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このところ、AshleyケースでもKatieケースでも
本質から全くズレた方向へと世の中の空気を誘導しようとする動きばかりが目に付いて
危機感を募らせていたので、
「待っていました!」というところ。

Alebany ロー・スクールのAlicia R.Quelletteという人のAshleyケースに関する論文が
1月1日付けでSocial Science Research Networkに。

アブストラクトは以下。
SSRNに登録すれば、ここから無料で論文のダウンロードも可。


まだアブストラクトしか読んでいませんが、

Ashley事件が提起した問題として
①親の決定から子どもたちを守る法律の役割
②障害のある子どもたちの権利の問題
の2つが挙げられています。

論文の主張としては、

医療における意思決定では
子どもに代わって親が決定する権利が尊重されてきたが、

Ashleyのケースでは、

このケースを検討した倫理委が
医療上の理由ではなく社会的な理由から
障害のある子どもの身体を変えようとする
親の決定権を尊重したことは不適切であった。

起こりうる害の重大さ、
親の利益の衝突の可能性、
さらにAshleyのようなケースにおける虐待の可能性を考えると、
親の決定権に制限を設けることが必要。

障害者団体が求めている成長抑制の一時停止についても検討を加え、
以下のように結論付けているようです。

自ら望んだのではないcommitment(この文脈で何を指すのか?)や
兄弟からの臓器提供、自ら望んだのではない不妊手術の場合に行われている
第3者による検討がこの場合も
障害児が最も守られる意思決定モデルとなるだろう。

親と子どもの権利の衝突に関連する当ブログのエントリーは
「子の権利・親の権利」の書庫に。

         ――――――

Ashley事件には、
「親と子どもの利益や権利の対立」
「介護支援サービスの充実」
「障害のある子どもの医療における意思決定」
「障害児・者の身体の完全性や尊厳」
「障害児の介護における親の役割」
「重症児のQOLとは何か」
「急激に進歩する医学やテクノロジーによって身体に手を加えることはどこまで許されるのか」
「他の障害や高齢者などにも適用されて歯止めがなくなる滑り坂の懸念」
などなど、難しい問題が沢山複雑に絡まっています。

これら多くの問題を
「親の愛情とそれに敵対する障害者団体」という
分かりやすく俗悪な構図に単純化・矮小化し、
それによって世論の誘導を狙っている人たちが
これ以上既成事実を作らないうちに、

法学の分野からも、教育や福祉の分野からも、
もちろん医学や倫理学の分野からも、
もっともっと突っ込んだ議論が出てきて欲しいものです。
2008.01.23 / Top↑
Bethanyさんという大変信仰心の厚そうな女性が
Diekema講演を聴いてブログに率直な感想を書いています。

Ashley
BETHANY’S BLOG  January 19, 2008

その一部を以下に。

……これらの療法は全て
Ashleyへの愛と思いやりからなされたことです。……

このケースについてのDiekema医師の分析と説明は
とても良かったと思います。
また反対する人たちが指摘した点を上げて
それに1つずつ答えていったのも良かった。

先生の講演を聴くと、
この人の言うことに同意しないなんて不可能だっていう気持ちになりました。
先生の言うことにとても説得力があったから(だけ?)ではなく、
このケースで考えられたのはAshleyの最善の利益と健康であって、
結果的に正しいことが行われたように思えるからです。

昨日の講演はすごく楽しかったし、
とてもよかったと思います。

愛と思いやりからしたことならOKなのか、
Diekema医師の主張のどこで「最善の利益」を巡る検討が具体的に説明されているか、

……といった点を考えると、
Bethanyさんのいう「先生の言うことの説得力」とは結局

この人がしゃべると
すっごく楽しいし、
聞いていると、いつの間にか、
うん、うん、そ~よね~って思っちゃう
ということですよね。

どうもDiekema医師は聴く人、特に女性を
こんなふうに魅了する話術の天分をお持ちのようなのです。

前にシアトル子ども病院生命倫理カンファレンスでのDiekema講演を聴いた際に、
やはりこの点で「おや?」と感じたことがあったものの
この感想はちょっとゲスかも……と書かなかったのですが、

まず、他のカンファでの講演に比べてDiekema講演では
聴衆の中に女性が占める割合が圧倒的に高かった。

次に、Diekema医師のあまり趣味の良くないジョークにでも、
それら聴衆の女性がとてもよく反応するのにも驚きました。

講演中にカメラが会場の反応を頻繁に拾っていたように思うのは、
どういう意図だったのか分かりませんが、
生命倫理カンファの会場にいた女性(多くは医療関係者)たちの多くが
上記のBethanyさんのように、
心からDiekema医師の講演を楽しんでいるように見えました。

