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白血病の姉のドナーになるべくデザイナー・ベイビーとして生まれ、13年間、臓器のスペア庫として常に待機しては体の一部を姉に提供し続けてきたアナが、次はいよいよ腎臓提供を求められるという段階で、「もうイヤだ」と両親を訴えるという物語。

これから、このミステリーを読む人にはちょっと迷惑かもしれませんが、最後のどんでん返しが待っているので、そちらは触れずにおくことで勘弁してもらって、判事が裁判の最後にアナに話しかける言葉を。

「この数日、争点となったことのひとつは、13歳の少女にこれほど重大な選択をする能力があるかどうかということでした。しかしながら、わたしはこう主張したい。13歳という年齢に達していれば、基本認識を変えることはまずありえないと。むしろ、ここにいるおとなたちの一部は子どものころの最も基本的なルールを忘れてしまっているように思われます。人からなにかをもらうときにはかならず相手の許可を求めるということを」

「今ここに、医療目的のための能力が両親の監督を離れ、きみに付与されることを宣します。その意味するところは、きみがこれからもご両親と一緒に暮らすとしても、また、就寝時刻や見てはいけないテレビ番組について、ブロッコリーを残していいかどうかについて、ご両親から指示されることはあるとしても、医療行為に関して最終決断をするのはきみだということです」

アナの弁護士が、彼女が18歳になるまで医療上の代理権を付与され、さらに難しい決断を下さなければならない事態に至った時にアナを補佐することになります。

「むろん、そうした決断がご両親と無関係になされるべきだと言っているわけではありませんが、最終的に決断をくだせるのはアナひとりだということです」


            ―――――

物語の終わりの方で、あるシーンがアナの視点から回想されます。姉のケイトとアナが食後の後片付けをしながら腎臓移植を話題にする、とても印象的な場面。

アナが「あんたには生きて欲しい」と言い、それに答えるケイトの方が、「腎臓提供がイヤだと言いさえすれば、好きなホッケーも続けられるし大学に行って、あんただって思い通りの人生が送れるのよ」などと返した後、2人は黙って皿を洗い続ける。そういうシーンです。

……自分がお荷物でいるのをケイトが後ろめたく感じていたんだとしたら、あたしはその2倍、うしろめたさを感じていた。彼女がそう感じてるのを知ってたから。自分もそう感じてるのがわかってたから。
 そのあとは話が途切れた。あたしは彼女が手渡すものを拭き、ふたりして、自分たちが真実に気づいていないふりをした。ケイトに生きてほしいといつも思っているあたしのほかに、解放されたいとときどき願う恐ろしいあたしもいるっていう真実に。


姉を愛しているなら臓器を提供することなど苦にならないずだ、むしろ自ら進んで提供するはずだと、なぜ周囲は思い込むのだろう。そんなことが際限なく続けられる人間など、いるはずがないのに。

なぜアナは、そうできない自分を「恐ろしいあたし」と責めながら、「もうイヤだ」という声を自ら封印するしかなかったのだろう。解放されたいと願うことがあるからといって、姉を愛していないことにはならないのに。それは別の問題なのに。

……ということを考えていると、ふとケイトとアナの関係がKatieとAlisonの関係に重なりました。Alisonもまた「もうイヤだ」と思う自分を心の奥底で「恐ろしい母親」だと責めているに違いない、と。

娘の介護から解放されたいと願うことがあるからといって、子どもを愛していないことにはならないのに。子どもの介護にいかに献身できるかということだけが、親の愛情を量る目盛りではないのに。

もしかしたら障害のある子どもの介護への献身を、愛情を量る目盛りにしてしまうのは、the Daily Mailの密着取材記事のような周囲の眼差しなのではないでしょうか。

愛すればこその介護だと自己犠牲を賛美されたら、「もう限界」と助けを求める声は封印するしかなくなってしまうでしょう。だって、介護ができないことは愛情がないことの証になるのだから。ドナーであり続けることが姉への愛情の証だと、無言のうちに悲鳴を封じられていたアナのように。
2007.10.26 / Top↑
Katie Thorpeのケースが裁判に持ち込まれ、Katie本人の利益はcafcassという子どもの権利擁護のための組織によって代理されることになったようです。それにより、Ashleyのケースにおける決定プロセスの安易さが改めて浮き彫りにされるような気がします。

そんなことを考えていたら思い出したので、「わたしのなかのあなた」(ジョディ・ピコー)という小説を読んでみました。

7月13日のシアトル子ども病院生命倫理カンファレンスの際、Rebecca D. Pentz 医師のプレゼン「兄弟の健康への手段として子どもを利用すること」で引用・紹介されていた小説です。

