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10月11日のWired ScienceというサイトにGunther医師の自殺を報じる記事があります。
記事そのものは6行だけの大変短いもので、特に目新しい情報はないのですが、
そこに書き込まれたコメントが目を引きました。

私が見た時点での書き込みは3つ。

残念です。
Kouroth Oct 11, 2007 10:08:01AM

罪悪感とは無関係に決まっています……よね……
Balance Oct 11, 2007 10:53:27AM

何に対する罪悪感? 
彼も、あの処置を要望した親も、時代に先んじていただけかもしれないよ。
体が小さい方が、食べさせるのも、いろいろ世話したり移動させるのも簡単なんだから。

マイノリティの女性に無断で不妊手術をしていた医者とは違うんだよ。
昔、そういうのが当たり前だった時代もあるけど。

まぁ、子どものころに宗教的信条で洗脳された人間の中には、
裁判所の介入があった方がいいと考えるのもいるがね。
TJ Oct 11, 2007 3:01:31PM

このコメントの「時代に先んじていただけ」という言葉は、
アシュリーのケースについては非常に象徴的であるように感じます。

AshleyのケースとKatieのケースとでは、 決定的に違うと前に書きましたが、
その1つがこの「時代に先んじる」ことへの志向性の有無ではないかと私は思うのです。

アシュリーの父親は、自分が思いついた“アシュリー療法”が斬新で先進的な名案であると胸を張り、
世に広めようとの姿勢を前面に出していました。
それがブログでもメディアへの発言でも何度も繰り返された
彼の「難しい決断ではなかった」という言葉に表れています。
難しい決断も何も、自分が思いつき考案したことですから。

明らかにトランスヒューマニストのブログであることを知りながら、Dvorskyのブログの一説を引用したことからも想像されるように、

アシュリーの父親は「新興技術を使って人間を造り替える」という発想に
なんら抵抗を感じない人物のようです。

それは彼が世界に名を馳せるIT企業の最高幹部の一人であるということとも関係しているのかもしれません。
その彼が“アシュリー療法”を考案し、自分の娘に施し、それを世に広めようとブログを書いた時、
彼は明らかに「時代に先んじる」ことを自覚的に志向していたと言えるのではないでしょうか。

それに対して、
Katieの母親は自分が時代に先んじていようがどうだろうが、そんなことはどうでもいい。

メディアでのAlisonの発言を読むと、
彼女は基本的には自分が望むことを実現してもらうために、
その場その場でアシュリーの親の論理から適当な部分を借用しているに過ぎないように思えます。

(実に多くのメディアに対して直接取材に応じていることに驚きますが、
記事によって発言が多少ブレています。)

基本的にはKatieと自分のことしか考えていないし、
時代に先んじていようが前時代的であろうが、
彼女にとってはどうでもいいことでしょう。

このように2人の親の認識の違いを考えると、
Ashleyのケースの意味や背景が充分に吟味されないうちにKatieのケースが行われてしまうことは、

非常に危険なことなのでは?

              ―――――――

それにしても、

Gunther医師の自殺を報じる記事にコメントも寄せられ、
取り上げるブログもかなり出てきていますが、
英国でのKatieを巡る動きと彼の自殺をつなげて考えてみる人がいないことには、
ちょっと驚いています。

このタイミング。

無関係ではないのでは、と私は思うのですが。
2007.10.13 / Top↑
the Telegraphの Disabled girl to have womb removed (10月9日)から。

この記事には特に目新しい事実関係の情報はないのですが、母親Alisonの発言が引用されている箇所が多く、その発言がどうも気になるのです。例えば、

私にとっては苦しい決断でした。他の決断だっていつでもそうですけど。“私は正しいことをしているのかしら”とずっと自問しました。

たしか、決めたのはこの子が12歳か13歳だった2年前です。メリットとデメリットをはかりにかけて検討するのには13年かかったんです。

「苦しい決断だった」といっていることに注目してください。アシュリーの父親は「ぜんぜん苦しい決断じゃなかった」と何度も強調していました。ここに2つのケースの決定的な違いが如実に現れているという気がします。(この点については改めて書きたいと思っています。)

唯一の反論は障害者団体からのものですが、私があの人たちに言いたいのは“じゃぁ、うちに来て私と一週間過ごしてみてよ。私の身になってみなさいよ”ということです。

なんという無神経で残酷な言葉。

日々を生きていくために介助を必要とする障害当事者たちに向けて、「介護者の身になってみろ。あなたたちの介護がどんなに負担か、どんなに大変か、知ってみろ」と。

あまりにも他者に対する想像力を欠いた言葉です。ここにはAlisonの被害者意識がチラついています。彼女の被害者意識は、本来はそのような生活しか自分に与えてくれなかった人生への恨みからくるものなのでしょう。自分の苦しみに圧倒されている時、人は確かに他者の苦しみへの想像力を失います。しかし、Alisonがその被害者意識をぶつけるべき相手は娘を含む障害児・者ではなく、十分な支援をせずにむしろ切り捨てにかかっている社会の方ではないでしょうか。

そして、極めつけは以下の発言。

この子は自分では何もできないのです。おしっこもウンチも垂れ流しだし。手も足も使い物にならない。コミュニケーションも取れない。Katieが自分でできるのは息をすることだけなんです。

この子は自分では何もできない、できるのは息をすることだけ……。そんなはずはない。植物状態でもない限り、そんなことはありえない。

これまで当ブログで紹介した記事の多くには母子の写真が掲載されていますが、いずれもKatieは笑顔です。そこには母親とKatieのつながりの強さ、その中で彼女が安んじて楽しい生活を送っていることが感じられます。こういう笑顔のできる子が、「できるのは息をすることだけ」という存在であるはずがない。

私はKatieが通っている学校の先生たちがKatieをどのように見ているかを聞いてみたい、彼らはKatieにできることを沢山挙げられるのではないかという気がします。(アシュリーの知的レベルについても、彼女の日常生活を知っている学校の先生やセラピストのアセスメントを聞いてみるべきだと私は考えます。)

メディアはこぞってdevoted(献身的)な母親だと書いています。彼女自身も「loving(愛情深い)な母親として」という言い方をしています。しかし、この「できるのは息をすることだけ」発言でわが子に向ける目線には、その愛情の温かみが感じられないことが寂しい。

彼女の愛情の深さは疑いません。それだけの愛情がなければ背負えなかったはずの介護を、特にパートナーと出会うまでは一人で背負ってきた人です。写真や言葉の端々からも愛情の深さは充分感じられます。

しかし、長年の介護負担との格闘で、この人は燃え尽き寸前なのではないでしょうか。娘へのそれほどの愛情も擦り切れ、自分を見失うほどに、この人が本当は追い詰められているのだとしたら、時間を置いて冷静な判断をできるためには、むしろ一定期間この人を介護から解放してあげる(つまりレスパイトの)必要があるのでは? 

Katieの生理はまだ始まっていません。それならば結論を急ぐ必要もない話です。AlisonはKatieの介護からしばらく完全に離れ、本来の自分を取り戻してから、もう一度冷静に考えてみては……というのも1つの選択肢ではないでしょうか。親と医師だけではなく、ソーシャルワークの視点がこの検討に加われば、そのような選択肢も出てくるのではないかと私には感じられるのですが。
2007.10.13 / Top↑