この本を読みながら、総体に
待ってました、よくぞ書いてくださいました、と
盛大な拍手を送りつつ、
著者が主として身体障害が中心症状である妻を介護している男性であるために、
やむをえないことなのではあるけれど、どうしても
配偶者を介護するケアラー、特に妻を介護する男性の立場で
書かれている限界は否めない。
私が唯一、「なんだよ、それは……」と不満を覚えたこととして、
障害児の親なら子どもの介護は苦痛ではないはずだとのステレオタイプな思い込みが、
著者の言葉から時に匂ってくること。
まぁ、確かに親や配偶者に比べれば
我が子の身体というのは、はるかに“異物”感はありませんが、
だからといって介護の負担を感じることなどないだろうと前提されるのは、飛躍が過ぎる。
同様に、親を介護している人とか
認知症の人、知的障害・精神障害のある人を介護している人とか、
夫を介護している女性の立場の読者にも、それぞれに
ちょっと食い足りない感じはあるかもしれない。
それが一番如実に表れているのがセックスに関する章。
セックスが介護者の悩みになるパターンは多様だとして、
著者はいくつかのパターンを挙げている。
例えば、男性介護者の場合、仕事をやめて家事やお世話仕事ばかりやっていると、
自分の男性性に対する自信が低下して、それがセックスに影響する。
このパターンは妻以外の介護にも当てはまるかもしれない。
次に、自分は性的には現役続行なんだけれども、
“子豚”の方がそういう身体状態ではなかったり、そういう気になれないパターン。
逆に、“子豚”の方は現役続行なんだけれども、
自分が愛した“子豚”がかつての姿でなくなったことや疲れ、その他の理由で
ケアラーの方がどうしてもそういう気になれないパターン。
一番悩ましいのは、このパターンで、
ケアラーとしては“子豚”のためを考えるのが自分の役割だと思うから
“子豚”が望めば、それに応えてあげるべきだと考えてしまうかもしれないけれども、
セックスは非常に微妙で繊細な営みなので、
いずれの側であれ、無理をしていると必ず相手にも伝わるし
ただでも介護を通じてややこしくなりがちな夫婦関係に
うまくいかなかったセックスが及ぼす精神的な影響は決して小さくない。
だから著者は、介護が必要となった生活でどちらかがセックスに抵抗を感じるなら
無理して「付き合う」ことは止めた方がいいのでは、とアドバイスする。
例えば、セックス・レスパイトというのを行政が用意してくれるとか
夫婦でやって来て「夫が奥さんの介護を引き受けるから、その間に
二人で別室にこもらない?」とささやいてくれる女友達が現れないものか……
なんて夢に見るけど、そんなことが起こった試しはない、とボヤいては
ああ、この辺りはモロ、男性介護者だなぁ……と微笑ませてくれつつ、
ケアラーの方が現役続行である場合の解決策として
例えば、風俗を利用するとか、誰かと恋愛する、恋愛抜きのセックス・フレンドを作る、などを
順次、検討していく。そして結局は、以下のようなメッセージに落ち着いていく。
ずっと昔の若い頃、セックスしたくてもできない時代ってあったよね。
それでもボクたち誰も、死ななかったよね。なら、今だって同じなんじゃないのかな。
介護生活だけでも複雑で大変なものをたくさん背負っているのに、そこに
たかだか性欲の処理のためだけに、夫婦以外とのややこしい人間関係のストレスまで
追加するのって、とんでもない冒険だと思わない? と。
私はこの章を読んで、いつか取材先で聞いた話を思い出さないでいられなかった。
若年性痴ほう症の男性を介護する妻から
「夫の性的暴力が高校生の娘に向けられそうになりました。
娘を守るために、その暴力は私が受けました」
もちろん、これはセックスの問題というよりも
「“身勝手な豚”の介護ガイド」 4のエントリーで触れた
“子豚”によるケアラーへの虐待の問題だと思う。
同じ取材先で聞いたもう1つのケース。
若年性痴ほう症にかかった女性の夫に介護能力が欠けていて、虐待が案じられたために
これでは無理だと考えた支援者が施設入所を提案した時に、夫から返ってきた言葉が
「じゃぁ、俺のこと(セックス)はどうしてくれるんだ?」
これも上のケースと同じく、セックスに留まらない虐待の問題だろうと思う。
(ただ、そういうことがあった翌日は妻の表情が和らいでもいたりするので
一概に外部の人間が「虐待」と決めつけることもできにくい微妙なものがある、とも
支援者の方は話されていました)
やはり夫婦介護におけるセックスの問題はそれだけ大きいのだと痛感するし、
この春に聞いた講演で、春日キスヨ氏が
「男性介護者の会に出てくるような夫は少なくとも妻を愛している。
妻を愛し、自覚的に介護を担おうとしている。
でも世の中には、愛しあっている夫婦だけではない。
本当に深刻な問題は、愛のない夫婦の介護生活で起きている」と
言われていたことも、つくづくと思い返された。
それだけに、この本の全体を通じて感じられ、
セックスの章に至って、ひたひたと、しみじみと感じられるのは、
著者は本当に妻を愛しているんだなぁ……ということ。
まぁ、そういう人だからこそ書ける本なわけで。
だから、この本のセックスの章には、
“子豚”をレイプするような介護者はぜんぜん想定もされていない。
それは本当にこの本の冒頭で著者が言った通りで、
自分のことを“身勝手な豚”だと感じて、そのことに苦しみ、
その苦しみゆえにこんな本を手に取ってみるようなケアラーは
もともと“身勝手な豚”になりきれるような人じゃない。
ホンモノの身勝手なブタは、
最初からこんな本を手に取ろうなどとは考えつきもしない。
だから、もちろん、この本では対処も解決もできない
もっともっと深刻な問題が介護にはいっぱい潜んではいるんだけれども、
それでも、やっぱり、
いや、それならば、なおさらに、
愛のある介護をしているからこそ自分を“身勝手な豚”だと感じて
苦しんでいるケアラーに、エールを送りたいじゃないか。
男性介護者の会に出てくるような
妻を愛していて、自覚的に介護を担おうとしている愛すべき男性たちにこそ
この本のメッセージをエールとして送りたいじゃないか。
そんな気がした。
そういう表現はこの本のどこにもないけれど、
セックスの章に並んで、おカネに関する章にも強く表れていて、
ある意味、この本全体を通じて描かれているのは、いわば「ケアラーの哲学」なのだと思う。
それは、私自身の解釈と言葉でまとめると、
「思い通りにならない人生と、思うに任せぬことの多い日々の生活の中で、
前向きな工夫をしつつ、与えられた人生を精いっぱい楽しく豊かに生きていくための哲学」。
自分の努力で変えられることは変える努力と工夫をし、社会からも可能な限りの助けを得ながら、
どうしても変えられないことは受け入れて、それなりに幸福に生きていくための哲学――。
そのための具体的なアドバイスも盛り込みつつ、全体としては、
自分の心の枠組みを組み替えて、心のあり方を整えよう、と著者は説いているんだと思う。
そうすれば、思い通りにならない人生と思われたものだって、そんなに悪いものじゃない。
案外、今の生活ならではの豊かさ、楽しさだってあるじゃないか、と。
どこか仏教の教えに通じていくものも感じるし、
「思い通りにならない人生、能力を失った生は生きるに値しない」という価値観を隠し持った
「科学とテクノの簡単解決文化」や功利主義へのデトックスにもなりそうな、
「ケアラーの哲学」は「生きることの哲学」にも、通じていくのかもしれない。
あー、でも、そこは、もちろん、
心の持ち方一つで過酷な介護生活が乗り来られる、なんて
お気楽なことを著者は説いているわけでは、ない。
男性介護者だけじゃなく、配偶者のケアラーだけでもなく、
様々な立場で様々な“子豚”を頑張っている介護しているケアラーが
自分を大切にしながら、燃え尽きないための、
日本ではまだまだ届けられることの少ない、大切なメッセージ――。
「“身勝手な豚”の介護ガイド」は、そんな本でした。
待ってました、よくぞ書いてくださいました、と
盛大な拍手を送りつつ、
著者が主として身体障害が中心症状である妻を介護している男性であるために、
やむをえないことなのではあるけれど、どうしても
配偶者を介護するケアラー、特に妻を介護する男性の立場で
書かれている限界は否めない。
私が唯一、「なんだよ、それは……」と不満を覚えたこととして、
障害児の親なら子どもの介護は苦痛ではないはずだとのステレオタイプな思い込みが、
著者の言葉から時に匂ってくること。
まぁ、確かに親や配偶者に比べれば
我が子の身体というのは、はるかに“異物”感はありませんが、
だからといって介護の負担を感じることなどないだろうと前提されるのは、飛躍が過ぎる。
同様に、親を介護している人とか
認知症の人、知的障害・精神障害のある人を介護している人とか、
夫を介護している女性の立場の読者にも、それぞれに
ちょっと食い足りない感じはあるかもしれない。
それが一番如実に表れているのがセックスに関する章。
セックスが介護者の悩みになるパターンは多様だとして、
著者はいくつかのパターンを挙げている。
例えば、男性介護者の場合、仕事をやめて家事やお世話仕事ばかりやっていると、
自分の男性性に対する自信が低下して、それがセックスに影響する。
このパターンは妻以外の介護にも当てはまるかもしれない。
次に、自分は性的には現役続行なんだけれども、
“子豚”の方がそういう身体状態ではなかったり、そういう気になれないパターン。
逆に、“子豚”の方は現役続行なんだけれども、
自分が愛した“子豚”がかつての姿でなくなったことや疲れ、その他の理由で
ケアラーの方がどうしてもそういう気になれないパターン。
一番悩ましいのは、このパターンで、
ケアラーとしては“子豚”のためを考えるのが自分の役割だと思うから
“子豚”が望めば、それに応えてあげるべきだと考えてしまうかもしれないけれども、
セックスは非常に微妙で繊細な営みなので、
いずれの側であれ、無理をしていると必ず相手にも伝わるし
ただでも介護を通じてややこしくなりがちな夫婦関係に
うまくいかなかったセックスが及ぼす精神的な影響は決して小さくない。
だから著者は、介護が必要となった生活でどちらかがセックスに抵抗を感じるなら
無理して「付き合う」ことは止めた方がいいのでは、とアドバイスする。
