トンコさんのブログに、日本の原発推進を担ってきた専門家16人が連名で政府に提出した「福島原発事故についての緊急建言」。トンコさんが指摘しているように、これもまた大きく報道されることがない不思議。“国際水準の医療”で本当は起こっていること、議論されていることが日本では大きく報道されることがない不思議と同じように。
http://blogs.yahoo.co.jp/tonko_hard/51593789.html
ビル・ゲイツ、今度はアブ・ダビの皇太子と一緒に、アフガニスタンとパキスタンの子どもたちのワクチンに100万ドル。
http://biomedme.com/biomed-business-middle-east/sheikh-al-nahyan-gates-donate-100m-for-child-vaccines.shtml
BBCの記事で、「スター・トレック」のパトリック・スチュアートが自殺幇助合法化アドボケイトのパトロンとなることを決めた、と。
http://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-13108471
BBCが作家PratchetteをプレゼンターにALS患者のDignitas死のドキュメンタリーを作ったことに対する批判記事がGuardianに。タイトルは「どの命が生きるに値するかを誰が決めるのか?」。副題が「健全な身体の者が病者や弱者の運命を決めることは絶対にあってはならない」。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/apr/17/barbara-ellen-assisted-death
物議を醸している、そのBBCのドキュメンタリーについて、Wesley Smithが「WHOの自殺防止メディア向けガイドラインに違反している」と指摘。それに対して、2つばかり「言論の自由」の線から反論が入っている。
http://www.firstthings.com/blogs/secondhandsmoke/2011/04/15/cheerleading-bbc-pushes-suicide-by-violating-who-prevention-reporting-guidelines/
州民皆保険のパイオニア、MS州が、包括支払いと、コスト削減と予防医療の成果主義の導入の方針を打ち出した。
http://www.washingtonpost.com/national/massachusetts-pioneer-of-universal-health-care-now-may-try-new-approach-to-costs/2011/04/07/AFDrunkD_story.html
米国初のES細胞治療実験の被験者は交通事故で半身まひになった21歳の青年。とても信仰心の篤い人のようだ。被験者第1号になったことは「神のご意思」と。
http://www.washingtonpost.com/national/stem_cells_were_gods_will_says_first_recipient_of_treatment/2011/04/14/AFxgKIjD_story.html?wpisrc=nl_cuzheads
ローマ法王ベネディクト16世は枢機卿時代から臓器移植では積極的賛成派なんだそうな。知らなかった。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/gaishin/499360/
米国のスーパーマーケットに並んでいる肉類の半分がブドウ球菌に汚染されていて、その4分の1は耐性菌。:米国の食肉って、成長ホルモンやら抗生剤やら、しこたま使われているんだったよね。
http://www.washingtonpost.com/national/study-half-of-meat-poultry-tainted-by-bacteria-1-in-4-samples-have-drug-resistant-germs/2011/04/15/AFDEYpjD_story.html
オーストラリアの化粧品にはヨーロッパ、日本、スウェーデン、サウジアラビアでは禁じられている成分が含まれていて、リスクがある、との指摘。:そういえば、ずいぶん前にナノテク化粧品のリスクがどうこうという記事を見たような……。
http://www.canberratimes.com.au/news/local/news/general/fears-on-beauty-industry-chemicals/2136143.aspx?src=enews
http://blogs.yahoo.co.jp/tonko_hard/51593789.html
ビル・ゲイツ、今度はアブ・ダビの皇太子と一緒に、アフガニスタンとパキスタンの子どもたちのワクチンに100万ドル。
http://biomedme.com/biomed-business-middle-east/sheikh-al-nahyan-gates-donate-100m-for-child-vaccines.shtml
BBCの記事で、「スター・トレック」のパトリック・スチュアートが自殺幇助合法化アドボケイトのパトロンとなることを決めた、と。
http://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-13108471
BBCが作家PratchetteをプレゼンターにALS患者のDignitas死のドキュメンタリーを作ったことに対する批判記事がGuardianに。タイトルは「どの命が生きるに値するかを誰が決めるのか?」。副題が「健全な身体の者が病者や弱者の運命を決めることは絶対にあってはならない」。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/apr/17/barbara-ellen-assisted-death
