
カナダ、ケベック州でウツ病の妻の銃による自殺を手伝ったとして起訴されていた男性Leger Ayotteさんに無罪判決。男性もガンが判明したばかりだったという。:検察側が立証できなかった、という理由らしいのだけれど、本当にそれだけなのかなぁ。以下にリンクするように、ケベック州はカナダの中でも特にラディカルに自殺幇助合法化議論が進められているところ。去年12月にも、知的障害のある男性が叔父の自殺幇助で無罪になっている(これは自殺幇助以外にもいろいろな要因のある事件ではあるけれど)。合法化議論が繰り返されることで世論の中に自殺幇助に対する寛容が涵養されていく様子は、英国のGuilderdale事件で目の当たりにして、背筋が冷えたものだけど。
http://www.montrealgazette.com/news/found+guilty+assisting+wife+suicide/5390291/story.html
【関連エントリー】
カナダ・ケベック州医師会が自殺幇助合法化を提言(2009/7/17)
カナダ議会、自殺幇助合法化法案を否決(2010/4/22)
【Gilderdale事件関連エントリー】
Gilderdale事件:「慈悲殺」を「自殺幇助」希望の代理決定として正当化する論理(2008/4/18)
慢性疲労症候群の娘を看護師の母親がモルヒネで殺したGilderdale事件(2010/1/19)
Gilderdale事件から、自殺幇助議論の落とし穴について(2010/1/22)
Gilderdale事件で母親に執行猶予(2010/1/26)
Gilderdale事件:こんな「無私で献身的な」母親は訴追すべきではなかった、と判事(2010/1/26)
介護者自身が高齢の場合、3人に2人が介護負担から自分の健康を害している。介護者支援の老舗チャリティ the Princess Royal Trust for Carersの調査で。「GPは毎年、介護者にはうつ病のスクリーニングを行え」と提案している。:その提言は、でも、それでウツ病と分かってどういう支援が入るのかによっては逆に怖いんじゃないのかなぁ……。
http://www.dailymail.co.uk/health/article-2036433/Older-carers-say-looking-loved-ones-damaged-health.html
健康な細胞を害することなく、がん細胞だけを攻撃する爆弾みたいな抗がん剤が開発されているらしい。:がん研究の10年って、こういうこと?
http://www.guardian.co.uk/science/2011/sep/12/cancer-drugs-fewer-side-effects?CMP=EMCGT_120911&
親子関係が悪いと子どもがビデオ・ゲームにはまりやすい。:それ、夫婦関係にも言えるか? ……と考えた瞬間、ある友人夫婦が(というより、その友人がビデオゲームに熱中する背中が)頭に浮かんだ。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/234084.php
遺伝学の進歩で、個々の病気リスクは今よりももっと正確に予測できるようになる。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/234189.php
新たなADHD遺伝子、自閉症その他の神経疾患にも関与。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/232606.php
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110913-00000011-jij-int
【関連エントリー】
世界の「奴隷労働」を、拾った記事から概観してみる(2011/1/20)
英国の子ども病院の医師らがヨーロッパ諸国に向け、子どもからの臓器移植が増えるよう法的、倫理的、文化的バリアを取り除く努力を、と。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/234152.php
カナダで自殺幇助を含めて終末期の意思決定について検討しているthe Royal Societyの委員会の委員長のGlobe and Mail紙のインタビュー。:読んでいないけど、質問そのものがヘン? How do Canadians want to die? とか。
http://www.theglobeandmail.com/news/opinions/editorials/the-assisted-suicide-dilemma/article2161476/
カナダ、ケベック州でウツ病の妻の銃による自殺を手伝ったとして起訴されていた男性Leger Ayotteさんに無罪判決。男性もガンが判明したばかりだったという。:検察側が立証できなかった、という理由らしいのだけれど、本当にそれだけなのかなぁ。以下にリンクするように、ケベック州はカナダの中でも特にラディカルに自殺幇助合法化議論が進められているところ。去年12月にも、知的障害のある男性が叔父の自殺幇助で無罪になっている(これは自殺幇助以外にもいろいろな要因のある事件ではあるけれど)。合法化議論が繰り返されることで世論の中に自殺幇助に対する寛容が涵養されていく様子は、英国のGuilderdale事件で目の当たりにして、背筋が冷えたものだけど。
