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障害児・者に対する虐待について研究しているカナダの教育心理学者で
Ashley事件についても批判的な論文や記事を書いているDr. Sobseyのブログから。

China: Murder for Corpse Ring
icad, September 2, 2008


中国広東省で死体の闇売買の目的で障害者を狙っては殺人を繰り返していた
一味7人が逮捕された。

死体を闇で買うのは
法律で義務付けられた火葬ではなく伝統にのっとった土葬を望む富裕層。

愛する家族を伝統的な土葬で埋葬するためには
亡くなった家族と見せかけて火葬に付す死体が必要で……と
需要が生じる死体のブラックマーケット。

死体の値段は一体1500ドル。

一味は主に知的障害者または高齢者を狙っては後をつけ、
人気のない場所で車に連れ込んで首を絞めたり毒を盛ったりして殺害。

これまでに一味に殺害された障害者は100人とも400人とも。

        ---

そういえば「人体の不思議展」への標本遺体の流出元も中国だし、
外国人相手の臓器移植用に死刑囚から臓器を摘出していたのも中国でした。
(死刑囚からの臓器摘出は表向きは現在は中止されたことになっているようですが)

気になることとして、

この記事のニュース・ソースは
Hong Kong Reuters, Reuters Africa, Fox News, Singapore’s Todayなのですが、

the Reutersはこのニュースを「奇妙なニュース」の欄に入れており、
深刻なニュースとして扱うよりも興味本位の扱いをしている、と
Dr. Sobseyは指摘しています。

確かに、そういう報道サイドの鈍さには
事件やその背景にある人命軽視と同じくらい不気味で怖いものがあるし、

命や身体の尊厳に対する鈍さ、障害を理由にした命の階層化がじわじわと広がりを見せているのは
実は中国だけの問題ではないだろう……と思うと、さらに不気味な感じがする。
2008.09.11 / Top↑
前のエントリーで読んだ6本のPalin関連記事の中で
Fox ニュース(電子版)が掲載していたAP通信の記事が
なんだか気持ちに不快な引っかかりを残した。

Foxと言えば共和党寄りというのは周知だから、
記事タイトルが「Palin障害児の親の希望をかきたてる」というのは分かる。

(APとかAFPとかの共同電の場合、
 同じ内容でもタイトルは掲載各社で違っています。)

記事の内容からすると「希望」のポイントは
選別的中絶問題でプロ・ライフの立場に強力な味方が出現したこと。
これも、そういう捉え方は当然あると思うので、わかる。

(ちなみに、この部分の記述によると、
これまで35歳以上の妊婦にルーティーンで行われてきたダウン症診断が
 産婦人科学会の勧告で2007年から年齢を問わず妊婦の希望で行われることになり、
プロ・ライフ派は危機感を抱いているとのこと。)

なんだか不快な引っ掛かりになるのは、
この記事がダウン症候群の子どもを描く時に
そこはかとなく漂うネガティブな匂い。

それから、Los Angelesダウン症協会の幹部の(一見?)不用意かつ無神経な言葉。

Palin raises hope for parents of disabled kids
AP (The Fox News), September 8, 2008


記事は
LAのダウン症協会幹部であるHeidi Mooreさんとダウン症の息子さんへの取材を
中心に書かれているものなのですが、

冒頭の導入部分でいきなり描かれているのは
年齢相応の能力を獲得することがダウン症の子どもにとって如何に難しいかという話。

Heidiさん自身が
「平均レベルを身につけるのはエベレストに上るようなものです」と語り、
セラピストの力を借りながら一家が苦労してその山登りをしてきたこと、
その間には15回もの手術が必要だったことが述べられます。
(手術の回数と発達の遅れに本当に直接的な関係があるのかなぁ……?)

そういう障害のある子どもを産んだ行為が世間にはなかなか理解してもらえない、
医療も教育も行政も進んでいることが知られていない……
というのがダウン症児の親の悩みだったけれど、
Palinの登場で同じ思いを知っている親を政権の中心に送ることが出来る、
ダウン症に対する世の中の意識を変革することができると
親たちは喜んでいる、と。

Heidiさんは現在29歳の息子について
記事の最後に次のように言っています。

「この子を見てやってください。
 年齢相応に字が読めるし、自分の名前も書きます。
 ピアノだって弾くんです。
 宇宙飛行士にはならないかもしれないけど、
 学校の先生のアシスタントとか、ミュージシャンにはなるかもしれません」

そして、
「息子には、健康で幸せで生産的で、ちゃんと税金を払う社会の一員になってほしい」


私が引っかかるのは「年齢相応」、「生産的」、「税金を払う」といった言葉なのですが、
29歳で「字が読める、自分の名前を書く、ピアノも弾ける」ことを
「年齢相応」と表現するのも無理があると思う。

ダウン症協会の支部幹部を務めるような人が
本当にこのように「能力重視」、「定型発達重視」の考えを持っているものだろうか。
「社会で何者かになる」ことが子どもの存在価値のようなものの考え方をするだろうか。

もしも本当にこの通りの発言だったのだとしたら、
我が子の能力だけを基準に語らず、
いろんな障害像の人がいることをわきまえてモノを言ってもらいたいなぁ……とは思うものの、

その一方で、
案外に記者の方で相手の発言を自分の予見に沿って曲解して書いたとか、

記者の誘導的な質問に、Yesと答えたことから
質問の内容まで勝手に補った発言が創られてしまったとか、

または記者の考えや感覚と重なる文言だけが断片的に引用されたために
結果的にHeidiさん本人が意図しなかった文脈に乗せられてしまったのでは……?

……などとつい勘ぐってしまいたくなるところが、
なんといっても一番不快な引っかかり。
2008.09.10 / Top↑
当ブログで何度か紹介した元WP記者Patricia E. Bauerさんの障害関連ブログ
Palin氏と息子のTrig君、ダウン症を巡る報道を毎日追いかけているので、
彼女の拾ってくれる記事をつまみ食いさせてもらっているのですが、

先週の共和党大会でPalin氏が障害児の家族に
当選後は私はホワイトハウスで皆さんの友人・アドボケイトとなります」と約束したことに対する
障害児の親の様々な反応をメディアが一斉に取り上げ、
同時にこれまでのPalin氏が行ってきた障害児・者のための施策を検証しています。

とりあえず以下の6本を読んでみました。

Fusing Politics and Motherhood in a New Way
The New York Times, September 7, 2008


Palin’s Pitch to Parents of Disabled Raises Some Doubts
The Wall Street Journal, September 8, 2008


Palin raises hope for parents of disabled kids
AP (The Fox News), September 8, 2008

Palin candidacy puts spotlight on special needs
The USA Today, September 8, 2008


これら6本から目に付いた点を挙げてみると、

・障害児・者の親の反応は2つに割れていて、

 「初めて連邦政府の中枢に障害児・者のアドボケイトを送れる」
 「Palinの存在でダウン症や障害が注目されることだけでもありがたい」
「特に障害を理由にした選別的中絶議論に影響が大きい」と大いに期待する人たちと

