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The Euthanasia Prevention Coalitionの調査で、カナダで安楽死合法化を支持する人は59%。去年の61%よりも減。
http://www.lifenews.com/2010/11/08/bio-3209/

米連邦政府のMarriage Actに、同性愛カップル2組から訴訟。
http://www.nytimes.com/2010/11/09/us/09marriage.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a22

    

決して、そう意図したわけではないのですが、
たまたま、この1ヶ月は“Peter Singer月間”みたいになってしまったので、
関連エントリーをこのあたりで一度まとめておこうと思います。


「なぜ人間は動物と違って特別なのか?」種差別批判からの問い(2010/10/7)
(ここから3つエントリー続きます)

「障害者の権利と動物の権利を一緒にするな」とNDYのStephen Drake(2010/11/1)

「Kaylee事件」と「当事者性」それから「Peter Singer」(2010/11/3)

Singerらの「大型類人猿の権利宣言」って、あんがい種差別的?(2010/11/5)
(「大型類人猿の権利宣言」に関するエントリー、ここから3つ続きます)


ちなみに、私が
シンガーって、実は、ただ「頭のいい5歳児」……? と初めて思ったのは、
こちらの発言を聞いた時。↓

P.シンガーの障害新生児安楽死正当化の大タワケ(2010/8/23)


それ以前のPeter Singer関連エントリー一覧は
上記の8月23日のエントリーの末尾にあります。
2010.11.09 / Top↑
ちょっと前、某SNSの納豆コミュニティにハマっていたことがある

私自身はたいして好きなわけでもなく
ミュウが納豆大好き人間だから覗いてみただけなのだけれども

みんなが納豆に注ぐ情熱が実にまぶしくて、
つい、やってみたくなるのだな、これが。

どうせやるなら……と思わせるだけ、
ここに集う納豆好きはマニアックでもある。

とはいえ、初回はなかなか勇気もいることとて、
ウソだろ、それ……と思わずひるんでしまう食べ方の中から
まぁ、やってみてもいいか……と思える許容範囲を夫婦で相談しつつ絞っていくと
とりあえず「納豆チーズ・トースト」が楽しそうだった。

そこで、納豆もチーズも共に大好きなミュウと一緒に食べてみることに。

時は休日のお昼。

朝から「今日のお昼は納豆チーズ・トーストだよ!」と父も母も騒ぐのだが、
ミュウにはイマイチぴんときていない模様。

まぁ、騒いでいる親の方も確たるイメージには乏しいわけだし。

車椅子で食卓の定位置についたミュウの前に材料をすべて運び、
トースターのワゴンもテーブルの傍にセット。

皿の上に食パンを取り出し、スライスチーズを載せる母の手つきを
大して興味もなさそうに見ていたミュウの目は、

母がパックの中でタレと合わせてかき混ぜた納豆を
おもむろにその上にスプーンで広げ始めるや、

「おや?」と俄かに焦点を結び、
次いで見開かれて「え?」と言った。目が。

え? え? えぇぇー? 

