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ちょっと遅くなったお昼ご飯を食べながら
なんということなくCNNをつけたら、
ほどなくPalin氏の副大統領候補指名受諾スピーチが始まって、
ついつい、そのまま最後まで見てしまった。

見栄を張らずに正直に明かすと、
完全にわかったのは8割ちょっと、というところかなぁ。

なので the Guardian に出ていた全文を以下に。
(ビデオもあり。なんだかちょっと
「場違いなところに引っ張り出されて戸惑いつつ健気に頑張った女の子」ふうな感じも……。)



冒頭で子どもを戦場に送る母親の1人として、
自らも22年も従軍し、イラクに駐留する米軍を信じ今まさに勝利をもたらそうという
McCainのような人こそ、最高司令官になってもらいたい人物であると述べ、

長男が9月11日にイラクに派遣されることを母親として誇りに思っていると語って、
家族の紹介を始めていきます。

長女が未婚のまま妊娠していることには触れず、3人の娘を紹介、
その後で5人目のダウン症のTrigに触れます。

その下り。

And in April, my husband Todd and I welcomed our little one into the world, a perfectly beautiful baby boy named Trig. From the inside, no family ever seems typical. That’s how it is with us. Our family has the same ups and downs as any other … the same challenges and the same joys. Sometimes even the greatest joys bring challenge. And children with special needs inspire a special love. To the families of special-needs children all across this country, I have a message: For years, you sought to make America a more welcoming place for your sons and daughters. I pledge to you that if we are elected, you will have a friend and advocate in the White House.

4月に夫のToddと私には末っ子が生まれました。
とてもかわいらしい男の子です。名前はTrig。

どんな家族でも、当の家族にしてみれば、自分たちがどこにでもある定型通りの家庭だなんて思えません。
私たち家族にとっても、そうです。

私たち一家も他の家族と同じように、いい時も悪い時も経てきました。
他の家族と同じように苦しいことも嬉しいこともありました。

時として、最も大きな喜びが苦しいことを連れてくることがあります。
特別なニーズのある(障害のある)子どもは特別な愛を親に呼び覚ましてくれます。

障害のある子どものいる、この国の全てのご家族に、メッセージを送ります。

あなた方は長年に渡って、
アメリカを、子どもたちをもっと受け入れてくれる場所にしようと求めてこられました。

私はあなた方に誓います。
もしも私たちが選ばれたなら、
私はホワイトハウスであなた方の友人、アドボケイトとなります。

さすがに、この辺りはちゃんと聞き取れて、

なんというか、結婚式の花嫁の作文と同じで、
正直、ぞわぞわっと感動させられる。じい~んとも、くる。

なにしろ障害児の親って、こんなに力強い約束の言葉なんか今まで聴いたこともないもんだから。

で、結婚式で花嫁の作文を無理やり聞かされている時と同じで、
じい~んとしながらも、どこかで醒めて「ふ~ん……」と聴いていたりもするのだけど。

すごく個人的な願望としては、
誰か Palin氏に Ashley事件について見解を聞いてみてくれないかな。
2008.09.04 / Top↑
いろんなことを考えさせられる映画なので、
とりとめのないことになりそうですが、
感じ、考えたことのいくつかを。

まず生徒さんたちはもちろんなのだけど、
先生方がとてもいい顔をしておられるなぁ……ということ。

私の友人・知人にも教育畑の人は多いのですが、
みんな業務と競争と管理(する方もされる方も)に疲れ、神経をすり減らして
肉体的にも精神的にもボロボロの崖っぷち状態。
心を病んでいる人や、限界がきている人もいて、
こんなに満ち足りた顔で働いている人はいません。

それはもちろん、生徒たちにとっても
昼間の一般の学校があまりいい場所にはなっていないということに違いなく。

実は私は映画の途中から「あ、この空気は知っている」と感じ始めました。
ここに描かれている教育は
娘が5年半在籍した通園施設や12年間通った養護学校にあった教育の姿勢と
根本のところで通じていくものがあるように感じられたから。

障害のある子もない子も一緒に学び育ってこそ、
障害のある人を当たり前に受け入れていく社会が作られるのだという
ノーマライゼーションやインクルージョンの考え方からすれば、
これは「政治的に正しくない」考え方なのかもしれないけれど、
私は娘が養護学校で教育を受けたことを、娘自身のために、ラッキーだったと思っています。

何年生だからこれをしなければならないというのではなく、
子ども自身の持っている力や興味から始まって、
じゃぁ、これをやってみましょう、というふうに作られる授業。

テーマや課題はクラスみんな共通だけど、その具体的なやり方では
子ども一人ひとりに応じた工夫がされている、という授業。

大人でも子どもでも、楽しめることしか身につかないし、
一番楽しめるのは「ちょっとだけ頑張ったら自分にも出来ること」。
どう頑張ったってできるはずのない課題を出されたら
やる気になるはずがないし、そんなことで伸びるはずもない。
その人自身の持っている力より、ほんの1歩か2歩だけ先の目標が
その人を一番やる気にさせるし、一番その人の力を伸ばすことができる。

寝たきりの全介助で言葉を持たないウチの娘は
通園施設と養護学校での教育を通じて
みんなと遊ぶこと、学ぶことの楽しさを知り、
言葉がなくても表現したら人は受け止めてくれるという信頼を身につけ
「やってみたら出来た」という達成感のうまみを知り、
いつのまにか「今より一歩先の目標」を先生よりも親よりも的確に自分で見つけるようになった。