物議を醸している、そのBBCのドキュメンタリーについて、Wesley Smithが「WHOの自殺防止メディア向けガイドラインに違反している」と指摘。それに対して、2つばかり「言論の自由」の線から反論が入っている。
http://www.firstthings.com/blogs/secondhandsmoke/2011/04/15/cheerleading-bbc-pushes-suicide-by-violating-who-prevention-reporting-guidelines/
州民皆保険のパイオニア、MS州が、包括支払いと、コスト削減と予防医療の成果主義の導入の方針を打ち出した。
http://www.washingtonpost.com/national/massachusetts-pioneer-of-universal-health-care-now-may-try-new-approach-to-costs/2011/04/07/AFDrunkD_story.html
米国初のES細胞治療実験の被験者は交通事故で半身まひになった21歳の青年。とても信仰心の篤い人のようだ。被験者第1号になったことは「神のご意思」と。
http://www.washingtonpost.com/national/stem_cells_were_gods_will_says_first_recipient_of_treatment/2011/04/14/AFxgKIjD_story.html?wpisrc=nl_cuzheads
ローマ法王ベネディクト16世は枢機卿時代から臓器移植では積極的賛成派なんだそうな。知らなかった。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/gaishin/499360/
米国のスーパーマーケットに並んでいる肉類の半分がブドウ球菌に汚染されていて、その4分の1は耐性菌。:米国の食肉って、成長ホルモンやら抗生剤やら、しこたま使われているんだったよね。
http://www.washingtonpost.com/national/study-half-of-meat-poultry-tainted-by-bacteria-1-in-4-samples-have-drug-resistant-germs/2011/04/15/AFDEYpjD_story.html
オーストラリアの化粧品にはヨーロッパ、日本、スウェーデン、サウジアラビアでは禁じられている成分が含まれていて、リスクがある、との指摘。:そういえば、ずいぶん前にナノテク化粧品のリスクがどうこうという記事を見たような……。
http://www.canberratimes.com.au/news/local/news/general/fears-on-beauty-industry-chemicals/2136143.aspx?src=enews
2011.04.17 / Top↑
Bristolに拠点を置くClassroom Videoという会社がある。
UKのほぼ全学校に向けた映像教材を提供している。
ここが20分ものの哲学の授業用ビデオを作製した。
既に英国の14歳から18歳の生徒たちに見せられている。
そのビデオの中に、
あのオーストラリアのDr. Death ことDr. Nitschkeが登場しているという。
しかも、自分が考案した自殺装置を披露している場面なのだとか。
また患者の自殺を幇助して医師免許をはく奪されたMichael Irwinも登場し
「少なくとも9人がDignitasで死ぬのを手伝えたことを、とても喜んでいる」と語っている。
(Dr. Irwinについては文末にリンク)
制作したプロデューサーThomasina Gibsonは
「ティーンエジャーをヤング・アダルトとして扱うなら
議論のすべての立場を提示して自分たちに議論させ、
自分の考えを決めさせるべきです。
生徒からも教師からも非常に高い評価が届いていますよ」
批判的な立場からはCare Not Killingからの映像と
Baroness Campbellが淡々と訴える映像が含まれている。
しかし、批判の立場からはもちろん、
自殺幇助合法化に賛成の立場からもDr. Nitschkeの部分については
「我々は医師による自殺幇助の合法化は目指しているが、
自殺の方法そのものを広めるような人のアドボケイトをしているわけではない」と
批判も出ている。
Dr. Death suicide film being shown in schools: Euthanasia fanatic gives workshop on how to kill yourself in educational video for 14-year-olds
Daily Mail, April 16, 2011/04/16
たしか2008年ごろじゃなかったかな。
ロンドンの若者たちに自殺が相次いで社会問題になっていたのは。
たしか背景として指摘されていた中には
家庭の崩壊、親の育児力・教育力の低下、向精神薬の副作用、
雇用の不安定化、貧富の格差の固定化、などなど。
(もちろん最も重要視されて対応が言われていたのは親の教育力の低下だった)
それでなくても14歳から18歳というのは
自殺リスクが高い年齢じゃないかと思うのだけど、
そういう年齢層の子どもたちに、
学校で平然とこういう映像を見せる教師の神経が分からない。
社会のお荷物になるよりは死ぬ方がいいという価値観を植え付け、
それが多感な子どもたちを自殺に追いやったらどうするのか、との
懸念が出ているのも当然では?