見る見る釘付けになった目は、
それから「なんてこと、するんだ?」と困惑し、
もの問いたげに母の顔を見た。

うっふっふ。まぁ、待ってなさいって。

チーズと納豆をのっけた食パンは母から父の手に渡り、
父の手でオーブントースターに……。

思ったほど臭くないね。
どれくらい焼けばいいかな?
もうちょっとカリカリにならんかな。

はしゃぎ気味に焼け具合を確かめる親たちを
ちょっと距離を置いて冷静に眺めるミュウ。

「はいよ、納豆チーズ・トースト、できたよっ」

皿に移して目の前に差し出すと
ミュウは車椅子で、ろくろっ首になった。

「えー? なんでー? ミュウの好きな納豆なのに」

いいよ、じゃぁ、お父さんとお母さんで食べるから。

親が二つ折りにした、そいつに齧りつくのを
ミュウは薄気味悪そうに、ナナメ目線で……。

父にはイマイチだったが、
母はそれなりにクリーミーで旨いと思った。

母がどんどん食べるうち
ミュウの目つきが、ちょっとずつ変わる。

「――食べる?」

バツ悪そうに小さな声で「ハ」
「やっぱり、あたしもちょっと食べてみたい……」てか。

小さくちぎったのを口に入れてやると、
遠くを見るような目つきで慎重に味わい、
「あら、割と……」という顔。

「もっと食べる?」
「ハ」

でも、結局5口だった。
彼女はその後、納豆抜きのチーズ・トーストを所望した。

「納豆はやっぱり普通にゴハンで食べたい人ォ?」

おそらく同意見だったらしい父が聞くと、
ミュウは、くそまじめな顔で答えた。

「ハ!!」
2010.11.09 / Top↑
「大型類人猿の権利宣言」シリーズの最後③です。
①Singerらの「大型類人猿の権利宣言」って、あんがい種差別的?
②Peter Singerの”ちゃぶ台返し”

(以下、本文です)
8日のエントリーPeter Singerの“ちゃぶ台返し”の最後のところで、
「見てみろ、知的障害があってチンパンジーほどの知能もない人間が、
人間だというだけで保護されているじゃないか、そんなのフェアじゃない」と書いた部分は、
「大型類人猿の権利宣言」の中の、特殊教育の専門家による
「重度の知的障害を持つ人間と大型類人猿」という文章の
以下の一節を、私の耳に聞こえたままに翻訳したものでした。

……もっとも知的なチンパンジーでさえ、直接であれ、自分たち自身の種から選ばれた代表を通してであれ、自由が剥奪されていることに、あるいは苦痛を加えられる医学実験に使われることに、食料として殺されることに、動物園とかサーカスで見世物にされていることに講義することが出来ないのである。他方で、「国連の宣言」にしたがって、重度の精神障害をもつ人間の方はいかなる種類の虐待と凌辱からも守られている。その根拠といえば、ただホモ・サピエンスという種の成員であるというだけである。
P.96



同時に、この文章のタイトル・ページにある短い「序」のような部分では
著者は、以下のようにも、その比較の意図を述べている。

……この比較を倫理の議論の中にもちこむ意図は、平等権を知的障害者へと拡大した卓越した進歩に傷をつけることではもちろんない。むしろ、この進歩の基本になる原理は、いやおうなくそれ以上の一歩を踏み出すようにさせるということにある。
(p.177)



「いやおうなしに」それ以上の一歩、つまり
大型類人猿への平等圏の拡大という一歩を「踏み出すようにさせる」……。

知的障害者が人間だというだけで保護されているじゃないか、
そんなのフェアじゃないじゃないか、といって障害者を引き合いにでも出さない限り
大型類人猿に平等な権利を拡大する「それ以上の一歩」を
踏み出すように「させる」ことができないから、
「いやおうなしに」それを「させる」ために、
本来は無関係な知的障害者を巻き込んで比較の対象とする、と――。

あたしたちは確かに私語をしていたから、それだけでは、どうせセンセイは
あたしたちの自尊心を傷つけた自分の行為の不当を認めないから
「否応なしに」それを認めるように「させる」ために
でもAさんだってしゃべっていたじゃないか、
Bさんなんか、こっそり漫画を読んでいたんだぞ、と
無関係な他人を引き合いに出して巻き込みます。
こういう人たちをセンセイは怒らずに放置しましたよね。
それなのに私たちだけが怒られたのだから、そんなのフェアじゃない。
それはセンセイの行為が不当だったということの証拠であり、つまり、
私たちを怒ったセンセイの行為は道徳的な誤りだったという証拠ですよね。
違いますか? 違うというなら、私たちの言うことを論破してみせてください。
論破できなかったら、あたしたちの言うことが正しいって証明されたんですからねっ。
学長室に訴えていきますよ、あたしたちっ。

