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昨日、ホリエモンが、かつてのあのマネーゲーム犯罪で
出頭して収監されるというのでメディアやら“支援者”やら、ただの野次馬やらで
大騒ぎになっている様子をお昼のワイドショーで見ていたら、

今まで、以下のエントリーなどで考えてきた
グローバル金融ひとでなし(慈善)ネオリベ資本主義と
「科学とテクノの簡単解決文化」とが繋がっているカラクリについて何となく考え始めて、

巨大ファーマがかつてのゼネコンなのだとしたら……(2009/9/29)
事業仕分けの科学研究予算問題から考えること(2009/12/12)
「必要を創り出すプロセスがショーバイのキモ」時代と「次世代ワクチン・カンファ」(2010/5/29)
“プロザック時代”の終焉からグローバル慈善ネオリベ資本主義を考える(2011/6/15)


特に、日本の「ワクチン産業ビジョンの要点」の怪のエントリーで書いた、
次のようなことが、またあれこれと頭に浮かんだ。

ここ数十年の世界経済や金融での大きく急速な構造変化が起きていること、それが、製薬業界・医療機器業界を中心にした科学とテクノロジーの分野の諸々を、否応なく経済と金融の領域の問題にしてしまっていることなどが、

ずっと医療の中にいて、すべてを医療の中の問題、医療の専決事項として眺め考えてきた現場の医師の多くには、捉えきれていない……という面があるんじゃないんでしょうか。



そんなことを考えながら、でぶでぶのホリエモンをぼや~っと見ていたら
頭に浮かんだことは、

「医療は儲かる」というのは昔から一般常識だった――。

だから、苦しんでいる人を助けられる仕事に、と志す人の中に混じって、
金持ちになりたいから医師になろうと思う人は昔からいたし、
私の中学時代の同級生の一人は「お金がなかったら、
しなくてもいいケンカをしなければならないのが夫婦だから
私は絶対に医者と結婚する」と言い、11歳で既に
それを自分の前半生で最も重要な信条としていた。

でも、たぶん、昔の「医療は儲かる」というのは、
どういう形であれ「医療に直接携わっている人が儲かる」という話だったんじゃないのかな。

そして、医療に直接携わっている人というのは、
基本的に医療に携わるものとしての一定の倫理観をそれなりに持ち、
患者のために働き、自分の生活を犠牲にしたり、時には身を粉にすることも厭わず、
まぁ、儲かる分、それだけの負担も責任もリスクも背負っているよね……という程度には
働きと儲けとのつり合いがとれていた時代だったんじゃなかろうか。

もちろん悪辣なことをやってボロ儲けをする人は
どこの分野にもいるだろうけど、それでも臨床でそれをやってボロ儲けするのだとしたら
その儲け幅だって、それなりの範囲にとどまっていたんじゃないだろうか。

その時代だって企業とつるんで旨い汁を吸う研究者はいただろうけど、
その人たちが懐にするカネの高だって、そういう長閑な時代相応に
やっぱり、それなりだったんじゃなかろうか。

でも、たぶん、IT技術とグローバリゼーションが
金融の世界の仕組みやスピードやダイナミズムを
ごろりと様変わりさせてしまったことで、「医療は儲かる」には
全く別のヴァージョンが誕生したんじゃないだろうか。

医療と直接的な関係などまったくない人たちにとっての
「医療は儲かる」ヴァージョンBみたいのが――。

例えばホリエモンみたいに、
ただ、ある日ある時間に、インターネット上でクリックして
カネを右から左へと何度か移動するだけで巨額のカネを手に入れる人たちが誕生した。

「医療は儲かる」ヴァージョンAでの臨床医の儲けが子どもの遊びに思えるほどの巨額のカネを、
臨床現場など知りもせず、患者に触れることはおろか見ることすらなく手に入れる人たちが――。

そういう人たちには、もちろん
医療を巡る倫理意識なんて面倒くさいものは、ない。

例えば、「着床前遺伝子診断の問題」の話題が出れば、
彼らは多分「ポテンシャルが大きい成長分野だね。
今はダウン症が狙い目だけど、ダウン症のニーズはの氷山の一角に過ぎないからね」
なんてことを、したり顔して言うんだ。きっと。

