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かねて補遺で追いかけてきたように
自殺幇助を明確に違法と規定するIdaho州の法案SB1070ですが、
3月14日に上院を通過したのちに
28日に下院を通過。

このほど知事もサインして、法律となったとのこと。

プロライフの全米組織AULの会長であるCharmaine Yoest医師は
「(同法は)希望を諦めて人生を終えよと圧力を受けがちな
われわれ社会の弱者に向けてアイダホが差し伸べる助けの手だ」

「自殺幇助を“権利”にしようとの意図的な試みを
アイダホ州の政治家は阻止した。

高齢者、病者、障害者に対して、品位と共感で応じるなら
それは彼らの生を終わらせることではなくQOLを改善することだ」

AUL says Idah Senate Bill 1070 (signed by the Governor) Protects the Terminally Ill, Disabled, & Elderly
Americans United For Life, April 7, 2011


どんどん勢いづいていくと見える合法化の動きに対して、
こういう揺り戻しのような動きが出てきたことは、希望のように思えないわけではない。

一方で、米国でのいわゆるプロライフの中には、
女性の選択権や同性婚の否定や、貧困層への医療を巡る「自己責任」論など、
非常に不寛容な姿勢にも繋がっているところがあることが、ずっと気にかかっている。
2011.04.08 / Top↑
このところ、お天気が良くて、
ぽかぽかと暖かい日が続いている。

お昼ご飯を食べた後で、
あれこれヤボ用を兼ねた近所のお散歩へ出掛ける。

背中を照らす日差しは、ほとんど暑いくらいで
寒い間ちぢこまっていた身体がのびのびと広がって、喜んでいる。

ぬわっし、ぬわっし、と大きなストライドで歩く。

今年はなかなか咲きあぐねていた桜も
ここ数日で一気につぼみがほぐれて、この調子なら
週末にはミュウの大好きなおむすびを(父親が)作って(おかずは母の担当ですっ)
お花見に行けるなー、昨日おとーさんとスーパーに行って花ソーセージ買ったし……

……と、ずっと向こうに電動車イスらしい人が見えた。

遠いので、やたらずんぐりと大きな白い塊のように見えるのだけど、
その白い塊が頭を載せて、くる、くる、と向きを変えながら移動する動きは
ミュウの周辺で見慣れた電動車イスのものだった。

信号をこちら側に渡ってこようとしている。

信号を渡った先(それは、ちょうど私のいる歩道の入り口にあたる)には
ちょっと傾斜のきつい個所があり、そこは路面が痛んで凸凹になっている。
いつもミュウの車イスを押して通る際の要注意箇所なので
大丈夫かなぁ、電動車イスってどのくらいの馬力があるんだったっけ? 
などと思いながら見ていると、

いたってスムーズな動きで信号を渡ると、
くいっと一旦車道に逸れて(ちゃんと難所だと知っていて避けたのね)
改めてこっちの歩道に入ってきた。

さすがー。やるなぁ……。

なんにせよミュウが基準になっている私は、
電動であれ手動であれ、車イスを自分の体の一部のように操る人たちの
鮮やかな手さばきには、いつも見惚れてしまう。

それに、電動って馬力あるんだなぁ……。

最近はいつも父親が押してくれるけど、
ミュウが小さい頃に散歩に来た時だって、
あそこの凸凹坂を押して上がるのはキツかったよ……

……てなことを思っている場合では、実はなくて、
電動車イスというのはデカいんである。
そして私が歩いている歩道は狭い。

私から見て右手はヨソ様の家やらなんやらゴチャついている。
左手はつつじ(さつき?)の植え込み。

まだ距離はあるけど、向こうからやってくる白い人の幅を目測すると、
この歩道の幅の3分の2以上を占めているように見える。どうする?

どちらかというと右寄りを歩いていた私は、
歩きながら、とっさに右に寄ってみる。……あ、でも、
車イスが左に寄ると植え込みにひっかかるか……?

じゃあ……と今度は私が左に避けようとするのを見て、
その人が車イスを私から見て右に寄せるような動きをした。
あ、でも、そっちには、どこかの庭への大きな段差があるじゃんっ。

どうする??

これ全部、ほんの数秒間の出来事なんだけれど、私はたぶん、その数秒間の間、
頭で考えることがイチイチそのまま「吹き出し」になるような
単純な身体の動きをしていたんじゃないかと思う。

ちょうど、道で出会いがしらにぶつかりそうになった人同士が
互いに避けようとしては同じ方向に避けて、またぶつかりそうになって
思わず苦笑いしながら、互いに相手の出方を図ってみる時のような
独特の“間”みたいなものが、距離を隔てているものの、その人と私の間に生じた。

……と、この辺りですれ違おうとすると狭いけど、
私がもうちょっと先に行ってしまえば、右手に小さな出っ張りがあるのに気付き、
左に避けかけた地点から、右手の出っ張りに向けて、とっとっとっと数歩ホップ。

