http://www.chicagotribune.com/news/chi-ap-il-residentrights,0,7036678.story
http://www.semissourian.com/story/1669449.html
また。Ashley事件の怪現象。10月6日付で、今度は癌治療サイト。やっぱり科学とテクノ系。いつものAP記事。コメントまで、いつかの使いまわし。一体だれがやらせてるんだ……? って、あの人しか、いないか。
http://acancercure.net/how-will-the-following-hender-the-normal-development-of-ashley.html
スコットランドの自殺幇助合法化審議に、いよいよ法案提出者のMargo MacDonald議員が登場。とりあえずは、合法化された場合に死者がどれだけ出るか人数の見積もりで論議に。米国OR週のデータに基づいて年間50人くらいと主張するM議員に、反対派のMathson議員が「あなたの法案はオランダ式だから、年間1000人くらい出るはず」と。そしたら「最近は緩和ケアが充実しているから、それほどにならない」とM議員。:オランダでは合法化で緩和ケアが崩壊したって話もあるけど。
http://www.thesun.co.uk/scotsol/homepage/news/3167077/Suicide-Bill-death-toll-clash.html
http://www.heraldscotland.com/news/politics/assisted-suicide-numbers-disputed-1.1059625
Mayorクリニックが終末期医療の倫理的意思決定ガイドラインを出した。医療の差し控えと中止と、安楽ケアとの区別を明瞭にするなど。以下から原文へのリンクあり。読んでいませんが、セデーションは、手の施しようがない、耐え難い苦痛がある時にはOKとしているみたい。:耐え難い苦痛がある時にはOKというのは、多くの人が一致するところだと思うけど、その「手の施しようがない」と「耐え難い」の中身とか背景が、あれこれなんだろうとも思うし。
http://www.sciencecodex.com/mayo_clinic_review_of_ethical_decision_making_with_endoflife_care
カナダの終末期医療を改善するには、心理的サポート、スピリチュアル・ケアがもっと必要。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/203460.php
ES細胞研究への公的助成が裁判沙汰になって、職が危うくなっている科学者が沢山。
http://www.nytimes.com/2010/10/06/science/06stem.html?th&emc=th
上記の問題で、NYTはこの前も、判決出るまで助成続行を認めた裁判官に「よくやった」と拍手を送ったけど、「世論誘導しているNYTの記事は事実誤認だらけだ、何も分かっとらん!」と怒っているWesley Smith.
http://www.firstthings.com/blogs/secondhandsmoke/2010/10/06/new-york-times-clueless-about-embryonic-stem-cell-state-of-play/
医療マリファナが解禁されたコロラド、カリフォルニア、モンタナなどで、さっそく新聞に広告バンバン打たれて、ビジネスが隆盛。:モンタナ、カリフォルニアといえば、自殺幇助合法化に熱心な州が並んでるなぁ……。
http://www.nytimes.com/2010/10/05/business/media/05pot.html?th&emc=th
数か月ごとに「夢の新薬」が華々しく登場するけど、実際にその名の通りになる薬は滅多にない。でも創薬は、美味しいビジネス。:この前、本屋でこの問題を取り上げている新書をざっと立ち読みしたら、この分野も、この先は新薬開発もそうそう望めないところまで成熟してしまったので、今後は「頭のよくなる薬」「不老長寿」てな方向(つまりトンデモヒューマンの方向ですね)に向かわざるを得ないだろう、と書いてあった。私たちの健康や夢の未来の話の顔つきしていることの中には、やっぱ単なるビジネスの話が沢山紛れ込んでいるんだろうな……と、改めて。
http://www.nytimes.com/2010/10/05/health/05insulin.html?th&emc=th