その技術が医療において一体何を可能にし、
そこにどういう問題が潜んでいるのか、なんて興味の外なんだ、きっと。
「倫理問題……ナニそれ?」てなもんかもしれない。

「これこれの新しい薬または医療技術が開発されている、有望である」という話は
「これこれの新しい繊維が開発された。これは当たる」という情報と同じく、
投資行動を決めるための参照情報に過ぎないんだ。きっと。

ある薬の副作用で子どもが死んで裁判になったと聞いても、
それで訴えられた企業の株価がいくら下がるか、ということが最大の関心事なんだ、きっと。

そういう人たちが医療関連の企業の株主さんになって、
ものすごい速度とものすごい規模でカネが動かされ、利益も損失も巨額になった世界は
企業にも、株主を儲けさせるという株主への責務を最も重要な使命として要求していく。

しかもスピーディに。常に成果を出し続けることを。
現場と繋がっていないからこそ哲学的なジレンマや倫理意識からも自由でいられる、
子どもみたいな単純素朴な算術的思考回路で。

短期決戦的エネルギーの使い方を長期持続的に労働現場に求め、強いながら。
現場の人たちを職業倫理と成果&効率とで板挟みにし、ギリギリと締めつけながら。

ホリエモンなんかメじゃないような桁違いのカネを動かせる人たちが大株主になって
多国籍化した医療関連企業に対して発言権を行使していく。倫理意識なんてないままに――。

「医療は儲かる」って、そんなふうに
ビッグ・ファーマや医療機器関連企業やバイオ企業に投資する人たちの、
“モラルも倫理もなき医療は儲かる”ヴァージョンBの話にすり変っちゃったのでは――?


英国政府がビッグ・ファーマに「倫理観を持って」と呼びかけていたのは
2008年のことだったけど、その背景にあったカラクリって
要するに、そういうことだった……?

でも、それから、よもや、たった3年で、
英国政府や米国政府や日本政府の方に「倫理観を持って」と呼びかけたいような
「医療(ワクチン)施策」不在の「医療(ワクチン)産業」施策の時代に突入してしまうなんて……。
2011.06.21 / Top↑
いただきもの情報で、

日本語記事
「姉への移植のために生まれた妹、論争から20年後に米テレビ番組で心境語る。」

上記のビデオのある英文記事。
http://today.msnbc.msn.com/id/43265160

当時のTIME記事。英文。
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,973182,00.html


20年前に米国で
白血病の娘のために、骨髄ドナーを探しまわったけれど見つからなくて、
ドナーになってくれる最後の望みを託して、次の子どもを産む決心をした両親が
そんな理由で子どもを産むことの是非を巡って倫理論争のターゲットになった。

生まれた子どもは「両親の願いが通じて」「完全なマッチだった」ので、
姉への骨髄ドナーとなることができた。

その姉と妹がテレビの番組に出て、
姉は全快した喜びを語り、妹は「姉がいて姉の病気があって自分はここにいる」し、
「人の意見は様々だろうけど、私自身は両親に愛されて、この家の子どもで嬉しい」と。

日本語記事を読み、ビデオを見て
いくつか、ぱぱっと頭に浮かんだことを以下に。
(TIME記事は何年か前に読んだことがあるのですが
今回は最初のページしか読んでいません)

・上記日本語記事でもモデルになったとして触れられているし、
サイトの関連リンクの中に映画「私の中のあなた」の公式サイトが含まれているけれど、

アリッサさんのケースは「病気の姉のために次の子どもを産んだら、
親の願いが通じて完全なマッチだった」というものとして語られており、

このケースは
その過程で体外受精と遺伝子診断技術を用いてデザイナー・ベビーとして作られる"救済者兄弟”とは
「何かに利用する手段として子どもを産むこと」の問題以外の倫理性の点で大きく異なっている。
そこの区別はきちんとしておかなければならないと思う。

・ビデオの最後に医師がちょっと気になる発言をしていて、
1度しか聞いていないので言葉通りではないけれど、
「このケースが広く報じられたことで、骨髄ドナーが増え、
臍帯血の提供も進んだ今では、こういうのはすでに過去の話になったけど」
みたいなことを言っているような。

・実際にこの医師が言う通りなのだとすれば、
体外受精と遺伝子診断技術によって、胚をたくさん作ってそのほとんどを廃棄し、
デザイナー・ベビーとしてわざわざ救済者兄弟を作る必要も、
実はなくなっている、少なくとも減少している、ということなのでは……? 