「共和党として歳出削減を打ち出している中で、具体的に何をしてくれるのか」
「Palinがこれまで障害児・者施策を重視してきたわけではない」
「米国は豊かな国なのに、最も支援を必要とする人を切り捨てる国だから」
と懐疑的な人たちと。

・アラスカ知事としてのPalin氏は
 いくつか障害児教育の予算を大幅に増強する条例に署名をしているが
 この条例そのものを作ったのは彼女ではなく、Palinは署名成立させただけ。
逆にスペシャル・オリンピックの予算は半分にカットした。

・都市化が難しいアラスカの地域事情もあって州内には精神科医療が不足し、
長年、精神科医療の必要な子どもたちは州外に送られてきた。
彼らを州内に戻すプログラムを実施し
州外に送られる子どもを半減させたのは前任者の努力。

民主党の反応としては、

・Palinが共和党大会で指名受諾演説を行った日に、
 AAPD(米国障害者連合)の幹部に宛ててObama陣営から
 民主党の障害者施策をまとめたeメールが送られてきた。

・民主党のKennedy上院議員には知的障害のある妹(姉?)があり、
 別の妹(姉?)Shriverさんがスペシャル・オリンピックを創設するなど
 障害者のための運動を積極的に行っている。
 去年、Shriverさんが各州知事宛に知的障害者の雇用促進を依頼した際、
 カリフォルニアのSchwarzenegger知事は即座に2人を雇ってくれたが
 Palin氏は部下に丸投げして何の努力もしなかった、と。

私が一番印象的だったのは、

・三女のPiperちゃんと次男のTrigくんについては、
 簡易ベビーベッドを持ち込んでオフィスに同伴し
 抱き布で抱いて公務を行っていたなど、
 いわば「アグネス・チャン状態」だった様子。

また上記6本以外で、あれこれ覗いている時に読んだ話で、
毎年恒例の知事による刑務所の視察にTrig君を抱いていき
抱いたまま車で案内されて視察を行ったという話や、
知事執務室での会議に夫のTodd氏が同席していることがたびたびあったという話も。

80年代の日本のアグネス論争がそのまま再燃されそうな話。
女性が働く環境は米国でも当時の日本と変わっていないということなのでしょうか。

Palin氏には
「女性には家庭生活と野心的なキャリアを両立することが出来る」との信念があり、
women can balance family life with ambitious careers

「女は考えること、働くこと、赤ん坊を抱くことを同時に出来ないと批判するような
 ネアンデルタール人は私のご案内で洞穴にお戻りいただくわ」と
Piperちゃんを出産した翌日に職場復帰した際に発言しているのですが、

Palin氏の言動は、
それが可能だと証明することは個々の女性の自己責任という前提だし
あくまで女性個人が多大な努力と自己犠牲を払って可能にせよという立場でしかなく、

まして職権濫用や公私混同、ルール破りまで許される特権的な立場にある女性が
平気でこういう発言をするのは
そういう特権抜きに働く女性にも同じ結果を自力で出せと求めるのと同じで、

ネアンデルタール人と同じくらい、もしかしたら、もっと罪が深いような気がする。
2008.09.10 / Top↑
下記9月5日付のSeattle Times の記事を書いているのは
Palin氏がアラスカ知事になる前に市長を務めたWasillaの住民で
氏と同じく福音主義のクリスチャン、またダウン症の息子があるという女性。

メディアはPalinを取り上げて大騒ぎしていて
まるで福音主義のクリスチャンがPalinのプロ・ライフとプロ・ファミリーの価値観のもとに
全員が心を1つにしているかのように言われているけれど、

クリスチャンとして我々はPalin氏の価値観を疑いもなく支持していいのか、
と疑問を投げかける趣旨。

Reflections on Palin from a Christian in Wasilla
The Seattle Times, September 5, 2008

いくつかの問題がごっちゃに論じられている部分はあるのですが、基本的には
Palinは母親でありながら家族よりも自分の仕事を優先しているから
クリスチャンの理想とする伝統的な家族のあり方とは違う、との批判。

未婚のまま妊娠している娘のことや
プロ・ライフ云々も含まれてはいますが、
最も言いたいのは、

ダウン症の子どもは健常な子の子育てよりもはるかに手がかかるものなのに
母親が家族のための時間をとりにくい激務を選ぶのはいかがなものか。

つまり
ダウン症の子どもがいながら、
母親がその子のケアを放り出して自分の野心を優先させるなんてという批判。

表面的には政治的な正しさに配慮して「両親の責任」を問う表現にはなっていますが、
意図するところが「母親」であることは
「彼女は危機に直面する娘のニーズよりも野心を選んだ母親です」とこぼれ出たホンネからも

また、17歳の娘が妊娠していようとダウン症の乳児がいようと
夫の方が副大統領候補になったのであれば出るはずのない批判であることを考えると、
母親をターゲットにした批判であることは明白でしょう。


Palin氏自身が伝統的な母親役割をウリに押し出していて、そのウリにさらに
ダウン症の息子の存在が情緒的な加点ポイントとなっていることを考えれば
こういう批判は起こってくるだろうな、という予想はありました。

副大統領に就任すれば当然のことながら伝統的な母親役割を担う時間はなくなるのだから
立候補そのものが実は自分のウリを否定するという自己撞着を
もともとMcCainとPalinペアはやっているわけで
この記事がその矛盾を突いているという意味では
そのとおりだと思うのですが、

8月29日のPeopleのインタビューでは
夫のTodd氏が仕事を無期限に休んでMr.Momになると言っているので、
この記事の「両親ともに忙しい仕事についたのでは子育てがおろそかになる」という批判は当たりません。

しかし、もちろん批判の焦点がもともと「母親のくせに」である以上
著者がこれを知っていたとしても書き方が変わっただけで批判は変わらなかったでしょう。
(People の Mr.Mom という表現そのものが子育ては母親の仕事だという前提なのと同じ)

私は、
妻が副大統領になって夫が仕事を辞めるというのは夫婦の選択することなのだから、
それはそれでいいじゃないかと思うし、

どうせならPalin氏には
「障害児の親になる前から私は知事でした」
「障害のある子どもの母親が働いて何が悪い?」と開き直って欲しい。

むしろ
「私が副大統領としてふさわしいのであれば、その私を夫が支えて家事育児を担います」
「障害のある子どもがいても両親ともに仕事を続けていける社会にしましょう」
「それだけの支援を社会に用意しましょう」と
堂々と問題提起をしてくれれば矛盾しないのだ、と思う。

もちろん、そんなことを言う人なら
最初から共和党のMcCainがパートナーに選んだりしないわけで、
そこのところの矛盾にこそ、人選のあざとさ、セコさが見え隠れするし、

米国社会にも根強い
女性に対する母性神話とダブルスタンダード、
それが障害児の母親に対しては倍加して作用するところまで照らし出されている。

今のところはプロパガンダとメディア報道の勢いで情緒的に逆作用しているけれど、
ダウン症児の母であることがPalin氏の母親イメージを増強しているのだから、
これは障害児ではより色濃くなる母性神話の裏返しに過ぎないでしょう。