見たことのある名前だと思ったら、ノーベル賞をとったのは、あのルイーズちゃんの体外受精を可能にしたドクターだったのね。いかにして体外受精技術がメインストリームとなったか、というNYTのOp-Ed。読んでませんが、冒頭のところに「この受賞で、体外受精技術だって登場した時には倫理にもとる恐ろしい技術だと、散々叩かれたんだぞ」という声が勢いづくんだろうなぁ……と感じる一文があった。
http://www.nytimes.com/2010/10/05/opinion/05Henig.html?th&emc=th
理学療法の守備範囲に、子供の肥満予防が入ってきたみたい。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/203382.php
妊娠中の女性がインフルエンザの予防接種を受けると、生まれてくる子どもがかかる確率が下がる。特に最初の半年。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/203575.php
アンゴラでポリオが流行。WHOが世界への広がりを懸念。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/203330.php
10月15日は「世界手洗いディ」。みんなで病気予防のため、手を洗いましょう。:これ、なんか、いいな。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/203495.php
アフガニスタンで手慰みに民間人を殺した米兵の裁判。
http://www.nytimes.com/2010/10/05/world/asia/05afghan.html?_r=1&th&emc=th
英国議会で子ども手当削減を巡っての攻防。:障害者手当20%カットには、それほどの攻防はなかったような気がしたんだけど、まぁ、その頃の記事を見逃して読んでいないから分からないけど。
http://www.guardian.co.uk/politics/2010/oct/05/child-benefit-cuts-cameron-osborne?CMP=EMCGT_051010&
上記問題でキャメロン首相「マニフェストに書いてなくて、ごめん」。
http://www.guardian.co.uk/politics/2010/oct/05/david-cameron-child-benefit-cut?CMP=EMCGT_061010&
米国の調査で、10代の子どもたちの方が大人よりも、よほど責任感を持ってコンドームを使っているらしい。
http://www.nytimes.com/2010/10/04/health/04sex.html
子どもへの抗精神病薬はリスクが大きいというのに、
米国のいくつかの州では、青少年拘留施設で
単なる気分障害や攻撃的な行動の抑制に使われていることが
YouthTodayの調査で明らかに。
Connecticut, Louisiana, NY, Texas, West Virginia州の青少年収監施設での
処方の7割は、FDAが認可している双極性障害でも統合失調症でもなかった。
(医師の判断による適用外処方そのものが認められていないわけではありません)
YouthTodayの調査に対して、
きちんと監督していることを示すことが出来ない州がほとんどで、
問い合わせに答えなかった34州の内16州は回答を拒否。
In Some States, Incarcerated Kids Get Drugged to Alter Behavior, Despite Risks
The ProPublica Blog, October 5, 2010
上記の内容の後、記事は、いわゆる第二世代の抗精神病薬の副作用と
製薬会社の違法マーケッティング問題に触れ、
その後、
当ブログでも去年取り上げた
民間保険の患者に比べて低所得家庭の子どもたちは
カウンセリングよりも安上がりな薬をあてがわれる確率が4倍も高い
という話で締めくくられているので、
後半部分は、
そこに製薬会社のマーケッティング戦略が
関与しているとでも匂わせているのかも。
が、この記事の大問題は、やっぱり、冒頭部分でしょう。
要するに、管理目的の投薬の可能性が示唆されているということでは?
しかも行政も見て見ぬフリで――?
それとも、
処方のうち7割がFDA認可の適用疾病治療ではなかったというのはともかく、
もともと自分では対処しきれない環境で生きていた子どもたちも多いだろうから、
それをカウントしても処方数が子どもの総数に対して異様に多いとか、
そういうこともあるのかどうか、そういうことまで、分からないと何とも言えない――?