・そうなのだとしたら、本当に倫理問題を重視していくとすれば、
”救済者兄弟”を許容していくよりも、臍帯血や骨髄のドナーを増やしていく方向、
骨髄提供の安全性を向上させる方向に向かうべきなのでは?

・では、なぜ倫理問題があることに目をつぶってまで合法化しなければならないのかといえば、
英国のヒト受精・胚法改正法案の冒頭に書いてあったように
「科学とテクノロジーの国際競争で先端を走り続けるため」であって、
つまりは実験として行われる意味がある……ということ?

・そういうことを全部ふまえて、
今、この姉妹がメディアに露出して、
20年前の論争が「美しい家族の愛と絆の物語」として描き直されることの意味とは……?


【20日追記】
このケースの時代の技術について以下のご教示をいただいたので追記。

確率が23%(約4分の1)というのは、HLAが完全一致する割合なので、
着床前診断(受精卵診断)の中でも(目で見える)染色体ではなく、遺伝子診断が必要。

PCR(遺伝子解析)技術が87年に開発され、着床前診断も90年には報告されているが、
多分、このケースでは、時期的に選択は無理だったと思われる。

羊水穿刺で調べて違えば中絶というやり方も、一応は考えられるが、
さすがにそれは計画していなかったのではないか。

つまり「骨髄移植に必要な”判別”は可能になっていたけど、
胚の”選別”は技術的にまだ可能ではない時代だった」ということ……と私は理解しました。


【救済者兄弟 関連エントリー】
”救済者兄弟”
英国の”救済者兄弟”事情 追加情報
兄弟間の臓器移植 Pentz講演
臓器目的で子ども作って何が悪い、とFost
ヒト受精・胚法に関する英国医師会見解
英国議会、ハイブリッド胚と救済者兄弟を認める
“救済者兄弟”フランスでも2004年に合法化(2009/9/18)
フランス生命倫理における「連帯性」(2009/9/28)
英国で初めて、“救済者兄弟”からの骨髄移植ファンコーニ貧血の姉に(2010/12/22)

【映画関連エントリー】
ピコー「私の中のあなた」、キャメロン・ディアス主演で映画化(2009/6/22)
映画「私の中のあなた」は“空想”でも“未来の話”でもなく、既に現実(2009/9/15)
臓器移植ネットワークが映画「私の中のあなた」とタイアップすることの怪(2009/9/16)
沢木耕太郎氏の「私の中のあなた」レビュー(2009/9/19)
映画「私の中のあなた」を見る前に原作小説を再読(2009/10/8)
映画「私の中のあなた」を見てきました(2009/10/10)
「私の中のあなた」映画と小説のレビューを書きました(2009/12/4)

【この映画を機に考えたこと】
“ドナー神話”とは“母性神話”の再生産ではないのか?(2009/10/17)
「親から子への臓器提供は賞賛する必要もない当たり前の義務」とA事件を擁護したRoss(2009/10/26)
「ドナー神話」関連での頂きもの情報一覧(2009/10/26)
救済者兄弟に関して、ふっと浮かんだ“今さら”の疑問(2009/10/15)
2011.06.21 / Top↑
……と、妙なエントリー・タイトルになってしまいましたが、
宮部みゆきの「孤宿の人」は、江戸時代の四国の架空の小藩を舞台にした時代小説です。

Amazonにある出版社からの紹介には、以下のように書かれています。

讃岐国、丸海藩――。この地に幕府の罪人・加賀殿が流されてきた。以来、加賀殿の所業をなぞるかのように毒死や怪異が頻発。そして、加賀殿幽閉屋敷に下女として住み込むことになった少女ほう。無垢な少女と、悪霊と恐れられた男の魂の触れ合いを描く渾身の長編大作。



加賀殿の流刑地に選ばれたのは、
地方の小藩である丸海藩が染め物の経済振興策に成功し潤ったことに目をつけた幕府が
カネを使わせて強大化を防ぐと同時に、あわよくば失策を突いて取りつぶしを狙ってのこと。
中央権力に翻弄される地方自治体の存亡がかかった緊急事態――。

冒頭、いよいよ加賀殿の到着間近に迫り、藩内の不穏な空気が濃厚になる中、
ごく他愛ない、くだらない理由による殺人事件が起こる。

けれど、何の罪もない女性が殺害された事件は「病死」として処理される。
大切な家族を殺された人たち、その周辺で事実を知っている人たち
みんなが憤りや憎悪を押し殺し、口を拭って事実を隠ぺいする。
藩を守るため、家を守るために――。