例えば、セックス・レスパイトというのを行政が用意してくれるとか
夫婦でやって来て「夫が奥さんの介護を引き受けるから、その間に
二人で別室にこもらない?」とささやいてくれる女友達が現れないものか……
なんて夢に見るけど、そんなことが起こった試しはない、とボヤいては
ああ、この辺りはモロ、男性介護者だなぁ……と微笑ませてくれつつ、
ケアラーの方が現役続行である場合の解決策として
例えば、風俗を利用するとか、誰かと恋愛する、恋愛抜きのセックス・フレンドを作る、などを
順次、検討していく。そして結局は、以下のようなメッセージに落ち着いていく。
ずっと昔の若い頃、セックスしたくてもできない時代ってあったよね。
それでもボクたち誰も、死ななかったよね。なら、今だって同じなんじゃないのかな。
介護生活だけでも複雑で大変なものをたくさん背負っているのに、そこに
たかだか性欲の処理のためだけに、夫婦以外とのややこしい人間関係のストレスまで
追加するのって、とんでもない冒険だと思わない? と。
私はこの章を読んで、いつか取材先で聞いた話を思い出さないでいられなかった。
若年性痴ほう症の男性を介護する妻から
「夫の性的暴力が高校生の娘に向けられそうになりました。
娘を守るために、その暴力は私が受けました」
もちろん、これはセックスの問題というよりも
「“身勝手な豚”の介護ガイド」 4のエントリーで触れた
“子豚”によるケアラーへの虐待の問題だと思う。
同じ取材先で聞いたもう1つのケース。
若年性痴ほう症にかかった女性の夫に介護能力が欠けていて、虐待が案じられたために
これでは無理だと考えた支援者が施設入所を提案した時に、夫から返ってきた言葉が
「じゃぁ、俺のこと(セックス)はどうしてくれるんだ?」
これも上のケースと同じく、セックスに留まらない虐待の問題だろうと思う。
(ただ、そういうことがあった翌日は妻の表情が和らいでもいたりするので
一概に外部の人間が「虐待」と決めつけることもできにくい微妙なものがある、とも
支援者の方は話されていました)
やはり夫婦介護におけるセックスの問題はそれだけ大きいのだと痛感するし、
この春に聞いた講演で、春日キスヨ氏が
「男性介護者の会に出てくるような夫は少なくとも妻を愛している。
妻を愛し、自覚的に介護を担おうとしている。
でも世の中には、愛しあっている夫婦だけではない。
本当に深刻な問題は、愛のない夫婦の介護生活で起きている」と
言われていたことも、つくづくと思い返された。
それだけに、この本の全体を通じて感じられ、
セックスの章に至って、ひたひたと、しみじみと感じられるのは、
著者は本当に妻を愛しているんだなぁ……ということ。
まぁ、そういう人だからこそ書ける本なわけで。
だから、この本のセックスの章には、
“子豚”をレイプするような介護者はぜんぜん想定もされていない。
それは本当にこの本の冒頭で著者が言った通りで、
自分のことを“身勝手な豚”だと感じて、そのことに苦しみ、
その苦しみゆえにこんな本を手に取ってみるようなケアラーは
もともと“身勝手な豚”になりきれるような人じゃない。
ホンモノの身勝手なブタは、
最初からこんな本を手に取ろうなどとは考えつきもしない。
だから、もちろん、この本では対処も解決もできない
もっともっと深刻な問題が介護にはいっぱい潜んではいるんだけれども、
それでも、やっぱり、
いや、それならば、なおさらに、
愛のある介護をしているからこそ自分を“身勝手な豚”だと感じて
苦しんでいるケアラーに、エールを送りたいじゃないか。
男性介護者の会に出てくるような
妻を愛していて、自覚的に介護を担おうとしている愛すべき男性たちにこそ
この本のメッセージをエールとして送りたいじゃないか。
そんな気がした。
そういう表現はこの本のどこにもないけれど、
セックスの章に並んで、おカネに関する章にも強く表れていて、
ある意味、この本全体を通じて描かれているのは、いわば「ケアラーの哲学」なのだと思う。
それは、私自身の解釈と言葉でまとめると、
「思い通りにならない人生と、思うに任せぬことの多い日々の生活の中で、
前向きな工夫をしつつ、与えられた人生を精いっぱい楽しく豊かに生きていくための哲学」。
自分の努力で変えられることは変える努力と工夫をし、社会からも可能な限りの助けを得ながら、
どうしても変えられないことは受け入れて、それなりに幸福に生きていくための哲学――。
そのための具体的なアドバイスも盛り込みつつ、全体としては、
自分の心の枠組みを組み替えて、心のあり方を整えよう、と著者は説いているんだと思う。
そうすれば、思い通りにならない人生と思われたものだって、そんなに悪いものじゃない。
案外、今の生活ならではの豊かさ、楽しさだってあるじゃないか、と。
どこか仏教の教えに通じていくものも感じるし、
「思い通りにならない人生、能力を失った生は生きるに値しない」という価値観を隠し持った
「科学とテクノの簡単解決文化」や功利主義へのデトックスにもなりそうな、
「ケアラーの哲学」は「生きることの哲学」にも、通じていくのかもしれない。
あー、でも、そこは、もちろん、
心の持ち方一つで過酷な介護生活が乗り来られる、なんて
お気楽なことを著者は説いているわけでは、ない。
男性介護者だけじゃなく、配偶者のケアラーだけでもなく、
様々な立場で様々な“子豚”を頑張っている介護しているケアラーが
自分を大切にしながら、燃え尽きないための、
日本ではまだまだ届けられることの少ない、大切なメッセージ――。
「“身勝手な豚”の介護ガイド」は、そんな本でした。
2011.07.24 / Top↑
誰もあからさまに口にしないけど、
これから誰かの介護を担わなければならないと予想あるいは覚悟している人が
たぶん一様に不安と怖れを感じている最たるものはウンコの始末の問題で、
まだ排泄は自立しているけど先は分からないという”子豚”を介護している人も、
これから排泄のケアまで担うのかぁ、ヤだなぁ……と
実は相当リアルに恐れているのでは?
いま実際にやっている人の中にも、
これだけはちょっと……と感じている人もいるかもしれない。
それはまったく無理のないことで、
ボクだって、男だからDNAが向いていないのか、はたまた
これまで自分が他人のウンコの始末をすることなんて想像の外で生きてきたからか、
妻がそういう段階に至った時には、ものすごい抵抗感があった。
でも、結論を先に言うと、
ウンコの問題は、恐れるに足りません。
みんな、安心して。ぜんぜん大丈夫だから。
介護者としての経験を積むにつれ、
ウンコには慣れます。ゴム手袋だってある。
介護者の一番の敵は、実は「時間」なんだけど、
(例えば、“子豚”のペースで進む時間はのろのろ・とろとろでストレスになる、
昼夜の区別がつきにくくて、一日一日が平たく際限ない時間になってしまう、
誰にも助けを求められない時間に限ってトラブルは発生する、
介護はいつまで続くか先が見えない、この「果てしなさ」が一番キツイ)
こと、ウンコに限って言うと、「時間」こそケアラーの最大の味方。
人間、日常の一部となれば、たいていのことには慣れることが出来るから不思議。
介護生活が長くなるにつれ、ウンコは日常の一部でしかなくなる。ぜ~んぜん大丈夫。
ただ、ウンコまみれになった“子豚”を発見してパニックする夜だけは、本当に辛い。
これは、助けを呼べない時間帯に大きな“子豚”に転倒された時と並ぶ、
ケアラーにとっての2大難事態の1。
ウンコまみれの“子豚”と、ウンコまみれのベッドや床の、
いったいどっちから先に手をつけたらいいのか……。
それなのに“子豚”はちっとも協力してくれないから、
“子豚”を先にきれいにしようとすればベッドや床の惨状が広がるし、
ベッドや床から先に片付けようとしても“子豚”が勝手に動いて惨状を広げてくれる。
介護者が夜中に“子豚”をドヤしつける悪行で名高いのには、
たいていは、こういうわけがある。
で、この種の惨劇を避けるためのアドバイスをいくつか。
まず、“子豚”の主治医に相談して、
“子豚”のウンコ関連の身体状態を正しく把握しましょう。
ウンコのリズムを作って惨状回避できる方法があればアドバイスを受けましょう。
次に、ボク自身がやっていることとしては、
夜中に目覚まし時計をセットして2時間おきに妻をトイレに座らせています。
一緒に寝ていて、気が付いたら自分の身体にまでべっとり……なんて事態は
夫婦どちらにとっても悲惨なので、何度か体験した後で、その悲惨に比べれば
2時間おきに起きる面倒と苦痛の方が耐えやすいと判断しました。
ウンコの他にも、介護生活には
食事介助の際の食べこぼしの惨状や、
入浴拒否する“子豚”の身体をどうやって拭くかとか身体が匂うとか、
洗濯や掃除なんかでもキタナイものは沢山あるけど、ウンコほどの問題じゃないし、
実際、そういうのは工夫次第でなんとかなることばかり。
あ、その“工夫”だけど、
あんまり「こうすべき」だとか「これが正しい」にこだわらない方がいいよ。
“子豚”と暮らしているのはあなたなんだから、
あなたたちの暮らしに一番合ったやり方を見つけられるのも、あなたに決まってる。
一つだけアドバイス。
昨夜ほとんど眠れなかった、だるい、という時に、
玄関の掃除が出来ていないことが気になったら
迷わず、玄関の掃除を捨てて、寝るように――。
ケアラーにとっては、30分ずつ、つまみ食いのように眠りを補うことも大事。
また、そういう技術も身についてくるから不思議。
「大事なのは、心をオープンに、いろんなことをやってみること。」
それから、あまり気にしないことだね。
本当にキタナイのはベッドやトイレやお風呂にあるものじゃない。
本当にキタナクて厄介なことが生じてくるのは
あなたの心や“子豚”の心の中なのだから」
自分がウンコで失敗したことを理解できる“子豚”は
あれこれの感情に苦しんでしまうだろうし、
あなたが時に「階段から突き落としてやりたい」という気持ちになっていることを
敏感に感じ取れば、“子豚”だって辛い。
あなたの心にあるものが、介助の手つきをつい乱暴にしてしまったり、
つい隠微なイジワルで「おしおき」して「思い知らせて」みたりするように、
“子豚”の心にあるものが、ウンコの問題を大きくしている……という可能性だって……?
