17年間コカコーラの配達員として働いた後に失業し、無保険になったが、
膝やら関節炎やら足の怪我やら胸の出来物がどんどん痛くなって来たため、
6月9日、銀行に行くと、窓口の行員にメモを渡した。
「これは銀行強盗です。
黙って私に1ドル渡してください」
そして、
「警察が来るまで、あそこで座って待っていますから」といって、
片隅のイスに座っていたという。
犯行の前に地方新聞に手紙を送っており、
そこには以下のように書かれていた。
「この手紙が着くころには、私は1ドルの銀行強盗をしているでしょう。
私の精神状態は正常ですが、身体の方が健康ではないのです」
たった1ドルでは銀行強盗の容疑は成立せず、
彼は他人からの窃盗容疑で捕まっているが、
看護師の手当てを受け、医師の診察予約も取ってもらって、
所期の目的は達成した模様。
US man stages $1 bank robbery to get state healthcare
The Guardian, June 21, 2011
これほど露骨に社会に切り捨てられる人が増えると、
刑務所が、衣食住と医療の最低限の社会保障ということになってしまう……。
彼の手紙を受け取った地方紙の記者が撮った囚人服姿のVeroneの写真が
記事に掲載されている。
なんて悲しい顔……。
なんて悲しい時代……。
Alicia Quellette がこうした論文による考察をさらに進めて、
生命倫理学と障害者コミュニティの歩み寄りを模索・提言する著書を上梓しています。
Bioethics and Disability: Toward a Disability-Conscious Bioethics (Cambridge Disability Law and Policy Series)
Alicia Quellette
Amazonの内容説明は
Bioethics and Disability provides tools for understanding the concerns, fears and biases that have convinced some people with disabilities that the health care setting is a dangerous place and some bioethicists that disability activists have nothing to offer bioethics. It wrestles with the charge that bioethics as a discipline devalues the lives of persons with disabilities, arguing that reconciling the competing concerns of the disability community and the autonomy-based approach of mainstream bioethics is not only possible, but essential for a bioethics committed to facilitating good medical decision making and promoting respect for all persons, regardless of ability. Through in-depth case studies involving newborns, children and adults with disabilities, it proposes a new model for medical decision making that is both sensitive to and sensible about the fact of disability in medical cases.
障害のある人の中には医療現場は危険なところだと信じ込んでいる人がいる一方、生命倫理学者の中には障害者運動の活動家から学ぶことなど何もないと考えている人がいる。そう考えさせてしまう背景にある懸念や不安や偏見を理解するためのツールを提供するのが本書である。
生命倫理学は原理的に障害者の生の価値を認めていないとの批判を考察し、障害者コミュニティの懸念と自己決定権アプローチを基本とするメインストリーム生命倫理学との競合関係を調整することは、可能であるだけでなく、生命倫理が良質な医療決定を支援し、障害の有無を問わずあらゆる人を尊重していくために、不可欠なことでもある、と説く。
本書は、障害のある新生児、子ども、成人に関わるケースを詳細に検証することを通じて、医療において障害という事実をきちんと踏まえ、その事実に即した意思決定ができるよう新たなモデルを提言する。
5月18日に出されて、あちこちのメディアに出ているリリースは以下 ↓
Professor Quellette’s New Book Seeks to Unite Disability Rights Advocates with Bioethicists to Improve Quality of Lilfe for People with Disabilities
