Santa Barbara 映画祭で土曜日24日と今日月曜日26日に上映された
新作ドキュメンタリー映画 “War Against the Weak”(弱者に対する戦争)。
新作ドキュメンタリー映画 “War Against the Weak”(弱者に対する戦争)。
2003年に出版されたEdwin Blackの同名の著書が映画化されたもので、
ナチスの優生思想に基づく障害者の不妊手術や殺害以前に
米国で優生思想が広がり、強制的な不妊手術が行われており、
ナチスの実験や殺害は米国の優生思想に影響されたものであること、
米国で優生思想が広がり、強制的な不妊手術が行われており、
ナチスの実験や殺害は米国の優生思想に影響されたものであること、
20世紀の米国で行われた6万人の強制的不妊手術には
高名な科学者や財団が関与していたことなどを
写真やナチの書簡、新たな技術によるグラフィックや再構成によって描いたもの。
高名な科学者や財団が関与していたことなどを
写真やナチの書簡、新たな技術によるグラフィックや再構成によって描いたもの。
映画の公式サイトはこちら。
このサイトの副題は
「それはロングアイランドで始まり、アウシュビッツで終わった……
が、本当はまだ終わってないどいない」
が、本当はまだ終わってないどいない」
ここに書かれている内容を簡単にまとめると、
1900年から1930年にかけて米国では民族浄化が行われた。
Carnegie、Rockfellerなどのアメリカの慈善団体が
Harvard, Yale, Princetonなど権威ある大学の学者らと手を携えて
組織的な人種政治を国家施策にしたためである。
農務省、国務省ほか多くの政府機関が関与し、
最高裁判所まで加わった。
貧しい人、髪の毛が茶色の白人、アフリカ系アメリカ人、移民、インディアン、東欧系ユダヤ人、病者……
要するに、アメリカ人として優れた遺伝系統とされたものを外れていれば誰でもが対象だった。
まるで、とうもろこしの品質を向上させるブリーディングでも考えるのと同じように、
彼らは弱い者、劣っている者の生殖能力を根こそぎにし、
アメリカ人という優れた民族を作ろうとしたのである。
アメリカで始まったこの動きが世界に波及し、
ナチス政権下で抑制を失い大虐殺を引き起こしたが、
ナチスの研究機関に資金を提供していたのはRockfeller財団だった。
ナチスの惨劇に世界中は身をすくめたが、
その後、先進科学「ヒト遺伝学」という旗印の下、
米国の優生運動は名前を変え、顔ぶれを組織しなおしている。
Carnegie、Rockfellerなどのアメリカの慈善団体が
Harvard, Yale, Princetonなど権威ある大学の学者らと手を携えて
組織的な人種政治を国家施策にしたためである。
農務省、国務省ほか多くの政府機関が関与し、
最高裁判所まで加わった。
貧しい人、髪の毛が茶色の白人、アフリカ系アメリカ人、移民、インディアン、東欧系ユダヤ人、病者……
要するに、アメリカ人として優れた遺伝系統とされたものを外れていれば誰でもが対象だった。
まるで、とうもろこしの品質を向上させるブリーディングでも考えるのと同じように、
彼らは弱い者、劣っている者の生殖能力を根こそぎにし、
アメリカ人という優れた民族を作ろうとしたのである。
アメリカで始まったこの動きが世界に波及し、
ナチス政権下で抑制を失い大虐殺を引き起こしたが、
ナチスの研究機関に資金を提供していたのはRockfeller財団だった。
ナチスの惨劇に世界中は身をすくめたが、
その後、先進科学「ヒト遺伝学」という旗印の下、
米国の優生運動は名前を変え、顔ぶれを組織しなおしている。
――確かに、すぐに思い当たる慈善資本主義のビッグネームも
おそらくはカーネギーもロックフェラーも物の数じゃない、その財力も
おそらくはカーネギーもロックフェラーも物の数じゃない、その財力も
それから、当時の科学者らに変わる先端科学とテクノロジーの研究者らも、
さらにまた、社会的コストだの医療のコスト効率だの本人の最善の利益だのと