Ashley事件の資料を当初からずっと追いかけていると、
この人には、どこか
“ペテン師の天分”とでもいうようなものを感じることがあります。

もしもDiekema医師という生来のウソつきがシアトル子ども病院にいなかったら、
この事件はまったく別の展開をたどっていたのではないでしょうか。



Diekema医師がAshley事件でついた数々のウソについては
Diekema医師のウソ一覧のエントリーで整理しています。


      ―――          ―――


ちなみにDiekema医師の詭弁とマヤカシの才がよく感じられるのは
 去年1月4日のBBCでのインタビュー

彼がスムーストークのまま
いかに巧妙に問題や論点を摩り替えて
インタビューアーのそれなりに鋭い質問をはぐらかしていくか、
大変興味深いインタビューです。

今でも上記リンクから聞けますので、
興味のある方は是非1度聴いてみてください。


もう1つ、
生命倫理カンファで会場からプログラムの盲点を突かれた際の間髪入れぬ対応。
とっさに人を食ったようなウソを思いつき反射的に相手に投げ返す……
そんな見事なワザを彼はここで見せました。
よほどの天賦の才がなければ、できることではありません。

このエピソードは以下のエントリーの最後部分で紹介しています。



こんな天賦の才を持つDiekema医師とAshley父とが
本気で“Ashley療法”をさらに広めるためにタグを組んでいるのだとしたら
それは非常にコワイことになるのでは……?
2008.01.23 / Top↑
シアトル子ども病院生命倫理カンファの2日目
7月14日午前のパネルの冒頭、
John J. Parisが「白黒つけにくい灰色のケース」として紹介したのは
以下のような事例でした。

生まれた子どもに四肢が欠けていた。
医師が神経異常を疑ってMRI検査を行ったところ、
脳神経系の異常はなかった。
母親は
「自分が生きている間は面倒を見てやれる。
 けど自分が死んだ後、
 この子はどうなるんですか?
 この子には自分の身の回りのこともできないというのに」
と言って、治療停止を求めた。

Parisの口調は、
「医師としてはMRIで異常がなければ満足かもしれないが」
でも母親の言葉に、キミたち、抵抗できるか?」
といったニュアンス。

母親の言葉を再現する時のParisは
ちょっとスピードを落として丁寧に語る演出までしていました。

        ――――――

実はParisが聞かせた母親の最後の言葉は “Stop”でした。

文脈から治療停止を求めているのは明らかですが、
中止を求められた「治療」の内容は明らかにされていません。
明らかにされていないのに、
ここでのStopは「治療を停止して、この子を死なせる」意味だと
会場ではなんとなく暗黙のうちに了解されていました。

そこのところが飛躍している。
それが、この事例の奇妙なところだと私は思うのです。

どうして脳神経系の異常がない四肢欠損だけで
「停止したら死なせることになるような治療」の対象になるのでしょうか。

どうもAshley療法論争にしても、この事例にしても、
具体的な障害像抜きに、
言葉のイメージだけで
「障害の深刻さ」がでっち上げられていくという気がしてなりません。


「四肢欠損」と「安楽死」とが
こんなに簡単に繋がれてしまったことにびっくりして、
その拍子に、ふっと頭に浮かんだのですが、
Parisの事例の障害像は、あの“乙武クン”なのですね。

米国の生命倫理・医療倫理は
乙武クンの安楽死を議論し始めている……?

しかも親(特に母親)の愛情を、
安楽死容認や正当化のアリバイに使って?



              ―――

いつも思うのですが、
なぜ生命倫理・医療倫理の議論には
福祉の視点が欠落しているのか──。

福祉サービスの存在を前提に加えれば、
「親が死んだ後で誰が面倒を見るのか」という問いは
決して安楽死を正当化しないし、

それ以前に
「障害児が生まれたら親しか面倒を見られない」という前提もなくなります。

また
「重い障害があると親や家族にしか愛してもらえない」
「親や家族に愛してもらえれば、それで幸せ」
「この子に必要なのは小さな世界(Diekema医師の言葉)」
といった“Ashley療法”論争にも見られる暗黙の前提も、
親以外の人と関わることを通じて変わってくるはずです。

子どもにとっても
親や家族以外の人との関係を獲得することによって
より豊かな生活を送ることができるでしょう。

乙武クンは大学に進学し、仕事をし、結婚し、
そして父親になったとも。
確かに彼はレアなケース、
いわば障害者の中の超エリートという面はあるかもしれませんが

しかし彼を念頭に考えてみれば、
具体的な障害像を置き去りに、
ただ「極度に重い障害」というイメージ先行で
「四肢欠損」が安楽死議論の文脈で云々されることの危うさが
懸念されないでしょうか。



Paris牧師の13日の講演についてのエントリーはこちら
2008.01.23 / Top↑