       ―――――

障害があろうとなかろうと、
生後4ヶ月そこらの乳児を過酷なスケジュールと恐らくは多大な混乱の中を連れまわして、
共和党全国大会のような騒音と狂乱と汚い空気に長時間さらすことについては、
あまりに配慮が足りないんじゃないかと私は考えるのですが、

McCain-Palinの戦略からすればTrig君を外すことは論外だったのだろうし。

Trig君の不幸は母親が伝統的な母親役割を担えないことよりも、
むしろ、そうして政争の具にされてしまうことの方ではないんでしょうか。
2008.09.09 / Top↑
子どもが小さかった頃
同じような障害を持つ子どもの母親同士が集まって
様々な世間の偏見や無理解に出会った体験を語り合っては
一緒に怒りを共有して盛り上がり、ストレスを解消していたことを
前のエントリーで書きましたが、

私の知り合いの中には
「子どもの障害を知ってどうしようもなく落ち込んでいたところから
 立ち直らせてくれたのは専門家ではなく
同じ立場のお母さんとの出会いだった」
という意味のことを言う人が何人もいます。

「いくら友人でも子供に障害がなかったら
話しても分かってもらえない部分がどうしてもある」
「ホンネのホンネのところは
同じ障害を持つ子どもの親同士でなければ口に出来ない」
というのも私自身も含めて障害のある子どもの親の実感のような気がします。

そういうことを体験してきて、私がいつも物足りなく思うのは
専門家の側が「支援」を云々する時に
「支援とは専門家がするもの」という思い込みから抜けてくれないこと。

市の福祉課に親の会の情報を知りたいと問い合わせたら、
「今はそんなことよりもリハビリに専念するべき時」と叱られた母親もいます。
(担当者が情報を把握していないから誤魔化しただけかもしれませんが。)

私自身、お世話になった母子入園プログラムの担当者に
ベテランの親と出会う時間をプログラムに加えてはどうかと
提案したことがあるのですが、最初はやはり
「お母さんたちはまだ混乱しているので、まず私たち専門家が関わって、
ある程度落ち着いてからでなければ」
という答えでした。

かつて障害児の親が「指導」と「教育」の対象でしかなかった時代がありましたが、
今でも一部の専門家の中には言葉が「支援」に替っただけで
親に“正しい知識”と“正しい姿勢”を持たせることがすなわち「支援」である、
と考えている人も、まだまだあるのではないでしょうか。

この時期の混乱の最大の元凶が実はそうした専門家の姿勢であり、
その姿勢から来る言動だったりする部分もあるのですが
この点に関して専門家は驚くほど無自覚です。


「障害児支援の見直しに関する検討会報告書」の
「障害の早期発見・早期対応策」という項目のあたりを読んで感じたことの1つも
やはり「支援はもっぱら専門家がすること」という抜きがたい意識。

「なるべく早く専門的な支援を行うことが、子どもの発達支援の観点からも大切」なのは
もちろん報告書に書かれている通りであり、
専門家の早期介入や専門機関の連携が重要なのだけれど、
だからと言って「専門家にしか支援ができない」わけではないし、
「同時進行で専門家以外が支援に入ったら邪魔になる」というわけでもないと思うので、

本当に「親の気付きを大切にして、親の気持ちに寄り添った支援を行っていく」ためには
むしろ「支援とは専門家が行う教育と指導」との考え方から抜け出してもらいたいような。

地域の親の会や、
それぞれの専門家が知っている「すでにそこを通り過ぎてきた親」たちを
もう少し積極的に支援のための資源として活用できないのかなぁ……といつも思う。

例えば我が子の障害を知らされた直後の衝撃の真っ只中で
とても大きな不安の1つは「自分はこの子と生きていけるんだろうか」
「自分にはこの子を無事に育てていけるんだろうか」というものだと思うのだけど、
もしも、そこで無事に一定の年齢まで子どもを育てて生き延びてきた親と出会うことが出来たら、
それは理屈抜きに「大丈夫、生きていけるよ」という証にならないだろうか。

(重度化してしまった子どもの姿はむしろ逆効果の場合があるかもしれないけれど。)

専門家にはなかなか聞きにくい質問でも、
同じ立場の親になら率直に聞いてみることも出来るかもしれない。

また、本当は支援してくれるはずの専門家から、
初期の段階で手ひどく傷つけられてしまう親も実は驚くほど沢山いるので、
そういう専門家から受けた傷のフォローができるのも
専門家ではなく同じような傷を受けたことのある親なのでは?

「そうそう、お医者さんって、そういうこと、言うよね。
 私も、こんなことを言われてムチャクチャ落ち込んだから、わかるよ」
と、今はそこをとっくに通り過ぎてきた人が笑顔でそう共感してくれるのが
一番の癒しになるんじゃないでしょうか。

少なくとも、
専門家にしかできない支援もあれば、
その一方に同じ立場の親同士にしか出来ない支援もあることを知っておいてもらいたいし、

その地域にある親の会の情報くらいは把握しておいて、
わざわざ求められなくても、ちゃんと情報提供してもらいたい。
連絡するしないは個々人の選択だとしても。

もちろん、そういう場を必要としない人もいるだろうし、
人と人のことだから組み合わせの妙というものもあるだろうから、

そのあたりを専門家が、
専門機関だけでなく地域の親も支援の資源として捉えていれば、

自分の担当してきた親で信頼関係の出来ている人たちを手持ちのコマとして見渡して
その中から「この人にはこの人を紹介してみたらどうか」という判断をしつつ
専門家と親とが連携して支援に当たるという仕組みも考えてもらえたら
本当の意味で「親の気持ちに寄り添った支援」が出来るんじゃないかと思うのだけど。
2008.09.08 / Top↑
とても強いお父さんを見つけた。

障害児に向けられる目
つくね日記(2008年9月3日)


障害のある子どもを連れて世間を出歩くと
どうしても遭遇してしまう周囲のさまざまなリアクションに
親として申し訳なくも感じ、さりとて割り切れなさも感じつつ、
実は自分がたいそう傷ついてしまっている……という気持ちを
他の何にも摩り替えずに、こんなにありのままに言葉に出来るというのは、
ものすごく強い人だなぁ……と。

これほど強い人ではなかった私は、娘が小さな頃、
娘をじっと見る人をどうしても許せなくて、
相手が気付いて目を外すまで、こっちからじっと睨み続けてやる……などという
バカなことをやっては勝手にエネルギーを無駄遣いして疲れていた。

自分が悲しい眼にあったり傷ついたりした時に
その痛みや悲しみを怒りのエネルギーに摩り替えると
悲しんでしまう自分、傷ついてしまう弱い自分から目をそらせることが出来る。
自分の中の弱さを認めずに“強い人”を演じていられる。

子どもが小さな頃の私たち母親仲間は顔を合わせると
外出先で出会った「腹の立つ世間サマ」のエピソードを披露し合っては
一緒に呆れ、腹を立て、思う存分にののしったものだったけれど、
あれは実はみんな