宮部作品としては正直、冗長。テンポも緩やかで、ちょっとかったるい。
でも、上下巻を辛抱して読み切ったのは、

この物語の主人公が、実は
大人たちのウソに加担することができないために居場所を失い、
大人たちに利用されて思いがけない運命に翻弄されることになっていく少女ほう ではなく、

「権力構造の下では善意の人たちまでが、それぞれに何かを守るために、
みんなでウソをつき、または自ら進んで騙されて、
架空の物語に加担させられていく人の世のカラクリ」
こそが
この物語の主人公なのではないか、と思えたから。

幕府と地方の小藩の関係は
今の日本の政府や都市部と、青息吐息の地方自治体の関係にも置きかえられるし、

さらに言えば、グローバル政府とも呼びたいほどの圧倒的な勢力と、
既に彼らの手に落ちて、外部から見えにくいのをいいことに好き放題にされていたり、
まだ踏ん張っている代わりに生き残りに汲々とさせられている各国政府との関係に
置き換えることだってできる。

そんな中で、ウソをつき、あるいは否定しないことでウソに加担し、
または自ら進んで騙される人がいる。

そういう人たちによって、多くの「愛」を巡る美しい架空物語が作られていく。
誰かがそれでカネを儲けたり、力を拡大していくための物語。
弱いものの命など、どうなってもいいとばかりに――。

「孤宿の人」の物語も、その展開につれ、冒頭で起きた殺人事件以外にも、
多くの罪もない人たちが無残な死に方をする。

それは多くの場合、強く力のある者たちの都合や
彼らの事情に帳尻を合わせるための犠牲だ。
だから、いとも簡単にころり、ころりと殺されていく。
そして、流行り病のコロリで死んだのだなどという物語で
彼らの死の惨い真相が覆い隠されていく。

真実を知っている人たちも背景の事情を知っている人もいるのに、
そして彼らはその多くが善良な人たちだというのに、それでも、
みんなで別の物語を作り広めることに加担していかざるを得ない。
それぞれに大切な何かを守るために。

ほうと出会って家族のような存在となる若い女性、宇佐の次の言葉が、
私にはこの物語のメッセージだと思えた。

……世の中には秘められた事柄がたくさんある。丸海のような小さな藩にも、他人や他家に知られたくない事情を抱えた人や家がある。そしてそれらの大方は、上手に隠されたまま時をやり過ごす。

でも、何かを本当に覆い隠してしまうなんて、けっしてできることではない。……

二人、三人、四人と、関わる目を耳が増えれば増えるほど、ますます秘密は漏れ易くなっていく。……

そして、それらの漏れた秘密の大方は、今度は知って知らぬふりの人々のなかで隠されていくのだ。

固く伏せられた琴江さまの死の真相(冒頭の殺人事件を指す)も、知っている者は知っている。知って知らぬふりを強いられている。けれどもいつか時が来れば――加賀様お預かりが、どんな形であれ無事に終わり、事を明らかにしても良くなったならば、知っている者が知っていることを、知っているままにしゃべれるようになるかもしれない。

いや、かもしれないんじゃなくて、そうしなくちゃいけないんだ。……

いつかはきっと、みんなみんな明らかにしよう。もう誰も、秘密に苦しみ、苦しめられることのない世の中にしよう。秘密のなかで、人の命が失われることのない世の中に。

そんなふうに誓っている“誰か”が、そこにも、ここにも、そこらじゅうにいるはずなんだ。


(p.280-281 ……の個所に省略あり。ゴチックの個所は原文は傍点)


宇佐は「女のくせに」と非難されバカにされつつ引手(岡っ引き)の見習いをしており、
漁師町の出身でありながら町場を担当する番屋の引手として、
対立をはらむ2つの世界の両方に繋がり自由に行き来できる反面、
それぞれの世界から疎外されてもいる微妙な存在。

しかし宇佐自身は矛盾なく一貫していて、
丸海の貧しい民に、その一人としてひとしなみに寄り沿っている。
物語の後半では、救貧院の役割を兼ねる破れ寺に住み込んで病人や困窮者の世話に当たる。