そこのところ、ちょっと保留にしつつも、
かなり気になるニュース。
病院での医療という限定された議論になることへの懸念について書き、
その中で、当日会場からあった、緩和ケアと在宅医療の医師の方の発言に触れました。
その後、エントリーを読んでくださった、その方からご連絡をいただき、
胃ろうやセデーションを巡って、余りにも多くの事実が知られないまま
安楽死が議論されているのではないかと、いろいろ教えていただきました。
大変貴重な情報なので、お願いして、以下に紹介させていただくことにしました。
快く掲載を了解してくださったばかりでなく、
わざわざ書き直してくださったY先生、ありがとうございました。
① 少なくとも自分の目に触れる範囲では、誤嚥で肺炎を繰り返す人などその時点ではやむを得ない理由があることがほとんど。経口摂取できない人に安易に造設されている、という前提に基づいて胃瘻について否定的に語られることがある。その前提には誇張があると思う。
② 認知症の人が最終的に食べられなくなった(嚥下反射が消失する段階)ときの胃瘻造設については議論がある。胃瘻にはリスクを伴うし胃瘻を行わないで皮下輸液という選択肢もある。胃瘻の場合は半年程度の「延命」になると考えられている。それは無意味な延命と言えるのか?「現場」にいる者としては必ずしもそうとは言えないと感じている。
物も言わず「何も分からない」ように見える認知症の最終ステージでも喜怒哀楽のような表出がない訳ではない。もしかしたら勝手な思いこみかと思いつつも介護者(ときに我々)はそれを感じている。その人の生を無意味だなどとは私にはとても言えない。(もちろんこれは、何の表出もない人の生は無意味と言っているのではない。)
③「胃瘻でいつまでも生きる」と取れる発言が複数のシンポジストからあったがそれは誤解である。ALSやパーキンソン病のような特に嚥下が障害される場合は確かに相当長く生きることができる。その場合の議論はALSの人工呼吸器の場合と同じ。おそらく胃瘻のネガティブなイメージはそこではなく認知症の場合だろう。だとすると(残念ながら?)「いつまでも生きる」ということはない。
④耐え難い苦痛に対するセデーションについて、緩和医療学会ガイドライン作成に携わったS氏などが論じていた。しかし、次の点はどうだろう。
病棟(緩和ケア病棟も含めて)では確かに無視できない問題ではあるものの、実は在宅ではそれが必要なことはめったにない。せん妄のコントロールに難渋することもめったにない。在宅医療に携わる者はたいてい知っているが、病院の医師やスタッフには不思議と知られていない。
セデーションについて、特にその尊厳死との異同を論じるのはそれはそれでよい。しかし、そもそもそれはなくすことのできるものかもしれない。その方向での努力が何より必要なのではないか。
⑤ 尊厳死協会の人たちが終末期について言うとき、「6ヶ月」という区切りがよく持ち出される。そもそも終末期が「6ヶ月」というのは、アメリカでホスピスケアの対象になる、という制度的な線引きの側面がある。改めて「6ヶ月」が特権的である理由を問い返したい。
そもそも「予後が6ヶ月」の予測ができるか、という疑問もある。「予後N(年、月)」と言われる場合は通常は中央値であるが、6ヶ月の場合は分散が大きい。2年以上の長期生存者までを含むことはあるが、それを終末期と言えるだろうか。
しかもがんの場合は最後の1ヶ月までは自立して日常生活を送れる人が多い。仕事を続けている人も珍しくない。世間の終末期のイメージとは異なるのではないだろうか。
ほぼ正確に予後予測ができ、世間の終末期のイメージに近いことをもって終末期と言うとすれば、「予後数日」特に「予後48時間以内」。(手足のチアノーゼや「死前喘鳴」と言われる症状が現れる)である。
⑥ 仮に「死ぬのを止められない」すなわち自殺をやむを得ないことと認めざるを得ない場合が仮にあるとしよう。しかしそのことと積極的に安楽死させることとは全然違うことだ。にもかかわらず、混同されて議論されることに危惧を覚える。特に医師は、自らが関与する可能性がある以上そこを区別せずに語ってはならない。
“Ashley療法”論争の始まりから4年になろうとしています。
(Gunther&Diekema論文が発表されたのは06年秋のことでした)
この度、
これまで「ステレオタイプという壁」という書庫に入れてきた記事の中から
特にAshleyとほぼ同じ障害像を持つウチの娘について書いたエントリーを抜き出し、
「A事件・重症障害児を語る方へ」という書庫を新設しました。(上から二番目です)
ウチの娘(このブログではミュウと呼んでいます)が
いったいどういう人として、そこに生きて在るのか、
その姿をなるべくありのままに描き伝えたいと願いつつ書いたエントリーです。
重症重複障害児・者は数も少なく、
また外に出かけることも大変なために
なかなか世間一般の人の目に触れることが少なく、
また触れる機会があったとしても、外見からくるイメージが先行して
ありのままの姿を理解するには相当な時間をかけて直接ケアし付き合うしかないこともあって、
彼らが本当はどういう人たちなのか、