世間サマの無理解や時に一方的に投げ与えられる憐れみに傷ついていて、
その痛みを怒りのエネルギーに変換して分かち合い、爆発させることによって
心の中に閉じこめた悲しみに風穴を開けて、傷を癒しあっていたのかもしれない。

そういう年月を経ることによって
それでも私たちも少しずつ強くなることができたのか、
いつからか外出先で周囲の人の娘の障害に対する不快なリアクションと出くわした時に
「ああ、自分は傷ついたんだな」と受け止めることが出来るようにもなってきた。

怒りに摩り替えて“強い親”をやってしまった時よりも、
傷ついてしまった弱い自分をそのまま認めることができた時の方が
事後の精神的な立ち直りが穏やかで速いこともだんだん学習してきた。

人間が未熟だから、
それが分かってきたからといって、いつもいつもできるというわけではないけれど。

だから
親が強くなくちゃいかんだろ」と思いながら

せめて、ジロジロみないでくれよ、
俺に聴こえるような声でこっちが傷つくよなことをあれこれ言わんでくれよ

俺はハンドルに頭つけて暫く泣きたい気持ちで動けなくなることもしばしば」と
すなおに書けるこの人に、

いえ、自分では気付いていないかもしれないけど、
あなたは柳のようにしなやかに強い。

あなたは実はものすごく強い……と。


=====

と同時に、

誰もが最初からこういう柔軟な強さを持てるわけではないから
悲しんだり傷ついたりする自分の弱さから目を逸らせていられる時期というのも必要だろうし、

そういう時に一緒に「腹の立った話」を語り合って
互いの怒りを共有し、増幅させて、存分に世間の無理解をののしることのできる仲間だって
人によっては必要で、

それはもしかしたら互いの傷をなめあうことなのかもしれないけど、

そんなふうにして、少しずつ弱い自分を認めることができるようになるのなら、
同じ思いを分かり合える人間同士で傷をなめあったっていいじゃないか、と思う。

そうしていつか、今度は悲しんでいる自分、傷ついてしまった自分、不安でたまらない自分を
ありのままに打ち明けて、その悲しみや痛み、不安を静かに共有できる仲間を得ることができるなら
それもいいじゃないか、と思う。

「ハンドルに頭つけて泣きたい気分で暫く動けなかったよ」と言った時に、
「うん。そういう時って、あるよね」と
 同じ痛みを知っている共感と共に返ってくる言葉って、やっぱり大きいんじゃないかなぁ。
2008.09.08 / Top↑
ちょっと間が開いてしまいましたが、
天保山のマジックアワーに(8月29日)
「総体として人間を信頼できるか」という問い(8月29日)
の続きのつもりのエントリーです。
(もちろん単独で読んでもらって構わないのですけど。)


障害のある子どもの親の気持ちの中には
矛盾していたり相反する気持ちがあれこれと共存していたり
また、せめぎ合ってもいたりして、
その日その時の出来事や気分によって
その中のいずれかが優位になったり……と流動するものだから、

親の気持ちとはいっても、なんらかの言葉にして説明しようとすると、
言葉になった時点で、所詮はそのうちの一面でしかないものになってしまうのかもしれない……
という思いが私にはいつもあるのですが、

そういう一面として言えば、
自分たちの経験はもちろん、周囲の障害児親子を見ても、
障害のある子どもを抱え込んでいる手をちょっと緩めてみることが
親にとってどんなに難しいか、痛感してきたのも事実。

例えば重心の子供の場合だと、
ちょっとした体の動きや、目つき、表情、そこはかとない気配
他人から見れば嬌声にしか思えない音声やそのトーンから
重い障害を持った子どもの状態や言いたいことを読みとり、
細やかなケアを何年も続けてきた親にしてみれば、

この子が口をこんなふうにしたら喉が渇いた合図だなんて自分以外の誰にわかるだろう、
ウンチが出たらすぐにオムツを替えてもらえるんだろうか、
乱暴な寝返りをさせられたら痛いんじゃないか、骨折するんじゃないか
寒かったら、この子はそれをどうやって訴えるのか……などなど

わずかな時間でも、いざ他人に託すとなれば不安の種は無限に心に浮かんでくるし、
それは親として当たり前の心配であり不安なのでもあり。

だからこそ、いつも思うのは、
親が子どもを抱え込んでいる腕の力をほんのちょっと抜いてみるための何より厄介なハードルは、

手放しても大丈夫だということは実際に手放してみることによってしか分からない
ということじゃないのかなぁ……と。

たとえば、ちょっと前にこういうブログの記事を読んで、


子どもの障害は違っても、
この人が書いていることに私はまったく同感なのです。
(そのマンガ自体はは読んだことがないのですが)

そして同時に

親がずっと傍について生きてやることはできないし、
また、それが子どものためになるわけでもないのだから
親があまり子どもを抱え込まずに支援の手を借りて、
子どももいろんな人の中で揉まれながら成長する方がいいんじゃないか、と
この人が考えることができるのは、

この人が実際に子どもを他人の手に托してみたから
初めてできることでもあるんじゃないのかなぁ、
そこが実は壁なんじゃないのかなぁ……とも思う。

ちょっとだけ勇気を出して
ちょっとだけ親が手を引いて子を他人に託してみれば
たいていは「案外大丈夫かも……」という答えを得ることが出来るから、

一度勇気を持って托してみた人は、こんなふうに
どんどん支援サービスを利用することに抵抗がなくなって、
子も親もどんどん広くゆるい世界に解放されていくし、
子どもの将来もその広さゆるさの中で考えてみることが出来るのだけれど、

逆に「この子は私が」、「私でなければ」と抱え込んでいると
他人に託すことへの不安ばかりがどんどん膨らんでいって、
「ウチの子は親の自分でなければ」の理由が次々に増えていく……という人も
私は結構みてきたような気がする。

そこにある親の心理には、もちろん
子どもの障害に対する罪悪感や、
世間からいつの間にか植えつけられた母性神話や、
これまで頑張ってきたことへの自負心や
本当は心のどこかで「もうイヤだ」と感じることへの自責の裏返しであったり
さまざまなものが複雑に入り組んでいて、

たまたま出会いやタイミングに恵まれてスムーズに支援を利用し始める人もいる一方で、
そういう巡り合わせに恵まれる人ばかりではないので、

そういう、あれやこれやを全部織り込んだ上で、
最初の「えいっ」をなんとか飛ばせてあげること、
うまく最初の「私でなければ」の壁を越える手助けをして、
「ちょっとだけ手を借りる」初体験へとつなげていくことを
支援サイドにも大切な仕事として認識してもらえたらなぁ……といつも思う。

自分から助けを求めてきた人だけを支援するのではなく、

まだ支援の必要を意識していなかったり、意識の上では否定していたりする人の中にも、
本当は人の手を借りて親が少し肩の力を抜いた方がいいケースも沢山あると思うから、

助けを求めない人の中に潜んでいる「もう、ダメ」という声にならない悲鳴を察知して、
また過剰な「この子は自分でなければ」を和らげるためにも、
支える側から迎えに来てくれるような支援が本当は必要なんじゃないかなぁ……と

