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自殺幇助合法化法案が審議されているカナダで、四肢麻痺の議員を中心に、障害当事者から「人の生が生きるに値するかどうかについても、死ぬべき時期についても、決める権利など誰にもない」と。
http://www.ottawacitizen.com/news/Disabled+advocates+want+turn+down+assisted+suicide+bill/2173941/story.html

何度か取り上げたオーストラリアのDr. DeathことDr. Nitschke が、今度はサンフランシスコで自殺ワークショップを開き、自分の身体が自分の所有であるならば死の自己決定権はターミナルな状態の人に限ることはない、と。
http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2009/11/01/ED5H1AD03A.DTL

フィラデルフィアで臓器移植コーディネーターが「終末期の家族支援の専門家」と言い換えられているとのこと。日本語情報。:詐欺だ。こんなの。
http://www6.plala.or.jp/brainx/2006-11.htm#20061110

アスピリンが心臓麻痺や脳卒中の予防になるとか言われて、飲んでいる人が多いが、明らかに心臓血管疾患があるのでなければ飲むべきではない、と。:そんなの最初から当たり前。でも。こんなケッタイな予防医学がゴロゴロしている昨今。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/8338763.stm

ゲイツ財団の御用新聞 Seattle Times に、Lancet, Washington大学、IHME、慈善資本主義(ゲイツ財団)がグローバル・ヘルスで繋がっていることを如実に表す記事がある。Lancetの編集長が昨日UWで講演したという記事だけど、背景を考えながら読むと興味深い。
http://seattletimes.nwsource.com/html/thebusinessofgiving/2010194268_lancet_editor_calls_on_uw_to_p.html

マラリアのワクチン開発がいくつかの国で第3フェーズの治験にまで進んだとのこと。
http://www.timesonline.co.uk/tol/life_and_style/health/article6898565.ece?&EMC-Bltn=BFIEPB

人工処女膜を製作・販売している中国の会社が、自国以外にもアラブ諸国にまで輸出するとのことで、アラブの国々に輸入禁止しろという声が起こっている。:マネっこ大好きな中国らしい話だけど、これが安易にアラブに飛び火すると女性の命に関わるんじゃないのだろうか。この問題では去年、ヨーロッパ在住のイスラム女性が処女膜再生術を受けているというニュースを拾っているので、以下にリンク。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/oct/28/artificial-hymen

2009.11.04 / Top↑
「死の自己決定権」アドボケイト Dignity in Dyingの活動を支援していた夫婦だったとのこと。

Dennis Milner氏(83歳)と妻のFloraさん(81歳)は共に健康だったが、
自立生活が送れなくなる前に人生を終わらせたいと望み、
子どもたちにクリスマス前に自殺することを匂わせていた。

夫妻はBBC宛に、自殺幇助を禁じた英国の法律への抗議をしたためた手紙を送り、自殺。

2人の遺体は日曜日に自宅で発見され、
手紙は火曜日にBBCに届いた。

手紙には「生きながらの死」を避けるために
「穏やかに人生を終わらせることを選んだ」と書かれ、

「この自殺が失敗しないように段取りをつけることは大変だったし、心に傷を受けた。
こんなことをする必要もないし、もっと違うやり方が出来ていいはずだ」

「幸福で、愛に満ちた、エキサイティングな人生だった」

NHSには、ここまで長生きさせてもらって感謝しているが

「この社会に1つだけ重大で残念な批判がある。
自分の家で、自分が選んだ時に愛する者たちに囲まれて
それによって誰も罪に問われたり嫌な思いをする心配もなく
自分の人生を終えることは、基本的な人権であるはずなのに、
それを我々は否定されてきたということだ」とも。

娘のChrissyさんはBBCに対して

「前向きな人生を送ってきたからこそ、こういう決断をしたのだと思います。
両親は人生を楽しんでいましたから。
前向きな死に方をしたいと、いつも言っていました。
いい死に方をしたいと望んでいました」



「要介護状態になる前に死にたい」という人が増えて、
「要介護常態になる前に死にたい」といって自殺する人の意思が受容される社会というのは、

それは翻って、

要介護状態の人にとっては生きていることが辛くなる、
要介護状態の人に「人さまの迷惑にならないように死ぬべきだ」とプレッシャーがかかる社会――。

要介護状態を「生きながらの死」だというのなら、その次にやってくるのは
要介護状態の人は殺してあげるのが本人のためだという慈悲殺の論理――。
2009.11.04 / Top↑
先日、某所で聞いた高齢者介護に関する議論の中で
「口から食べることが出来なくなったら死」という説が出てきた。

英米での「死の自己決定権」議論を追いかけている私としては、
パワーポイントに映し出された瞬間に、
ぎくりと全身がこわばってしまう言葉だった。

もちろん、これは日本の話だから、
ここには、ちゃんと「老人の死は」という但し書きがついている。

この「死の定義」を持ち出してきた人は、
地域に根付いた柔軟な介護実践をしてきた先駆者で、
私もこの人の素晴らしい実践についてはあちこちで読んで知っている。

年間2000人が見学に訪れるという、あるべき地域ケアの見本のような事業所だ。

目の前の人のニーズに応えたいと私財を投じて制度にないケア・サービスを作り、
地域での看取りにも24時間のケアを届けつつ、それこそ我が身を削るようにして
地域の人たちのニーズに即したケアを模索し、実践し、国にも認めさせてきた人だ。