2人の心にあるものがそういうふうに問題になってきた時は
2人で孤立してしまうのが一番良くない。
もちろん抵抗感はあると思うけど、
ここはそれを振り切って、誰かに相談してみよう。
これから誰かの介護を担わなければならないと予想あるいは覚悟している人が
たぶん一様に不安と怖れを感じている最たるものはウンコの始末の問題で、
まだ排泄は自立しているけど先は分からないという”子豚”を介護している人も、
これから排泄のケアまで担うのかぁ、ヤだなぁ……と
実は相当リアルに恐れているのでは?
いま実際にやっている人の中にも、
これだけはちょっと……と感じている人もいるかもしれない。
それはまったく無理のないことで、
ボクだって、男だからDNAが向いていないのか、はたまた
これまで自分が他人のウンコの始末をすることなんて想像の外で生きてきたからか、
妻がそういう段階に至った時には、ものすごい抵抗感があった。
でも、結論を先に言うと、
ウンコの問題は、恐れるに足りません。
みんな、安心して。ぜんぜん大丈夫だから。
介護者としての経験を積むにつれ、
ウンコには慣れます。ゴム手袋だってある。
介護者の一番の敵は、実は「時間」なんだけど、
(例えば、“子豚”のペースで進む時間はのろのろ・とろとろでストレスになる、
昼夜の区別がつきにくくて、一日一日が平たく際限ない時間になってしまう、
誰にも助けを求められない時間に限ってトラブルは発生する、
介護はいつまで続くか先が見えない、この「果てしなさ」が一番キツイ)
こと、ウンコに限って言うと、「時間」こそケアラーの最大の味方。
人間、日常の一部となれば、たいていのことには慣れることが出来るから不思議。
介護生活が長くなるにつれ、ウンコは日常の一部でしかなくなる。ぜ~んぜん大丈夫。
ただ、ウンコまみれになった“子豚”を発見してパニックする夜だけは、本当に辛い。
これは、助けを呼べない時間帯に大きな“子豚”に転倒された時と並ぶ、
ケアラーにとっての2大難事態の1。
ウンコまみれの“子豚”と、ウンコまみれのベッドや床の、
いったいどっちから先に手をつけたらいいのか……。
それなのに“子豚”はちっとも協力してくれないから、
“子豚”を先にきれいにしようとすればベッドや床の惨状が広がるし、
ベッドや床から先に片付けようとしても“子豚”が勝手に動いて惨状を広げてくれる。
介護者が夜中に“子豚”をドヤしつける悪行で名高いのには、
たいていは、こういうわけがある。
で、この種の惨劇を避けるためのアドバイスをいくつか。
まず、“子豚”の主治医に相談して、
“子豚”のウンコ関連の身体状態を正しく把握しましょう。
ウンコのリズムを作って惨状回避できる方法があればアドバイスを受けましょう。
次に、ボク自身がやっていることとしては、
夜中に目覚まし時計をセットして2時間おきに妻をトイレに座らせています。
一緒に寝ていて、気が付いたら自分の身体にまでべっとり……なんて事態は
夫婦どちらにとっても悲惨なので、何度か体験した後で、その悲惨に比べれば
2時間おきに起きる面倒と苦痛の方が耐えやすいと判断しました。
ウンコの他にも、介護生活には
食事介助の際の食べこぼしの惨状や、
入浴拒否する“子豚”の身体をどうやって拭くかとか身体が匂うとか、
洗濯や掃除なんかでもキタナイものは沢山あるけど、ウンコほどの問題じゃないし、
実際、そういうのは工夫次第でなんとかなることばかり。
あ、その“工夫”だけど、
あんまり「こうすべき」だとか「これが正しい」にこだわらない方がいいよ。
“子豚”と暮らしているのはあなたなんだから、
あなたたちの暮らしに一番合ったやり方を見つけられるのも、あなたに決まってる。
一つだけアドバイス。
昨夜ほとんど眠れなかった、だるい、という時に、
玄関の掃除が出来ていないことが気になったら
迷わず、玄関の掃除を捨てて、寝るように――。
ケアラーにとっては、30分ずつ、つまみ食いのように眠りを補うことも大事。
また、そういう技術も身についてくるから不思議。
「大事なのは、心をオープンに、いろんなことをやってみること。」
それから、あまり気にしないことだね。
本当にキタナイのはベッドやトイレやお風呂にあるものじゃない。
本当にキタナクて厄介なことが生じてくるのは
あなたの心や“子豚”の心の中なのだから」
自分がウンコで失敗したことを理解できる“子豚”は
あれこれの感情に苦しんでしまうだろうし、
あなたが時に「階段から突き落としてやりたい」という気持ちになっていることを
敏感に感じ取れば、“子豚”だって辛い。
あなたの心にあるものが、介助の手つきをつい乱暴にしてしまったり、
つい隠微なイジワルで「おしおき」して「思い知らせて」みたりするように、
“子豚”の心にあるものが、ウンコの問題を大きくしている……という可能性だって……?
2人の心にあるものがそういうふうに問題になってきた時は
2人で孤立してしまうのが一番良くない。
もちろん抵抗感はあると思うけど、
ここはそれを振り切って、誰かに相談してみよう。
2011.07.24 / Top↑
ものすごく感謝されてもいいだろ……と思うほどのことを
こっちとしては引き受けているつもりなのに、“
子豚”はそれほど感謝してくれるわけじゃない。
それどころか、平気でワガママを言う。
言い出したらガンとして聞かないし。
着替えを手伝おうとすれば、
「5年前のクリスマスに○○ちゃんがくれたブラウスと
それに合うスカートがいい」なんて、涼しい顔で言ってのけてくださる。
クリスマスだろうとハロウィーンだろうと還暦祝いだろうと、
ボクは○○ちゃんがどのブラウスをくれたかなんて、知らんっ!
もし知ってたとしても、
そのブラウスに、どのスカートが合うかなんて、分かるかっ!
……けど、
面と向かってそうも言えない苦しいやり取りの最中に、
思わずブチ切れる寸前で部屋を飛び出し、
別室で壁に頭をゴンゴンぶつけながら
頭を冷やしたことなんか、もう数えきれない。
着るものについては、こんなことを繰り返しているうちに
ボクの方が妻の衣類に関する情報を頭に入れる方が結局はストレスが小さいと判断したけれど、
ワケの分からないことを何度も何度も何度も何度も訊かれ続けて
アタマが爆発しそうになったりとか、きっとボクだけじゃないよね。
殺意に近いものがこみ上げてくる瞬間って、
たぶん介護者ならみんな経験しているんじゃないかな。
ケアラーは
時にそういう気持ちになるのも無理がないような仕事を引き受けて
時にそういう気持ちになるのも無理ない生活を送っているんだと思う。
基本的に、体も心も疲れているのを押して、やっている介護なんだし。
自分は頭がおかしくなってきたんじゃないかって、不安に感じること、ある?
統計的に言うと、英国の半数以上のケアラーは
ウツ病など精神的な問題を抱えている。
だから、もしもあなたが「自分は頭がちょっと……?」と思うなら
それは、あなたは当たり前のケアラーだということで、
つまりケアラーとしては至って正常だということになる。
自分は虐待だけはしていない、って思う?