13歳のアナは、白血病の姉ケイトのドナーとなるべく出生前遺伝子診断で生まれたデザイナー・ベイビー。彼女が弁護士を雇って両親を訴えることから物語が展開します。主要登場人物それぞれの視点から書かれており、どんでん返しも用意されて、なかなか楽しめるミステリーでした。

また、この本は、子どもの法的な権利擁護が制度化されているのはイギリスだけではないと、思い出させてくれます。読みながら、医療における未成年や自分で決定できない人を巡る代理決定の問題は、このような兄弟間の移植であれ、AshleyやKatieのケースであれ、本質的に通じるところがあるなぁ……と感じたりも。

いきなり13歳の少女に裁判を起こしたいと頼まれた弁護士は、なぜ両親を訴えるほどの強硬な手段をとるのかとアナに問います。生まれた直後の臍帯血を皮切りに、リンパ球、骨髄、顆粒球、抹消血管細胞と、姉の病気の進行に伴って次々に体の組織を提供させられてきたアナの答えは、

「きりがないからよ」

これまでにそれだけの臓器提供をしてきたということは以前は同意していたのか、との問いには、

「だれも一度もあたしに尋ねなかったわ」
「腎臓を提供したくないということは、ご両親に伝えたのかい?」
「あたしの言うことなんか聞いてくれないもの」

これら2つの問答は、たしかPentz医師も上記のプレゼンで引用していたように思います。

後の法廷の場面で、

アメリカで両親が子どもに代わって決断を下すことが認められているのは、憲法で保障されたプライバシー権によるもの」という法的解釈が出てきます。

(この点は“アシュリー療法”論争の際も、支持・擁護の立場の人たちが親の決定権に関連して挙げていました)

一方、同じく後の法廷の場面で、

両親が既にその意思を示していたとしても、12歳から14歳に達した子どもは、正式なコンセントでなくとも、病院が勧める処置に同意の意思表示をする義務が生じる

と医療倫理審議会の委員長が証言する場面もあります。

(シアトル子ども病院の生命倫理カンファレンスで、 Lainie Ross医師の講演の中で mature minor という概念が出てきました。ここで言っているのがそのことかも。)

話を小説の冒頭に戻します。

アナの頼みを引き受けるつもりになった弁護士が、裁判の手順を彼女に説明する場面。

「家庭裁判所にきみの訴状を提出しよう。医療目的のための能力付与を請求することになるな」
「そのあとは?」
「審理が開かれ、判事は訴訟後見人を選任する。訴訟後見人とは──」
家庭裁判所の訴訟に関わる未成年者を補佐するための訓練を受けた人。その子の最大の利益がなんであるかを決定する人。つまり、あたしの身に何が起こるかは、またべつのおとなが決めるってことね」
「でも、法律ではそうすることになっているんだから、そこを避けては通れない。ただし、後見人は理論上、きみの味方なんだ。きみのお姉さんや両親の味方ではなく

姉の病院の医療倫理審議会の議長(精神分析医)を弁護士が訪ねていき、アナに関する医療倫理審議会の審議記録について尋ねるシーンがあります。

「彼女(アナ)に関する医療倫理審議会の意見書はありますか」
「アナ・フィッツジェラルドのために医療倫理審議会が開かれたことは一度もない。患者は彼女の姉なんだから」

(アナが8回もその病院で処置を受けていることを弁護士に指摘されて)
「しかし、ああした処置が医療倫理審議会にかけられるとはかぎらんだろう。患者の要望に医師が同意していれば、また、その逆であれば、対立は起こらない。対立がなければ、われわれはそのことについて聞き取りすらする理由がない。われわれはフルタイムで仕事をしているんですよ、ミスター・アレグザンダー。われわれ精神分析医、看護師、医師、科学者、牧師といった職業の人間は、問題を探しに出かけていくわけじゃないんだ」
          

当ブログでも、コンフリクトがなければ最善の利益も問われないのではないか、Ashleyのケースが裁判に持ち込まれなかった最大の理由とは、単に親と医師とが合意したからではないか、との疑問を呈しています。

これは、FostやDiekemaのような考え方の医師を探して訪ねていけば、世間に知られることもなく、親は障害のある子どもにお好み通りに手が加えられる、ということではないでしょうか。

(シアトル子ども病院に関しては、今後5年間は DRWの監視の目が光ることになっていますが。)
2007.10.26 / Top↑