Ashleyに行われた医療処置について初めて知ったのは
昨年の1月5日でした。
昨年の1月5日でした。
昼間のうちに正月休みの片付け物をしながら
休みボケの頭に喝を入れるべく流していたCNNで耳にし
Ashleyの写真が映った画面もチラッと見たのですが、
目を上げた時にはニュースは終わりに近く、
もともと“ながら”で理解できるほどの聴き取り能力ではないので
聴き間違いだったのだろう……くらいに流して、あまり意識しませんでした。
休みボケの頭に喝を入れるべく流していたCNNで耳にし
Ashleyの写真が映った画面もチラッと見たのですが、
目を上げた時にはニュースは終わりに近く、
もともと“ながら”で理解できるほどの聴き取り能力ではないので
聴き間違いだったのだろう……くらいに流して、あまり意識しませんでした。
夜になってPCの受信トレイに届いていたニュースレターで
タイトルを見た瞬間に「あ、昼間のあれだ!」と即座に繋がって、
ものすごい衝撃を受けました。
タイトルを見た瞬間に「あ、昼間のあれだ!」と即座に繋がって、
ものすごい衝撃を受けました。
頭にぐるぐる繰り返される疑問は、
何故こんなことが許されてしまったのか──?
これは、許されないはずのことではないのか──?
これは、許されないはずのことではないのか──?
ネットでは既に論争が過熱していましたから、
この疑問を解くために
次から次へと記事やブログを見つけて読んでみましたが、
どうしてもワケが分からない。
この疑問を解くために
次から次へと記事やブログを見つけて読んでみましたが、
どうしてもワケが分からない。
それどころか調べれば調べるだけ
ヘンなこと・分からないことが増えていく。
ヘンなこと・分からないことが増えていく。
初めて知った1月5日から
全身の細胞がザワザワするような強烈な違和感が続いていて
「ヘンだ」と頭をひねるたびにザワザワが強くなるようでした。
全身の細胞がザワザワするような強烈な違和感が続いていて
「ヘンだ」と頭をひねるたびにザワザワが強くなるようでした。
その違和感に煽られるように小さな疑問を次々に追いかけていたら、
手に触れる疑問がどんどん大きなものになっていき、
やがて、この事件には表に出ていない実相があるのではないか……
と本気で考えるようになったのが2月の半ば。
手に触れる疑問がどんどん大きなものになっていき、
やがて、この事件には表に出ていない実相があるのではないか……
と本気で考えるようになったのが2月の半ば。
不思議なことに、
実はこういう事情だったのでは……と
すべての疑問を説明する仮説にたどり着いた瞬間に、
全身のザワザワが急にすとんと消えました。
「何故こんなことが許されてしまったのか」という疑問が
自分なりには解けたからでしょう。
実はこういう事情だったのでは……と
すべての疑問を説明する仮説にたどり着いた瞬間に、
全身のザワザワが急にすとんと消えました。
「何故こんなことが許されてしまったのか」という疑問が
自分なりには解けたからでしょう。
未だにどうしても理解できないでいるのは、
もう1つの疑問。
もう1つの疑問。
これは、許されないはずのことではないのか──?
仮にAshleyに行われてしまったことは
非常に例外的な事情があったために起こったことだったとしても、
非常に例外的な事情があったために起こったことだったとしても、
それが表に出た時に
どうして「許されないはずのこと」が
こんなに簡単に「OKなこと」になってしまったのか?
どうして「許されないはずのこと」が
こんなに簡単に「OKなこと」になってしまったのか?