虐待って、殴ったり蹴ったりすることだけじゃないんだよ。
着替えや移動を手伝う手つきが、つい乱暴になってしまうとか、
つい相手に自分の優位を思い知らせるような言葉を吐いてしまうとか、
“子豚”が必要なものを、わざと持って行ってやらない小さなイジワルとか、
圧倒的な力の差がある関係性の中で、
自分の方が強い側で相手をいくらでもターゲットにできるってことになると
どうしても、そういうことが起こってしまう。
それ、神ならぬ人間の弱さだよね。
言いたいことが正直に言えない状況や
気持ちをうまく言葉にできないもどかしさなんかも、
つい手が出てしまう時の定番の起爆剤だ。
だから、そういうことをちゃんと意識していることは、まず大きな違いを生む。
階段から突き落としてしまいたい、という気持ちが繰り返されたり、
上で書いたような、ちょっとしたイジワルをし始めた自分に気づいたら、
あ、自分、疲れてきたな、燃え尽きかけているのかな、と考えてみて。
そういう時、まず、やってみてほしいのは、
自分が一番ストレスを感じている仕事は何かを考えて、その仕事で、ちょっとだけ手を抜いてみること。
そして、手を抜いた結果どうなるか、観察してみて。
ね。案外に、大した影響はないはずだよ。だいたい、そういうものなんだ。
そんなふうに、抜けるところの手を抜いていく。
そして前にも言ったように、レスパイトはゼッタイに必要条件。
ブレイク(休息)するか、あなたがブレイクする(壊れる)か。それを忘れないで。
そうそう、“子豚”がレスパイトに行っている間に
ゼッタイにしてはいけないことを、挙げておこう。
家の掃除――。“子豚”の身の回りの物の片づけ――。
例えば、ブッ通しで9時間、10時間寝続ける……なんてのが大正解。
“子豚”のための○○とか、介護に役立つ○○みたいなヤボ用は、
この際、やらないでおこう。
大事なのは、あなた自身をいたわること。甘やかすこと。
レスパイトはそのための時間なのだから、
介護に関係したことからは、ちゃんと離れようね。
最初の頃は、レスパイトの後で“子豚”が調子を崩して余計に手がかかったり、
こんなんなら、もうやらない方がマシと考えるかもしれない。
でも、繰り返しているうちに、あなたも子豚もレスパイトのスタッフも慣れる。馴染む。
だから大丈夫。なにしろ、ここは Break or you breakだ。
あと、完璧主義は捨ててしまおう。
どうせ完璧にできる介護なんて、ありえない。
だから、ケアラーたるもの、時には、後で悔やまないといけないようなことも
つい、してしまうし、言ってしまう。それは、どうしたって、してしまうよ。
大事なのは「時には」で止まって、そういうのを習慣化させないこと。
時に階段から突き落としてしまいたい気持ちになることと、
それが頭から離れなくなることとは違う。
燃え尽きて後者の状態にならないために、どうしたらいいかを
ケアラーの立場で一緒に考えてみようというのがこの本の主旨だから、
セックスのこととかお金のこととか、人に話せないけど大事な問題や
心の持ち方とか、自分の身体のケアとか、いろいろ書いてきたけど、
もしも階段から突き落としたい気持ちが常に頭から離れなくなってしまったら、
それは、ついに燃え尽きた症状。
そしたら、ちょっとの間、介護から離れてみることも、
状況によっては、介護を全面的に諦めることだって、選択肢なのかもしれない。
それができる方策が簡単に見つかるわけじゃないかもしれないけど、
前にも言ったように諦めずに求めて続けて。必要なことは必要なんだから。
もしかしたら、あなたの方が“子豚”の虐待を受けていることだって、ある。
どっちからどっちに向かうにせよ、
ちょっとした暴力や虐待は放っておくとゼッタイに悪化する。そういう性格のものなんだ。
ここでもコワいのは二人だけで孤立してしまうこと。
抵抗感を何とか乗り越えて、とにかく誰かに相談して。
こっちとしては引き受けているつもりなのに、“
子豚”はそれほど感謝してくれるわけじゃない。
それどころか、平気でワガママを言う。
言い出したらガンとして聞かないし。
着替えを手伝おうとすれば、
「5年前のクリスマスに○○ちゃんがくれたブラウスと
それに合うスカートがいい」なんて、涼しい顔で言ってのけてくださる。
クリスマスだろうとハロウィーンだろうと還暦祝いだろうと、
ボクは○○ちゃんがどのブラウスをくれたかなんて、知らんっ!
もし知ってたとしても、
そのブラウスに、どのスカートが合うかなんて、分かるかっ!
……けど、
面と向かってそうも言えない苦しいやり取りの最中に、
思わずブチ切れる寸前で部屋を飛び出し、
別室で壁に頭をゴンゴンぶつけながら
頭を冷やしたことなんか、もう数えきれない。
着るものについては、こんなことを繰り返しているうちに
ボクの方が妻の衣類に関する情報を頭に入れる方が結局はストレスが小さいと判断したけれど、
ワケの分からないことを何度も何度も何度も何度も訊かれ続けて
アタマが爆発しそうになったりとか、きっとボクだけじゃないよね。
殺意に近いものがこみ上げてくる瞬間って、
たぶん介護者ならみんな経験しているんじゃないかな。
ケアラーは
時にそういう気持ちになるのも無理がないような仕事を引き受けて
時にそういう気持ちになるのも無理ない生活を送っているんだと思う。
基本的に、体も心も疲れているのを押して、やっている介護なんだし。
自分は頭がおかしくなってきたんじゃないかって、不安に感じること、ある?
統計的に言うと、英国の半数以上のケアラーは
ウツ病など精神的な問題を抱えている。
だから、もしもあなたが「自分は頭がちょっと……?」と思うなら
それは、あなたは当たり前のケアラーだということで、
つまりケアラーとしては至って正常だということになる。
自分は虐待だけはしていない、って思う?
虐待って、殴ったり蹴ったりすることだけじゃないんだよ。
着替えや移動を手伝う手つきが、つい乱暴になってしまうとか、
つい相手に自分の優位を思い知らせるような言葉を吐いてしまうとか、
“子豚”が必要なものを、わざと持って行ってやらない小さなイジワルとか、
圧倒的な力の差がある関係性の中で、
自分の方が強い側で相手をいくらでもターゲットにできるってことになると
どうしても、そういうことが起こってしまう。
それ、神ならぬ人間の弱さだよね。
言いたいことが正直に言えない状況や
気持ちをうまく言葉にできないもどかしさなんかも、
つい手が出てしまう時の定番の起爆剤だ。
だから、そういうことをちゃんと意識していることは、まず大きな違いを生む。
階段から突き落としてしまいたい、という気持ちが繰り返されたり、
上で書いたような、ちょっとしたイジワルをし始めた自分に気づいたら、
あ、自分、疲れてきたな、燃え尽きかけているのかな、と考えてみて。
そういう時、まず、やってみてほしいのは、
自分が一番ストレスを感じている仕事は何かを考えて、その仕事で、ちょっとだけ手を抜いてみること。
そして、手を抜いた結果どうなるか、観察してみて。
ね。案外に、大した影響はないはずだよ。だいたい、そういうものなんだ。
そんなふうに、抜けるところの手を抜いていく。
そして前にも言ったように、レスパイトはゼッタイに必要条件。
ブレイク(休息)するか、あなたがブレイクする(壊れる)か。それを忘れないで。
そうそう、“子豚”がレスパイトに行っている間に
ゼッタイにしてはいけないことを、挙げておこう。
家の掃除――。“子豚”の身の回りの物の片づけ――。
例えば、ブッ通しで9時間、10時間寝続ける……なんてのが大正解。
“子豚”のための○○とか、介護に役立つ○○みたいなヤボ用は、
この際、やらないでおこう。
大事なのは、あなた自身をいたわること。甘やかすこと。
レスパイトはそのための時間なのだから、
介護に関係したことからは、ちゃんと離れようね。
最初の頃は、レスパイトの後で“子豚”が調子を崩して余計に手がかかったり、
こんなんなら、もうやらない方がマシと考えるかもしれない。
でも、繰り返しているうちに、あなたも子豚もレスパイトのスタッフも慣れる。馴染む。
だから大丈夫。なにしろ、ここは Break or you breakだ。
あと、完璧主義は捨ててしまおう。
どうせ完璧にできる介護なんて、ありえない。
だから、ケアラーたるもの、時には、後で悔やまないといけないようなことも
つい、してしまうし、言ってしまう。それは、どうしたって、してしまうよ。
大事なのは「時には」で止まって、そういうのを習慣化させないこと。
時に階段から突き落としてしまいたい気持ちになることと、
それが頭から離れなくなることとは違う。
燃え尽きて後者の状態にならないために、どうしたらいいかを
ケアラーの立場で一緒に考えてみようというのがこの本の主旨だから、
セックスのこととかお金のこととか、人に話せないけど大事な問題や
心の持ち方とか、自分の身体のケアとか、いろいろ書いてきたけど、
もしも階段から突き落としたい気持ちが常に頭から離れなくなってしまったら、
それは、ついに燃え尽きた症状。
そしたら、ちょっとの間、介護から離れてみることも、
状況によっては、介護を全面的に諦めることだって、選択肢なのかもしれない。
それができる方策が簡単に見つかるわけじゃないかもしれないけど、
前にも言ったように諦めずに求めて続けて。必要なことは必要なんだから。
もしかしたら、あなたの方が“子豚”の虐待を受けていることだって、ある。
どっちからどっちに向かうにせよ、
ちょっとした暴力や虐待は放っておくとゼッタイに悪化する。そういう性格のものなんだ。
ここでもコワいのは二人だけで孤立してしまうこと。
抵抗感を何とか乗り越えて、とにかく誰かに相談して。
2011.07.24 / Top↑
直前の「“身勝手な豚”の介護ガイド」 3でまとめた辺りで、
私が特に個人的に思わずニンマリしたのは
個人的な印象に過ぎないかも、と断りながら、
ろくに役に立ってもくれないのに冷たくてエラソーで無神経なことばかり言う
「お役所」や「専門家」の中で、なぜかOT(作業療法士)だけはフレンドリーで
実際に役立つノウハウを繰り出してくれる人たちのような気がする、と。
これ、かつて、ほんのわずかだけど仕事でOTさんの世界を覗き見した、
また娘を通じてもOTを含め一通りの「専門家」と付き合って来た私の
個人的な印象とも重なる。
この印象が重なったのは、ちょっと面白かった。
これについては興味があるので、これからも考えてみたい。
それから、諦めずに言い続けること、というアドバイスは、私も
後輩の「障害児の親」になったばかりの人たちに必ず伝えたいことの一つ。
どこに行って誰に聞いたらいいか分からないことって、
最初の内は本当に沢山ある。途方に暮れる。
そんな時は、誰でもいい。
出会う人、出会う人、手当たりしだいに、それをしゃべってみるといいと思う。
「こんなことに困っている」「こんなものはないだろうか」
何にもならなくてもいいから、解決するまで、とにかく
誰彼となく、そのことを言い続けてみる。
いきなり、答えを持っている人に会えることは少ないけど(でも、ないわけではない)、
もしかしたら知っているかもしれない人を知っている人くらいには、そのうちに当たる。
ここへ行ってみたら? この人に聞いてみたら? という情報をたどっているうちに
ふいに解決に至ること、って、結構、ほんと、あったりする。
そんなふうに、あちこちしていると、それ自体が
世の中にどういう機関があって、そこにどういう人がいて……と、
自分の中の専門家情報を増強して、情報マップが充実していくし、
なにより顔見知りの専門家が増えていく。
そのうちに、どういうことは誰のところへ行けばいいかが
経験則からだんだんと掴めてくる。
ここで経験則というのが結構、大事なのは、
「この人はその分野の専門家じゃないけど、でも専門家よりもアテになる」てことは結構あるし、
専門家との付き合いで大事なことの一つに、たぶん、タイトルに惑わされないこと、というのも?