直接体験をお持ちでない方が大半だと思います。
Ashley事件について考えてくださる方に、
Ashleyのような重症重複障害児って、本当はどんな子? という
なるべく生き生きとしたイメージを持っていただけるように、
これからもウチの娘や、これまで私が接してきた重症児・者の
ただ「自己意識」とか「知能」とか「発達」という言葉では捉えきれない姿を
できるかぎり描いて行きたいと思っています。
あらかじめお断りしておきますが、ウチの娘は言葉という表現手段を持ちません。
この書庫でのやり取りは、すべて非常にカラフルな音声のバリエーションと
アバウトな指差し、目つき、顔全体の表情、全身の表現力を通して行われるコミュニケーションです。
筆力・表現力の未熟から
娘のキャラや、その微妙なニュアンスをうまく描き伝えることがなかなか難しいのですが、
重症児の親の両義的・重層的な思いと共に(こちらは「子育て・介護・医療の書庫」に)、
私なりに伝える努力を続けていきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
(なお、宣伝めいて恐縮ですが、ゲストブックに挙げている拙著にも
娘の姿を描いていますので、読んでいただければ幸いです)
――――――
Ashley事件について考えてくださる方、特に学者の方に
これを機にお願いしたいことがあります。
1つは、
少なくとも最低限の基本的な資料を読み、
基本的な事実関係だけは把握したうえで
この事件を語っていただけないでしょうか、ということです。
私が「最低限の基本的な資料」と考えるのは
上記の主治医らの論文(2006)とAshleyの親のブログ。
できればWPASの調査報告書と批判的な論考・論文のいくつかも。
(トップページに、不十分ですが関連リンク一覧を作ってあります)
私が「基本的な事実関係」と考えるのは以下の3点です。
・何が行われたのか
・どういう理由・目的で行われたのか
・どういう障害像の子どもに行われたのか
当ブログにも「事実関係の整理」という書庫があり、
そこに一定の整理はしていますが、
それらはあくまでも07年当初に書いた時点での私の理解です。
細部には、現在の私の考えとは違っているものも含まれています。
ご自身で実際にこの2つの作業をされてみると、
この事件では、たったこれだけの事実関係を把握することが
いかに困難かがよく分かります。
その困難さに、
この事件の本質が隠されていますが、
それはまた別の問題かもしれません。
もしも、さらりと疑問も矛盾も感じずに資料が読め、
簡単に事実関係が把握できたと感じられる方は
もう一度、資料を熟読されることをお勧めします。
2つ目は、
上記の事実関係の内「どういう障害像の子どもに行われたのか」という点について、
「自分はAshleyのような重症心身障害児を(について)知っているか」と
まず自問してみていただけないでしょうか。
Ashleyの障害に対するGunther、Diekema、Ashley父の捉え方は
後に登場するFostと共、極端に偏向したものです。
しかし、重症心身障害児と関わったことはおろか見たことすらない方には
それを相対化して判断するだけの情報がないのだと思います。
また彼らの捉え方が世間の多くの人の重症児ステレオタイプと合致してもいるだけに
彼らの偏向した捉え方を疑うことなく受け入れ、観念としての「重症児」について
「重症児のQOL」「重症児の利益」「重症児の幸福」を云々しつつ
「Ashley療法は是か非か」を議論される方が多いのでしょう。
これは、A事件について批判的に論じられる方でも同じです。
「たとえAshleyに意識がないとしても倫理的ではない」と論じることも可能ですし、
実際にそう言われた方もあります。
私はAshleyに意識がないならやってもいいと論じるつもりはありませんが
Ashley事件の事実認識としては、それはあくまで誤認なのです。
07年の論争時から今に至るまで、国籍を問わず、アシュリーの障害像については
一般人の中にも単なる思い込みやステレオタイプでこの事件を語る人は多いですが、
そういう人と違って、学者の方の場合、発言には影響力があります。
Ashley事件を語ろうとする方、
少なくとも学者として発言しようとされる方は、その前に、
重症重複障害児について自分はどこまで直接的に知っているか、と
それぞれに自問していただけないでしょうか。
もしも「まったく知らない」「良く知らない」という答えであれば、知る努力を、
なるべくなら「情報として知る」のではなく「ご自身の直接体験として知る」努力を、
払っていただけると嬉しいです。
もちろん、それは、時間と労力のかかる、大変なことです。
ウチの娘はAshleyとほぼ同じ障害像の持ち主です。
親である私は、そんな娘の障害に対して、
Ashleyの父親とは全く違う捉え方をしてきました。
(あちら超リッチ。こちらビンボーという意味でも全く違います)
せめて、そんな親の目に映った娘の姿を
「A事件・重症障害児を語る方に」の書庫で読んでいただけると
私にはとても嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
