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11月17日のNYTimesに
個人の遺伝子情報を提供するサービスが
アメリカで始まりつつある(少なくとも3社)とのニュースがあり、


自分のDNA情報をゲットするのに必要なのは
1000ドルと唾液サンプルだけ。

記事は記者の体験記で、
大して役に立つ情報はまだ手に入らないというのが結論のようですが、
記事の中で注意を引かれたのは以下の3点。

①記者が自分の遺伝情報を入手する前に
その結果によっては保険契約ができなくなるのかどうか
保険会社数社に問い合わせたところ、
「現時点ではそんなことはないが、
このようなサービスを提供する会社が成功して
個人の遺伝情報が一般化してくれば
将来的には契約に影響する可能性はある」

②送られてきた自分の遺伝情報を開く前にモニターにあった警告文は、
以下のようなものだったようです。

これは決定的な情報ではなく、
今後の発見によって全く覆ってしまう可能性があります。

仮にある病気にかかる確率が高くても、予防するすべがない可能性もあります。

また、この情報は医学上の診断ではありません。

これらの点をよく考えた上で、なおかつ検査結果を見たいと望む方は、
こちらをクリック。

③自分のDNAサンプルは検査に出しても、
現在3歳の娘のDNAサンプルは検査に出さないことにした記者が
その理由を語る下り。

なぜなら娘のことでは、
どんなことであれ前もって決まっているとは考えたくなかったから。
娘がピアノを弾きたいと言い出したら、
少々リズム感が悪かろうと、そんなことはどうでもいいし、
100メートル走に出たいというなら、
別に彼女が短距離走者向きの遺伝子を持っていなくたって全然気にならない。


それで思い出したのは、
いつだったか見たCNNのLarry King Liveの1コマ。

「頭のいい子を育てるための○箇条」的な本を出したばかりの人が登場した回で、
どんな「頭のいい子」、「能力の優れた子」だって親の育て方次第との自説を
能弁に展開する著者が勢いに乗り、
「Larry、 あなたは子どもに何を望みます?」と、
答えが何であれ、自分には可能にしてあげられるとのニュアンスで問うた際に、
King が答えたこと。

「私が子どもに望むこと、ですか?
子どもたちには、ハッピーになってほしい」

その時の、ゲストの鼻白んだ顔。
え……?
と、一瞬まるで理解できない言葉を聞いたかのような。

「……いや……だから、それはもちろんなんだけど、
だからこそ、そのために親は、
子どもにいろんなことを望むし、身につけさせようと思うわけでしょう? 
これができて欲しいとか、こういう才能があったらいいとか」
と、盛大なスムース・トークを再開した彼の顔に書いてあったのは、

子どもにハッピーになって欲しいって、
なんてバカなことを言うんだ?
そんなの当たり前だから、こうして、
「子どもをハッピーにするための方法」を説いているんじゃないか……。

でも、

「子どもがハッピーになる」のと
「子どもをハッピーにする」のとは、

別のことなんですよね。
2007.11.27 / Top↑

FRIDAは

生命を尊重する立場(pro-life)と障害女性問題運動家とは
表面的には同じ主張をしているように見えるが、
実際には全く異なった立場に立脚して問題を眺めているのだ、
ということを書いています。

それを読んで、ふっと思ったのは、

これはなんだか、
生命倫理のリベラル派と保守派とが
非常に限られた問題においては反対の主張をしているように見えながら、
それぞれ、その背景でどういう価値観をもっているかを考えると、
実はかなり近いところに立っているように感じられることの
(私にはどちらもレッドネックに思えるというだけのことですが)
ちょうど裏返しみたいな現象なんじゃないかなぁ……と。

一方、
障害を理由に命を切り捨てることに対しては、
Emilioのケースで病院側の「無益な治療」宣告に抗議はしたものの、
FRIDAの中には女性の選択権を尊重する立場(pro-choice)をとる人が多く、
そのことのジレンマも上記FRIDAの文章からは感じられます。

私自身、
「ケア負担を担うのは母親だから、母親に中絶の選択権がある」と主張するLindemann論文
「子育てとは不確定な未来を引き受けること」だとして反論するDreger論文(共にHastings Center report)
を読んだときに初めて、

pro-choiceの立場のフェミニストは選択的堕胎にどういうスタンスを取るのだろう?

と、遅ればせながら、やっと考えがそこに至って以来、
ずっと頭に引っかかっていることもあって、

FRIDAの文章に、そのジレンマの悩ましさを感じた時に、

「神聖な義務」の問題で血友病患者の人たちが直接の抗議行動に出られなかったジレンマ
も思い起こされて、
(これも、ずっと考えるのをやめられないでいるので)

外に向かって白黒きっぱりしたものを言うのが難しく、
グレーで曖昧なところに立ちつくしたまま、
自分の中にあるものを手探りしてみるかのように、
両義性とか迷いとか揺らぎとかの中で、
ぐるぐるしてしまう人の歯切れの悪さ、

その割り切れなさのことを、
やはり、また考えてしまう。

         ―――――――

例えば、

白人と黒人、
男と女、
健常者と障害者、
親と子ども
富者と貧者

といった、権利・利益が衝突する関係を軸に眺めてみた時に、

「神聖な義務」に憤りながら直接の抗議に踏み切れなかった
血友病患者の人たちにあった割り切れなさというのは、
「健常者と障害者」の衝突の中では「障害者」の側に立って憤っている自分が、
「親と子ども」という衝突の中では、「親」の側に立たざるを得ないジレンマ
だったのでは?

(「障害のある子どもの親」もまた、
弱者である子を守る役割を担い、
障害児親子として差別される側に置かれると同時に、
自分自身は子どもに対して抑圧者にもなりうる強者の位置にいる
というジレンマを背負っているのだなぁ……と。)

pro-choiceの障害女性問題活動家の割り切れなさもまた、
「健常者と障害者」「男と女」「親と子ども」の権利の衝突の中で、
一貫して弱者の側に立てないことの悩ましさなのかも?

……ということを考えていると、

いわゆる生命倫理の「リベラル」とか「保守」というのは
主張していることは一見まるで反対のように思えるけれど、
それぞれの背景にある価値観に目を向ければ
権利が対立する上記の関係の中では、結局どちらも前者の側に立っているように思え、

だからこそ、彼らは白黒きっぱりとものが言えているのかもしれず、

(この段で行くと、最もきっぱりとものが言えるのは
「裕福な白人成人男性の健常者」ということになりますね。)

そういう、きっぱりと割り切れた議論だけが進んでいくと、
上記のような利益・権利の衝突の中で
後者の利益はイデオロギーの生命倫理の中で見えにくくされたまま、
結局は切り捨てられていくのではないか、と。


それならばこそ、
こういう割り切れなさを抱えている人が、
その割り切れなさの中にあるものを言葉にして
議論の中に投げ込んでいかなければならないのでは……と思うのですが、

なにしろ「割り切れなさ」を語ろうとするのだから、
言葉になりにくく、どうしても歯切れが悪くなって、
それがまた悩ましいのですね。
2007.11.27 / Top↑