この中で引用されているQuelletteの言葉で
私が強く惹かれるのは、
「交通事故で四肢まひになり、人工呼吸器をつけることになった男性が、
病院のICUとナーシング・ホームで何カ月も外とは孤絶したまま
生きる気力をなくしました。
彼は裁判所に訴えて、人工呼吸器のスイッチを切る権利を認められました。
生命倫理学者たちは、自分の命を終わらせる選択は彼本人のものだと主張しましたが
そこに障害を巡る専門家らが介入し、家で生活しながら働く手段を見つけ出しました。
彼の生活は改善し、彼はついに呼吸器のスイッチを切らない決断をしたのです」
「生命倫理学者、障害者の権利アドボケイト、医師と看護師が一緒に考えることによって、
障害の向こうに、このケースのように、もっと大きな絵を見ることが出来ます。
そうすれば、誰にとってもQOLがポジティブなものであるような
適切かつ包括的な治療・処遇を作り出していくことができます」
昨今は日本で大人気のMichael Sandel教授も
この論文でとりあげられた養女の目の整形手術について論じているらしく
Quelletteもサンデルを援用していますが、
子ども自身のニーズとは無関係に、親自身の目的によって
子どもの身体に手を加えて作り変えようとする親のことを
サンデルはこう呼びます。
the designing parents――。
(子をデザインする親)
そうした親を巡ってサンデルの言わんとすることは
さらにWilliam Mayという学者からの引用によって示されており、
親になるとは以下のことを教えられることだとして
「子どもを生まれたそのままに贈り物、ギフトとして尊重すること。
デザインする物体や、意思によって作り出すものや、我々の野心の道具としてではなく」
「親の愛とは、
子どもがたまたま持ち合せている性能や特性によるのではなく
ありのままの子どもを受け入れることによるもの」
その上で、子どもの発達を促し、健康に留意し、必要な治療を受けさせることと
「デザインする」こととの区別を説くサンデルの説を解説した上で、
Quelletteは、再びParham判決を引き、
医療における意思決定での親の決定権は
「子どものニーズを満たす親の義務」に基づくものであり、
「子どもの身体に対する所有権」に基づくものではない、と説いて
臨床現場の実態がそうなっていないことの問題を再確認します。
この後、では、どういうモデルがよいのかの検討に入っていくのですが、
親の権限を尊重しつつ、それがフリー・ハンドの権利ではないことを明確にするため、
Quelletteが提言するのは
「子どもの権利を信託された者」としての親と、その義務と権限。
Barbara Bennett Woodhouse、 Joel Feinberg, Elizabeth and Robert Scottによる
それぞれ3つの「信託者モデル」を解説した(煩雑なので、ここでは省略)上で、
3つのモデルに共通しているのは
親の権限ではなく、子どもの福祉を増進することに目的がおかれている点。
子を親の所有物としてではなく、権利を持ったひとりの人とみなしている点。
世話をされニーズを満たされることに対する子どもの基本的な権利を確認している点。
これらの原則によって子どもの権利と尊厳を守りつつ、
3つのモデルの利点を生かし、不備を補いながら、
同様の新たなモデルの構築を模索しているのがこの論文の最後の章で、
財産の信託者の義務と責務と、裁判所が関与すべき意思決定の範囲、
違法行為とされる範囲などを詳細に参照しながら、そのモデルを検討していくのですが
権限の範囲にしても、誰が第三者となるべきかという点にしても、
かなりぐらついているように思えて、この部分は私には良く分かりませんでした。
ちょっと未消化のまま書かれているという印象ですが、
Quelletteは、こうした考えをその後、著書にまとめたようですから、
そちらに期待して、読んでみたいと思います。
いずれにせよ、今の米国の医療において、
親子の関係を上下の所有関係と捉える旧来のヒエラルキー型家族モデルの中で
子の所有者としての親の権限をフリー・ハンドで認め、
それが「親の権利」と受け止められてしまうことへの疑義と、
親は子の所有者ではなく、
子どもが一人の人として持った権利を大人になって自分で行使するまでの間、
その権利を信託されているに過ぎないと捉えて、医療においても、
その範囲での意思決定の“権限”のみに制約する枠組みが必要……との提言は、
非常に大きな意味のあると思いました。
改めて、Ashley事件で Norman Fostやトランスヒューマ二ストらが
「親の決定権」を振りかざして批判を封じようと試みたこと、
07年の論争で、一般の世論の中にも、
「実際に介護していない者が口を出すな」と
介護をしている事実が全権白紙委任に結び付いてしまったことなどを振り返り、
これは必要な議論だ、と痛感します。
(シリーズ 完)
このシリーズは、以下の内容となっています ↓
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
Quellette論文(09) 2: Diekemaの「害原則」
Quellette論文(09) 3: 法の「非服従原則」
