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11月4日のエントリー「老人は口から食べることができなくなったら死」……について
コメントをいただくたびに、自分には表現しきれていないもどかしさを感じていたのですが、

このブログを始めた当初から、ずっと寄ってくださっているmug*il*34さんが
このエントリーを受けて今日ご自身のブログに書いてくださった記事に、
とても心を揺さぶられ、

mug*l*34さんのおかげで、
やっと自分が言いたかったことが掴めたような気がしました。

mug*il*34さんの記事はこちら

mug*il*34さんも私の文章から引用してくださっているので、
私も引用させてもらうと、私が思わず膝を打った箇所は、

 一般に医療関係者は、点滴に頼りすぎる。
 重篤になったら深静脈への投与に切り替えるが、更に長引くようなら、胃ろう埋設である。栄養物さえ流し込んでおけば、死ぬことはない、と思っている節がある。

 しかし私が見聞きした範囲内で言えば、一旦経口摂取を止めたら、生きる意欲は極端に減少する。食う意欲そのものが、生きる意欲に通じる。
 そこが分かっていないから、看護師も、お座なりの摂食状況点検しかしない。
 どのくらい衰弱しているか、もう生きる意欲がなくなっていないかなどまで観察しない。
 それだけ忙しいと言ってしまえばそれまでだが、
 患者家族からすれば、いい加減な対応に見える。

     ――――― 中略 ―――――

 だから病院や介護業者の仕事は、本当は老人に、生きる意欲を喚起することにある。 しかし現実には出来ない。それを行うだけの経済的な余裕がない。職員も足りない。 これ以上の負担を掛けられない。つまり権力が予算的に拒否しているのだ。


なんて鋭くて、本当のことなのだろう。

そして、ここにmug*il*34さんが書いておられることこそ、
実は「食べられなくなったら死」といった人の本当の批判であり、訴えだったのだと思う。

地域で認知症のお年寄りの生活に寄り添い、
在宅の看取りを支えてきた、他ならぬ、その人が
「老人は口から食べることが出来なくなったら死」と言った時、

その人は、同時に、「その代わりに、我々の社会は、
そこまでのプロセスを、しっかりと丁寧に支え抜く覚悟をしましょう」と訴えていた。

その人の地域でのケア実践がそういうものなのだから。
その人の講演の趣旨が全体として、そういうものだったのだから。

一人ひとりの尊厳を守り、そこまでを細やかに丁寧に
mug*il*34さんの言葉で言えば、生きる意欲を喚起しながら、
その最後の時までをしっかりと支え抜く覚悟をしましょう、

住み慣れた地域の自分の家で、支えられて最後を自分らしく生きて死ねるように
支えぬく社会を作ると、そろそろ、みんなで腹をくくりましょう、と。

その人は講演の中で「特養も廃止すべき」「療養病床の廃止も凍結することはない」と
ちょっと極論と思えることまで言った。

それだけの覚悟で、地域で看取る腹をくくろうよ、と、その人の講演は訴えていたのだと思う。

私が「食べられなくなったら死」にうなずけるのは
この人物の口から出る限りにおいてのみ……と書いたのは、そういうことだった。

細やかな緩和ケアをきちんとすれば取れる痛みを放置し、患者が痛みに苦しむままにしておいて、
患者が死を望むなら自殺幇助を合法化しようと主張するのが本末転倒であって、

自殺幇助や安楽死の合法化を論じるなら、その前に、
まずは死にゆく人への緩和ケアがしっかり出来る体制を作りましょう、というのが
筋の通った考え方というものであるように、

”その時”までを支えぬく覚悟と「食べられなくなったら死」とは、
少なくとも、この人にとっては、当たり前のセットだった。

だからこそ、本当はそうそう簡単に
「そうだ、そうだ、食べられなくなったら死だ」と同調できないくらい重いはずの言葉なのだけど、

そんな覚悟とセットで……ではなく、
「今の医療と介護では尊厳など守れないのだから、食べられなくなったら死んでもらうのがいいんだ」と

「死の定義」だけを一人歩きさせて医療と介護の現状追認に利用したい人たちもいるのでは、というのが
あの日、あの講演で、「食べられなくなったら死」を聞いて以来の、私の危惧――。

(もちろん、4日のエントリーにコメントくださった方々のことではありません)

誰でも細やかな緩和ケアを受けられる体制を作る努力をするよりも、
死にたいという患者には医師が毒物を処方して自分で死んでもらいましょう、という方が、
mug*il*34さんが言われる「予算的に」都合がよいと考える英米社会の思惑に近いものが、
日本にも全くないわけではないと思うから。

この人が言っていた「食べられなくなったら死」を受け入れられる社会とは、
今よりも、もっとお年寄りに資源を振り向け、丁寧にケアする社会のことだったのだから。
2009.11.05 / Top↑