それにビデオで取り上げられている2人は、いずれも
現在の自殺幇助合法化議論の中でも極論を説いている人たち。
自分がお荷物になると感じない子どもたちにも
高齢者や障害者は社会のお荷物になるよりは死ぬべきだという価値観を植え付けかねない。
……というか、そういうことを狙っている人たちが世の中には現にいるから
こういうビデオが作られてしまうんだろうな……というのが本当のところなんだろうと私は思うし、
一番コワいのはそっちなんだろうな、とも思う。
しかし、自殺幇助は英国でも今なお違法行為です。
【Dr. Irwinについてのエントリー】
スイスで自殺幇助に付き添ったパートナー逮捕(英)(2009/7/19)
英国で患者の自殺を幇助した医師が「証拠出すから逮捕に来い」と(2009/7/28)
英国で、自殺幇助容疑で元GP逮捕へ(2009/9/28)
自殺幇助ガイドライン後、初の起訴か(英)(2010/4/25)
自殺幇助の元GPに英国公訴局長「証拠はそろっているけど、公益にならないから不起訴」(2010/6/26)
英国のDr. Death「元気な高齢者にも医師による自殺幇助を」(2010/8/16)
UKのほぼ全学校に向けた映像教材を提供している。
ここが20分ものの哲学の授業用ビデオを作製した。
既に英国の14歳から18歳の生徒たちに見せられている。
そのビデオの中に、
あのオーストラリアのDr. Death ことDr. Nitschkeが登場しているという。
しかも、自分が考案した自殺装置を披露している場面なのだとか。
また患者の自殺を幇助して医師免許をはく奪されたMichael Irwinも登場し
「少なくとも9人がDignitasで死ぬのを手伝えたことを、とても喜んでいる」と語っている。
(Dr. Irwinについては文末にリンク)
制作したプロデューサーThomasina Gibsonは
「ティーンエジャーをヤング・アダルトとして扱うなら
議論のすべての立場を提示して自分たちに議論させ、
自分の考えを決めさせるべきです。
生徒からも教師からも非常に高い評価が届いていますよ」
批判的な立場からはCare Not Killingからの映像と
Baroness Campbellが淡々と訴える映像が含まれている。
しかし、批判の立場からはもちろん、
自殺幇助合法化に賛成の立場からもDr. Nitschkeの部分については
「我々は医師による自殺幇助の合法化は目指しているが、
自殺の方法そのものを広めるような人のアドボケイトをしているわけではない」と
批判も出ている。
Dr. Death suicide film being shown in schools: Euthanasia fanatic gives workshop on how to kill yourself in educational video for 14-year-olds
Daily Mail, April 16, 2011/04/16
たしか2008年ごろじゃなかったかな。
ロンドンの若者たちに自殺が相次いで社会問題になっていたのは。
たしか背景として指摘されていた中には
家庭の崩壊、親の育児力・教育力の低下、向精神薬の副作用、
雇用の不安定化、貧富の格差の固定化、などなど。
(もちろん最も重要視されて対応が言われていたのは親の教育力の低下だった)
それでなくても14歳から18歳というのは
自殺リスクが高い年齢じゃないかと思うのだけど、
そういう年齢層の子どもたちに、
学校で平然とこういう映像を見せる教師の神経が分からない。
社会のお荷物になるよりは死ぬ方がいいという価値観を植え付け、
それが多感な子どもたちを自殺に追いやったらどうするのか、との
懸念が出ているのも当然では?