「ものすごくエライということになっている」タイトルの保持者が必ずしも実力者だとは限らない。
そういえば Marriottさんも、
断定的にものを言う専門家は、案外アテにならないことが多いと心得よ……と書いていたな。
私は「障害児の親」を含めた介護者がなるべく早く身につけたい一番大事なノウハウは
直接的な介護技術や介護のノウハウもだけれど、
なによりも「専門家をうまく使いこなす」術であり、
自分が頼ることのできる専門家という「手持ちのコマ」を
いかに多様に増やしていくかということじゃないかと思っている。
よく、専門家の中には
専門家並みの高度な知識を身につけている親を高く評価する人があるけど、
あれは、ちょっと違うんじゃないかなぁ。
(我が子の養育・療育に必要な知識まで身につける必要はないと言っているわけではありません)
専門家が持っている高度な専門知識というものは、私に言わせると、
広く大きな部屋の、ある特定のスポットを照らす懐中電灯なんだと思う。
専門家が専門家たるゆえんは、狭い領域のことを深く知っていること。
スポットであって、狭いことにこそ、意味がある。
一方、親と子が日々を暮らしている生活という「部屋」は、
専門分野の懐中電灯1本や2本でカバーできるはずもないほど大きく広い。
だからこそ、いくつもの専門領域に渡って何人もの専門家が関わってくれないといけないんだけど、
でも、それぞれの専門家が持っているのは1本の懐中電灯でしかないし、
何人集まったとしても、部屋の全体を照らし尽くせるわけでもない。
人が暮らしている「部屋」には、ちょっとやそっとでは明りに照らし出せない
入り組んだ隅っこや、隙間や、闇の部分だって、あるしね。
だから、必要な時に必要な懐中電灯で必要なところを照らしてもらえるよう、
多様な懐中電灯という手持ちのコマをなるべく増やしておくことが
障害児の親としては大事かな、と思うわけで、
そのためには、親がものすごい労力と時間を割いて
自分が何本かの懐中電灯になってしまおうとするよりも、
親こそが「うちの子」とか「我が家の生活」という部屋全体を知り尽くしている
しっかりした蛍光灯であることの方が大事なんじゃないのかな。
ま、言ってみれば「ウチの子」の専門家は親しかいない、ってことなんだけど。
これについては、もうちょっと頭の中でこなれてから
もう一度、ちゃんと整理して書いてみたいと思うけど。
あと、“身勝手な豚”さんも終わりのあたりで力説しているけど、
情報がほしい時、まっさきに聞いてみるべき相手は、実は専門家よりも、
自分と同じような“子豚”を介護している人たち。
ケアラーの最大の味方は、同じような人を介護しているケアラー。
これは、まったく私も同感。
ただ、私は情報源と支えてくれる人については全く同感でケアラーだけど、
現実に支援の方策を持っているのは、やはり専門家だと思う。
もちろん、どの専門家が役に立ってくれて、
どの専門家はただのトウヘンボクか、
どの専門家にはどんなクセや要注意点があるか、
といった情報を教えてもらえるのは、
やっぱり同じケアラー仲間。
それは間違いない。
――――――
しつこくて申し訳ありませんが、
数日中に、あと2つか3つ続きます。
ウンコと、殺意と、気が向いたらセックスと。
私が特に個人的に思わずニンマリしたのは
個人的な印象に過ぎないかも、と断りながら、
ろくに役に立ってもくれないのに冷たくてエラソーで無神経なことばかり言う
「お役所」や「専門家」の中で、なぜかOT(作業療法士)だけはフレンドリーで
実際に役立つノウハウを繰り出してくれる人たちのような気がする、と。
これ、かつて、ほんのわずかだけど仕事でOTさんの世界を覗き見した、
また娘を通じてもOTを含め一通りの「専門家」と付き合って来た私の
個人的な印象とも重なる。
この印象が重なったのは、ちょっと面白かった。
これについては興味があるので、これからも考えてみたい。
それから、諦めずに言い続けること、というアドバイスは、私も
後輩の「障害児の親」になったばかりの人たちに必ず伝えたいことの一つ。
どこに行って誰に聞いたらいいか分からないことって、
最初の内は本当に沢山ある。途方に暮れる。
そんな時は、誰でもいい。
出会う人、出会う人、手当たりしだいに、それをしゃべってみるといいと思う。
「こんなことに困っている」「こんなものはないだろうか」
何にもならなくてもいいから、解決するまで、とにかく
誰彼となく、そのことを言い続けてみる。
いきなり、答えを持っている人に会えることは少ないけど(でも、ないわけではない)、
もしかしたら知っているかもしれない人を知っている人くらいには、そのうちに当たる。
ここへ行ってみたら? この人に聞いてみたら? という情報をたどっているうちに
ふいに解決に至ること、って、結構、ほんと、あったりする。
そんなふうに、あちこちしていると、それ自体が
世の中にどういう機関があって、そこにどういう人がいて……と、
自分の中の専門家情報を増強して、情報マップが充実していくし、
なにより顔見知りの専門家が増えていく。
そのうちに、どういうことは誰のところへ行けばいいかが
経験則からだんだんと掴めてくる。
ここで経験則というのが結構、大事なのは、
「この人はその分野の専門家じゃないけど、でも専門家よりもアテになる」てことは結構あるし、
専門家との付き合いで大事なことの一つに、たぶん、タイトルに惑わされないこと、というのも?
「ものすごくエライということになっている」タイトルの保持者が必ずしも実力者だとは限らない。
そういえば Marriottさんも、
断定的にものを言う専門家は、案外アテにならないことが多いと心得よ……と書いていたな。
私は「障害児の親」を含めた介護者がなるべく早く身につけたい一番大事なノウハウは
直接的な介護技術や介護のノウハウもだけれど、
なによりも「専門家をうまく使いこなす」術であり、
自分が頼ることのできる専門家という「手持ちのコマ」を
いかに多様に増やしていくかということじゃないかと思っている。
よく、専門家の中には
専門家並みの高度な知識を身につけている親を高く評価する人があるけど、
あれは、ちょっと違うんじゃないかなぁ。
(我が子の養育・療育に必要な知識まで身につける必要はないと言っているわけではありません)
専門家が持っている高度な専門知識というものは、私に言わせると、
広く大きな部屋の、ある特定のスポットを照らす懐中電灯なんだと思う。
専門家が専門家たるゆえんは、狭い領域のことを深く知っていること。
スポットであって、狭いことにこそ、意味がある。
一方、親と子が日々を暮らしている生活という「部屋」は、
専門分野の懐中電灯1本や2本でカバーできるはずもないほど大きく広い。
だからこそ、いくつもの専門領域に渡って何人もの専門家が関わってくれないといけないんだけど、
でも、それぞれの専門家が持っているのは1本の懐中電灯でしかないし、
何人集まったとしても、部屋の全体を照らし尽くせるわけでもない。
人が暮らしている「部屋」には、ちょっとやそっとでは明りに照らし出せない
入り組んだ隅っこや、隙間や、闇の部分だって、あるしね。
だから、必要な時に必要な懐中電灯で必要なところを照らしてもらえるよう、
多様な懐中電灯という手持ちのコマをなるべく増やしておくことが
障害児の親としては大事かな、と思うわけで、
そのためには、親がものすごい労力と時間を割いて
自分が何本かの懐中電灯になってしまおうとするよりも、
親こそが「うちの子」とか「我が家の生活」という部屋全体を知り尽くしている
しっかりした蛍光灯であることの方が大事なんじゃないのかな。
ま、言ってみれば「ウチの子」の専門家は親しかいない、ってことなんだけど。
これについては、もうちょっと頭の中でこなれてから
もう一度、ちゃんと整理して書いてみたいと思うけど。
あと、“身勝手な豚”さんも終わりのあたりで力説しているけど、
情報がほしい時、まっさきに聞いてみるべき相手は、実は専門家よりも、
自分と同じような“子豚”を介護している人たち。
ケアラーの最大の味方は、同じような人を介護しているケアラー。
これは、まったく私も同感。
ただ、私は情報源と支えてくれる人については全く同感でケアラーだけど、
現実に支援の方策を持っているのは、やはり専門家だと思う。
もちろん、どの専門家が役に立ってくれて、
どの専門家はただのトウヘンボクか、
どの専門家にはどんなクセや要注意点があるか、
といった情報を教えてもらえるのは、
やっぱり同じケアラー仲間。
それは間違いない。
――――――
しつこくて申し訳ありませんが、
数日中に、あと2つか3つ続きます。
ウンコと、殺意と、気が向いたらセックスと。
2011.07.24 / Top↑
いくつか、「よくぞ取り上げたね、勇気あるよ、アンタ」と、
肩でも叩きつつ盛大な賛辞を送りたい気分になる天晴なテーマの中で、
「お役所の世界」について書かれていることが結構面白かった。
ここで著者が「お役所の世界 Officialdom」と呼んでいるのは
私の個人的な感覚では「いわゆる“専門家”というもの」にも重なる。
(お医者さんが冷たくて無神経に思えるのは、
「医師だってOfficialdomの人だから」と著者は十数行を割いています)
なんせ、お役所とか専門家について書かれていることの概要を
これまた私自身の勝手な言葉でまとめてみると、
-----
お役所には期待できない。ぜんぜん、できない。
最初に介護者になった時には、
こんなサービスもあります、あんなサービスもありますって、
人の期待を煽るようなことばっかり聞かされて、本気にしちゃったけど、
ほんと、バカ見て終わった。
そんなもの、どこにもなかった。
みんなも、もう経験していると思うけど。
介護者になって、真っ先に学ぶのは、
「頼れる人なんかどこにもいない。自分はひとりだ」ってことだった。
ただでさえ家を空けられない介護者だというのに、
わざわざお役所まで行って、さんざっぱらワケの分からない書類に記入させられて
サインさせられて、それで何かになるのかと思ったら、なんにもならない。
申請したし受け付けてもらったけど、待てど暮らせどサービスも介護用具も
何にも届かない……って、みんな経験済みだよね。
レスパイトだって、制度上はできることになっているし、
介護者アセスを受ければ、あなたはレスパイトの適用になります、て話なのに
(英国の介護者アセスメントについてはこちらに)
なんで、実際はこんなに利用できないの?