ここから先は、分かる人にだけ分かる余分です。
Peter Singerは障害と障害児・者の現実について、あまりにも無知過ぎると思います。
一般に、自分が知らないことについて人は語ることを控えるものですが
一部の学者さんたちには、自分が知的に他より優越していることをもって
よく知らないことについても自分には語る資格が付与されていると
勝手に思い込んでいる人があるのではないでしょうか。
(また、それが何故か通ってしまう世の中というものも
非常におかしなことですが、実際にあります。)
障害について知るにつれて発言を修正しているのが事実だとすれば
Singerには、自身のこれまでの発言の影響力を自覚して、
自分は修正したのだということを明示する責任があるはずです。
そして、もしも発言を修正するほどに自分の無知・認識不足を自覚するならば
少なくとも障害新生児の安楽死や“Ashley療法”については
当面は口を閉じるのが学者としての良心というものではないでしょうか。
私たち障害当事者や家族の立場にあり、
そうでなくとも弱者に向けた社会の空気の冷え込みに脅かされている者にとっては
私たち自身や愛する者の命や身体への直接的でリアルな危険の問題なのです。
まだ頭がちゃんと整理できていないのですが、
聞きながら考えたことを未整理のまま以下に。
・痛み・苦痛があることは安楽死の必要条件だとすることに同意か、という点について
かなり時間を割いて議論されていたのだけど、
(問題提起そのものの不毛さはパネリストの方々も言っておられたのですが、それはともかく)
ターミナルに至る前段階の医療一般において、
患者の痛み・肉体的精神的苦痛に対する医療職の人たちの感度は、
そんなに高いわけではないように個人的には感じてきたので、
そこのところは置き去りにしたまま終末期の痛みだけが、
あるとかないとか熱心に議論されることに違和感があった。
ターミナルな患者さんの中には、
長い医療との付き合いを経てそこに至る人も多いのだから、
その時点で患者が「死にたい」と口にする言葉の背景には、
その人がそれまでの医療との付き合いの中で重ねてきた
諸々の体験やそれにまつわる多くの思いが積み重ねられている。
特に口で「痛い」と言えない障害児・者の痛みに対しては、
障害への無知・無理解・偏見から十分な対応がされていない可能性は
英国Mencapが医療オンブズマンに訴えた事例からも、
私の個人的な体験や身近な障害児・者の発言からも想像される。
あのシンポの場におられた医師の方々も会場から発言された医師の方々も
意識も倫理観も高くて、そんなことはありえないだろうけれど、必ずしも
現場にはそういう医師ばかりではないので、
様々な体験を重ねながら医療と長く付き合ってくる過程で
どれほどの信頼関係がそこに築かれてきたかということが
終末期にその患者が医療に何をどこまで期待するかということにも
実はとても大きく関わっているんじゃないだろうか。
ターミナル以前の闘病からそのずっと後の「良い死に方」まで
患者にとっての時間は切れ目なく連続している。
患者にとって、どのような死に方をしたいか、という問題は
「病気や障害と付き合いながらどのように生きたいか」の問題と連続して
あくまでも、その先に考えられるもの。
病み、闘病し、やがて不幸な転機をたどらざるをえなくなる過程で、
病むこと、衰えていくこと、能力を失っていくことを巡る患者の肉体的・精神的苦痛を
その人の暮らしや人生の一回性の中で医療(社会かも?)がどう受け止め、どう支えていくのか、ということと、
終末期に「QOLを保って良い死に方を」ということとは、
本当は地続きの話なんじゃないのかぁ……という気がするのだけど
そこのところが断絶して”自発的”積極的安楽死が議論されていく感じ、
そこのところが、そこはかとなくアベコベになっている感じがする。
・病み、病と付き合いながら生きて、やがて死んでいく……という
患者にとっては繋がっている、そのプロセスを医療だけで支えることはできない。
それなら、介護を含めて、もっと広く地域の様々な資源の連携の中で考えると、
安楽死を巡る諸々にも、また全然違う可能性が広がってくる……ということは
案外にあるんじゃないだろうか。
でも、アカデミックな人たちは一般に介護の話には興味が薄いような気がする。
あれは、何故なんだろう。
・例えば何人かのパネリストが「やるべきこと、できることを
ちゃんと手順を踏んですべてやった上で、それでもなお」という言い方をされて、
「安楽死は、あくまでも最後の最後の手段として」という慎重姿勢そのものは
英米のメディアでの苛烈な議論を読んでいる身には全くありがたく温かく聞こえたのだけど、
「やるべきこと、できること」の質と量とが医療の中で一定水準を担保されることと同時に
「やるべきこと、できること」が「病院で医療にできること」だけではなく
「地域の介護と医療が連携して出来ること」にまで広がってもらえると、
患者の「それでもなお死にたい」という言葉にも、その周辺の心理にも
今よりも違ってくる可能性が、まだまだあるのでは?