いつも思う。

私自身が、
危機的な状態の時に向こうから迎えに来てくれるような支援をしてもらったことに救われてきて、
今のそれなりに幸福な親子の生活があると、つくづく実感しているから。
2008.09.05 / Top↑
英国では9月4日から
学校で12歳の女の子にHPVワクチンが接種されることになっており、
多くの親が反発して拒否すると見込まれる。

ワクチンは子宮がんの7割の原因となっているとされる
ヒトパピローマウイルス(HPV)の働きを抑えるもの。
去年行われた治験では5分の1の親が接種を拒否。

親が拒否する主な理由は
臨床試験が充分ではない、
米国で同様のワクチンで大きな副作用が報告されている
長期的な安全性が未確認、など。

ワクチンを接種することによって逆に細胞診を受けなくなる、
12歳からセックスしてもいいとそそのかすことになる、
という懸念を持つ人も。

米国で報告されている副作用は卒倒、けいれん発作、まひ。


こちらのワクチン拒否が
エビデンスがないとされる自閉症ワクチン犯人説とどのくらい関係があるのか、
記事のタイトルには三種混合ワクチンでの論争があったことが触れられていますが
実際の記事本分の中にはほとんど登場せず、

挙げられている拒否の理由からしても、むしろ
製薬会社のスキャンダルが続いていることからくる薬に対する不信感のような……。
(薬に対する不信というより、むしろ製薬会社や製薬会社と政府との癒着への疑念?)

記事に寄せられたコメントにちょっと面白いものがあって、

「治験の足りないワクチンなんて、リスクが利益を上回る。上回らないのは製薬会社だけ」
誰が子どもたちをギニアピッグにしたいと望みますか?
毎年、細胞診断を受ければいいのでは?
男の子に接種しては? 感染源は男子でしょ? 違ったかしら……」

また、いくつかのコメント情報を総合すると、たいそう怖い話になるような……。

英国で使用されるワクチンは Cervarix。
米国で副作用が報告されているのは Gardasil。
Cervarix は米国ではまだ認可されていない。


2008.09.05 / Top↑
ちょっと遅くなったお昼ご飯を食べながら
なんということなくCNNをつけたら、
ほどなくPalin氏の副大統領候補指名受諾スピーチが始まって、
ついつい、そのまま最後まで見てしまった。

見栄を張らずに正直に明かすと、
完全にわかったのは8割ちょっと、というところかなぁ。

なので the Guardian に出ていた全文を以下に。
(ビデオもあり。なんだかちょっと
「場違いなところに引っ張り出されて戸惑いつつ健気に頑張った女の子」ふうな感じも……。)



冒頭で子どもを戦場に送る母親の1人として、
自らも22年も従軍し、イラクに駐留する米軍を信じ今まさに勝利をもたらそうという
McCainのような人こそ、最高司令官になってもらいたい人物であると述べ、

長男が9月11日にイラクに派遣されることを母親として誇りに思っていると語って、
家族の紹介を始めていきます。

長女が未婚のまま妊娠していることには触れず、3人の娘を紹介、
その後で5人目のダウン症のTrigに触れます。

その下り。

And in April, my husband Todd and I welcomed our little one into the world, a perfectly beautiful baby boy named Trig. From the inside, no family ever seems typical. That’s how it is with us. Our family has the same ups and downs as any other … the same challenges and the same joys. Sometimes even the greatest joys bring challenge. And children with special needs inspire a special love. To the families of special-needs children all across this country, I have a message: For years, you sought to make America a more welcoming place for your sons and daughters. I pledge to you that if we are elected, you will have a friend and advocate in the White House.

4月に夫のToddと私には末っ子が生まれました。
とてもかわいらしい男の子です。名前はTrig。

どんな家族でも、当の家族にしてみれば、自分たちがどこにでもある定型通りの家庭だなんて思えません。
私たち家族にとっても、そうです。

私たち一家も他の家族と同じように、いい時も悪い時も経てきました。
他の家族と同じように苦しいことも嬉しいこともありました。

時として、最も大きな喜びが苦しいことを連れてくることがあります。
特別なニーズのある(障害のある)子どもは特別な愛を親に呼び覚ましてくれます。

障害のある子どものいる、この国の全てのご家族に、メッセージを送ります。

あなた方は長年に渡って、
アメリカを、子どもたちをもっと受け入れてくれる場所にしようと求めてこられました。

私はあなた方に誓います。
もしも私たちが選ばれたなら、
私はホワイトハウスであなた方の友人、アドボケイトとなります。

さすがに、この辺りはちゃんと聞き取れて、

なんというか、結婚式の花嫁の作文と同じで、
正直、ぞわぞわっと感動させられる。じい~んとも、くる。

なにしろ障害児の親って、こんなに力強い約束の言葉なんか今まで聴いたこともないもんだから。

で、結婚式で花嫁の作文を無理やり聞かされている時と同じで、
じい~んとしながらも、どこかで醒めて「ふ~ん……」と聴いていたりもするのだけど。

すごく個人的な願望としては、
誰か Palin氏に Ashley事件について見解を聞いてみてくれないかな。
2008.09.04 / Top↑
いろんなことを考えさせられる映画なので、
とりとめのないことになりそうですが、
感じ、考えたことのいくつかを。

まず生徒さんたちはもちろんなのだけど、
先生方がとてもいい顔をしておられるなぁ……ということ。

私の友人・知人にも教育畑の人は多いのですが、
みんな業務と競争と管理(する方もされる方も)に疲れ、神経をすり減らして
肉体的にも精神的にもボロボロの崖っぷち状態。
心を病んでいる人や、限界がきている人もいて、
こんなに満ち足りた顔で働いている人はいません。

それはもちろん、生徒たちにとっても
昼間の一般の学校があまりいい場所にはなっていないということに違いなく。

実は私は映画の途中から「あ、この空気は知っている」と感じ始めました。
ここに描かれている教育は
娘が5年半在籍した通園施設や12年間通った養護学校にあった教育の姿勢と
根本のところで通じていくものがあるように感じられたから。

障害のある子もない子も一緒に学び育ってこそ、
障害のある人を当たり前に受け入れていく社会が作られるのだという
ノーマライゼーションやインクルージョンの考え方からすれば、
これは「政治的に正しくない」考え方なのかもしれないけれど、
私は娘が養護学校で教育を受けたことを、娘自身のために、ラッキーだったと思っています。

何年生だからこれをしなければならないというのではなく、
子ども自身の持っている力や興味から始まって、
じゃぁ、これをやってみましょう、というふうに作られる授業。

テーマや課題はクラスみんな共通だけど、その具体的なやり方では
子ども一人ひとりに応じた工夫がされている、という授業。

大人でも子どもでも、楽しめることしか身につかないし、
一番楽しめるのは「ちょっとだけ頑張ったら自分にも出来ること」。
どう頑張ったってできるはずのない課題を出されたら
やる気になるはずがないし、そんなことで伸びるはずもない。
その人自身の持っている力より、ほんの1歩か2歩だけ先の目標が
その人を一番やる気にさせるし、一番その人の力を伸ばすことができる。

