2ntブログ
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米国では現在、
民主党のGlassley上院議員らが行っている調査の結果が報告されて
医薬品や医療機器の研究や開発を巡って、
著名研究者らが関連業界からの金銭授受を
規定のとおりに正しく申告していなかった問題が
大きくクローズアップされ、

特に児童精神科の分野では
Harvard大学のBiederman医師ら
小児への投薬を率先して進めてきた研究者らと製薬会社との関係が明らかになるにつれて、
研究における「利益の衝突」への透明性の欠如が
これまでの研究が提示してきた治療のエビデンスに影響しかねない
大問題となっているところで、

研究を巡る利益の衝突の透明性を担保するための法律の改正案が
議会に提出されているわけですが、

小山さんが書いてくださった成長抑制シンポのレポートを読んでいたら、
(28日に日本語版もブログにアップされましたが、英文の方が詳細です。)

重症児への成長抑制に関する個別の検討に裁判所の判断を仰ぐことは無用で
病院内の倫理委員会に様々な立場の人を入れて検討すればそれでよい、との
主張が(説得力が乏しいまま)行われている箇所で

ふっと、この医学研究における利益の衝突の問題と連想が繋がった。

もしも、どうしても裁判所をすっ飛ばして
病院内の倫理委員会の検討だけで成長抑制を認めてもよしとするのであれば、
その倫理委員会の議論の中立性を担保し、
この侵襲度の高い、子どもの身体の全体性や尊厳を損なうものである可能性のある療法の
恣意的な利用や濫用を防ぐためには

倫理委員会には
成長抑制を希望する親やその周辺との利益の衝突について
きちんと申告する義務を負わせるべきなんじゃないでしょうか。

そして、その義務は
第1例であるAshleyケースについても遡って
2004年5月の特別倫理委員会に対して要求してほしいものです。
2009.01.29 / Top↑
今回の成長抑制シンポの詳細を読んで
私の頭に真っ先に浮かんだのは、

ずっとずっと懸念していたことが、
とうとう、やっぱり、ついに現実になってしまった……という思い。

シアトル子ども病院は、多くの重症児の尊厳と引き換えに
これでAshleyケースという非常に特異な背景を持つ第1例の幕引きに成功したのだな、と。

        ―――――――

私がこのブログを始めたのは2007年5月、
Ashleyケースを巡ってシアトル子ども病院でシンポジウムが開かれた直後のことでした。

既にたどり着いていたAshley事件の真相についての仮説を念頭にシンポのWebcastを見た時に、
この事件はこのままではすまない……と直感し
いてもたってもいられない思いで立ち上げたブログでした。

病院はもう後に引けなくなってしまった、
何が何でもウソをつき通して正当化するしかなくなっている、
病院にとって最も有効な第1例の正当化は第2例を作ることなのだ……と
シンポジウムから確信したからです。

去年1月のDiekema講演の前後には
ウソにウソを重ねて強引な一般化を行い、正当化してしまいたい同医師と
本気で他の重症児に広めようとしている父親の利害が見事に一致していることに
更に危機感が募って、またしても、いても立ってもいられない思いに駆られ、
自分の力量をはるかに超えていることを承知で英語ブログも立ち上げました。

Ashley事件の細かい情報を検証する当ブログは
「議論の本質とは無関係な意味のないことをやっている」とか
「ただのスキャンダルをほじくっている」といった受け止め方をされることが多かったけれど、

私としては、
Ashleyケースは絶対に前例にしてはいけない特異な背景のあるケースなのだということ、
それぞれ病院は保身のために、父親は独善的な使命感から
この療法を一般化しようと躍起になっていることへの危機感と
さらに世の中の空気そのものが、そういう方向に変質しつつあることへの懸念とを
この2年間、私なりに一生懸命に訴えてきたつもりでした。

もちろん、日本の1人の母親ごときに何ができると思っていたわけじゃない。

でも、やっぱり、この展開は悔しい。
この2日間、ほとんどウツ状態ですごしているほど悔しい。
(グチってます。ごめんなさい)