我ながら、ちょっと滑稽な身体の動きになって、
ついテレ笑いが出る。

そこへ、その人がスイスイと進んできた。

なんだか福々しい顔をしたオッサンだった。
全身を車イスごと大きな白いタオルでくるまれているので
まるで大きな柔らかい大福モチみたいに見える。

テレて笑ったままの顔を向けたのを
大福モチは恵比寿さんみたいな大きな笑顔で受けて、
「えらい、すんませんなぁ」

「いえいえー。こちらこそ、すみませーん」
頭でもぼりぼり掻きそうな気分で、返した。

そのまま、また背中に日差しを受けて、歩く。

いましがたの自分の口調が「開けて」いたことに、
自分でちょっとびっくりしていた。

私は見知らぬ人に対してあんまり「開けている」という人じゃなく、
どちらかというと腕組みして自分を固く閉ざしているみたいな万年思春期オバサンなので。

大きなストライドで、ぬわっし、ぬわっし、と歩きながら、
なんていうか、間って、あるんだよね……と考える。

たまたま互いに相手の動きを読もうとした“間”があったこととか、
そこで私の動きがいかにも滑稽になったことだとか、

その人の全身がたまたまタオルで覆われて大福みたいに見えたこととか、
その人の福々しい顔とか、その顔が笑うと恵比寿さんみたいになったこととか、
そういう場面で挨拶し慣れている人の軽やかで柔らかい口調とか、
なんでこの辺で関西弁なんだか知らないけどオッサンの思いがけない関西弁だとか、

それから、たぶん、
たまたま今日の空がみごとに晴れ渡っていたこととか、ポカポカ暖かかったこととか、
長く寒かった冬が終わって、その人もミュウも気軽に外に出られる季節がきたことだとか、
たまたま前の日に花ソーセージを買ってたこととか

たぶん、そういう、“たまたま”があれこれみんな寄って集まって、
その瞬間にしかありえない、不思議な“間”……みたいなもの……?

――いや、理屈はいいんだ、そんなの。どうでも。
だって今日は、ほ~んと、あったかい。

春がきたよ、ミュウ。
2011.04.08 / Top↑
記事の書き出しが、まず
「あまたある恐ろしい慢性病の中で、たった一つ、
重症の腎臓病だけが連邦政府の特別扱いを受けている」。

年齢や支払い能力を問わず腎臓不全の患者にはタダ同然の医療をと、
39年前に法律が作られた時には、

その後に高齢者がこんなに長生きするようになるなんて想定外だったし、
もともとは若い人やせいぜい中年が人工透析によって元気になり
働いて生産的な人生を長く送ることができるようにと意図されたものだった。

それなのに、多くの高齢者が長生きするようになって、
そのためにあっちもこっちも合併症だらけで
人工透析をしたからといって、治るわけでもなければ
さほどの延命効果があるわけでもないのに
患者の自己選択だからというだけで高価な人工透析が行われている。

今年、米国が重症の腎臓病患者の人工透析に費やすコストは
400億から500億ドルと言われる。

今では毎年100万人に400人以上の割合で人工透析患者がおり、
その3分の1は65歳以上の患者で、そこに経費の42%がつぎ込まれている。
75歳以上の透析患者も増える一方だが、彼らは高齢者の常で
糖尿病、心臓病、脳卒中、進行した認知症すら抱えている。

そういう重症な慢性合併症を抱える高齢患者は
透析をしたところで長くは生きられない。

透析をやっても余命が1年そこそこと見られる、そういう高齢患者には
人工透析をやらずにホスピスを選択しろというのが言いにくければ
「人工透析なしの医療マネジメント」という新たな名称を使ってはどうか。

それによって
何もせずに死なせるためにホスピスに送るわけじゃないですよ、
ちゃんと緩和ケアをしてあげますよ、というメッセージを送ってはどうか。

When Ailments Pile Up, Asking Patients to Rethink Free Dialysis
The NYT, March 31, 2011


例えば、どういう経緯でかターミナルになって、
人工透析が本人にとって負担にしかならないから
やめておいた方が本人のためだというケースがある……というのは分かる。

そういう患者さんにも、病院の利益だとか、家族の無理解その他なんらかの理由で
本人を苦しめるだけの過剰医療が行われているなら、それは止めた方がいいと私も思う。

だけど、それは、以下のエントリーで書いたように、
日本の尊厳死合法化議論を巡る4つの疑問(2010/10/28)

「個別の判断をもっと丁寧にして過剰医療はやめましょう」という筋の話であって、
「コストがかかるから、どうせ長生きしない合併症のある高齢者には諦めてもらおう」と
線引きの話とは、本来筋が違うだろう、と思う。

それに、この記事を読んで単純に疑問に思うのは
そういう患者に人工透析をしてもせいぜい1年ほどのことなのなら
彼らを切り捨てて浮くコストというのも全体に占める割合は小さいはず。

この点は、シアトルこども病院のWilfond医師が
障害児への医療切り捨てを主張するFostらへの反論として
「医療費全体で考えれば、大した額ではないのだから
コストを主たる問題にして子どもの医療を考えるのは止めよう」と
提案していたことに通じていくのでは。

(もっとも、それは07年の話であって、その後の展開を考えると
今のWilfond医師が同じことを言うとも思えない節はあるけど)

もちろん、この記事のような話が次々に出てくることで
「それでも私はやりたい」とは言いにくい空気が広がっていくだろうし、
現場のあれこれや、担当医師の説明姿勢も当然影響されてくるだろうから、
間接的なコスト削減効果はそれを上回って大きくなるんだろうし、
狙われている効果は、むしろそちらなのかもしれないとも考えてみたりするけども。


【関連エントリー】
「功利主義はとらない」……南アフリカの人工透析患者選別委員会の模索(2010/12/17)

この12月17日のエントリーの最後に触れているNHKの
クローズアップ現代の「ある少女の選択」での人工透析拒否については、
こちらの補遺に、ちょっとだけ書いています ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62289982.html


このケースを巡るNHKの表現の選択に見られるように、

「人工呼吸器や胃ろうや人工透析によるケアを受ければ
それなりのQOLで生きていくことができる」ことをもって
乱暴にひとくくりに「延命」と称する場面が日本でも
目についてきたのはとても危険なことではないかと
私は感じています。
2011.04.08 / Top↑