Quellett論文(09) 4:「所有しデザインする親」から「子の権利を信託された親」へ
Quelletteによれば法の「非服従の原則」とは、
ある人の自己決定の権利は
他者の生命や身体を自分の目的に服従させる権利までを含むものではない、ということ。
クルーザン判決においても
意思決定能力の有無を問わず患者本人にしか決定できないことがあると確認されている。
(これ、日本語で言う一身専属事項ということですね)
したがって、子どもが成人して後に自分でするべき決定まで
子どもに代わって決定し、その身体に手を加える権利が
親の決定権に含まれると考えるのは、道徳的にも法的にも間違っている。
親の決定権を確認したものとして有名なParham判決でも、
親の決定権を認めつつ、子どもの最善の利益に従って行動しない親もいることが指摘され、
親の謝った決定権の行使が子どもを従属させ無用な医療や拘束に繋がる場合には
裁判所が介入すべき必要に言及されている。
さらに非服従原則を裏付けるものとして
ナチスの実験やNYの障害児施設での虐待事件などの反省、
施設での向精神薬による拘束禁止などにも触れられていますが、
病気の子どもの治療のために別の子どもの身体を利用する親の意思決定についても
一節が割かれています。
そこに書かれていることは、このシリーズの冒頭に述べたように
一昨日のエントリーや救済者兄弟の問題にも繋がって興味深いので拾っておくと、
(救済者兄弟については、一昨日エントリーにリンク一覧があります)
こうしたケースは現場で判断されることが多いが、
裁判所に持ち込まれる数少ないケースでは裁判所は進んで関与している。それは、
こうしたケースでの親の選択が、親とレシピエントの子どもの利益のために
ドナーの子どもの身体を犠牲とするものだからで、
レシピエントの子どもとの親密な関係を保てることで
ドナーの子どもの最善の利益となることが明らかな場合にのみ
臓器提供の意思決定を認めるのが裁判所の一貫した姿勢である。
裁判所は、誰かの目的にドナーになる子どもの身体を服従させることは認めない。
(この一節、Strunk判例などを考えると、かなり無理があると思う。
実際は、裁判所が容認に傾いていることを知りつつ、むしろ、その懸念から
敢えてQuelletteはそういう裁判所のあり方への抵抗として
この部分を書いているような印象を、私は受けました)
以上のように、成人の場合であっても
一人の権利は他者を服従させてまで行使を認められることはなく、
一定の基本的な意思決定は本人にのみ認められているのだから、
親だというだけで、または医療が関わっているというだけで、
子どもの人格を侵害する権利が認められるわけではない。
この点については、私も前に
アベコベというエントリーで書いたことがあります。
別の言葉で書いているだけで、これはQuelletteの主旨と全く同じだと思うので、
以下にコピペしておくと、
米国、カナダの医療において、子どもの場合は「親の決定権がすべて」という方向に推移しつつあると思われること。
もちろんワクチン接種など公共の利益を優先させようとする場合には、親の決定権を制限する方向に力が働いていこうとしているけれど、特に障害のある子どもたちの体に社会的理由で手を加えることについては親の決定権を尊重する方向性が明確になってきていて、
Ashley事件のあったシアトル子ども病院の医師らは、子どもの医療に関しては健康上の必要がないものであっても「親の決定権で」と主張している。
カナダのKayleeのケースを見ても、親の決定権は、もはや子どもの生死や臓器提供の判断にまで及んでいる。(もちろん、このケースでは医療サイドからの誘導があったのだけれども)
子どもは親の所有物なのか、と首をかしげてしまう。
しかし、気をつけておきたいと思うのは、ここでも「親の決定権」が声高に主張され意思決定の正当化に使われるのは「死なせる」「臓器を提供する」という方向の判断についてのみであって、「助けてほしい」「生きさせてほしい」という方向で親が意思決定を行おうとしても、病院や医師から「それは無益な治療だからできない」と拒まれるのだから、ずいぶんとご都合主義に1方向にのみの「親の決定権」。
医療における意思決定の議論が、例えば自殺幇助など、意思決定能力のある成人においても「自己決定がすべて」ではないというのに、子どもという弱者に関しては、その命を含めて「親という強者による決定」がすべて。
12歳~14歳になれば mature minor(成熟した未成年)として本人意思が尊重されるのに、それ以前の未成熟な未成年と知的障害のある子どもでは「親の決定権」にゆだねられる。
それ以下の年齢の子どもや知的障害のある子どもこそ、成熟した未成年よりも成人よりもセーフガードを強力にして保護すべき存在であるはずなのに、意思決定能力がないから保護する必要がないといわんばかりで、
これは絶対にアベコベだ、と私はいつも思う。
(次のエントリーに続く)
この論文でとりあげられる4つのケースのうち、
最後のAshleyケースについてはともかくとして、
私がいちばん興味深く読んだのは③の脂肪吸引のケース。
Brooke Batesという12歳の女の子。Quelletteによればこの段階での最年少。