――――――
Ashleyに行われたことをOKだとする人たちが言っていることをいくら読んでも
「何故これがOKなのか」という点について納得できる議論にはまだ出くわしていません。
「何故これがOKなのか」という点について納得できる議論にはまだ出くわしていません。
愛情からやったことなら、いいのか。
親が決めたことだから、いいのか。
未成年だから、親が決めていいのか。
重症障害児だから、やってもいいのか。
知的障害があるから、いいのか。
全介助だから、いいのか──。
親が決めたことだから、いいのか。
未成年だから、親が決めていいのか。
重症障害児だから、やってもいいのか。
知的障害があるから、いいのか。
全介助だから、いいのか──。
これらは、それぞれ1つずつ単独で考えたら、
充分な正当化にはならないはずです。
充分な正当化にはならないはずです。
それなのに、
こうした条件がいくつも集まったら
なんとなくOKになってしまうことの不思議──。
こうした条件がいくつも集まったら
なんとなくOKになってしまうことの不思議──。
また、
それこそが担当医や擁護に登場した人たちの戦術ではないのか……とも思う。
それこそが担当医や擁護に登場した人たちの戦術ではないのか……とも思う。
少なくとも、
論文の書き方とメディアに登場した際のDiekema医師の話術は、
上記の戦術にのっとったもののように私には思えます。
(戦術というよりも誤魔化すためにはそれ以外やりようがないのかもしれませんが。)
論文の書き方とメディアに登場した際のDiekema医師の話術は、
上記の戦術にのっとったもののように私には思えます。
(戦術というよりも誤魔化すためにはそれ以外やりようがないのかもしれませんが。)
その点に注目して聴いてみたいと思っています。
(タイトルの臭さからしてセンチメンタリズムが既に色濃いですが。)
(タイトルの臭さからしてセンチメンタリズムが既に色濃いですが。)
2008.01.05 / Top↑
Diekema医師の講演が近づいてきたので、
10月に紹介した講演の詳細を以下にもう一度アップして
トップページにおいておきます。
10月に紹介した講演の詳細を以下にもう一度アップして
トップページにおいておきます。
日本時間では19日午前2時半ではないかと思うのですが、
Real Audio でライブで聴けるようです。
Real Audio でライブで聴けるようです。
Gunther医師が自殺した時に、
もしかしたらこの講演は中止になるのでは?
と、ちょっと考えたのですが、
そういうことは起こらなかったようですね。
(詳しくは「Gunther医師の死」の書庫に)
もしかしたらこの講演は中止になるのでは?
と、ちょっと考えたのですが、
そういうことは起こらなかったようですね。
(詳しくは「Gunther医師の死」の書庫に)
なお、この講演を聴かれる方は
Diekema医師が去年のシアトル子ども病院生命倫理カンファレンスで行ったプレゼンについても、
できれば予め聴いていただけると面白いかと思います。
Diekema医師が去年のシアトル子ども病院生命倫理カンファレンスで行ったプレゼンについても、
できれば予め聴いていただけると面白いかと思います。
このプレゼンで同医師は
”Ashley療法”論争において自分自身が繰り返していた
「リスクとベネフィットを秤にかけて、本人の最善の利益と結論した」という最善の利益論を
利益とはもっと広範で複雑なものであり
数式のように差し引き計算できないとして
医療での基準としては否定しているのですから。
”Ashley療法”論争において自分自身が繰り返していた
「リスクとベネフィットを秤にかけて、本人の最善の利益と結論した」という最善の利益論を
利益とはもっと広範で複雑なものであり
数式のように差し引き計算できないとして
医療での基準としては否定しているのですから。
(その他関連エントリーは「子ども病院生命倫理カンファレンス」の書庫に。)
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Calvin大学が毎年1月に恒例で行っている講演月間 Janurary Series で、アシュリー論文の執筆者の一人Diekema医師が講演する模様。
演題は
Love, Justice, & Humility: A Bioethicist Meets the “Pillow Angel”
愛、正義、そして謙虚 : 生命倫理学者“枕の天使”と出会う
愛、正義、そして謙虚 : 生命倫理学者“枕の天使”と出会う
2008年1月18日午後12時半から、講演はRealAudioでライブで聴けるようです。
詳しくは以下に。
詳しくは以下に。
2008.01.05 / Top↑
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