寝たきりの全介助で言葉を持たないウチの娘は
通園施設と養護学校での教育を通じて
みんなと遊ぶこと、学ぶことの楽しさを知り、
言葉がなくても表現したら人は受け止めてくれるという信頼を身につけ
「やってみたら出来た」という達成感のうまみを知り、
いつのまにか「今より一歩先の目標」を先生よりも親よりも的確に自分で見つけるようになった。

先生が絵筆を取り出すとと自分から手を伸ばし、
先生が代わりに描いてしまうほど過剰な“手伝い”をしようとすると
「やめて、私は自分が描きたい」と手を振り払って主張するまでになった。

どんな絵が描けるか、じゃない。
絵筆を持てるか、使えるか、でもない。
何よりも「私は自分でやりたい」と言葉がなくてもちゃんと主張してみせるだけ、
この子がしっかり自分を持していること、
人として誇りを持っていること
表現すれば伝わる、主張してもいいんだと人を信頼していること。

時に紙をはみ出して机を塗って、わざと叱られてみたり、
油断している先生の手に、偶然を装って筆を飛ばしてみたり、
自分から関わりを求めていくことも、相手によっては(ここは良く人を見ている)ある。

これだけ重い障害のある娘をそこまで成長させてもらったことに対して、
私はこの子の教育に関わってくださった先生方に深く感謝しています。

もちろん、それだけの教育が養護学校で可能だったのは、
個々の先生方に恵まれたのと同時に、それだけの教員配置がされていたからです。

(中学部を終えるまでは、クラスの生徒数と同じ数の担任が配置されました。
 特別支援学校に転換されたのは娘が卒業した直後の春ですが、
 その数年前から毎年じわじわと教員の配置数が減らされ、
 子どもたちが校外学習に出かける機会も制限を受けて減っていきました。
 当時、いろいろ謳われ議論されていた特別支援教育の大きな理念とは
 全く反対のことが現場では進行していたことが気になります。)

本当は、障害のある子どもの教育も障害がない子どもの教育も、
本質は同じところにあるはずなのに、どこかがズレている、と思う。

自力で80点取れる子どもに100点を取らせることよりも
30点しか取れなかった子どもが50点取れるようになることの方が
本当は教師冥利に尽きる喜びのはずで、

それは学力をつけること自体も大切だけれど、
学力をつけることを通じて自信を持ち自分を大切にすることを
子どもに体験し身につけてもらいたいからであるはずなのに、

30点しか取れないような生徒は放っておいて、
80点取れる子どもたち全員に100点を取らせることに
全力で時間とエネルギーを注げと号令をかけられ、
しかも、やれ国際的な学力の順位だの、県別の順位だのと
今すぐに数字で成果を示せと先生方がお尻を叩かれるような
そんな今の昼間の普通学校の教育こそ、
教育の一番本質的な役割を忘れ去って異常じゃないんだろうか。

そんな、市場原理にのっとられたみたいな今の一般校の教育を正常に戻すことの方が
本当は障害児のインクルージョンの前にやるべき急務なんじゃないか、

だって、そんな一般校の原理そのものが
障害のある子どもはもちろん、勉強のできない(と見える?)子を排除する競争原理の上に立っている。

ちょうど科学とテクノロジーで人体にどんどん手を加えて
人類をさらに優れた能力をもち不老不死のスーパー人類に改良しようと狂騒する世の中が、
その陰に障害児・者はもちろん能力の高い人たち以外は排除していく原理を隠し持っているように。


「もっと優れたものになること」が本当に人をそんなに幸福にしてくれるものなのかな。

映画の中でこの先生の顔を見ていると、
それは、ちがうよなぁ……と実感する。

見城慶和先生。

自分のやるべき仕事と出会い、自分に出来ることを精一杯やり、
そのことのやりがいを楽しんで生きてきた人は
富や名誉とは無縁でも、こんなにも豊かな生活を送り、
こういう顔になるんだなぁ……。

まだ読んでいませんが、見城先生の著書は
夜間中学校の青春
見城慶和、小林チヒロ著、大月書店、2002年
2008.09.04 / Top↑
勧めてくださる方があって
東京都墨田区立文花中学校の夜間学級を取材したドキュメンタリー映画「こんばんは」
DVDを買ってみたら、とても良かった。

9月16日に東京「ポレポレ東中野」で再上映されます。
詳しくはこちら


様々な事情で義務教育を受けることが出来なかった人たちや
日本語を学びたい人たちが年齢や国籍に関係なく学ぶ、
夜間中学校という場所があるということすら
この映画を教えてもらうまで知りませんでした。

多くの人が恐らく私と同じように知らないと思うし、
この映画を見たら、「こんな教育があるのか……」と目からウロコなんじゃないかなぁ。

競うためでも勝つためでもなく、
自分を肯定し、自分に誇りを取り戻すための教育。

“競う”ということのない教育はこんなにも豊かなものなのか、と眼を見張り
社会のために有用な人間や管理しやすい人間を育てるのではなく、
一人ひとりが人として自分を大切に生きていく力を育てる教育を
いつの間にか考えさせられる。

本来、教育って、こういうものじゃなかったのか──と。

見ていたら、私の頭には remedial という言葉、さらに、そのイメージから
「教育が医療と重なっていくところ」というフレーズが浮かんできました。

文部科学省選定・東京都知事推奨作品となっているのですが、
石原都知事は見ていないと思う。
強権で日の丸・君が代を教育現場に押し付け、「ババア」、「第三国人」など、
女性や高齢者や外国人を公然と差別してはばからない知事にとって、
これは、ぞうっと背筋が冷えるほど危険な教育のはずだから。

また強権で夜間中学校をつぶされてはいけないから
このまま見ないで推奨していてもらいたい。

──そういう映画です。
2008.09.04 / Top↑


米国ミネソタ州WasecaのBert Holbrookさんは先週末に80歳の誕生日を祝った。

2005年にはダウン症の人の寿命は55歳だといわれるところまで延びたが、
Bertさんが生まれた当時、ダウン症の人の平均寿命は9歳だといわれ、
受けられる医療もほとんどなく施設に入れられるのが当たり前の時代だった。

しかしダウン症と診断されたBertさんは家で両親に育てられ、
家業の食品店を手伝いながら「みんなと付き合って」大きくなった。

Bertさんは町の人みんなを知っていて、町中どこでも不自由なく往来していた。
町の人はみんなBertさんのことをジュニアと呼び習わしていて、
今でも見かけると「よぉ、ジュニア、どうだい?」と声をかける。

年齢と共に認知症が出て耳も聞こえなくなり、最近では車椅子が常時必要となったが、
中間的(ナーシングとアシスティッドの?)介護施設で7人の入所者と一緒に暮らしている。

施設で親しくなった女性がいて、
2人は一緒にアヒルに餌をやったり買い物に行ったり。

84年に母親が亡くなった後は姉(妹?)がインディアナに住んでいるだけで
身近な家族はいない。

去年の12月に
それまでダウン症の最長寿のギネス記録を持っていた男性が68歳で亡くなったことを知った
ホームの看護師がBertさんの方が長寿なのではないかと考え、
ギネスに記録申請をした。