あんまり悔しいので、いま一度ここで書いておきたい。

2007年1月に世界中で論争を巻き起こしたAshleyケースには
父親がマイクロソフトの幹部と思われ
ワシントン大学にゲイツ財団との密接な関係があることから
しかるべき倫理検討を経ずに水面下で行われたものだった疑いがあります。

きちんとした調査が行われない以上、証明はできませんが
もしも当ブログが検証してきた仮説が事実だったとすると
子どもを守るべき子ども病院が政治的配慮から職業倫理を放擲し、
ズルをし、そして、さらにヘマをしたわけです。

ヘマとは、これが表に出た時に他の重症児に及ぶリスクを承知しつつ
父親の意向を入れて公表してしまったこと。
(2006年の医師らの論文は異様なほど「恣意的応用」「濫用」予防の必要を繰り返しています)

そして、ズルとヘマの結果、
本来水面下に留まって他児には影響しないはずだったケースが表に出てしまったために
病院側はAshleyに行われたことの中でなんとか正当化できそうな成長抑制にフォーカスし、
強引に成長抑制を一般化する以外には
第1例の特異さから世の中の目を逸らせて
無事に幕引きをすることができなくなってしまった。

そして、今回のワーキング・グループの報告によって
Ashleyケースという非常に特異な背景を持つ第1例の幕引きが
病院の思惑通りに成功したのだなと、私は受け止めています。

もう、ここまできたら、成長抑制は他の重症児に次々と実施されるのでしょう。
もう、ここまできたら、いまさらAshley事件の真相になど何の意味もないのでしょう。

しかし、Ashleyの父親は決して自分の計画を幕引きなどしていません。
彼がブログで書いているのは「米国の重症児のために」ではなく
「世界中のPillow AngelたちのQOLのために」なのです。

ゲイツ財団の資金は世界中の医療研究機関に流れています。
ゲイツ財団がワシントン大学に作ったに等しいIHMEは
世界中の保健医療の施策をコスト効率で採点し、見なおすことを目的に掲げています。
WHOも世界銀行も何カ国かの国の保健相もIHMEと繋がっています。
世界中で「障害者にかかる社会的コスト」が取りざたされています。

私はAshleyの父親がゲイツ氏と直接に繋がってやったことだとまでは考えません。
しかし、Ashleyの父親が“Ashley療法”を考え付いたのは
ゲイツ氏やIHMEやNBICと価値観・文化を共有する人物だったからだと思います。

そして、Ashley事件がこういう形で幕引きされたことによって証明されたのは

今の世の中では、そういう人たちが
世界がこれまでに経験したことのない途方もない財力と権力とを既に握っていて、
その権力の前には、倫理委員会もメディアも人権擁護機関も、もはや機能しないという恐ろしい事実。

恐らく、
科学とテクノロジーによる障害者への侵襲と、それによる社会的コスト削減は
重症児への成長抑制に留まらず、じわじわと拡げられていくのではないでしょうか。

重症児だから侵襲されているのではない。
きっと重症児から侵襲が始まっているだけなのだから。
2009.01.29 / Top↑
“Ashley療法”論争からずっと考えていることの1つは
いわゆる重症心身障害のある人たちには
本当の意味でのアドボケイトがいないんじゃないか、ということ。

私は日本の事情しか分からないし
日本の事情にしても、ロクにまともに勉強したわけではなく
狭い範囲の経験や知識に基づいて誤解もあるとは思うのですが、

障害者運動というのは脳性まひ者を中心にスタートして、
それから他の障害にも広げられてきて
基本的には自分で声を上げて立場を主張できる人たちが担ってきたと思うし
障害学にしても様々な障害をもつ当事者が大変な苦労をしつつ
自ら研究者になることで切り開かれてきた学問でもあるんだろうなと思う。

その中で、
理念としては「全ての障害者」という原理原則によって
カバーされてきたはずなのだけれども、
やはり自ら表現することが難しい重症の知的障害者の声は上がりにくいし、
更にそこに重症の身体障害を併せ持つ重症重複障害児・者は声を持たないだけでなく、
物理的にも姿が見えにくいところに追いやられてしまってきたために
イメージすることそのものが難しいのかもしれない。