やってるところが、まず、見つからないし、
見つかったら、いっぱいで何カ月待ちだったりもする。
あれはさ、
砂漠を歩き続けてヘトヘトの人に「もうちょっと行くとオアシスがあるよ」と言えば
そいつはさらに歩き続けるのと同じで、介護者にも「休める」という希望だけチラつかせて
心が折れそうな介護者に介護を続けさせる策略なんだ。きっと。
どこまでいってもオアシスなんか蜃気楼のままなのに。
だから、お役所は当てにならない。
あいつら、本当は支援するつもりなんて、ない。
本当は、少しでも予算を浮かしたくて、介護者や障害者をバカにして
心の中では「べぇー」なんてベロ出していたりするんだ、ぜったい……
と、つい考えたくなる気持ちは、ボクたち、みんなに、ある。
でも、本当にそうなのかな。ちょっと考えてみよう。
ボクたちが“子豚”の介護をできなくなったら困る人がいる。
もちろん一番辛い目に遭うのは“子豚”だけど、国だって困るはずだよ。
英国政府はボクたちに介護を続けてもらいたいと思っているはずだ。
そのための制度も予算も、一応用意してある。十分じゃないけどね。
介護者支援法もあるし、介護者にはアセスメントを受ける権利も保障されている。
申請すれば、介護者手当ももらえる。これまた手続きは面倒だけどね。
一人一人のお役所の人も、まぁ、いろいろな人がいるのは確かだけれど、
大半の人は、それなりに真面目に仕事と取り組んでいるんだと思う。
じゃぁ、なぜお役所はこんなに役立たずのくせに冷たく見えるのか?
ボクのとりあえずの説は、混沌説。
決して、個人的にボクたちがバカにされていたり、
見捨てられていたりするんじゃなくて、国としても地方自治体としても、
それなりに助けようとはしているんだけど、お役所も、とりあえず、いろんなものが足りない、
予算も人もノウハウも、いろんなものがね。システムは大きく複雑なのに。
それで、いろんなことがうまく流れなくて、混沌としてしまう。
誰かの悪意とか、怠慢ということじゃなくて。
そういうことなんじゃないかなぁ。
え? じゃぁ、どうすればいいかって?
うん。問題はそこだよね。
ボクとしては、諦めないこと、ブチ切れて終わったり投げやりにならないこと、をお薦め。
必要なモノやサービスは、必要なんだと、言い続けること。
どんな対応をされようと、どんなにアタマに来ようと、
大事なのは、あなたの自尊心ではなく、モノをゲットすること。そう念じてみて。
大事なのは、自尊心やプライドではなく、モノ・サービスをゲットして
“子豚”とあなたの生活を今よりも快適で楽しいものにすること。そう言い聞かせてみて。自分に。
易々とは傷つかない自分を保って交渉し続けるには
「自分は無職のケアラーに過ぎない」みたいな卑屈さとは縁を切り、
誰にも替わることのできない仕事をしている「私はケアラーです」と胸を張ろう。
そして、ケアラーとして”子豚”のために必要なものを調達する”プロ意識”でもって、
お役所の人と堂々と向かい合おう。
そして介護のプロフェッショナルとして「リフトがいる」、「レスパイトがいる」と求め続けるんだ。
何度でも、誰にでも、どこへいっても、「いる!」「いるんだぁ!」って、
言い続けてダメなら、叫ぶ。怒鳴る。時には机でも叩いてドラマチックに。
大事なのは、諦めずにしつこく求め続けること。
そうするとね、
不思議なことに、どこかで誰かがひょいと現れて道が開けたりする。
思いがけない別のところから救いの手が差し伸べられたりもする。
そんなことって、本当にあるんだよ。
だから、諦めないこと。
特にレスパイトは、絶対に、何が何でも、あきらめちゃダメだよ。
どこにも見つけられなくても、お役所がそっけなくても、
さらには“子豚”自身がイヤがって抵抗しても、
レスパイトだけは「やらない選択肢はない」。
これは介護の鉄則だと、しっかり覚えておこう。
いいかい。選択は2つしかないんだ。Break or you break.
ブレイク(休息)するか、あなたがブレイクする(壊れる)か――。
だから、いいね。
レスパイトだけは、ゼッタイに、何が何でも「いる」と求め続けるんだよ。
お役所にウンザリしたら、ほら、ボクの混沌説を思い出して。
肩でも叩きつつ盛大な賛辞を送りたい気分になる天晴なテーマの中で、
「お役所の世界」について書かれていることが結構面白かった。
ここで著者が「お役所の世界 Officialdom」と呼んでいるのは
私の個人的な感覚では「いわゆる“専門家”というもの」にも重なる。
(お医者さんが冷たくて無神経に思えるのは、
「医師だってOfficialdomの人だから」と著者は十数行を割いています)
なんせ、お役所とか専門家について書かれていることの概要を
これまた私自身の勝手な言葉でまとめてみると、
-----
お役所には期待できない。ぜんぜん、できない。
最初に介護者になった時には、
こんなサービスもあります、あんなサービスもありますって、
人の期待を煽るようなことばっかり聞かされて、本気にしちゃったけど、
ほんと、バカ見て終わった。
そんなもの、どこにもなかった。
みんなも、もう経験していると思うけど。
介護者になって、真っ先に学ぶのは、
「頼れる人なんかどこにもいない。自分はひとりだ」ってことだった。
ただでさえ家を空けられない介護者だというのに、
わざわざお役所まで行って、さんざっぱらワケの分からない書類に記入させられて
サインさせられて、それで何かになるのかと思ったら、なんにもならない。
申請したし受け付けてもらったけど、待てど暮らせどサービスも介護用具も
何にも届かない……って、みんな経験済みだよね。
レスパイトだって、制度上はできることになっているし、
介護者アセスを受ければ、あなたはレスパイトの適用になります、て話なのに
(英国の介護者アセスメントについてはこちらに)
なんで、実際はこんなに利用できないの?
やってるところが、まず、見つからないし、
見つかったら、いっぱいで何カ月待ちだったりもする。
あれはさ、
砂漠を歩き続けてヘトヘトの人に「もうちょっと行くとオアシスがあるよ」と言えば
そいつはさらに歩き続けるのと同じで、介護者にも「休める」という希望だけチラつかせて
心が折れそうな介護者に介護を続けさせる策略なんだ。きっと。
どこまでいってもオアシスなんか蜃気楼のままなのに。
だから、お役所は当てにならない。
あいつら、本当は支援するつもりなんて、ない。
本当は、少しでも予算を浮かしたくて、介護者や障害者をバカにして
心の中では「べぇー」なんてベロ出していたりするんだ、ぜったい……
と、つい考えたくなる気持ちは、ボクたち、みんなに、ある。
でも、本当にそうなのかな。ちょっと考えてみよう。
ボクたちが“子豚”の介護をできなくなったら困る人がいる。
もちろん一番辛い目に遭うのは“子豚”だけど、国だって困るはずだよ。
英国政府はボクたちに介護を続けてもらいたいと思っているはずだ。
そのための制度も予算も、一応用意してある。十分じゃないけどね。
介護者支援法もあるし、介護者にはアセスメントを受ける権利も保障されている。
申請すれば、介護者手当ももらえる。これまた手続きは面倒だけどね。
一人一人のお役所の人も、まぁ、いろいろな人がいるのは確かだけれど、
大半の人は、それなりに真面目に仕事と取り組んでいるんだと思う。
じゃぁ、なぜお役所はこんなに役立たずのくせに冷たく見えるのか?
ボクのとりあえずの説は、混沌説。
決して、個人的にボクたちがバカにされていたり、
見捨てられていたりするんじゃなくて、国としても地方自治体としても、
それなりに助けようとはしているんだけど、お役所も、とりあえず、いろんなものが足りない、
予算も人もノウハウも、いろんなものがね。システムは大きく複雑なのに。
それで、いろんなことがうまく流れなくて、混沌としてしまう。
誰かの悪意とか、怠慢ということじゃなくて。
そういうことなんじゃないかなぁ。
え? じゃぁ、どうすればいいかって?