http://www.montrealgazette.com/news/found+guilty+assisting+wife+suicide/5390291/story.html
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カナダ・ケベック州医師会が自殺幇助合法化を提言(2009/7/17)
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Gilderdale事件:「慈悲殺」を「自殺幇助」希望の代理決定として正当化する論理(2008/4/18)
慢性疲労症候群の娘を看護師の母親がモルヒネで殺したGilderdale事件(2010/1/19)
Gilderdale事件から、自殺幇助議論の落とし穴について(2010/1/22)
Gilderdale事件で母親に執行猶予(2010/1/26)
Gilderdale事件:こんな「無私で献身的な」母親は訴追すべきではなかった、と判事(2010/1/26)
介護者自身が高齢の場合、3人に2人が介護負担から自分の健康を害している。介護者支援の老舗チャリティ the Princess Royal Trust for Carersの調査で。「GPは毎年、介護者にはうつ病のスクリーニングを行え」と提案している。:その提言は、でも、それでウツ病と分かってどういう支援が入るのかによっては逆に怖いんじゃないのかなぁ……。
http://www.dailymail.co.uk/health/article-2036433/Older-carers-say-looking-loved-ones-damaged-health.html
健康な細胞を害することなく、がん細胞だけを攻撃する爆弾みたいな抗がん剤が開発されているらしい。:がん研究の10年って、こういうこと?
http://www.guardian.co.uk/science/2011/sep/12/cancer-drugs-fewer-side-effects?CMP=EMCGT_120911&
親子関係が悪いと子どもがビデオ・ゲームにはまりやすい。:それ、夫婦関係にも言えるか? ……と考えた瞬間、ある友人夫婦が(というより、その友人がビデオゲームに熱中する背中が)頭に浮かんだ。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/234084.php
遺伝学の進歩で、個々の病気リスクは今よりももっと正確に予測できるようになる。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/234189.php
新たなADHD遺伝子、自閉症その他の神経疾患にも関与。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/232606.php
2011.09.14 / Top↑
先日、60代の友人と食事をした時に、
「私は余計なことをせずにさっさと死なせてほしい。
できれば麻酔をかけて眠っているうちに殺してほしいくらいだ」と
彼女が言うのに、なんとも割り切れない気持ちになった。
その人の話は概ね、こんな感じだった。
彼女が前半に言っていたことは
まだ口から食べさせれば十分に食べられる状態なのにもかかわらず
コスト削減の儲け主義でさっさと胃ろうにしてしまう医療の在り方への不満であり
だから「もっと丁寧なケアをするべきだ」という主張だったはずなのに、
それが、いつのまにか「余計なことはせずにさっさと死なせてほしい」へと
話が飛躍していることに、しゃべっている当人は全く気付いていない。
というか、
「もっと丁寧なケアをしてほしい、すべきだろう」と語っていた人の言うことが、やがて
「自分はあんな目に会いたくない」 → 「さっさと死なせてほしい」と飛躍する間には
「もし丁寧なケアをしてもらえないのであれば」という条件が存在していること、
その条件が即座に「どうせ丁寧にケアしてもらえないのだから」という前提と化し、
それによって「丁寧なケアはしてもらえない」ことが受け入れられてしまっていることに。
その自分の意識のワナに無自覚なまま、
「親戚がまだ食べられるのにさっさと胃ろうにされた。
私はあんな目に会いたくないから余計なことはせずに死なせてほしい」
という話がパワフルに繰り広げられていく。
いま、世の中にどんどん増えている
「余計なことはせずに、さっさと死なせてほしい」論というのは
なるほど、こういうふうにできているものなのだろうし、
それが繰り返されることによって
その隙間に暗黙のうちに潜んでいる「どうせ丁寧にケアしてもらえないのだから」という諦めが
広く世間の人々の間で共有されていっているんだな、と。
でも、それによって「ターミナル期の丁寧なケアは望むべくもない贅沢」というのが
世間に広く共有された認識として固まっていき、その勢いや速度が
事実に基づいた丁寧な議論の余地をなくしていったり、
個別のケースごとの細やかな判断を一律に否定していくとしたら、
