当時、批判的なトーンや懐疑的なニュアンスの報道が大半だった中で、
はっきりと擁護の姿勢を打ち出しており、
はっきりと擁護の姿勢を打ち出しており、
以下の部分に見られるように、
“Ashley療法”論争において数多くのブログで繰り広げられた擁護論の
代表的な論調といえるでしょう。
“Ashley療法”論争において数多くのブログで繰り広げられた擁護論の
代表的な論調といえるでしょう。
It is very easy to judge from afar, but the bottom line is that these parents are doing what many others have chosen not to do or cannot do, perhaps because of a lack of federal and state support: They are caring for their severely disabled child, while others in their situation may have (and have) thrown in the towel long ago and turned over her care to someone else, perhaps even institutionalized her. They deserve credit not criticism. These parents have given us no indication that they are self-motivated, that they are driven by their own needs or greed. If they were, they would have washed their hands of the whole matter the moment they realized the hopelessness of Ashley's situation and the emotional and physical toll her care would take on them.
They also deserve credit for publicly revealing their plight--and opening the debate on such a volatile subject so that others might benefit from the discussion.
遠くから批判するのは至極たやすいが、肝心なことは、多くの親であれば恐らくは公的支援の不足のためにやらなかった、またはできなかったことをこの両親はやっているということだ。他の親が同じ状況に置かれたら努力を放棄して子どもを他の誰かに任せてしまったり、もしかしたら施設にすら入れてしまうというのに、彼らは重い障害のある子どもを自分たちで世話しているのである。親が自分たちのことを考えてやったことだとか、自分たちのニーズや欲でやったことだと思わせるものは何もない。親が自分のことを考えるのだったら、Ashleyの状態に改善の望みがないこと、彼女の世話が如何に自分たちに精神的にも肉体的にも大変なことかが分かった段階で、さっさと手を引いたはずだろう。
彼らがその苦しみを公表し、自分たちの決断が他の人のためにもなるように、これほど世論が沸騰するテーマの議論を始めたことについても、ほめられるべきである。
They also deserve credit for publicly revealing their plight--and opening the debate on such a volatile subject so that others might benefit from the discussion.
遠くから批判するのは至極たやすいが、肝心なことは、多くの親であれば恐らくは公的支援の不足のためにやらなかった、またはできなかったことをこの両親はやっているということだ。他の親が同じ状況に置かれたら努力を放棄して子どもを他の誰かに任せてしまったり、もしかしたら施設にすら入れてしまうというのに、彼らは重い障害のある子どもを自分たちで世話しているのである。親が自分たちのことを考えてやったことだとか、自分たちのニーズや欲でやったことだと思わせるものは何もない。親が自分のことを考えるのだったら、Ashleyの状態に改善の望みがないこと、彼女の世話が如何に自分たちに精神的にも肉体的にも大変なことかが分かった段階で、さっさと手を引いたはずだろう。
彼らがその苦しみを公表し、自分たちの決断が他の人のためにもなるように、これほど世論が沸騰するテーマの議論を始めたことについても、ほめられるべきである。
しかし、去年1月の論争からずっと思うのは、
重い障害を持った子どもの介護負担と親の問題は、
例えばここに書かれているような、
「愛情がある親だから、家で家族が面倒をみる」
「愛情がない親だから、他人に任せたり施設に入れる」
といった2分論で語れるような単純なものではないこと。
例えばここに書かれているような、
「愛情がある親だから、家で家族が面倒をみる」
「愛情がない親だから、他人に任せたり施設に入れる」
といった2分論で語れるような単純なものではないこと。
世の中の親という親の多くは、
健常児の親であれ障害児の親であれ
「愛情が無尽蔵にあるから子どものためなら何でもできるスーパーな親」でもなければ、
「愛情などカケラもない極悪非道の親」でもなく、
「愛情はあっても、子のためにしてやれることには限界がある」普通の親なのであり、
健常児の親であれ障害児の親であれ
「愛情が無尽蔵にあるから子どものためなら何でもできるスーパーな親」でもなければ、
「愛情などカケラもない極悪非道の親」でもなく、
「愛情はあっても、子のためにしてやれることには限界がある」普通の親なのであり、
そうした普通の親は
上記の文章にあるように
論理だけでスパッと割り切れる行動や判断ばかりをしているのではなく、
モヤモヤ・ぐるぐると割り切れない感情が渦巻いている中で
揺れ動き、迷いながら、やむを得ず迫られる小さな選択を重ねていく……
というものではないのか、ということ。
上記の文章にあるように
論理だけでスパッと割り切れる行動や判断ばかりをしているのではなく、
モヤモヤ・ぐるぐると割り切れない感情が渦巻いている中で
揺れ動き、迷いながら、やむを得ず迫られる小さな選択を重ねていく……
というものではないのか、ということ。
時には大きな選択を迫られて、
「子のためにしてやりたいと願うこと」と「実際にしてやれること」の差に懊悩しつつも、
現実的には限られた選択肢の中からベストと思ういずれかを選び取っていくしかないし、
「子のためにしてやりたいと願うこと」と「実際にしてやれること」の差に懊悩しつつも、
現実的には限られた選択肢の中からベストと思ういずれかを選び取っていくしかないし、
そして、いずれの選択をしたにせよ、
時には悔いたり、
時には正当化したり、
時に「仕方ないし……」などとつぶやいたりもしつつも、
危機的な状況をやり過ごした後には
日々の生活に取り紛れて暮らしていくのではないか、と。
時には悔いたり、
時には正当化したり、
時に「仕方ないし……」などとつぶやいたりもしつつも、
危機的な状況をやり過ごした後には
日々の生活に取り紛れて暮らしていくのではないか、と。
だって、
そうでしかあることのできない子どもと
そうでしかあることのできない親としての自分と
そう以外には如何ともしがたいと思われる周辺事情の中にしか、
自分たち親子の現実はないのだから。
そうでしかあることのできない子どもと
そうでしかあることのできない親としての自分と
そう以外には如何ともしがたいと思われる周辺事情の中にしか、
自分たち親子の現実はないのだから。
障害のある子どもを巡る親の思いというのは、
現実にはそういうものではないかと思うし、
現実にはそういうものではないかと思うし、
そして、それは
高齢者・病者の介護でも、
きっと子育て一般でも
もしかしたら
「人生に起こる難事をやり過ごしながら生きていく」ということにおいても
同じなのではないでしょうか。
高齢者・病者の介護でも、
きっと子育て一般でも
もしかしたら
「人生に起こる難事をやり過ごしながら生きていく」ということにおいても
同じなのではないでしょうか。
「愛情があったら家庭で介護できる」、
「愛情がないからやらない」と、
薪でもたたき割るような単純な白黒の2分論を
AshleyやKatieのような複雑なケースの議論に持ち込むことは
とても危険なことだと私は思うのです。
「愛情がないからやらない」と、
薪でもたたき割るような単純な白黒の2分論を
AshleyやKatieのような複雑なケースの議論に持ち込むことは
とても危険なことだと私は思うのです。
2008.01.04 / Top↑
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