ワケのわからない正当化の理論武装を担う生命倫理学者なるものやら、
さらにまた、社会的コストだの医療のコスト効率だの本人の最善の利益だのと
ワケのわからない正当化の理論武装を担う生命倫理学者なるものやら、
また、その周辺をうじゃうじゃと取り巻いて無責任な未来を夢見るトランスヒューマニストらもいて
役者もゼニも、かつて以上に揃っている……。
2009.01.26 / Top↑
Anne Cowin という女性トランスヒューマニストが2006年に自分のブログで
Peter Singerやトランスヒューマニストらの優生思想を批判する文章を書いています。
Peter Singerやトランスヒューマニストらの優生思想を批判する文章を書いています。
その要旨の前半はざっと以下のような感じ。
トランスヒューマニストの哲学の中には
あらゆる可能性を持つ子どもたちの中から
親は最善の人生を送れる子どもを選択する義務がある、とする
生殖の慈悲(procreative beneficence)原則があるが、
私はそれは近視眼的な考え方であり、
科学の進歩と共に排除できる特性が増えていくにつれて、
現存する社会で能力を最大に発揮できる人間以外は存在してはならないという
偏狭な価値観へと向かっていくしかなく、それはナチの優生思想への道である。
生殖の慈悲原則は母子に命の危険があると明らかな場合に限るべきだと思う。
Peter Singer型の倫理学がトランスヒューマニストの言説にはよく登場する。
大型類人猿の人格を尊重するというSingerの考えは支持できるが
親は生まれてくる子どもに“正常な”能力と性質を保障する義務があるという
生殖の慈悲原則に基づくSinger説は的が外れていると思う。
自分がどうありたいかを自由に選べることがTHニズムの理想であるならば、
そこでは障害も含めた多様性を尊重したうえで
個人の選択の自由が保障されなければならない。
あらゆる可能性を持つ子どもたちの中から
親は最善の人生を送れる子どもを選択する義務がある、とする
生殖の慈悲(procreative beneficence)原則があるが、
私はそれは近視眼的な考え方であり、
科学の進歩と共に排除できる特性が増えていくにつれて、
現存する社会で能力を最大に発揮できる人間以外は存在してはならないという
偏狭な価値観へと向かっていくしかなく、それはナチの優生思想への道である。
生殖の慈悲原則は母子に命の危険があると明らかな場合に限るべきだと思う。
Peter Singer型の倫理学がトランスヒューマニストの言説にはよく登場する。
大型類人猿の人格を尊重するというSingerの考えは支持できるが
親は生まれてくる子どもに“正常な”能力と性質を保障する義務があるという
生殖の慈悲原則に基づくSinger説は的が外れていると思う。
自分がどうありたいかを自由に選べることがTHニズムの理想であるならば、
そこでは障害も含めた多様性を尊重したうえで
個人の選択の自由が保障されなければならない。
そこでCowinは
James Hughesの著書“Citizen Cybogue”の一説を引用しているのですが、
ここでHughesが提示している例が、いかにもトランスヒューマニスト。
James Hughesの著書“Citizen Cybogue”の一説を引用しているのですが、
ここでHughesが提示している例が、いかにもトランスヒューマニスト。
例えば、
ある人がテクノロジーによってエラとかヒレをもつ身体になって、
水中で暮らすことを自己選択し、
自分の子どもにも同じ暮らしをさせたいと望んだ場合、
それは一定の能力を子どもから奪う代わりに
別の能力を子どもに与えることになるのだけれども、
果たしてこれは虐待なのか、それとも強化なのか?
ある人がテクノロジーによってエラとかヒレをもつ身体になって、
水中で暮らすことを自己選択し、
自分の子どもにも同じ暮らしをさせたいと望んだ場合、
それは一定の能力を子どもから奪う代わりに
別の能力を子どもに与えることになるのだけれども、
果たしてこれは虐待なのか、それとも強化なのか?