うん。問題はそこだよね。
ボクとしては、諦めないこと、ブチ切れて終わったり投げやりにならないこと、をお薦め。
必要なモノやサービスは、必要なんだと、言い続けること。
どんな対応をされようと、どんなにアタマに来ようと、
大事なのは、あなたの自尊心ではなく、モノをゲットすること。そう念じてみて。
大事なのは、自尊心やプライドではなく、モノ・サービスをゲットして
“子豚”とあなたの生活を今よりも快適で楽しいものにすること。そう言い聞かせてみて。自分に。
易々とは傷つかない自分を保って交渉し続けるには
「自分は無職のケアラーに過ぎない」みたいな卑屈さとは縁を切り、
誰にも替わることのできない仕事をしている「私はケアラーです」と胸を張ろう。
そして、ケアラーとして”子豚”のために必要なものを調達する”プロ意識”でもって、
お役所の人と堂々と向かい合おう。
そして介護のプロフェッショナルとして「リフトがいる」、「レスパイトがいる」と求め続けるんだ。
何度でも、誰にでも、どこへいっても、「いる!」「いるんだぁ!」って、
言い続けてダメなら、叫ぶ。怒鳴る。時には机でも叩いてドラマチックに。
大事なのは、諦めずにしつこく求め続けること。
そうするとね、
不思議なことに、どこかで誰かがひょいと現れて道が開けたりする。
思いがけない別のところから救いの手が差し伸べられたりもする。
そんなことって、本当にあるんだよ。
だから、諦めないこと。
特にレスパイトは、絶対に、何が何でも、あきらめちゃダメだよ。
どこにも見つけられなくても、お役所がそっけなくても、
さらには“子豚”自身がイヤがって抵抗しても、
レスパイトだけは「やらない選択肢はない」。
これは介護の鉄則だと、しっかり覚えておこう。
いいかい。選択は2つしかないんだ。Break or you break.
ブレイク(休息)するか、あなたがブレイクする(壊れる)か――。
だから、いいね。
レスパイトだけは、ゼッタイに、何が何でも「いる」と求め続けるんだよ。
お役所にウンザリしたら、ほら、ボクの混沌説を思い出して。
2011.07.24 / Top↑
“身勝手な豚”たちが介護している相手は
当たり前ながら様々な病気や障害の持ち主で、年齢も性別も違って、多種多様。
高齢者だとか、様々な障害のある人だとか、障害児だとか、そのすべてに
失礼のないよう政治的に正しい表現を心がけるだけの技量も余裕もないので、と断って
著者は、介護される立場の人を“子豚”と総称する。
一応、著者なりのこじつけはあって、
Person I Give Love and Endless Therapy to (私が愛と際限ないセラピーを与える相手)の
それぞれの最初の1文字を繋げると、Piglet(子豚)になるとはいえ、
著者自身も、こんなのは苦し紛れのこじつけだというのは分かっている。
主役は介護者である“身勝手な豚”なのだから、
その人が介護している相手は一応みんな“子豚”ということにさせておいてね、というのが
まぁ、この本の中の、お約束というわけ。
イラストもふんだんに使われていて、そこでは
“身勝手な豚”のイニシャルSP入りのTシャツを着た大きな豚が
車イスに乗った“子豚”と一緒に描かれている。
最初の何章かで書かれていることを
これまた私自身の勝手な言葉で、以下に大まかにまとめてみると、
-----
介護者としての自分に嫌気がさしたり、そういう自分に罪悪感を覚えて
自分は何てイヤらしい“身勝手な豚”なんだろうと煩悶しているのは
あなただけじゃない。
身近な人の介護を背負ってしまった人間なら
誰だってそんな気持ちの中でぐるぐるしている。
決して、あなた一人じゃない。
だって、誰かが障害を負って介護が必要になったからといって
いきなり、心の準備も介護のノウハウもないまま、
ボク達は自分の人生を途中で放りだすしかなかったんだもの。
こっちにだって、やりたいことはいっぱいあったのに。
それに、プロの介護者なら給料はもちろん有給休暇があって、
8時間が終われば家に帰って休めるし「規定により、それはできません」とも言える。
雇用者がさせちゃいけないことが決まっている。彼らは法律で守られている。
だいたいプロの介護者なら最初に研修で教えてもらえる知識と技術を
ボクたちケアラーには誰もちゃんと教えてくれないのは、一体どういうわけなんだ?
プロの介護者に保障されている諸々を考えたら、
なんてフェアじゃない働き方をさせられているんだろうと、唖然としてしまうじゃないか。
それに加えて、介護生活てな、いつまで続くか分かりはしない。これは恐ろしいことだ。
やっと解放される頃には自分の人生はもう取り返しがつかない段階かも……。
そんな不安を考えたら、どうしても「自分は犠牲になってる」って感じ、あるよね。
それ、仕方ないでしょ。実際、たいていの介護者はそう感じるんだから。
だから、そう感じるあなたは“身勝手な豚”なのではなく、
本当は、ただの平均的なフツーの介護者――。
いったい何だって自分は毎日毎日こんなことをしているんだろう……って、
介護者はみんな、時にふと手を止めて考えこんでしまう。そして気持ちが沈むんだ。
なんで介護しているのかといえば、
まぁ、たいてい表向きは「愛情から」ということになってる。
でも実際には、お金とか親せきとの関係とか、義務感や責任感や、いろいろ絡んでいるし、
正直、いろいろそれぞれ複雑で「理由なんて分からない」のが本当のところだよね。
なにしろ放っておけないから、気が付いたら、こうなっていた……。
実際は、たいてい、そんなもんでしょ。
だから介護していると、あれこれと心の中にストレスがたまって悩ましいし、
どうにかならないかと考えるから、こんな本も手に取ってみたりするんだけど、
そういうあなたが今現在、放り出すことなく介護を続けているのも
どうにかならないかとヒントを求めて本を読んでみようとするのも、
本当のところ、愛がなかったらできないことなんだ。
だから、基本、やっぱり愛があるからやっていることなんだよ。
だからこそ、そんな介護者であるあなたは、本当は
もうちょっと“身勝手な豚”を心がけるくらいでちょうどいい。
ホンモノの“身勝手な豚”になりきれるような人だったら、
この本をここまで読み進んできたはずもないからね。
だからこそ、本当は介護しているあなた自身だって大切にケアされるべき人なんだ。
言っておくけど、これは介護のハウツー本じゃない。だから、
この本を読んだら(たぶん何をしたって)たちどころに、自己犠牲を払って尽くす介護者に生まれ変わる……
なんてことは金輪際、ない。
この本で、福祉制度を利用するための実用的ガイドや
日々の介護の具体的なノウハウが見つかるわけでもない。
ただ、介護者同士として、一緒にいろいろ考えてみない?
言っちゃ悪いけど、
障害があって介護が必要な人を尊重する介護のハウツウなら
世の中には掃いて捨てるほど出版されている。
この本が書いていることは、ただ一つ。
介護者のこと。介護者のため。それだけ。
つまり、この本のテーマは、あなた――。
あなたが“子豚”をケアするだけじゃなく、
あなた自身をもう一人の“子豚”としてケアするために、
あなたのことを一緒に考えましょう。
これはそういう本――。
当たり前ながら様々な病気や障害の持ち主で、年齢も性別も違って、多種多様。
高齢者だとか、様々な障害のある人だとか、障害児だとか、そのすべてに
失礼のないよう政治的に正しい表現を心がけるだけの技量も余裕もないので、と断って
著者は、介護される立場の人を“子豚”と総称する。
一応、著者なりのこじつけはあって、
Person I Give Love and Endless Therapy to (私が愛と際限ないセラピーを与える相手)の
それぞれの最初の1文字を繋げると、Piglet(子豚)になるとはいえ、
著者自身も、こんなのは苦し紛れのこじつけだというのは分かっている。
主役は介護者である“身勝手な豚”なのだから、
その人が介護している相手は一応みんな“子豚”ということにさせておいてね、というのが
まぁ、この本の中の、お約束というわけ。
イラストもふんだんに使われていて、そこでは
“身勝手な豚”のイニシャルSP入りのTシャツを着た大きな豚が
車イスに乗った“子豚”と一緒に描かれている。
最初の何章かで書かれていることを
これまた私自身の勝手な言葉で、以下に大まかにまとめてみると、
-----
介護者としての自分に嫌気がさしたり、そういう自分に罪悪感を覚えて
自分は何てイヤらしい“身勝手な豚”なんだろうと煩悶しているのは
あなただけじゃない。
身近な人の介護を背負ってしまった人間なら
誰だってそんな気持ちの中でぐるぐるしている。
決して、あなた一人じゃない。
だって、誰かが障害を負って介護が必要になったからといって
いきなり、心の準備も介護のノウハウもないまま、
ボク達は自分の人生を途中で放りだすしかなかったんだもの。
こっちにだって、やりたいことはいっぱいあったのに。
それに、プロの介護者なら給料はもちろん有給休暇があって、
8時間が終われば家に帰って休めるし「規定により、それはできません」とも言える。
雇用者がさせちゃいけないことが決まっている。彼らは法律で守られている。
だいたいプロの介護者なら最初に研修で教えてもらえる知識と技術を
ボクたちケアラーには誰もちゃんと教えてくれないのは、一体どういうわけなんだ?