ギネスからコンタクトがあり、詳細な書類を提出して
現在結果を待っているところ。

もう18年間もBertさんに関ってきた、その看護師は
「ギネス記録だとなったら、みんなが大騒ぎになって、
ジュニアは人が大好きだから、そういうの、きっと喜ぶと思うんですよ」と。



Wikipediaによると、
Wasecaというのは人口8500人の町。

記事には書かれていない苦労もきっと沢山あったのだろうとは思うのだけれど、

この人の穏やかで柔らかな顔の表情を見ていると、
家族に愛され、小さな町の温かい人々に囲まれて
それなりに幸福な80年を生きてきた人なのだなぁ……ということが感じられるようで。

米国でおなかの子どもにダウン症があると分かったら、
その子の人生はゼッタイに不幸なものになる、
生きるに値しない命なのだと決め付けて
中絶を選んでいる9割もの人に

こんなに柔らかな表情で80歳を迎えたダウン症の人もあるのだと、
Bertさんの存在を知ってもらえたら、と思う。

そのためにも、Bertさんにギネスの認定が下りますように。


──なんだかね、

この人の顔を見ていると、
“親亡き後”のことが頭から離れない、
いろんな障害を持った子どもの親にとっても
いいものを見せてもらったな、いい話を聞かせてもらったなぁ……とね。

親が逝ったあとも幸福に生きていく我が子の姿を
見せてくれる水晶玉がどこかにないものか……と、時に夢想してたりするもんだから。
2008.09.03 / Top↑
前のエントリーチンパンジーに法的権利認めるを書いた時に覗いてみたサイト


大型類人猿に法的権利を認めようと活動する世界規模の組織のようで、
6月にスペイン議会がチンパンジーの法的権利を認めた決議については、
スペイン政府が我々GAPの趣旨に支持を表明した」と勝利を謳い、
スペインのGAP仲間の活動を称えています。

GAPの活動目的は「大型類人猿に関する宣言」に明示されており、

大型類人猿に関する宣言

平等なものたちのコミュニティを拡大し、
全ての大型類人猿(人、チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オランウータン)を
そこに含めるよう要求する。

平等なものたちのコミュニティとは、
我々が一定の基本的道徳上の原理または権利を
相互の関係を統御し法的な実行力あるものとして享受する
道徳的なコミュニティである。

それら原理と権利とは

1.生命を守られる権利
2.個人の自由を守られる権利
3.虐待の禁止


その根拠はHOMEに書かれているところによると、
98%まで人間と同じDNAを持ち、
感情があって道具を使う能力や言語まで習得できることなど。

動物愛護と捉えられないこともないのでしょうが、
私にはそれよりもトランスヒューマニスティックな匂いがしてしまう。

そして、
この世界規模の団体の本拠地はというと……米国Washington州 Seattle。
2008.09.03 / Top↑
法的強制力を持つものではありませんが、
サルに動物園での飼育は認めるものの
サーカスやその他の芸をやらせてはならないという決議が
スペインの議会で行われた、とのこと。

世界各地でチンパンジーを始めとする大型類人猿に法的権利を認めようとの
動きが起こっており、

オーストリアでは去年、
動物愛護団体がチンパンジーをMatthew Hiasl Panと名づけ、
法的権理が認められる人格(person)であることの認定を求めて
裁判所に法的代理人申請を行った。

飼育施設が経営難に陥ったことから
チンパンジーに財産権が認められれば
寄付を受けることが可能となりホームレスとなることを防げる、との狙い。

オーストリアの裁判所が却下したため、
活動家らは欧州人権法廷に訴え出て闘争を続行する予定。

What’s next in the Law? The Unalienable Rights of Chimps
By Adam Cohen
The New York Times (Editorial Observer), July 14, 2008


この社説によると、
チンパンジーは人権が認められるべき人格であるとする活動家らの根拠は
チンパンジーのDNAの98%は人間と同じで、
類人猿は複雑なコミュニケーション技術をもち細やかな情で繋がっている、
寂しさや悲しさも経験するのだから、
一定の尊重に値する、というもの。

そして、
「不可逆的な植物状態に陥った人に権利があり、
法人格にすら言論の自由と平等な保護、訴えたり訴えられる権利が認められているのだから
チンパンジーを人格と呼ぶことはそれほどぶっ飛んだことでもあるまい」

「類人猿に敬意を表することは
同時に人間の格を上げるのではないだろうか」

……というのが、この社説の主張のようですが、

障害のために言葉を失い、意思や感情を訴える術を失っただけかもしれない人には
人格を認めないばかりか「どうせ治らないのだから」といって
餓死させるようなことが行われている一方で、
そんなことを言われても……。

オーストリアのケースに関する記事の一部を以下に。


Court Won’t Declare Chimp a Person
Live Science, September 27, 2007


          ――――――――

一定の知的能力で人格の有無に線引きをする「パーソン論」でもって
重い知的障害のある人に人権を認めず、
その逆に類人猿に人格を認めるのは
トランスヒューマニストらに共通の価値観。

また彼らはsentience という言葉も多用しています。
感覚の有無で生命の種類に線引きを行い、
感覚のある生物をsentience と称しているのですが
分類の詳細についてはそれぞれのTHニストで違っていたりもするようです。

その一例は“Ashley療法”論争に擁護派として登場した世界THニスト協会幹部
James Hughes の著書“Citizen Cyborg”に挙げられている分類。

Hughesの想像(提唱?)では
科学とテクノロジーによってサイボーグと化し、強化・進化した未来の人類社会では
民主的な社会を維持するため生命の種類によって市民権が4段階に分けられます。

①“完全な市民権”を与えられるのは
「理性ある成熟した人格」という意識状態にある大人の人間と
 認知能力がそれに匹敵するもの。

②“障害市民権”が与えられるのは
「人格(自己意識)」がある意識状態が基準で、
人間の子どもと精神障害のある人間の大人、それから大型類人猿。

③ “感覚のある財産”というステイタスになるのは
 胎児、植物状態の人間、ほとんどの動物。
Hughesはこの意識状態をsentience(快と痛を感じる)と呼び、
 苦痛を与えられない権利のみを付与します。

③その他、権利を持たない“財産”と見なされるのが
胚、脳死の人間、植物、物品。
これらは Not sentient (感覚がない)。


つまり、
子どもと精神障害者は大型類人猿と同じ意識状態の範疇に入れられているわけですが
THニストは障害者を云々する割りに、その現実・実態に全く無知なので、
ここでいう「精神障害者」には「知的障害者」を含めている可能性があります。

しかし、実際に彼が書いていることを読んでいくと、
ASLが植物状態と混同されていたりして、
上記の分類は、作った当人の頭の中ですら全く機能していません。

詳細は以下のエントリーに

2008.09.03 / Top↑
8月30日のニュースで、米国CDCは
11歳―12歳で髄膜炎、百日咳、子宮がんなど
将来、感染したら命に関るような病気のワクチンの接種を勧める
アナウンスメントを親に対して出し、