それにビデオで取り上げられている2人は、いずれも
現在の自殺幇助合法化議論の中でも極論を説いている人たち。
自分がお荷物になると感じない子どもたちにも
高齢者や障害者は社会のお荷物になるよりは死ぬべきだという価値観を植え付けかねない。
……というか、そういうことを狙っている人たちが世の中には現にいるから
こういうビデオが作られてしまうんだろうな……というのが本当のところなんだろうと私は思うし、
一番コワいのはそっちなんだろうな、とも思う。
しかし、自殺幇助は英国でも今なお違法行為です。
【Dr. Irwinについてのエントリー】
スイスで自殺幇助に付き添ったパートナー逮捕(英)(2009/7/19)
英国で患者の自殺を幇助した医師が「証拠出すから逮捕に来い」と(2009/7/28)
英国で、自殺幇助容疑で元GP逮捕へ(2009/9/28)
自殺幇助ガイドライン後、初の起訴か(英)(2010/4/25)
自殺幇助の元GPに英国公訴局長「証拠はそろっているけど、公益にならないから不起訴」(2010/6/26)
英国のDr. Death「元気な高齢者にも医師による自殺幇助を」(2010/8/16)
2011.04.17 / Top↑
2月にこちらのエントリーで予告を紹介した
生活書院の雑誌「支援」が、大震災があったにもかかわらず予定通りに創刊された。
さっそく手に入れて読み始めたら、
これまで味わったことのない感じを受けた。
なんというか、軽く頭ごと、ひっ捕まえられて揺さぶられる感じ。
でも不快な感じではなくて、ゆさぶられて、ほぐされる感じ。
脳みそにゆらっ、とか、くらっ、と刺激がきて、ゆるっとほぐされて、
そこから自分が何をどう考えようとするのかは、まだ捉えようもないのだけど、
とりあえず、ゆるっという感触は面白いし、
おっ、いいんとちがう、これは……?
なんか開けていく感じ……? みたいな。
ちょっと夢中になり、2日かけて書評から編集後記まで読んだ。
やっぱり一番面白かったのは「『個別ニーズ』を超えて」という特集で、
その中でも、やっぱり目玉の、三井さよ氏の「かかわりのなかにある支援」(p.6-43)
(恥ずかしながら私は三井さよさんについて今まで何も知らなかった)
多摩地域の知的障害者への支援活動との関わりを通じて、
個別ニーズに応えることを前提とする「個別ニーズ視点」を批判的に捉えかえして
「知的障害は当時者に属するのではなく、関係の中に存在する」と考え
個別ニーズの判断よりも先にかかわりを置く「かかわりの視点」を考えてみるもの。
個別ニーズ視点が、当時者を「ニーズのある人」と規定することから始まり、
それによって支援の必要を障害のある人の側にのみ帰することによって、
「その人を自らのかかわる他者として捉えていないのではないか」
また、そのニーズに適切な対応ができる人以外のかかわりを排除する姿勢にも
繋がっていくのではないか、と問題提起し、
「当時者のふるまいや思いを、自らの関与や多様な人たちとのかかわりのなかから探り、
そのつどいま何が起きているのか、誰が何をどのように必要としているのかを
問いなおそうとする支援のあり方」を「かかわりの視点」として提言する。
これ、“Ashley療法”論争の核心にズバリと迫っていく問題だと思う。
「知的障害は当時者に属するのではなく、
関係の中に存在する」というのは著者によると
その人は伝えているにもかかわらず、こちらが理解できていない。その人がわからないだけでなく、こちらが説明できていない。知的障害というのは、そうした現象なのではないだろうか。
本当は問題の質が違うのかもしれないのだけれど、
私がここで頭に浮かべたことを率直に書いてみると、
それは自分が英語の教師として、毎年、最初の授業で
英語でのコミュニケーションについて学生さんたちに語ってきたことだった。
私たちの多くは「英語をしゃべれるようになりたい」と思う時に、
自分が英語でしゃべる相手としてネイティブ・スピーカーを想定していて、