親の要望で整形外科医が35ポンド分の死亡と水分を吸引。
その結果を親子は奇跡だと称して喜んだが、効果は続かず
Brookeは1年もしないうちに元の体重になる。
すると今度は、両親は胃のバンディング手術を希望。
米国の医師らが断ると、メキシコに連れて行った。
興味深いと思った点は、
こうした“簡単解決”技術の利用には、
目的志向型の思考回路にどんどんはまり込んでいって
技術によって得られる効果に意識が焦点化され、
それが自己目的的化してしまう危険性があるのかもしれない、と
前から漠然と感じていたことをはっきり意識させてくれたこと。
例えば本来の希望は「きれいになりたい」とか「そのために痩せたい」であり、
そこには運動するとか食生活を見直すなど他の選択肢だって沢山あるはずだし、
そうした希望そのものの設定の仕方を疑問視してみる考え方もあるはずなのに、
いったん“簡単解決”技術を頼ることによって、技術を通じて解決する方向へと
直線的に突き進む隘路にハマりこんでいく……。
それは、希望や本来の目的に応じて適切な解決策を考えるというよりも、
むしろ技術のポテンシャルの方が目的やニーズを規定していくような……。
(例えば、「ロボット技術が育児に応用可能になりそうだ」という段階から
「オムツは親よりもロボットが替えた方が衛生的で、サンプルからデータもとれれば理想的」と
ロボットの機能の方から育児行動の目的を規定し直していく児童精神科医のように)
ちなみに、米国整形外科学会の報告によると、
2007年に13歳から19歳の子どもの脂肪吸引は4960例とのこと。
Quelletteが問題視するのは
これら4つのケースのいずれも裁判所に判断がもちこまれていないこと。
現行法では、憲法と判例法により、
親の決定権が法によって保護されているかのようにも思え、
こうした4つのケースにおける親の意思決定は
子どもが通う学校や教会を親が選び決めるのと同じような扱いになっている。
昨今の家族法分野の議論では
親と子の関係を伝統的なヒエラルキー・モデルから
自己決定できる存在として子どもを尊重する他のモデルへのシフトが起こりつつあるのに、
医療法は、ある種の医療を除いて基本的にヒエラルキー・モデルをとっている。
しかし、医療においても議論がないわけではない。
そこで、Quelletteが実にさりげなく持ちだしてくるのが、
私にはもうウハウハしてしまうほど面白かったことに、
Ashley事件の担当倫理学者、Diekemaの「害原則」論なのですね。
彼の「害原則」は文末にリンクしたように
当ブログも2007年段階で拾っているのですが、
Diekema医師はAshley事件が論争になるまでは、むしろ慎重な姿勢の倫理学者です。
彼が03年に書いた障害者の強制不妊に関する論文は実に理にかなったものだし、
子どもの医療を巡る意思決定についても、
利益対リスクや害を比較考量する「本人の最善の利益」論では
子どもを十分に守ることができないとして、
まず子どもに及ぼされ得る「害」だけを検討し、
「害を及ぼさないこと」を最優先する意思決定モデルを用いるべきだと
2007年のシアトルこども病院の生命倫理カンファで説いています。
これが彼の説く「害原則」harm principle。
(この原則によれば、
Ashleyの両親の要望を彼は認めてはならなかったはずなのですが)
Quelletteの論文で初めて知ったのだけど、
彼は害原則について2004年に論文も書いているようです。
しかし害原則だけでこれら Shaping ケースを制限することには限界があると
Quelletteは言います。
その理由は以下の3点。
①害原則判断は必然的に個別の介入またはケースごとに行われるものである。
②医療が行われない場合には有効だけれど、過剰に行われるケースでは機能しにくい。
(Diekemaの上記プレゼンも、確かに、親の医療拒否ケースが前提でした。
でも、その中で彼は親が医療を要望してきた場合を想定して、
親の希望に沿ってあげるとしたら「通常の臨床の範囲内で」と一定の基準を示しています。
これもまた、AshleyケースでDiekema本人が逸脱した基準なのですが)
③害原則は、害さえ及ばなければ親の決定権の範囲との前提に立っており、
問題の本質に対応していない。
この最後の点をQuelletteは最も重視しているのですが、これは私もAshley事件で、
正当化の根拠とされた「利益対リスク」論の盲点だと考えました。
確かに「害原則」にもQuelletteの指摘の通り、同じ盲点があります。
Quelletteは、これらの考察から
子どもの身体に手を加えることを親の「権利」と捉えることそのものが
法や道徳の議論の根底にある原理に沿わない、と主張するのです。
彼女の言う、その法や道徳の原理とは、
「人は所有財産ではない、それゆえ、人は尊敬と尊厳に値するのであり、」
誰であれ他者の身体に完全な支配を行使する権利を有する者はいない」。
それを裏付けるものとして Quellette が次に引っ張ってくるのは
法における「非服従(nonsubordination)の原則」。
それに関する議論は次のエントリーで。
【関連エントリー】
「最善の利益」否定するDiekema医師(前)(2007/12/29)