それは、とても怖いことなんじゃないだろうか。
改めて
惣万佳代子さんのような「地域での丁寧なケアと看取り」の実践者が
その丁寧なケアを前提に言う「高齢者は口から食べられなくなったら死」と
世間一般の人のいう「余計なことはせずに死なせてほしい」との間には
本質的な違いがあるのだということを、つくづく考えさせられながら、
目の前の友人に向かって、
「それって、思うツボにはまっているよっ」と
訴えないではいられない気分が頭をもたげてくるし、
「”口から食べられる間は口から食べる”ための丁寧なケアなんか
どうせしてはもらえないのが現実なのだから」という諦めを
そんな無防備な体験談と無責任な感想で世間に拡散しないでほしいという思いで、
ついあれこれツッコミを入れてしまうのだけれど、
元看護師の彼女には「医療に関することは私の方が分かっている」意識のバリアが高く、
私の言うことはなかなか通じていかない。
それが、どうにも、もどかしかった。
「医療」に関することではなく、
これは「人の生き死に」に関することだと思うのだけれど。
【追記】
上記の惣万さんのところにリンクしたエントリーを久々に読み返してみたら、
そのコメント欄にも、たいそう象徴的なやり取りがいくつもあって、
そういえば、この時も医療職の人の意識の壁に何度も悶絶しそうになったなぁ……と。
その「通じなさ」の悶絶の中で追加で書いたエントリーがこちら ↓
「食べられなくなったら死」が迫っていた覚悟(2009/11/5)
【胃ろう関連エントリー】
ETV特集を機に「胃ろう」について書いたエントリーをまとめてみる(2010/7/26)
“栄養補給所”を作って「業務がはかどる」と胸を張った師長さん、「胃ろう検討は十分な看護ケアをしてから」と主張した師長さん(2010/7/26)
在宅医療における終末期の胃ろうとセデーション(2010/10/6)
日本の尊厳死合法化議論を巡る4つの疑問(2010/10/28)
朝日新聞の「どうせ治らないなら延命はしませんよね、あなた?(2010/11/5)
中日新聞の「胃ろう」に関する連載
1 認知症 早すぎる医師の判断
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20110105161319249
2 家族、現場の葛藤 必要な処置か延命か
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20110112142307757
3 広がる拒否感 「管」=「終末」との誤解
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20110119145604991
「私は余計なことをせずにさっさと死なせてほしい。
できれば麻酔をかけて眠っているうちに殺してほしいくらいだ」と
彼女が言うのに、なんとも割り切れない気持ちになった。
その人の話は概ね、こんな感じだった。
数年前に親戚の誰か高齢の人が病気になった時に、
医師がさっさと胃ろうにしたのに驚いた。
「まだ口から食べられる機能は残っています」と
かつて看護師だった彼女は果敢にも医師に抗議したがはねつけられた。
その時に言われた言葉の一つが
「今はこうしないと病院経営が成り立たない時代なのだ」だった。
そういう劣悪なケアだから
その人は、胃ろうになった途端に、どんどん機能が低下して
すぐに何も分からない寝たきり状態になった。
その病院には、そんなふうに
もう何も分からないのに、ただ機械的に時間がきたら管をぶら下げられて
栄養を入れられて肉体として生かされているだけの高齢者が
ずらりと並んでいて、ぞうっとした。
私はあんな目に会いたくないから
あんなになるくらいなら、その前に死なせてほしい、と思った。
あんなになるくらいなら、
できたら麻酔をかけて眠っているうちに死なせてほしいくらいだ。
彼女が前半に言っていたことは
まだ口から食べさせれば十分に食べられる状態なのにもかかわらず
コスト削減の儲け主義でさっさと胃ろうにしてしまう医療の在り方への不満であり
だから「もっと丁寧なケアをするべきだ」という主張だったはずなのに、
それが、いつのまにか「余計なことはせずにさっさと死なせてほしい」へと
話が飛躍していることに、しゃべっている当人は全く気付いていない。
というか、
「もっと丁寧なケアをしてほしい、すべきだろう」と語っていた人の言うことが、やがて
「自分はあんな目に会いたくない」 → 「さっさと死なせてほしい」と飛躍する間には
「もし丁寧なケアをしてもらえないのであれば」という条件が存在していること、
その条件が即座に「どうせ丁寧にケアしてもらえないのだから」という前提と化し、
それによって「丁寧なケアはしてもらえない」ことが受け入れられてしまっていることに。
その自分の意識のワナに無自覚なまま、
「親戚がまだ食べられるのにさっさと胃ろうにされた。
私はあんな目に会いたくないから余計なことはせずに死なせてほしい」
という話がパワフルに繰り広げられていく。
いま、世の中にどんどん増えている
「余計なことはせずに、さっさと死なせてほしい」論というのは
なるほど、こういうふうにできているものなのだろうし、
それが繰り返されることによって
その隙間に暗黙のうちに潜んでいる「どうせ丁寧にケアしてもらえないのだから」という諦めが