自分さえ「正しい英語」をしゃべれば相手に通じる、だから努力して
「正しい英語」をしゃべれるようになろう……と考えるのだけど、
現実には、このグローバル化した世界で、
私たちと同じように外国語として英語を身につけた人と会話をすることも多い。
表現する力と理解する力ともに「そこそこ」の人間同士の会話では
そこで「どの程度コミュニケーションが成り立つか」というのは
どちらか一方だけの英語力のレベルの問題や責任ではなくて
双方が不十分なところをいかに補い合えるかという共同作業の問題になる。
そういう場での「コミュニケーション能力」とは
「どれだけ正しい英語をしゃべるか」でも「どれだけ正しく聞き取れるか」でもなく
いかにその時、その場で、という一回性の中で
その人とのコミュニケーションという共同作業を担うか。
それは実はもう言語能力の問題ではなくなっていたりする。
本当は英米加豪だけが英語ネイティブじゃないし、
もともと英米加豪のネイティブが相手だとしても、
「伝わる・伝わらない」の責任はノン・ネイティブの側にだけあるわけじゃない。
だって、誰かが手持ちの英語で必死に話しかけているのに
「あんたの言ってること、さっぱり分からんわ」とネイティブに
ハエでも払うような手つきで追い払われてしまったら、
そこでコミュニケーションが成立しなかった責任は
話しかけた方の英語力にあるわけじゃないよね。
私たちは、知的障害のある人とのコミュニケーションにおいて、
または言葉という表現手段を持たない人とのコミュニケーションにおいて、
そんなネイティブと同じこと、近いことをやっているんじゃないか……と
三井氏は問うているような気がした。
そういうことを無自覚的にやりながら
コミュニケーションが成立しないことの責を、その人の障害だけに負わせて、
その責を負わせられた個人のニーズにエラソーに「支援」を入れようとしているけど、
その前に、
その場で誰かに話しかけられてしまった者として
私たちもその時その場でのコミュニケーションの共同責任者であることを
自覚しないといけないこと、ない?
そうでなければ、本当の意味でその人を支援することなんかできないこと、ない? と。
問題は、関係のなかにある障害そのものではなく、そこから生じる弊害や痛みを、当時者に一方的に押し付けることにある。修正されなくてはならないのは、関係の存する障壁そのものでは必ずしもなく、そこから生じる不利益を当時者だけに集中させる社会構造の方である。
私はAshley事件と重ねて共感するところが多かったので
ここではコミュニケーションに焦点を当てましたが、
三井氏の論文はもっと広くて深いです。
次に面白かったのは「資格は必要か? ケア・介護・介助と専門性」という座談会。
土屋葉(司会)×山下幸子×星加良司×井口高志。
この座談会で私が一番面白かったのは、
自立生活モデルだけでは知的障害者の支援には限界があるということを巡っての
あれこれだったのだけど、そこのところは、自分の言いたいことを
まだうまく説明する自信がないので、またの機会に。
ただ、私自身、娘を通じて出会ったいわゆる「専門家」には
いろんなことを感じ、考えさせられてきたので、
そういうことを諸々、頭に思い返しながら座談会を読んでいて、
ふいに焦点を結んだ考えがあった。
「専門性」は「問題解決能力」とイクオールみたいに通常はなんとなく想定されているけど、
現実には両者はイクオールだとは限らない……という考え。
というか、
「専門性」を「問題解決」のために有効に生かせる専門家よりも
むしろ「専門性」を「問題解決」の足を引っ張る方向に働かせてしまう専門家の方が
多いように思えてしまうのは、いったい何故だろう……という問い。
これは、この座談会のおかげで発見させてもらった私にとっては貴重な問いなので、
この後ていねいに大切に考えてみたいと思っている。
それから、Ashley事件にも、DALYや無益な治療論にも直結していくので
のめり込むように読んで赤だらけにしてしまった記事として、