「最善の利益」否定するDiekema医師(後)(2007/12/29)
あの傲慢なDiekemaに反論の隙を与えない、実に見事な批判論文を書いた法学者です。
また、去年4月28日にMaryland大学法学部が開催した
障害者の権利に対する医療と倫理委の無理解を考えるカンファレンスにおいて、
「障害と医療資源の分配」をテーマに講演を行っています。
Albany Law Schoolの準教授で
Union Graduate College/Mt. Sinal School of Medicine Program in Bioethicsの生命倫理の教授。
2008年のその論文については以下のエントリーにまとめています。
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
Quellette論文 2:親の決定権とその制限
Quellette論文 3:Aケース倫理委検討の検証と批判
Quellette論文 4:Dr. Qの提言とSpitzibaraの所感
Quelletteはこの翌年に、射程をもう少し広くとり、
Shaping Parental Authority Over Children’s Bodies
「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」というタイトルの論文を書き
ネットで公開した後、2010年にIndiana Law Journal Vol. 85に発表しています。
(10年にジャーナルに発表された際に内容が変わっている可能性がありますが、
私が読んだのは同じタイトルで2009年にネット上で公開されたものです)
たぶん、上記08年の見事な論文を書いた時に、
こういうことを急いで言わなければならない必要を痛感して、
それで本当に急いで書いたんだろうなぁ……という感じ。
あの08年論文と同じ人の手に寄るとは思えないほど
思いが先走って、ちょっと粗雑な印象の議論が続く。
そういう長大な論文を読み通すのはすごく苦しかったのだけど、
それでも、相当な日数をかけて最後まで読まずにいられなかったのは、
こういうものを急ぎ書かないでいられなかったQuelletteの危惧を
私自身が全く同じように共有しているから。
Ashley事件を追いかける過程で、
私が最も重大な問題として受け止めてきたのは、
親と子の関係性の中にはそれぞれの利益と権利の相反があり、
そこには支配―被支配の関係が潜んでいる、ということでした。
でも米国社会は、その事実と向き合うよりも
むしろ積極的にそこから目をそむけ、むしろ親の権限を「愛」で飾り立てては
「親の決定権」を増強していく方向に突き進み、
社会をそちらの方向へと煽りたてているように見える。
それは、米国を中心に広がっていく「科学とテクノで簡単解決バンザイ文化」と
そこに利権構造が絡みついたグローバル金融ひとでなし慈善資本主義にとっては
「親の権利」と「親の美しい愛と献身」とが、
たいそう都合よく利用できる隠れ蓑だから……。
そういうのが、07年からAshley事件を追いかけてきた4年半で
私におぼろげながら見えてきた「大きな絵」――。
そこでQuelletteの09年論文は「マスト論文」として、
かなり前から少しずつ読み進めていたところ、
19日にエントリーにした「姉のドナーとして生まれた妹がテレビに」という話題で
俄かに懸念がまた膨れ上がり、その懸念に背中を押されて、
やっと残りを一気に読み終えました。
アブストラクトはこちら
U.S. law treats parental decisions to size, shape, sculpt, and mine children’s bodies
through the use of non-therapeutic medical and surgical interventions like decisions to send a
child to a particular church or school. They are a matter of parental choice except in
extraordinary cases involving grievous harm. This Article questions the assumption of parental
rights that frames the current paradigm for medical decisionmaking for children. Focusing on
cases involving eye surgery, human growth hormone, liposuction, and growth stunting, I argue
that by allowing parents to subordinate their children’s interests to their own, the current
paradigm distorts the parent-child relationship and objectifies children. I propose an alternative.