広く世間の人々の間で共有されていっているんだな、と。
でも、それによって「ターミナル期の丁寧なケアは望むべくもない贅沢」というのが
世間に広く共有された認識として固まっていき、その勢いや速度が
事実に基づいた丁寧な議論の余地をなくしていったり、
個別のケースごとの細やかな判断を一律に否定していくとしたら、
それは、とても怖いことなんじゃないだろうか。
改めて
惣万佳代子さんのような「地域での丁寧なケアと看取り」の実践者が
その丁寧なケアを前提に言う「高齢者は口から食べられなくなったら死」と
世間一般の人のいう「余計なことはせずに死なせてほしい」との間には
本質的な違いがあるのだということを、つくづく考えさせられながら、
目の前の友人に向かって、
「それって、思うツボにはまっているよっ」と
訴えないではいられない気分が頭をもたげてくるし、
「”口から食べられる間は口から食べる”ための丁寧なケアなんか
どうせしてはもらえないのが現実なのだから」という諦めを
そんな無防備な体験談と無責任な感想で世間に拡散しないでほしいという思いで、
ついあれこれツッコミを入れてしまうのだけれど、
元看護師の彼女には「医療に関することは私の方が分かっている」意識のバリアが高く、
私の言うことはなかなか通じていかない。
それが、どうにも、もどかしかった。
「医療」に関することではなく、
これは「人の生き死に」に関することだと思うのだけれど。
【追記】
上記の惣万さんのところにリンクしたエントリーを久々に読み返してみたら、
そのコメント欄にも、たいそう象徴的なやり取りがいくつもあって、
そういえば、この時も医療職の人の意識の壁に何度も悶絶しそうになったなぁ……と。
その「通じなさ」の悶絶の中で追加で書いたエントリーがこちら ↓
「食べられなくなったら死」が迫っていた覚悟(2009/11/5)
【胃ろう関連エントリー】
ETV特集を機に「胃ろう」について書いたエントリーをまとめてみる(2010/7/26)
“栄養補給所”を作って「業務がはかどる」と胸を張った師長さん、「胃ろう検討は十分な看護ケアをしてから」と主張した師長さん(2010/7/26)
在宅医療における終末期の胃ろうとセデーション(2010/10/6)
日本の尊厳死合法化議論を巡る4つの疑問(2010/10/28)
朝日新聞の「どうせ治らないなら延命はしませんよね、あなた?(2010/11/5)
中日新聞の「胃ろう」に関する連載
1 認知症 早すぎる医師の判断
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20110105161319249
2 家族、現場の葛藤 必要な処置か延命か
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20110112142307757
3 広がる拒否感 「管」=「終末」との誤解
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20110119145604991
2011.09.14 / Top↑
またも英国のDr. Deathこと Dr. Michael Irwin(79)がコトを起こそうとしている。
Sussex州、Eastbourneのケア・ホームで暮らしている91歳の女性は
酷い関節炎と視力の低下で、これ以上生きているのは耐えられないと言い、
この数カ月の内にDr. Irwinに伴われてスイスのDignitasへ行くことを計画中。
「通常なら親族とか親友が一緒にいくべきだと思われるだろうけれど、
この人の場合夫はすでになく、子どものない人なので」とDr. Irwin。
また同医師は、
自分が関与しているPAS合法化ロビー団体SOARSの調査では
英国国民の6割以上が合法化を支持しているとの結果が相次いでいるとも。
しかし、地元警察は、
この計画についてDr. Irwinに事情を聞くと言っているとのこと。
Pensioner to visit Swiss suicide clinic in Sussex’s first assisted death bid
Eastbourne Herald, September 12, 2011
以下のエントリーで取り上げたように、
これまでに英国では少なくとも44件の明らかに自殺幇助だった事件が
起訴が公益にならないとして不起訴になっており、
一件として起訴になった事件はないのですが、
英では2009年以降、少なくとも44件の自殺幇助事件が不起訴に(2011/9/4)
これまでに複数の患者をDignitasに連れて行っているDr. Irwinについてまで
去年6月に不起訴処分の決定がでているのが私には一番解せないところ ↓
自殺幇助の元GPに英国公訴局長「証拠はそろっているけど、公益にならないから不起訴」(2010/6/26)
この判決が出ている限り、
今回この女性を連れて行ったとしても、やはり
「証拠はそろっていても不起訴」ということになるんじゃないでしょうか。
それに、Dr. Irwinはこうして次々にコトを起こして話題を作り、
英国での合法化議論を活性化しようと狙っているのだという気がする。
それなら、この91歳の女性は
そのための手段として利用されているとも言えるような……?