そこで重心児・者の代弁者はこれまでずっと
重症児医療を担ってきた医師と親、ということになってきた。

もちろん、一般に広く障害者福祉が欠落していた世の中で
誰の意識にも存在していなかった重心児・者への福祉を求め続けてきた
これまでの医師や親の運動は不可欠だったし、大きな貢献だったとも思うのだけれども、

反面、大きなノーマライゼーションの流れが起こってきた世の中の変化の中で考えると、
「どんなに重い障害を持っていても地域で当たり前の生活を」という主張が行われ、
多くの障害当事者とアドボケイトがそれぞれ
障害の特性に応じた具体的な改善要求を出してきた一方で、
重症心身障害児・者当人の権利だけは
その多くが入所施設の経営者である医師と親によってのみ代弁されてきたわけで、

Ashley事件からずっと私の頭を離れない疑問は
それは本当のところ、重心児・者本人の利益の代弁なのか、
実は施設の利害と親のエゴが「代弁」に成り代わっているのではないのか、ということ。

そういう意味で、
重症心身障害児・者には本当のアドボケイトは存在していないのではないか、ということ。

Ashley事件でも顕著だったのは
重症児だから親の愛情のもとに置かれ一生親のケアを受けるのが本人の幸福という
集団的な思い込み。

それが世間や親の側の勝手な思い込みではないという保障がどこにあるのかと
重症児の親である私自身、とても疑問に思うし、

障害者運動が最も憎み、否定し戦い続けてきたのは
そういう親からの愛情の押し付けであり支配だったはずで、
(更に言えば、こうした医療からの介入であり支配だったはずで)

重症重複障害児・者だけは親の愛情を押し付けられ、
一生を親と共に狭い家庭で暮らすことが本人の幸福だと
そこに線引きをして、背を向けないで欲しい。

私自身、子どもを重心施設に預けている親として、
Ashley事件との出会いから、ずっと葛藤しています。

それはAshley事件との出会いによって
親である自分こそが娘の最良のアドボケイトだと考えてきた自分自身の足元が揺らいでしまったから。

この2年間ずっと、そのことを考え続けて、今
親はやはり重心児・者本人のアドボケイトにはなれないし
なるべきではないのかもしれない、という気がしています。

障害のある子どもと親との間に利益の衝突があることは明らかだし、
その利益の衝突が重心児・者の場合にだけ消滅するということはありえない。

愛情から障害のある子どもを殺す親は後を絶ちません。

重い知的障害と身体障害を併せ持ち、
「こんなにも非力で自分で我が身を守ることが出来ない我が子」を
この社会に託して死んでいく自信がまだ持てないでいる私には
娘本人の利益を代弁する資格はないのだろう、と思う。

だけど、私もまた
わざわざ子どもをつれて死にたいわけでも
子どもを殺したいわけでもないのです。

安心して子どもを残して死んでいけるために
重症児の親は何を望めばいいのだろう……と
この2年間考え続けてきました。

もちろん重症児・者が安全に暮らしていける環境が保障されて欲しい。
そして、声がなく、自分で身を守ることが出来ないだけに、
親や医師や施設の利益とは全く切り離されたところで
本人たちの利益だけを代弁するアドボケイトがいてほしい。

そうしたら、きっと
どんなに重い障害を持った子どもの親でも、
ちょっと自分は手を引き、一歩引いたところで
子どもが人の手を借りながら自分の人生を生きていく姿を
ゆったりと見守ることができるんじゃないだろうか。

そして、ゆったりと見守りつつ、
我が子にもこの社会で生きていける安全な居場所があると信頼することが出来たら
もしかしたら残して死んでいくことができるんじゃないだろうか。

少なくとも、
重心者は意思疎通が出来ないから、
どうせ何もわかっていない赤ん坊と同じだと決め付けられて
他の障害者とは話が別だと一線を引かれ、
他の障害者には許されない身体への侵襲が安易に許されるような社会には
私は重症重複障害のある我が子を托して逝くことはできないと思う。
2009.01.29 / Top↑