Pushing analogies developed in family law and moral philosophy to respect children as complete but vulnerable human beings, I develop a trustee-based construct of the parent-child relationship, in which the parents are assigned trustee-like powers and responsibilities over a child’s welfare and future interests, and charged with fiduciary-like duties to the child. Application of the trustee-based construct separates medical decisions that belong to parents, from decisions that belong to children and those that should be made by a neutral third party.
内容について、これを含め4つのエントリーで取りまとめてみます。
Quelletteがこの論文でとりあげている「親が子の身体を造り替えた」事例は4つで
① 整形外科医が自分のアジア系の養女の目を二重瞼にする手術をしたケース
② スポーツ選手にとの期待から正常な背丈の子どもに成長ホルモンが使われるケース
③ 12歳の女児に脂肪吸引術、効果がなくなるとバインディング手術が行われたケース
④ Ashley Xのケース
(今だったら、イジメ防止のための耳の整形ケースも加えたいところ)
これらを「典型的な身体改造( shaping )ケース」とQuelletteが挙げているのは、
4つのケースに共通している以下の点が
shaping ケースでの親の権限を問題とするから。
・外見や社会的文化的理由で非治療的な造り替えが行われた。
・それらの介入は侵襲的、不可逆的で危険を伴うものである。
・親の意思決定によって行われた。
・いずれも判例法に報告されていない。
Quelletteは、これら4つのケースで用いられた医療介入の内容とリスクを詳細に検証し、
現在の医療決定における親の権限の危うさを指摘する。
そして、
親と子の関係を上下のヒエラルキーとして捉え、子を親の「所有物」とみなして
親の「権限」をいつのまにか「権利」にすり替えてしまっている
現在の医療法における親の権限の捉え方を分析、批判し、
権利を持った一人の人として子どもを尊重し、
その福祉と将来の利益を「信託された者」として親を捉えなおすと同時に、
これまで提起された親を信託者とする3つのモデルを参照し、
次に財産管理の信託を巡る法の理念を参照しつつ、
信託者としての親の医療における意思決定権限の論理的な枠組みの構築を試みる。
結論としては、医療における一定の範囲を超えた意思決定には
第三者の検討を加え制約をかける仕組みを作るよう提言している。
いずれの個所もツッコミどころは沢山あって、
特に重症児の成長抑制はこれでは肯定されてしまうではないか……と
個人的にも不満でもあるのだけど
それでも急ぎこういうことを書かなければ……と
切迫したQuelletteの危機感には大いに共感するし、
よくぞ書いてくださったことよ……と感謝の気持ちにもなる。
科学とテクノの発達で
親が子どもの身体を造り替えるためのツールがどんどん増えてくるにつれ、
「科学とテクノの簡単解決バンザイ文化」の背後にいる利権は、
「親の決定権」や「親の愛」を批判をかわすための“印籠”として振りかざしては
同時に“打ち出の小槌”にしていこうとしている。
そんな時代の空気の中で
親の決定権がフリー・ハンドになってしまっている状態を
このまま放置してはいけないとの問題提起として、
とても重要な論文だと思う。
(次のエントリーに続く)
http://www.comres.co.uk/scopendppsurvey15may11.aspx
米国PA州で、91歳の女性が尊厳死を望んでいる。家族の手を借りるとかろうじてベッドから降りてトイレにも行けるようだけど、関節炎、脳卒中の後遺症、肺炎、気管支炎……。もう充分に良い人生を生きたから、死にたい、と。介護している孫の女性も「本人には毎日が疲労困憊なんです。これでは生きているとは言えない。存在しているというだけ」と。:この記事には心が痛んだ。時々、ふっと「向こう側」に行ってしまいそうになる時がある。あまりにも希望が見えてこないから、事態は悪化するばかりに見えるから、かもしれない。結局、死にたいと考えることも、そういうことなんじゃないのかなぁ……、と考えてみたりもする。
