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2007年1月4日のSciamのAshley記事にあった、
「自分勝手な親なら
子どもの障害の重さが分かった時に、
将来の介護負担を考えて手を引く」
という指摘について

これもまた、
端から論理だけでものごとを輪切りにするような発想であり、
現実はそんな単純なものではないだろう、という話を。

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子どもが生まれて間もなくに障害を知らされた親には
「大変なことになった」という思いや
「自分に育てられるだろうか」
「この子は一体どうなるのだろう」といった様々な不安が去来し、
一時的なパニックから逃げ出したい思いに駆られることや
しばらくの間、拒絶反応が起こることもあるかもしれませんが、

だからといって、
その中で将来の自分たちの介護負担を想像し、
そのために「育てるのをやめよう」と考えることはありえない気がします。

1つには、これは感情優位の混乱期であって冷静・論理的な思考はできにくいと思うこと。
次に、この段階で将来の介護負担など恐らくリアルに想像ができないし、
もう1つには、自分たちが生んだ子どもは
多くの人にとって端的に「捨てられない」のが当たり前
……というよりも、そんな選択肢自体が念頭にないのでは?

また、乳幼児のうちは健常児との差もさほど目立たず、
障害ゆえの育てにくさがあったとしても
それは「子育ての難しさ」や「育てにくさ」と意識されて
「介護の負担」とは意識されにくく、

乳幼児期の育てにくさが大きければそれだけ
目の前の現実と必死で格闘せざるを得ず、
将来のことを想像するゆとりはないでしょう。

子どもの障害を知った時に「将来の介護負担」を考えて
さっさと「子どもから手を引く」など、
“超人”でも“極悪非道”でもない普通の親にとっては
ありえないことのように思います。

そういうことが気になってくるのは、
おそらく、もっとずっと後。

なぜなら、
障害のある子どもの親というのは、
当初の衝撃とパニックを乗り越えた後は
子どもの障害を受容して前向きに療育やリハビリに頑張りつつ、
心の奥底のどこかでは無意識に、
「そうは言ってもウチの子だけはなんとかなるのでは」
と思っている部分もあるものではないかと私には感じられるのですが、

逆に、だからこそ、子どものために頑張り続けることができるのでもあり、
また、そうして必死で“頑張る”年月を経ることによって初めて
親にとっても、その後、
「この子の障害が治ることはない」との現実を
真の意味で受け入れていくことがやっと可能になるのではないか
とも思うのです。

(言葉や目の前の目標に向かう前向きさにおいて
子どもの障害を受容することは
早い時期からできるでしょうけれど
「なんとかなるのでは」との無意識の願望を徐々に手放しつつ
「この子は生涯このままで生きていくのだ」という厳しい現実を
本当に切実な実感として受け止め切るには、
何度も何度も少しずつ違った形での受容を繰り返しながら
それなりの年月を要するものではないでしょうか。)

そうして過ごしていく年月の中で、
子どもも障害を持ったなりに肉体的にも精神的にも成長を遂げる反面、
(そこには多くの喜びもあるのですが)
重度であればあるだけ障害もさらに重度化していく。
少しずつ大きく重く、さらに扱いにくくなっていく現実が
リアルな実感として少しずつ感じられてくるのはその頃でしょう。

無我夢中で頑張り続けた年月に
親もどこかでじわじわと疲れてきたり、
体や心を痛めたり
自分の老いの始まりを自覚したり、
他の家族を巡って思いがけない事情が起こってきたり、
その他、周りの様々な事情が複雑に絡まりあって少しずつ状況が変化する中で
少しずつ少しずつ、将来のケア負担というものが気になり始める、
やがて切実な問題となっていく……。

そういうものではないでしょうか。

障害のある子どもの親が「介護負担」をどのように捉えるかという問題については、
それぞれの子どもの状態や親子それぞれの個性、
それに親子を取り巻く諸々の環境要因が複雑に絡まりあい、
また諸々の経緯を経た長い長い年月のかさなりの中で
少しずつ移り変わっていくものであって、

「愛情があったら介護できる」、「愛情がないからできない・やらない」
という単純な白黒の基準でもってスパッとぶった切れる話では決してないし、

AshleyやKatieのようなケースの議論に
そんな単純な基準を持ち込むことは
コトの本質を「親の評価」という別問題に摩り替えてしまう、
とても危険なことだと、
私はやっぱり考えるのです。

 
2008.01.06 / Top↑