(ここにもまた、人間の能力の差し引き計算でしか
物事を捉えることのできないTHニストの価値観の浅薄さ・偏狭さが顕著ですが)
物事を捉えることのできないTHニストの価値観の浅薄さ・偏狭さが顕著ですが)
CowinはTHニストらしく、
Hughesの例を新たな未知の可能性と捉え、
テクノロジーがもたらすのが未知の可能性だからといって
その可能性を否定することはやめよう、という考え方をします。
Hughesの例を新たな未知の可能性と捉え、
テクノロジーがもたらすのが未知の可能性だからといって
その可能性を否定することはやめよう、という考え方をします。
だからこそ、Hughesらが将来の可能性に対して自由であろうとする姿勢のまま
誰かが今、自分には想像できない状態にあるからといって、
その状態を否定的に捉えることもよそう、と
先の「生殖の慈悲原則批判」に戻るのです。
誰かが今、自分には想像できない状態にあるからといって、
その状態を否定的に捉えることもよそう、と
先の「生殖の慈悲原則批判」に戻るのです。
親を(教育した上で)信頼して、
(能力優先とか障害排除などの一定の価値基準をしくのではなく)
親の完全に自由な選択権に任せよう、というのが、このエッセイでの Cowin の結論。
(能力優先とか障害排除などの一定の価値基準をしくのではなく)
親の完全に自由な選択権に任せよう、というのが、このエッセイでの Cowin の結論。
しかし、2006年11月にこう書いたCowinが2ヵ月の“Ashley療法”論争では、
わっと飛びついて擁護したTHたちの中でただ1人、“Ashley療法”を厳しく批判しているのは興味深い事実。
わっと飛びついて擁護したTHたちの中でただ1人、“Ashley療法”を厳しく批判しているのは興味深い事実。
Cowinの“Ashley療法”批判の論点は4つで、
1.無抵抗な人の身体に過激な処置が行われたことが遺憾。「ただやってしまえるから」というだけで特定な人に何かが行われないよう特段の配慮が必要。
2.親が愛情から決定したといっても、それ自体は決定内容を正当化するものではなく、内容・理由・方法がそれぞれ精査されなければならない。
3.障害のある人とない人とで、結果的な処遇が同じである必要はないが、判断に適用される倫理基準は一定であるべき。
4.生後3ヶ月相当とされる年齢比喩には根拠がなく、このような比喩を用いて議論することは危うい。
2.親が愛情から決定したといっても、それ自体は決定内容を正当化するものではなく、内容・理由・方法がそれぞれ精査されなければならない。
3.障害のある人とない人とで、結果的な処遇が同じである必要はないが、判断に適用される倫理基準は一定であるべき。
4.生後3ヶ月相当とされる年齢比喩には根拠がなく、このような比喩を用いて議論することは危うい。
そして、彼女は結論として
自分で主張することも身を守ることも難しい人々が体験してきた
力のアンバランスは非常にリアルなものであり、
歩くことも話すことも自分で食事をすることも出来ない人たちに
Ashley療法が適用される可能性については真剣に考える必要がある。
力のアンバランスは非常にリアルなものであり、
歩くことも話すことも自分で食事をすることも出来ない人たちに
Ashley療法が適用される可能性については真剣に考える必要がある。
私はCowinの書いた“Ashley療法”批判は
これまでに出た批判の中で最も筋の通った鋭いものだと考えていますが、
これまでに出た批判の中で最も筋の通った鋭いものだと考えていますが、
親と子の間にも「力のアンバランス」が非常にリアルに存在するし、
親の力の前に子どもは「無抵抗な人」に等しいことを思えば、
親の力の前に子どもは「無抵抗な人」に等しいことを思えば、
それを障害児については否定しているものの
Cowinの「親を教育し信頼して親の選択に全面的に任せる」という考え方も
やはり現実から遊離した楽観論に過ぎると思う。
Cowinの「親を教育し信頼して親の選択に全面的に任せる」という考え方も
やはり現実から遊離した楽観論に過ぎると思う。
科学とテクノロジーで
親が子どもに「してやれる」ことの選択肢がどんどん多様になる時代。
親が子どもに「してやれる」ことの選択肢がどんどん多様になる時代。
親の愛情や親の考える子どもの最善の利益が必ずしも
本当の子どもの利益を守るものであるとは限らない現実をしっかり踏まえて
親とは独立した1人の人間としての子どもの尊厳や権利が守られるよう
社会がセーフガードをきちんと設けることが必要なのでは?
本当の子どもの利益を守るものであるとは限らない現実をしっかり踏まえて
親とは独立した1人の人間としての子どもの尊厳や権利が守られるよう
社会がセーフガードをきちんと設けることが必要なのでは?