私には宇佐の姿が、今の日本で
ホームレスや派遣切りの被害者や震災や原発事故の被害者や高齢者や障害者や、
なにしろ世の中から切り捨てられようとしている人たちの側に立ち、
その人たちの傍で身を持って支援を行っている人たちに重なってみえた。

そして、さらに現代を映して象徴的だと思ったのは、
物語の展開に終始、匙家と呼ばれる医家が重要な役割を担っていること。

藩のお抱え医師である匙家は七家。

筆頭の匙家は藩主の脈をとり、周辺の権勢ある筋とも姻戚関係が何重にも結ばれて
権力の中枢に入りこみ、上層の権力と一体化し、施策立案や共謀にも加わる。
時には権力に謀殺の手段を提供する役割も担う。

こうした人たちを、
医療や、もっと広く、諸々の専門分野の御用学者と置き換えてみれば、

この小説のテーマは、
そのまま「知っていて知らないふり」で守られてきた原発の「安全神話」であり、
Ashley事件の真相を隠蔽したまま推進される「成長抑制療法」であり、
ワクチン債を売る一方で「途上国の子どもの命を救うために」と唱えては
カネが廻り回って肥えてゆく慈善グローバル金融ネオリベ資本主義ではないか、と。

七家の中にはもちろん市井の民と親しみ、彼らのために尽くす医師らもいて、
彼らは、ほうや宇佐と同じ世界の住民のようにも見えはするし、
彼女らを思いやり温かく遇することもするけれども、
同時に彼女らを藩上層部の共謀の手段として用い、切り捨てもする。

病気を口実にかくまっている患者が罪もないまま殺されると分かっていても、
差し出せと奉行所から命じられると、苦しみながらも応じる以外にすべはない。

原発、医療を始め科学とテクノロジーの分野に身を置く人は、
実は宿命的にこうしたジレンマの中にあるのかもしれない――。
そんなことを考えさせられた。

(私は、山中伸也氏の発言からは、
このジレンマが聞こえてくるような気がする)

でも、ここでも宇佐は思うのですね。

もともと染め物で特産物ができた、藩が潤った、と言っても
実際に技術を身につけ汗水流して働いている磯の民草はちっとも楽にならず
それで潤っているのは藩のごく上層部だけなのだ、

(最先端医療技術が臨床応用されたとしても下々の民の手が届く治療にはならないだろうし、
国際競争に勝っても企業と株主が潤うだけで今の弱肉強食原理では一般国民には回らない)

いっそ畠山家がお取りつぶしになったところで、
下々の民には本当はたいして影響はないのだ、と。

(自治体や国が立ちいかなくなれば、下々の民はモロに影響を被ることになるところが
江戸時代とは事情がまるで違う。でも、それを言えば、どんなに頑張っても、
どの国もいずれ頑張りが効かなくなるような残酷な仕組みが既に巡らされてしまったのでは?)

そして、

(仮に畠山家がつぶれて)井上家が匙の格式と碌を失っても、舷州先生も啓一郎先生も医者であることに変わりはない。お二人とも掘外の者たちに慕われている。畠山家に仕える匙家という枷を離れて、むしろ今までよりものびのびと丸海の人々に交わり、新しい領主の新しい治政のもと、一介の町医者として生活することが、十分にできるのではないか。
学問好きの若先生など、そっちの方こそむしろふさわしい人生であるかもしれない。……
(p.311-312)




著者はここで、
それでも個々の生き方として選択は可能だ、と言っているのだという気がする。

誰のために、何を目標や生きがいにして、その仕事をするのか、

原発が安全ではないことを知りながら
「安全だ」ということにしておかなければ都合が悪い人たちのために働いてあげて、
見返りに権威をまといカネを儲けて、ふんぞり返らせてもらい傲慢な人として生きるのか、

市井の人の中で一介の○○として、
その仕事を志した日に大切だったものを見失わず、清潔な生き方をするのか、
(ここで私の頭に浮かんだのは野の花診療所の徳永医師だった)

「いつかきっと、みんなみんな明らかにしよう」と
晴れ晴れと心に誓うことができるのは、後者の生き方をする人だろうし、

そういう“誰か”が一人でも増えていくことを願って、
今という時代の危うさをじっと透徹した目で見据えながら
宮部みゆきという作家は作品を書き続けている人なんじゃないか、と、
ちょっと退屈な長編をがまんして読み終えて、思った。
2011.06.21 / Top↑