それだけのことをやってきた人の言葉には、迫力も、重みもある。

今の医療と介護は寝たきりと胃ろうを作りすぎたという批判には、
私も賛同するところが大いにある。

その人が、老人は「口から食べることができなくなったら死」と言う言葉には
説得力があるし、その意図は、とてもよく分かる。

だから自分でも悩ましいのだけれど、
それでもやっぱり、この「死の定義」がずっと頭から離れなくて困っている。

そして、このところ考えている
「人は誰でも自分が立っているところから見えるものの範囲で
ものを考え、ものを言うことしかできない」という限界へと
もの思いが何度も返っていく。

何度か、そこをぐるぐると行ったりきたりしているうちに
私がこの「死の定義」にうなずけるのは、やっぱり、あくまでも
「この特定の人物が口にする限りにおいて」のみ、だな……と思った。

「口から食べることができなくなったら死」と言う時、この人は、
そこに至る前に、自分なら当たり前に行うケアのプロセスがあったことを前提としている。

口から食べられる時期を少しでも長くするためのケアがきめ細かく行われただろう。
食事を、ただカロリーと栄養の問題として済ませてしまうこともしなかっただろう。
みんなで和気藹々と楽しく食べる時間が、そこにはあっただろう。

目の前の婆さんの食欲がちょっと落ちたからといって、即座に
「じゃぁ、ちょっと鼻から管でエンシュア入れて。
それで、とりあえずカロリーは採れるから」みたいな
がさつな判断はしなかっただろう。

有吉先生が言ったように卵焼きを焼いてみたり、
家族に聞いて、その人の好物くらいは用意してみただろう。

口腔ケアもしただろう。
食べ物の形態や調理に工夫もしただろう。

それでも、それ以上は打つ手がなくなり、
ついに「口から食べることが出来なくなった」時には
それは、もう、その人の死として受け入れてもいいではないか、と
この人の「死の定義」は訴えているのだと思う。

けれど、それだけの細やかなケアは、
そんなふうに当たり前の前提に出来るほど、
日本全国どこでも行われる標準だといえるのだろうか。

この人が当たり前の前提として想像している「口から食べることが出来なくなる」までのプロセスは
この人ほど高い志や意識を持たず、この人ほど優秀でない事業者・病院でケアを受ける人には
もしかしたら望むべくもない夢のようなケアなのかもしれない。

ちょうどNEJMでMitchell医師とSashs医師のいう「高齢者の終末期の緩和ケア」
同じ言葉でありながら、前者は単に「医療を行わない決断」を意味していたのに対して、
後者は「アグレッシブに注意深く細やかな症状管理をすること」を意味していたのと同じように、

「口から食べることが出来なくなった」と同じ言葉で表現されても、
「ケアを尽くし、手を尽くしても、ついに口から食べられなくなった」のと
「何もしないで放っておいたら、すぐに口から食べられなくなった」のや
「工夫さえすれば食べられるのに何もしてもらえないから食べられない」のとでは
その状況は全く別物だ。

「口から食べることが出来なくなったら死」と定義する時、
自分にとっては当たり前のケアと、その他多くの事業所や病院での標準的なケアとのギャップを
この人はどれほど考えてみただろう。

介護現場で真摯に質の高いケアを実践し、
地域での豊かな看取りを模索している志の高い介護者がたくさんいる一方で、

高齢者の終末期医療が医療コストを押し上げているのだと言っては
終末期の高齢者は無益な医療を求めずに、さっさと自己選択で死んでいくようにと
圧力をかけようとしている人たちもいる。

そのことを、どれほど考えた上で、この定義は差し出されたのだろうか。

非常に影響力の大きな人の口から出てしまった以上、
その後で、この定義がその人から離れて独り歩きを始める可能性だってある。

「寝たきりや胃ろうを作りすぎ」てきた意識の持ち主たちこそが、
適切なケアさえあれば、まだ十分に食べられる人を
ろくにケアと呼べないようなケアで口から食べられないようにしておいて、
「食べられなくなったから、はい、これで死んだのよね」と
この人の深い思いをこめた定義をあっさりと切り捨ての論理に摩り替えるだろうことを、

この人には、
この定義をパワーポイントに打ち込む前に、
もう少し考えてみてもらいたかったという気がする。

英米で「死の自己決定権」を唱える人の中には
「言葉をしゃべれなくなったら」「自分で食べられなくなったら」
高齢者に限らず、その生はQOLが低すぎて生きるに値しない、尊厳がないと
主張する人がいるということまでは想像の外だったとしても。



……あ、でも、この人も、
口から食べられなくなったら死だという持論を説明する時に、
たしかに「QOL」という言葉も「尊厳」という言葉も使っていたよなぁ……。


自分が何に引っかかっているのか、いまひとつはっきりしないし、
こんなに着実に世の中を変えてきた人に向かって、私みたいな何も出来ない人間が、
これでは、ただの言いがかりだよね……とは思いつつ、

でも、何かが、とにかく引っかかってならないので、
とりあえず、書いてみた。


【追記】
コメントいただいて、その後、もうちょっと書き足してみました。

2009.11.04 / Top↑