テレビやラジオなどでも広報するとのこと。



これらCDCのpre-teen vaccine campaignのサイトはこちら

これら3種のワクチン接種勧告のプレスリリースは8月1日付で出されていました。

           ―――――

このキャンペーンの主要ターゲットは「母親」と医師などとなっていて、
次のターゲットが「父親その他の保護者」となっているのですが、
やっぱり米国でも子育ては母親の責任というのが政府の公式見解なのかな。
2008.09.02 / Top↑
前のエントリーを書くに当たってヒトパピロース・ウイルスを検索してみた時に、
なんだかなぁ……と感じてしまったことを。

まず、ヒトパピロース・ウイルス(HPV)についてウィキペディアはこちら

ワクチンについては、
日本では万有製薬が認可申請をしていますが、
まだ臨床実験の段階で未承認。
日本で接種が可能なのは医師が個人輸入しているもの。

……という現状のようなのですが、
Yahoo!Japanでも、Googleでも「HPVワクチン」を検索してみると、
トップに出てくるのは


というサイトのHPVワクチンについての説明ページ。
日本では未承認であることについては言及されないまま、
子宮頸がんを予防するワクチンであることが繰り返し強調されています。

(このワクチンを開発した人が朝日新聞のひと欄に取り上げられていて、
 そのコピペも)

HPのサブタイトルには
「当サイトは子宮頸癌(子宮頸がん)の前癌病変(前がん病変)である
【子宮頚部異形成】に関する情報サイトです」と書かれ、
管理人は匿名の子宮頚部異形成の体験者とのこと。

でも内容は、とても個人のHPとは思えないような……。

また管理人さんのプロフィールにある100の質問の中には、
以下のような不思議な問答もある。

Q:癌になって特に辛かったことは?
A:子宮頸癌の原因がヒトパピローマウイルス(HPV)の長期感染と関係しているということ。

Q:食生活or ストレス、自分ではどっちが原因だと思いますか?
A:ヒトパピローマウイルス(HPV)感染が原因だと思っていますが、会社勤務のストレスも関係しているかな。


日本でもかなり不気味なことが進行しているのかも???

だって、癌になって特に辛かったのは
その原因がウイルス感染だったことだと答える患者さんって、一体どんな人よ……?
2008.09.02 / Top↑
アメリカ医師会の会員向け新聞の電子版 amednews.comに
9月8日付で親によるワクチン接種拒否を取り上げた記事がアップされており、
またもDiekema医師のコメントが2回紹介されています。

Time to get tough? States increasingly offer ways to opt out of vaccine mandates
Too many exemptions have been seen as a risk to public health. But a push to crack down might do more harm than good.
By Kevin B. O’Reilly,
AMNews, September 8, 2008


文末に疾患ごとのワクチンによる予防率や各州の除外条件、関連リンク一覧がありますが、
フルテキストが読めるのは掲載から90日間のみで
その後は梗概となります。


このところ米国では麻疹が急増しており、
96年以来のピークとなって懸念が高まっている。

約半数は
親が宗教上の信条または個人的な理由から予防接種を拒否した子どもの発症とされ、

統計的にも
宗教上の信条によってのみ免除を認めている州では患者数が増えていないのに対して、
宗教上の理由以外にも個人的信条による免除を認めている州で増えている。

中には規定の用紙に記入さえすれば簡単に免除されてしまうこともあり、
こうした州の免除規定に見直しを求める声が上がっている。

例えばJohns Hopkins大学のワクチン安全研究所などいくつかの機関が共同で
モデルとして新しく作った学校予防接種法案では
ワクチンの利点とリスクについてきちんと説明を受けた旨、医師からサインをもらった上で、
さらに自分の宗教上の心情について詳細に説明する書類の提出を親に求めている。

この法案を支持する声としてDiekema医師が登場しており、
「この法案だと接種率を上げ、
 どうしてもオプト・アウトしたい人はそれもできる。
 オプト・アウトするということは他の人たちをリスクに晒すということですから
 そういうことが簡単にできるのではいけません」

しかし、ワクチン接種免除の可否に医師の権威を関らせることには
反対の声もあり、

また通常の学校生活で感染し大流行を引き起こすおそれのあるポリオや麻疹のような病気と、
通常の学校生活では感染しないB型肝炎やヒトパピロース・ウイルス(HPV)とでは
分けて考えるべきだという声もあって、
Va州の生命倫理シンクタンク the Center for Ethical Solutionの所長Sigrid Fry-Revere氏は
「そもそも義務付けるのであれば、免除があることそのものが欺瞞」とも。

ここでDiekema医師が再びコメント
「どのワクチンを義務付けるか州は慎重に決めなければ。
学校に行ったらヒトパピロース・ウイルスに感染するという話じゃないのだから」と。

というのも、背景には、
去年、HPVワクチンを義務付けるよう製薬会社が
各州に対して強力なロビー活動を行ったことから
広く一般からのバッシングが巻き起こって
予防接種に対する不信感を高めてしまったという痛い経験が。

あまり強硬な手段に訴えると、その二の舞になったり逆に反発を買うことも懸念されて、

米国医師会や小児科学会など15団体は
The Immunization Allianceという組織を作って地道に教育を行っていく方針。



ちなみにDiekema医師は親のワクチン接種拒否問題については
シアトル子ども病院の生命倫理カンファで講演もしているし、
最近では論文も発表しています。
2008.09.02 / Top↑
女性の選択権を認めて中絶を合法化した1973年のRoe v. Wade裁判の判断を
覆して中絶禁止を求める動きがSouth Dakota州などで先鋭化しており、

(カリフォルニア州では未成年の中絶では親への通知義務付けを求める動き)

強く中絶反対を訴えるAlaska知事Sarah Palin氏を副大統領候補に選んだことで
共和党のMcCain氏はプロライフの立場を鮮明にしたことになった、と。

これら中絶を巡る住民投票が11月に予定されており、
大統領選に中絶禁止論争がかぶってきた模様。

November Ballots Include Abortion Issues
The Washington Post, August 30, 2008


私自身は女性が社会の中でまだまだ不利な立場に置かれている以上、
ある程度まで女性の選択権というのは認められるべきだと考えているのですが、

その一方で、障害があることを理由に「産まない」という選別的中絶には
とても抵抗を感じていて、

「どのような子どもの親になりたいか」なんて
そもそも自分でどうこうできるものじゃないだろう、と思う。

「障害があるから産まない」という選択は
デザイナーベビーの是非や障害者の人権、
社会が様々な弱者をどのように遇するかという姿勢にも関っていく
女性の選択権とは別の問題だと思う。

女性の選択権と選別的中絶の問題という2つの問題が
じゃぁ、どこでどう繋がっていて、どこでどう別問題なのかということを
突き詰めて考えたり、論理的に整理してみたわけではないのですが、

おなかの子どもがダウン症だと分かって「産む」という選択をしたPalin知事が
副大統領候補となって政治的な影響力を大きくするということは

別問題であるはずの2つが
丁寧に検証されることなく情緒をまぶされて
都合よくごちゃ混ぜにされてしまいそうな……。
2008.09.01 / Top↑