2009.01.26 / Top↑
Wisconsin州で去年3月に起きた事件。
若年性糖尿病のKara Neumanさん(11)が
歩くこともしゃべることも出来ないほど弱っていたにもかかわらず
病気を治すことができるのは信仰の力だけだと信じる両親は病院へ連れて行くことをせず、
歩くこともしゃべることも出来ないほど弱っていたにもかかわらず
病気を治すことができるのは信仰の力だけだと信じる両親は病院へ連れて行くことをせず、
見かねた叔母からがシェリフに通報、救急車が救出したものの
Karaさんは病院到着時には既に死んでいた。
Karaさんは病院到着時には既に死んでいた。
Wisconsin州の法律では
祈りによって病気を治そうとする親がネグレクトに問われた場合には
その罪を免除する条項が盛り込まれており、
reckless endangerment(過失致傷罪?)に問われた夫妻は
憲法で保障された信仰の自由を侵害ものだと主張しているが、
Marathon郡周回裁判所の裁判官は
「憲法は信仰の自由は保障しても行動の自由まで保障していない。
祈りで治そうとするネグレクトの免除も子どもの病状が命に関らない場合の話」として
母親の方には5月14日、父親の方には6月23日に出廷を命じた。
祈りによって病気を治そうとする親がネグレクトに問われた場合には
その罪を免除する条項が盛り込まれており、
reckless endangerment(過失致傷罪?)に問われた夫妻は
憲法で保障された信仰の自由を侵害ものだと主張しているが、
Marathon郡周回裁判所の裁判官は
「憲法は信仰の自由は保障しても行動の自由まで保障していない。
祈りで治そうとするネグレクトの免除も子どもの病状が命に関らない場合の話」として
母親の方には5月14日、父親の方には6月23日に出廷を命じた。
有罪となった場合には夫婦それぞれ25年以下の懲役の可能性。
米国では過去25年間に、
両親の宗教上の信条によって医療を受けられずに死んだ子どもが300人程度いる。
両親の宗教上の信条によって医療を受けられずに死んだ子どもが300人程度いる。
去年もOregon州で2組の夫婦が有罪となった。
一件は1歳3ヶ月の肺炎の娘。
もう一件は16歳の尿路感染の息子。
一件は1歳3ヶ月の肺炎の娘。
もう一件は16歳の尿路感染の息子。
特に尿路感染は適切な治療さえ受けられれば死ななくても済む病気。
子どもの医療における親の宗教上の信条については
州によって法律の対応がまちまちであることから、
今回のNeuman夫妻に対する判決が重要な前例となると注目される。
州によって法律の対応がまちまちであることから、
今回のNeuman夫妻に対する判決が重要な前例となると注目される。
Nerman夫妻の地元の人がインタビューに答えている言葉が衝撃的で、
「娘が病気だというのに病院へ連れて行かなかったのには賛成できないけど、
だからといって親が収監されなければならないのか疑問」と。
「娘が病気だというのに病院へ連れて行かなかったのには賛成できないけど、
だからといって親が収監されなければならないのか疑問」と。
死ななくても済んだはずの子どもが1人死んでいるのに……?
親が子どものためを思ってやったことだから免責されるべきだとでも……?
じゃぁ、子どもは親の愛情のためなら死んでも仕方がないのか……?
それは、子どもをまるで親の所有物のように捉える感覚なのでは……?
親が子どものためを思ってやったことだから免責されるべきだとでも……?
じゃぁ、子どもは親の愛情のためなら死んでも仕方がないのか……?
それは、子どもをまるで親の所有物のように捉える感覚なのでは……?
こういうニュースを見るたびに、
Ashley事件で擁護派が強硬に言い張った「子どもの医療は親の決定権で」という説が
頭によみがえって考え込んでしまう。
Ashley事件で擁護派が強硬に言い張った「子どもの医療は親の決定権で」という説が
頭によみがえって考え込んでしまう。
“Ashley療法”論争の際にも、
多くの人が「親が愛情からやったことだから」と感動・賞賛・擁護したものだった。
多くの人が「親が愛情からやったことだから」と感動・賞賛・擁護したものだった。
親の愛情って、それほど信頼に足りるものなのかどうか……?
――――――――
反面、こういうことを考えるたびに、
重症重複障害のある娘をこの社会に託して死んでいけると言い切るには
まだまだ自信も確信も持てない自分自身の胸の内を覗き込んでしまうのも事実……。
まだまだ自信も確信も持てない自分自身の胸の内を覗き込んでしまうのも事実……。
2009.01.26 / Top↑
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