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子どもが小さかった頃
同じような障害を持つ子どもの母親同士が集まって
様々な世間の偏見や無理解に出会った体験を語り合っては
一緒に怒りを共有して盛り上がり、ストレスを解消していたことを
前のエントリーで書きましたが、

私の知り合いの中には
「子どもの障害を知ってどうしようもなく落ち込んでいたところから
 立ち直らせてくれたのは専門家ではなく
同じ立場のお母さんとの出会いだった」
という意味のことを言う人が何人もいます。

「いくら友人でも子供に障害がなかったら
話しても分かってもらえない部分がどうしてもある」
「ホンネのホンネのところは
同じ障害を持つ子どもの親同士でなければ口に出来ない」
というのも私自身も含めて障害のある子どもの親の実感のような気がします。

そういうことを体験してきて、私がいつも物足りなく思うのは
専門家の側が「支援」を云々する時に
「支援とは専門家がするもの」という思い込みから抜けてくれないこと。

市の福祉課に親の会の情報を知りたいと問い合わせたら、
「今はそんなことよりもリハビリに専念するべき時」と叱られた母親もいます。
(担当者が情報を把握していないから誤魔化しただけかもしれませんが。)

私自身、お世話になった母子入園プログラムの担当者に
ベテランの親と出会う時間をプログラムに加えてはどうかと
提案したことがあるのですが、最初はやはり
「お母さんたちはまだ混乱しているので、まず私たち専門家が関わって、
ある程度落ち着いてからでなければ」
という答えでした。

かつて障害児の親が「指導」と「教育」の対象でしかなかった時代がありましたが、
今でも一部の専門家の中には言葉が「支援」に替っただけで
親に“正しい知識”と“正しい姿勢”を持たせることがすなわち「支援」である、
と考えている人も、まだまだあるのではないでしょうか。

この時期の混乱の最大の元凶が実はそうした専門家の姿勢であり、
その姿勢から来る言動だったりする部分もあるのですが
この点に関して専門家は驚くほど無自覚です。


「障害児支援の見直しに関する検討会報告書」の
「障害の早期発見・早期対応策」という項目のあたりを読んで感じたことの1つも
やはり「支援はもっぱら専門家がすること」という抜きがたい意識。

「なるべく早く専門的な支援を行うことが、子どもの発達支援の観点からも大切」なのは
もちろん報告書に書かれている通りであり、
専門家の早期介入や専門機関の連携が重要なのだけれど、
だからと言って「専門家にしか支援ができない」わけではないし、
「同時進行で専門家以外が支援に入ったら邪魔になる」というわけでもないと思うので、

本当に「親の気付きを大切にして、親の気持ちに寄り添った支援を行っていく」ためには
むしろ「支援とは専門家が行う教育と指導」との考え方から抜け出してもらいたいような。

地域の親の会や、
それぞれの専門家が知っている「すでにそこを通り過ぎてきた親」たちを
もう少し積極的に支援のための資源として活用できないのかなぁ……といつも思う。

例えば我が子の障害を知らされた直後の衝撃の真っ只中で
とても大きな不安の1つは「自分はこの子と生きていけるんだろうか」
「自分にはこの子を無事に育てていけるんだろうか」というものだと思うのだけど、
もしも、そこで無事に一定の年齢まで子どもを育てて生き延びてきた親と出会うことが出来たら、
それは理屈抜きに「大丈夫、生きていけるよ」という証にならないだろうか。

(重度化してしまった子どもの姿はむしろ逆効果の場合があるかもしれないけれど。)

専門家にはなかなか聞きにくい質問でも、
同じ立場の親になら率直に聞いてみることも出来るかもしれない。

また、本当は支援してくれるはずの専門家から、
初期の段階で手ひどく傷つけられてしまう親も実は驚くほど沢山いるので、
そういう専門家から受けた傷のフォローができるのも
専門家ではなく同じような傷を受けたことのある親なのでは?