先生が絵筆を取り出すとと自分から手を伸ばし、
先生が代わりに描いてしまうほど過剰な“手伝い”をしようとすると
「やめて、私は自分が描きたい」と手を振り払って主張するまでになった。

どんな絵が描けるか、じゃない。
絵筆を持てるか、使えるか、でもない。
何よりも「私は自分でやりたい」と言葉がなくてもちゃんと主張してみせるだけ、
この子がしっかり自分を持していること、
人として誇りを持っていること
表現すれば伝わる、主張してもいいんだと人を信頼していること。

時に紙をはみ出して机を塗って、わざと叱られてみたり、
油断している先生の手に、偶然を装って筆を飛ばしてみたり、
自分から関わりを求めていくことも、相手によっては(ここは良く人を見ている)ある。

これだけ重い障害のある娘をそこまで成長させてもらったことに対して、
私はこの子の教育に関わってくださった先生方に深く感謝しています。

もちろん、それだけの教育が養護学校で可能だったのは、
個々の先生方に恵まれたのと同時に、それだけの教員配置がされていたからです。

(中学部を終えるまでは、クラスの生徒数と同じ数の担任が配置されました。
 特別支援学校に転換されたのは娘が卒業した直後の春ですが、
 その数年前から毎年じわじわと教員の配置数が減らされ、
 子どもたちが校外学習に出かける機会も制限を受けて減っていきました。
 当時、いろいろ謳われ議論されていた特別支援教育の大きな理念とは
 全く反対のことが現場では進行していたことが気になります。)

本当は、障害のある子どもの教育も障害がない子どもの教育も、
本質は同じところにあるはずなのに、どこかがズレている、と思う。

自力で80点取れる子どもに100点を取らせることよりも
30点しか取れなかった子どもが50点取れるようになることの方が
本当は教師冥利に尽きる喜びのはずで、

それは学力をつけること自体も大切だけれど、
学力をつけることを通じて自信を持ち自分を大切にすることを
子どもに体験し身につけてもらいたいからであるはずなのに、

30点しか取れないような生徒は放っておいて、
80点取れる子どもたち全員に100点を取らせることに
全力で時間とエネルギーを注げと号令をかけられ、
しかも、やれ国際的な学力の順位だの、県別の順位だのと
今すぐに数字で成果を示せと先生方がお尻を叩かれるような
そんな今の昼間の普通学校の教育こそ、
教育の一番本質的な役割を忘れ去って異常じゃないんだろうか。

そんな、市場原理にのっとられたみたいな今の一般校の教育を正常に戻すことの方が
本当は障害児のインクルージョンの前にやるべき急務なんじゃないか、

だって、そんな一般校の原理そのものが
障害のある子どもはもちろん、勉強のできない(と見える?)子を排除する競争原理の上に立っている。

ちょうど科学とテクノロジーで人体にどんどん手を加えて
人類をさらに優れた能力をもち不老不死のスーパー人類に改良しようと狂騒する世の中が、
その陰に障害児・者はもちろん能力の高い人たち以外は排除していく原理を隠し持っているように。


「もっと優れたものになること」が本当に人をそんなに幸福にしてくれるものなのかな。

映画の中でこの先生の顔を見ていると、
それは、ちがうよなぁ……と実感する。

見城慶和先生。

自分のやるべき仕事と出会い、自分に出来ることを精一杯やり、
そのことのやりがいを楽しんで生きてきた人は
富や名誉とは無縁でも、こんなにも豊かな生活を送り、
こういう顔になるんだなぁ……。

まだ読んでいませんが、見城先生の著書は
夜間中学校の青春
見城慶和、小林チヒロ著、大月書店、2002年
2008.09.04 / Top↑
勧めてくださる方があって
東京都墨田区立文花中学校の夜間学級を取材したドキュメンタリー映画「こんばんは」
DVDを買ってみたら、とても良かった。

9月16日に東京「ポレポレ東中野」で再上映されます。
詳しくはこちら


様々な事情で義務教育を受けることが出来なかった人たちや
日本語を学びたい人たちが年齢や国籍に関係なく学ぶ、
夜間中学校という場所があるということすら
この映画を教えてもらうまで知りませんでした。

多くの人が恐らく私と同じように知らないと思うし、
この映画を見たら、「こんな教育があるのか……」と目からウロコなんじゃないかなぁ。

競うためでも勝つためでもなく、
自分を肯定し、自分に誇りを取り戻すための教育。

“競う”ということのない教育はこんなにも豊かなものなのか、と眼を見張り
社会のために有用な人間や管理しやすい人間を育てるのではなく、
一人ひとりが人として自分を大切に生きていく力を育てる教育を
いつの間にか考えさせられる。

本来、教育って、こういうものじゃなかったのか──と。

見ていたら、私の頭には remedial という言葉、さらに、そのイメージから
「教育が医療と重なっていくところ」というフレーズが浮かんできました。

文部科学省選定・東京都知事推奨作品となっているのですが、
石原都知事は見ていないと思う。
強権で日の丸・君が代を教育現場に押し付け、「ババア」、「第三国人」など、
女性や高齢者や外国人を公然と差別してはばからない知事にとって、
これは、ぞうっと背筋が冷えるほど危険な教育のはずだから。

また強権で夜間中学校をつぶされてはいけないから
このまま見ないで推奨していてもらいたい。

──そういう映画です。
2008.09.04 / Top↑