http://www.nj.com/mercer/index.ssf/2011/06/desperate_and_ill_woman_cries.html
英国で在宅ケアを受けている高齢者は食事介助が不十分で、寝たきりにされている。
http://www.guardian.co.uk/society/2011/jun/20/home-care-elderly-human-rights?CMP=EMCGT_200611&
英国の精神科医療の人員不足が深刻で、このまま政治が手をこまねいていると社会はおおごとになるぞ、と精神医療学会会長が警告。
http://www.guardian.co.uk/society/2011/jun/20/mental-health-services-in-crisis-over-staff-shortages?CMP=EMCGT_210611&
米国で、壮年期以降に整形外科手術を受ける男性が増えているそうな。
http://www.washingtonpost.com/national/why-are-more-men-going-opting-for-cosmetic-surgery/2011/03/25/AGALTKdH_story.html?wpisrc=nl_cuzheads
ワシントンD.C.の住民のアンケートで、最も対応が急がれる健康問題はエイズ、と。
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/dc-residents-see-aids-as-citys-biggest-health-problem/2011/06/17/AGFRrZdH_story.html?wpisrc=nl_cuzheads
米国の教育改革議論で、「クラスの大小が問題かどうか、聞くならビル・ゲイツじゃなく、教師に」という記事があった。:そう、そう。これ、ずっと不思議なのよ。ビル・ゲイツって、ITとゼニ儲けの専門家であって、医療や保健の専門家でも教育の専門家でもないでしょーに。
http://blogs.ajc.com/get-schooled-blog/2011/06/19/does-class-size-matter-dont-ask-bill-gates-ask-a-teacher/?cxntfid=blogs_get_schooled_blog
グローバルひとでなし強欲資本主義の代名詞みたいな Walmartに対して、女性従業員が大挙して集団訴訟を起こしている女性差別裁判については、3月29日の補遺で拾ったけど、最高裁が上訴を却下。それほど多くの女性の利益が同一であることはあり得なくて、この訴えはこんな規模の集団訴訟にはそぐわない、と。NYTには、「これは差別問題は裁判所ではなく職場で解決するように、とのメッセージ」だという解釈や、「集団訴訟という訴訟のやり方を裁判所はだんだん難しく費用のかかるものにしつつある」みたいな記事がいろいろ出ていた。:個人的には、こうして弱い者を守る社会の機構が徐々に奪われていく……という気がしてならない。
http://www.guardian.co.uk/business/2011/jun/20/walmart-sex-discrimination-class-action-rejected?CMP=EMCGT_210611&
ちなみにウォールマートは、米国内でも海外でも、労働環境の劣悪が問題化している。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62997153.html
メリーランド州の成人30人に1人はギャンブル依存。:これ、時々、娘をつれて太鼓をたたきにゲーセンへ行く時に私もいつもすごく気になる問題。
http://www.washingtonpost.com/local/one-in-30-marylanders-has-gambling-problem-state-study-finds/2011/06/20/AGEyLSdH_story.html?wpisrc=nl_cuzheads
世界中の難民の数が15年間で最高に。その多くがいる国々では、難民流入に対処不能状態に。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/jun/20/unhcr-report-refugee-numbers-15-year-high?CMP=EMCGT_200611&