「そうそう、お医者さんって、そういうこと、言うよね。
 私も、こんなことを言われてムチャクチャ落ち込んだから、わかるよ」
と、今はそこをとっくに通り過ぎてきた人が笑顔でそう共感してくれるのが
一番の癒しになるんじゃないでしょうか。

少なくとも、
専門家にしかできない支援もあれば、
その一方に同じ立場の親同士にしか出来ない支援もあることを知っておいてもらいたいし、

その地域にある親の会の情報くらいは把握しておいて、
わざわざ求められなくても、ちゃんと情報提供してもらいたい。
連絡するしないは個々人の選択だとしても。

もちろん、そういう場を必要としない人もいるだろうし、
人と人のことだから組み合わせの妙というものもあるだろうから、

そのあたりを専門家が、
専門機関だけでなく地域の親も支援の資源として捉えていれば、

自分の担当してきた親で信頼関係の出来ている人たちを手持ちのコマとして見渡して
その中から「この人にはこの人を紹介してみたらどうか」という判断をしつつ
専門家と親とが連携して支援に当たるという仕組みも考えてもらえたら
本当の意味で「親の気持ちに寄り添った支援」が出来るんじゃないかと思うのだけど。
2008.09.08 / Top↑
とても強いお父さんを見つけた。

障害児に向けられる目
つくね日記(2008年9月3日)


障害のある子どもを連れて世間を出歩くと
どうしても遭遇してしまう周囲のさまざまなリアクションに
親として申し訳なくも感じ、さりとて割り切れなさも感じつつ、
実は自分がたいそう傷ついてしまっている……という気持ちを
他の何にも摩り替えずに、こんなにありのままに言葉に出来るというのは、
ものすごく強い人だなぁ……と。

これほど強い人ではなかった私は、娘が小さな頃、
娘をじっと見る人をどうしても許せなくて、
相手が気付いて目を外すまで、こっちからじっと睨み続けてやる……などという
バカなことをやっては勝手にエネルギーを無駄遣いして疲れていた。

自分が悲しい眼にあったり傷ついたりした時に
その痛みや悲しみを怒りのエネルギーに摩り替えると
悲しんでしまう自分、傷ついてしまう弱い自分から目をそらせることが出来る。
自分の中の弱さを認めずに“強い人”を演じていられる。

子どもが小さな頃の私たち母親仲間は顔を合わせると
外出先で出会った「腹の立つ世間サマ」のエピソードを披露し合っては
一緒に呆れ、腹を立て、思う存分にののしったものだったけれど、
あれは実はみんな

世間サマの無理解や時に一方的に投げ与えられる憐れみに傷ついていて、
その痛みを怒りのエネルギーに変換して分かち合い、爆発させることによって
心の中に閉じこめた悲しみに風穴を開けて、傷を癒しあっていたのかもしれない。

そういう年月を経ることによって
それでも私たちも少しずつ強くなることができたのか、
いつからか外出先で周囲の人の娘の障害に対する不快なリアクションと出くわした時に
「ああ、自分は傷ついたんだな」と受け止めることが出来るようにもなってきた。

怒りに摩り替えて“強い親”をやってしまった時よりも、
傷ついてしまった弱い自分をそのまま認めることができた時の方が
事後の精神的な立ち直りが穏やかで速いこともだんだん学習してきた。

人間が未熟だから、
それが分かってきたからといって、いつもいつもできるというわけではないけれど。

だから
親が強くなくちゃいかんだろ」と思いながら

せめて、ジロジロみないでくれよ、
俺に聴こえるような声でこっちが傷つくよなことをあれこれ言わんでくれよ

俺はハンドルに頭つけて暫く泣きたい気持ちで動けなくなることもしばしば」と
すなおに書けるこの人に、

いえ、自分では気付いていないかもしれないけど、
あなたは柳のようにしなやかに強い。

あなたは実はものすごく強い……と。


=====

と同時に、

誰もが最初からこういう柔軟な強さを持てるわけではないから
悲しんだり傷ついたりする自分の弱さから目を逸らせていられる時期というのも必要だろうし、

そういう時に一緒に「腹の立った話」を語り合って
互いの怒りを共有し、増幅させて、存分に世間の無理解をののしることのできる仲間だって
人によっては必要で、

それはもしかしたら互いの傷をなめあうことなのかもしれないけど、

そんなふうにして、少しずつ弱い自分を認めることができるようになるのなら、
同じ思いを分かり合える人間同士で傷をなめあったっていいじゃないか、と思う。

そうしていつか、今度は悲しんでいる自分、傷ついてしまった自分、不安でたまらない自分を
ありのままに打ち明けて、その悲しみや痛み、不安を静かに共有できる仲間を得ることができるなら
それもいいじゃないか、と思う。

「ハンドルに頭つけて泣きたい気分で暫く動けなかったよ」と言った時に、
「うん。そういう時って、あるよね」と
 同じ痛みを知っている共感と共に返ってくる言葉って、やっぱり大きいんじゃないかなぁ。
2008.09.08 / Top↑