田島明子氏の「リハビリテーションとQOL - 主観・客観の裂け目から見える地平」。
全体として、
障害学にも障害者運動にも疎い私がこういうことを言っては失礼かもしれないけど、
障害学とか障害者運動というものが持っているように(無知だからか私には)感じられる
ある種の「かたくなさ」みたいなものが
ここでは解きほぐされようとしているんじゃないか、
解きほぐしてみようとしている人たちが
ここに集まっているんじゃないか……。
そんな手触りの創刊号だった。
生活書院の雑誌「支援」が、大震災があったにもかかわらず予定通りに創刊された。
さっそく手に入れて読み始めたら、
これまで味わったことのない感じを受けた。
なんというか、軽く頭ごと、ひっ捕まえられて揺さぶられる感じ。
でも不快な感じではなくて、ゆさぶられて、ほぐされる感じ。
脳みそにゆらっ、とか、くらっ、と刺激がきて、ゆるっとほぐされて、
そこから自分が何をどう考えようとするのかは、まだ捉えようもないのだけど、
とりあえず、ゆるっという感触は面白いし、
おっ、いいんとちがう、これは……?
なんか開けていく感じ……? みたいな。
ちょっと夢中になり、2日かけて書評から編集後記まで読んだ。
やっぱり一番面白かったのは「『個別ニーズ』を超えて」という特集で、
その中でも、やっぱり目玉の、三井さよ氏の「かかわりのなかにある支援」(p.6-43)
(恥ずかしながら私は三井さよさんについて今まで何も知らなかった)
多摩地域の知的障害者への支援活動との関わりを通じて、
個別ニーズに応えることを前提とする「個別ニーズ視点」を批判的に捉えかえして
「知的障害は当時者に属するのではなく、関係の中に存在する」と考え
個別ニーズの判断よりも先にかかわりを置く「かかわりの視点」を考えてみるもの。
個別ニーズ視点が、当時者を「ニーズのある人」と規定することから始まり、
それによって支援の必要を障害のある人の側にのみ帰することによって、
「その人を自らのかかわる他者として捉えていないのではないか」
また、そのニーズに適切な対応ができる人以外のかかわりを排除する姿勢にも
繋がっていくのではないか、と問題提起し、
「当時者のふるまいや思いを、自らの関与や多様な人たちとのかかわりのなかから探り、
そのつどいま何が起きているのか、誰が何をどのように必要としているのかを
問いなおそうとする支援のあり方」を「かかわりの視点」として提言する。
これ、“Ashley療法”論争の核心にズバリと迫っていく問題だと思う。
「知的障害は当時者に属するのではなく、
関係の中に存在する」というのは著者によると
その人は伝えているにもかかわらず、こちらが理解できていない。その人がわからないだけでなく、こちらが説明できていない。知的障害というのは、そうした現象なのではないだろうか。
本当は問題の質が違うのかもしれないのだけれど、
私がここで頭に浮かべたことを率直に書いてみると、
それは自分が英語の教師として、毎年、最初の授業で
英語でのコミュニケーションについて学生さんたちに語ってきたことだった。
私たちの多くは「英語をしゃべれるようになりたい」と思う時に、
自分が英語でしゃべる相手としてネイティブ・スピーカーを想定していて、
自分さえ「正しい英語」をしゃべれば相手に通じる、だから努力して
「正しい英語」をしゃべれるようになろう……と考えるのだけど、
現実には、このグローバル化した世界で、
私たちと同じように外国語として英語を身につけた人と会話をすることも多い。
表現する力と理解する力ともに「そこそこ」の人間同士の会話では
そこで「どの程度コミュニケーションが成り立つか」というのは
どちらか一方だけの英語力のレベルの問題や責任ではなくて
双方が不十分なところをいかに補い合えるかという共同作業の問題になる。
そういう場での「コミュニケーション能力」とは
「どれだけ正しい英語をしゃべるか」でも「どれだけ正しく聞き取れるか」でもなく