【その他、Dr. Irwin関連エントリー】
スイスで自殺幇助に付き添ったパートナー逮捕(英)(2009/7/19)
英国で患者の自殺を幇助した医師が「証拠出すから逮捕に来い」と(2009/7/28)
英国で、自殺幇助容疑で元GP逮捕へ(2009/9/28)
自殺幇助ガイドライン後、初の起訴か(英)(2010/4/25)
英国のDr. Death「元気な高齢者にも医師による自殺幇助を」(2010/8/16)
中高の授業でDr. Deathが自殺装置を披露する「教育ビデオ」(英)(2011/4/17)
「Dignitasで死んだ人の遺灰がどこでどうなっていようと別に」とDr. Death(2011/5/15)
Sussex州、Eastbourneのケア・ホームで暮らしている91歳の女性は
酷い関節炎と視力の低下で、これ以上生きているのは耐えられないと言い、
この数カ月の内にDr. Irwinに伴われてスイスのDignitasへ行くことを計画中。
「通常なら親族とか親友が一緒にいくべきだと思われるだろうけれど、
この人の場合夫はすでになく、子どものない人なので」とDr. Irwin。
また同医師は、
自分が関与しているPAS合法化ロビー団体SOARSの調査では
英国国民の6割以上が合法化を支持しているとの結果が相次いでいるとも。
しかし、地元警察は、
この計画についてDr. Irwinに事情を聞くと言っているとのこと。
Pensioner to visit Swiss suicide clinic in Sussex’s first assisted death bid
Eastbourne Herald, September 12, 2011
以下のエントリーで取り上げたように、
これまでに英国では少なくとも44件の明らかに自殺幇助だった事件が
起訴が公益にならないとして不起訴になっており、
一件として起訴になった事件はないのですが、
英では2009年以降、少なくとも44件の自殺幇助事件が不起訴に(2011/9/4)
これまでに複数の患者をDignitasに連れて行っているDr. Irwinについてまで
去年6月に不起訴処分の決定がでているのが私には一番解せないところ ↓
自殺幇助の元GPに英国公訴局長「証拠はそろっているけど、公益にならないから不起訴」(2010/6/26)
この判決が出ている限り、
今回この女性を連れて行ったとしても、やはり
「証拠はそろっていても不起訴」ということになるんじゃないでしょうか。
それに、Dr. Irwinはこうして次々にコトを起こして話題を作り、
英国での合法化議論を活性化しようと狙っているのだという気がする。
それなら、この91歳の女性は
そのための手段として利用されているとも言えるような……?
【その他、Dr. Irwin関連エントリー】
スイスで自殺幇助に付き添ったパートナー逮捕(英)(2009/7/19)
英国で患者の自殺を幇助した医師が「証拠出すから逮捕に来い」と(2009/7/28)
英国で、自殺幇助容疑で元GP逮捕へ(2009/9/28)
自殺幇助ガイドライン後、初の起訴か(英)(2010/4/25)
英国のDr. Death「元気な高齢者にも医師による自殺幇助を」(2010/8/16)
中高の授業でDr. Deathが自殺装置を披露する「教育ビデオ」(英)(2011/4/17)
「Dignitasで死んだ人の遺灰がどこでどうなっていようと別に」とDr. Death(2011/5/15)
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