プロの介護者に保障されている諸々を考えたら、
なんてフェアじゃない働き方をさせられているんだろうと、唖然としてしまうじゃないか。
それに加えて、介護生活てな、いつまで続くか分かりはしない。これは恐ろしいことだ。
やっと解放される頃には自分の人生はもう取り返しがつかない段階かも……。
そんな不安を考えたら、どうしても「自分は犠牲になってる」って感じ、あるよね。
それ、仕方ないでしょ。実際、たいていの介護者はそう感じるんだから。
だから、そう感じるあなたは“身勝手な豚”なのではなく、
本当は、ただの平均的なフツーの介護者――。
いったい何だって自分は毎日毎日こんなことをしているんだろう……って、
介護者はみんな、時にふと手を止めて考えこんでしまう。そして気持ちが沈むんだ。
なんで介護しているのかといえば、
まぁ、たいてい表向きは「愛情から」ということになってる。
でも実際には、お金とか親せきとの関係とか、義務感や責任感や、いろいろ絡んでいるし、
正直、いろいろそれぞれ複雑で「理由なんて分からない」のが本当のところだよね。
なにしろ放っておけないから、気が付いたら、こうなっていた……。
実際は、たいてい、そんなもんでしょ。
だから介護していると、あれこれと心の中にストレスがたまって悩ましいし、
どうにかならないかと考えるから、こんな本も手に取ってみたりするんだけど、
そういうあなたが今現在、放り出すことなく介護を続けているのも
どうにかならないかとヒントを求めて本を読んでみようとするのも、
本当のところ、愛がなかったらできないことなんだ。
だから、基本、やっぱり愛があるからやっていることなんだよ。
だからこそ、そんな介護者であるあなたは、本当は
もうちょっと“身勝手な豚”を心がけるくらいでちょうどいい。
ホンモノの“身勝手な豚”になりきれるような人だったら、
この本をここまで読み進んできたはずもないからね。
だからこそ、本当は介護しているあなた自身だって大切にケアされるべき人なんだ。
言っておくけど、これは介護のハウツー本じゃない。だから、
この本を読んだら(たぶん何をしたって)たちどころに、自己犠牲を払って尽くす介護者に生まれ変わる……
なんてことは金輪際、ない。
この本で、福祉制度を利用するための実用的ガイドや
日々の介護の具体的なノウハウが見つかるわけでもない。
ただ、介護者同士として、一緒にいろいろ考えてみない?
言っちゃ悪いけど、
障害があって介護が必要な人を尊重する介護のハウツウなら
世の中には掃いて捨てるほど出版されている。
この本が書いていることは、ただ一つ。
介護者のこと。介護者のため。それだけ。
つまり、この本のテーマは、あなた――。
あなたが“子豚”をケアするだけじゃなく、
あなた自身をもう一人の“子豚”としてケアするために、
あなたのことを一緒に考えましょう。
これはそういう本――。
2011.07.24 / Top↑
「介護保険情報」誌の連載8月号に掲載することになったため
仮訳そのものは9月まで一旦閉じさせていただいていますが、
今年の英国のケアラーズ・ウィーク(介護者週間)のテーマ
「介護者の本当の顔」について7月5日のエントリーで取り上げた際、
そこで、このテーマのココロを、なんとも見事な“身勝手な豚”の語りで
描いてみせてくれたのは、ハンチントン病の妻の介護をしているHugh Marriottさんでした。
そのエントリーを機に、Marriottさんが
「“身勝手な豚”の介護ガイド」というタイトルの本を出していることを知り、
さっそく取り寄せて読んでみました。
思った以上に厚かったけど、良い本でした。
良いとかどうとかいうよりも、なによりも、
こんなにも介護者のホンネを正直に書いてくれた人が今までいただろうか……。
表紙には、英国で一番老舗の介護者支援チャリティ
the Princess Royal Trust for Carers の幹部の推薦の言葉があり
「20年も前から欲しかった本。初めて介護者になった時に私はこの本を読みたかった」
なにしろ、
ちゃんと1つの章を割いて書かれているテーマの一部を挙げてみると、
お役所(専門家)の世界
セックス
介護者の身体
燃え尽き
自立のジレンマ
キタナイもの(主としてウンコ)
階段から突き落としてやりたい気持ち (誰をって、そりゃ自分が介護している相手を、です)
妻がハンチントン病を発病したと分かった時、
Marriott氏は経営していたPR会社をたたみ、家を売って帆船を買い、
2人で世界放浪の旅に出たと言います。
妻を介護しながらの旅も9年に及び、
とうとう妻の身体が航海に耐えられなくなってきた時、
2人は英国に戻り、本格的な介護生活を始めたとのこと。
なぜMarriott氏が自らを含めた介護者を“身勝手な豚”と称するのかについて、
本書を通じて書かれている、そのワケを、私自身の言葉で大まかに取りまとめてみると、
誰かを介護していると、
「もっとしてあげたい」ことと「でも現実には自分の苦しさでそこまでできない」現実との
板ばさみになって、自分はなんて酷い人間なんだろう、と罪悪感を覚える。
それに介護者としての役割だって最初から進んで引き受けたわけではなく
自分がこんなハメに陥るなんて想像したことすらなかった。
だから、どこかで「こんなはずじゃなかった」という思いがぬぐいきれないし、
本人のせいじゃないと分かっていても、こいつの障害さえなければ……と、
つい頭の中をつぶやきがよぎっていくこともある。
かつて人並みに働いて、それなりの収入を得ていた自分と
介護のために仕事をやめて無収入になり、家事労働みたいなことに明け暮れる今の自分を引き比べると、
なんだか「自分の人生も失敗に終わっちまった」観が強いし、自尊感情がどうしても下がってしまう。
前だって、そんなに大した人生だったわけでもないけど、
でも、自分の人生ですらない、結局は他者の人生だもんね、これって。
ただ、目の前の妻をつくづくと見やれば、
こいつだって思いがけない障害を負うことになり、
辛いのは自分よりも相手の方だと分かってもいるし
だから、また、
こんなにグズグズとネガな考えに囚われる自分は
なんて身勝手なイヤな人間なんだ、まるで豚みたいな奴だと嫌気がさしてしまう……
冒頭、読者に向かっても彼は、
「この本を手に取ったということは、
あなたも自分を“身勝手な豚”だと感じてるんだよね?」と語りかけ、
「でも実はそれは勘違い。だって、
本当に“身勝手な豚”なら、こんな本を手に取ったりしない」と。
仮訳そのものは9月まで一旦閉じさせていただいていますが、
今年の英国のケアラーズ・ウィーク(介護者週間)のテーマ
「介護者の本当の顔」について7月5日のエントリーで取り上げた際、
そこで、このテーマのココロを、なんとも見事な“身勝手な豚”の語りで
描いてみせてくれたのは、ハンチントン病の妻の介護をしているHugh Marriottさんでした。
そのエントリーを機に、Marriottさんが
「“身勝手な豚”の介護ガイド」というタイトルの本を出していることを知り、
さっそく取り寄せて読んでみました。
思った以上に厚かったけど、良い本でした。
良いとかどうとかいうよりも、なによりも、
こんなにも介護者のホンネを正直に書いてくれた人が今までいただろうか……。
表紙には、英国で一番老舗の介護者支援チャリティ
the Princess Royal Trust for Carers の幹部の推薦の言葉があり
「20年も前から欲しかった本。初めて介護者になった時に私はこの本を読みたかった」
なにしろ、
ちゃんと1つの章を割いて書かれているテーマの一部を挙げてみると、
お役所(専門家)の世界
セックス
介護者の身体
燃え尽き
自立のジレンマ
キタナイもの(主としてウンコ)
階段から突き落としてやりたい気持ち (誰をって、そりゃ自分が介護している相手を、です)
妻がハンチントン病を発病したと分かった時、
Marriott氏は経営していたPR会社をたたみ、家を売って帆船を買い、
2人で世界放浪の旅に出たと言います。
妻を介護しながらの旅も9年に及び、
とうとう妻の身体が航海に耐えられなくなってきた時、
2人は英国に戻り、本格的な介護生活を始めたとのこと。
なぜMarriott氏が自らを含めた介護者を“身勝手な豚”と称するのかについて、
本書を通じて書かれている、そのワケを、私自身の言葉で大まかに取りまとめてみると、
誰かを介護していると、
「もっとしてあげたい」ことと「でも現実には自分の苦しさでそこまでできない」現実との
板ばさみになって、自分はなんて酷い人間なんだろう、と罪悪感を覚える。
それに介護者としての役割だって最初から進んで引き受けたわけではなく
自分がこんなハメに陥るなんて想像したことすらなかった。
だから、どこかで「こんなはずじゃなかった」という思いがぬぐいきれないし、
本人のせいじゃないと分かっていても、こいつの障害さえなければ……と、
つい頭の中をつぶやきがよぎっていくこともある。
かつて人並みに働いて、それなりの収入を得ていた自分と
介護のために仕事をやめて無収入になり、家事労働みたいなことに明け暮れる今の自分を引き比べると、
なんだか「自分の人生も失敗に終わっちまった」観が強いし、自尊感情がどうしても下がってしまう。
前だって、そんなに大した人生だったわけでもないけど、
でも、自分の人生ですらない、結局は他者の人生だもんね、これって。
ただ、目の前の妻をつくづくと見やれば、
こいつだって思いがけない障害を負うことになり、
辛いのは自分よりも相手の方だと分かってもいるし
だから、また、
こんなにグズグズとネガな考えに囚われる自分は
なんて身勝手なイヤな人間なんだ、まるで豚みたいな奴だと嫌気がさしてしまう……
冒頭、読者に向かっても彼は、
「この本を手に取ったということは、
あなたも自分を“身勝手な豚”だと感じてるんだよね?」と語りかけ、
「でも実はそれは勘違い。だって、
本当に“身勝手な豚”なら、こんな本を手に取ったりしない」と。
2011.07.24 / Top↑
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