いかにその時、その場で、という一回性の中で
その人とのコミュニケーションという共同作業を担うか。
それは実はもう言語能力の問題ではなくなっていたりする。
本当は英米加豪だけが英語ネイティブじゃないし、
もともと英米加豪のネイティブが相手だとしても、
「伝わる・伝わらない」の責任はノン・ネイティブの側にだけあるわけじゃない。
だって、誰かが手持ちの英語で必死に話しかけているのに
「あんたの言ってること、さっぱり分からんわ」とネイティブに
ハエでも払うような手つきで追い払われてしまったら、
そこでコミュニケーションが成立しなかった責任は
話しかけた方の英語力にあるわけじゃないよね。
私たちは、知的障害のある人とのコミュニケーションにおいて、
または言葉という表現手段を持たない人とのコミュニケーションにおいて、
そんなネイティブと同じこと、近いことをやっているんじゃないか……と
三井氏は問うているような気がした。
そういうことを無自覚的にやりながら
コミュニケーションが成立しないことの責を、その人の障害だけに負わせて、
その責を負わせられた個人のニーズにエラソーに「支援」を入れようとしているけど、
その前に、
その場で誰かに話しかけられてしまった者として
私たちもその時その場でのコミュニケーションの共同責任者であることを
自覚しないといけないこと、ない?
そうでなければ、本当の意味でその人を支援することなんかできないこと、ない? と。
問題は、関係のなかにある障害そのものではなく、そこから生じる弊害や痛みを、当時者に一方的に押し付けることにある。修正されなくてはならないのは、関係の存する障壁そのものでは必ずしもなく、そこから生じる不利益を当時者だけに集中させる社会構造の方である。
私はAshley事件と重ねて共感するところが多かったので
ここではコミュニケーションに焦点を当てましたが、
三井氏の論文はもっと広くて深いです。
次に面白かったのは「資格は必要か? ケア・介護・介助と専門性」という座談会。
土屋葉(司会)×山下幸子×星加良司×井口高志。
この座談会で私が一番面白かったのは、
自立生活モデルだけでは知的障害者の支援には限界があるということを巡っての
あれこれだったのだけど、そこのところは、自分の言いたいことを
まだうまく説明する自信がないので、またの機会に。
ただ、私自身、娘を通じて出会ったいわゆる「専門家」には
いろんなことを感じ、考えさせられてきたので、
そういうことを諸々、頭に思い返しながら座談会を読んでいて、
ふいに焦点を結んだ考えがあった。
「専門性」は「問題解決能力」とイクオールみたいに通常はなんとなく想定されているけど、
現実には両者はイクオールだとは限らない……という考え。
というか、
「専門性」を「問題解決」のために有効に生かせる専門家よりも
むしろ「専門性」を「問題解決」の足を引っ張る方向に働かせてしまう専門家の方が
多いように思えてしまうのは、いったい何故だろう……という問い。
これは、この座談会のおかげで発見させてもらった私にとっては貴重な問いなので、
この後ていねいに大切に考えてみたいと思っている。
それから、Ashley事件にも、DALYや無益な治療論にも直結していくので
のめり込むように読んで赤だらけにしてしまった記事として、
田島明子氏の「リハビリテーションとQOL - 主観・客観の裂け目から見える地平」。
全体として、
障害学にも障害者運動にも疎い私がこういうことを言っては失礼かもしれないけど、
障害学とか障害者運動というものが持っているように(無知だからか私には)感じられる
ある種の「かたくなさ」みたいなものが
ここでは解きほぐされようとしているんじゃないか、
解きほぐしてみようとしている人たちが
ここに集まっているんじゃないか……。
そんな手触りの創刊号だった。
2011.04.17 / Top↑
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