・これは、会場の、緩和ケアと地域医療をやっておられるドクターの
「最近、反胃ろうキャンペーンが行われているような気がするけど、
実際には胃ろうによってQOLが改善するケースだってあるし、
延命効果があるケースもあり、一律にダメだとはいえない」という発言にも
たぶん通じていくことで、
介護と医療の多職種の連携が十分にある地域を想定して
これまでの生活とその人の人生の一回性の中で支え切り看取る覚悟の中で
「口から食べられなくなったら死」ということと、
病院という場だけを想定してそう言うこととでは、話がまるで違う。
意図が通じず誤解されがちだったけど、この話は、以下の2つなどで書きました。
「老人は口から食べることができなくなったら死」……について(2009/11/4)
「食べられなくなったら死」が迫っていた覚悟(2009/11/5)
なお、この発言は
富山型ディサービス「このゆびと~まれ」の創設者、惣万佳代子さんでした。
Ashleyも含め、まだ食べられるのに胃ろうにされる障害児・者・高齢者を知っているから、
私は、「口から食べられなくなったら死」については、
ぎりぎりまで食べられるためのあらゆる手を尽くし看取りをしてきた惣万さんのような人が
こういう前提と覚悟で言う場合に、という留保つきでのみ
議論の余地はあると考えておくことにしたい。
・それから、これはついでに。
ある倫理学者の方のプレゼン資料で
安楽死・自殺幇助で死んだ人の一覧の中に
Kay Gilderdaleが入っているのが目を引いた。
あれぇ? と思ったので、帰ってきて確認したら、やっぱり思った通りだった。
Kayさんは殺した母親の方だから、まだ生きています。
死んだのは娘のLynn Gilderdaleさんの方です。
まぁ、こんな些細な間違いはどうでもいい話なのだけど、
Gilderdale事件は、本質的には、自殺幇助というよりも
母親による慈悲殺の方に近い事件じゃないかと私は思うし、
メディアや世論だけでなく、裁判官の論理までが慈悲殺擁護だったので、
(というより実際はほとんど介護者の献身賛美による情緒的殺人擁護でしかなかった)
これを自殺幇助に入れてあったのが、ちょっと、ひっかかった。
【Gilderdale事件関連エントリー】
Gilderdale事件:「慈悲殺」を「自殺幇助」希望の代理決定として正当化する論理(2008/4/18)
慢性疲労症候群の娘を看護師の母親がモルヒネで殺したGilderdale事件(2010/1/19)
Gilderdale事件から、自殺幇助議論の落とし穴について(2010/1/22)
Gilderdale事件で母親に執行猶予(2010/1/26)
Gilderdale事件:こんな「無私で献身的な」母親は訴追すべきではなかった、と判事(2010/1/26)
・あと、すごく単純に、頭に浮かんだこととして、
多くの人が「もし自分がそうなったら……」と想像してみるときに、
寝たきりやTSLになったら……と自分が「介護される側」になることを想定し、
自分がそういう家族を「介護する立場」になったら……という想定をしないように思われるのだけど、
それは一体何故なのだろう、ということ。
自分は一人で、家族は一人以上であるとしたら
確率としては後者の方を想定してみてもいいと思うのだけど、
それは自分の人生においては誰もが主役だから
介護者という脇役に回ることよりも介護される主役になる方を想定するのが
心理として自然だということなんだろうか。
私のように既に家族に要介護者がいるという人間と、
まだそういう状況を個人的に経験したことがない人の違いなんだろうか。
それとも男性と女性とで意識に差があるということなんだろうか。
アカデミックな人が介護には興味が薄いと感じることと
どこかつながっているんだろうか。
これは考えてみたら面白いかも……と思った。