行けよ、勝手に……。


ところで、
「ドルトムント大学の特殊教育の教授で、知的障害者のための教育法を教えている」とされる
この文章の著者のクリストフ・アンシュテッツ氏は、なんとも不可解な用語の使い方を見せます。
タイトルでもタイトル・ページの梗概でも「知的障害」が使われているのだけれど、
なぜか本文は「重度の精神障害者」で、ほぼ統一されているのです。

全体の論旨としては、
「重度の精神障害者の特殊教育の分野」では、
そういう子どもたちには教育を施しても何ら成果がないことが通説となっていて、一方、
これまでの研究から大型類人猿の方がよほど高い言語習得能力を持っていることが明らか。
「重度の精神障害」を持つ子どもは人間らしいところがほとんどないのに対して
大型類人猿の方が言語、情緒、精神能力のすべてにおいて、より人間らしい。……といったもの。

もちろん結論は、例の「だから、平等な者の共同体を拡大して大型類人猿を含めよう」。

それを特殊教育の専門家の立場で説くわけだから、
上記のような見解がただの偏見ではなく事実であると、専門家が実証する文章として、
このアンソロジーの中では位置づけられているわけですね。

しかし、「知的障害」と「精神障害」の区別もつけられない特殊教育の専門家って
いったい、それは、どういう専門家よ――?

呆れかえった瞬間に、
07年にNaamの障害観(2007/11/19)というエントリーで引用した、
以下のトランスヒューマニストの、おバカな言葉を思い出した。


……「頭のよくなる薬」「頭のよくなる遺伝子」だけでも、現在、精神障害と闘っている何千万という人々が救われることになるのだ。

「超人類へ! バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会」(p.67)


Ashley事件に登場したTH二ストの親分、James Hughesも
その著書 “Citizen Cyborg”で提案しているサイボーグ社会の市民権の階層の中で
第2番目の「障害市民権:生命と、完全な自己決定を行うための補助の権利」の対象として
「人間の子ども」と「大型類人猿」と一緒に挙げているのは「認知症と精神障害のある人間の大人」。

知的障害者は、Hughesのリストのどこにもないので、
おそらく、この「精神障害」も、アンシュテッツ先生と同じく
Hughes本人は「知的障害」の意味で使っているつもりなのではないでしょうか。

また、大型類人猿と同じカテゴリーに「人間の子ども」が含められていることも興味深い点です。

上記リンクの07年のNaamのエントリーでも書いていますが、
要するに、「頭がいい」ことに至上価値を置く彼らにとって、
知的障害と精神障害の違いなんか、あってもなくても同じことで、
ただ単純に「頭がいい」の「対極」としてイメージされているだけ。
つまり、単に「頭が悪い」ことに過ぎないのでしょう。

知的障害者も精神障害者も、ただ「頭が悪い人たち」。
彼らにとっては、それ以上の区別は無用なのです。
大事なのは「頭が悪い」ことであって「どのように悪いか」ではないからね。

「子どもである」ということも、また彼らにとっては、
「まだ大人並の知能を身につけていない」状態。
それは、やっぱり「頭が悪い」状態なわけね。

チンパンジーに人間の言語を教えると、
個体によっては(また研究者の熱心さによっては)
「幼児並みに」使いこなすことがしきりに強調されていることから考えると、
人間の子どもと大型類人猿は「頭の悪さ」の程度が同等なのだから、
独特的な地位のレベルも同等でいいということになる。

しかし、まぁ、なんとも呆れるほどに単細胞的な人間観――。

口にすると大向こうの反発を買うことが分かっているから公言しないのだろうけど、
彼らの意識は、既にIQによってシンプルに人間を階層化していると思うな、私は。

             ―――――

ちなみに、この前、京都の閻魔堂で立岩真也氏が
江口聡氏の「なぜ人間は特別なのか」という問いに対して
「人間は人間から生まれるから」と答えていたことの意味が
私にはイマイチよく分からないまま、あの会話から触発されて
こちらの3つのエントリー・シリーズを書いたのだけれど、

アンシュテッツ先生の文章の中に、
シュトルクという人の同じような言葉が出てきていた。
シュトルクの提案とは


人間らしさについての問いに答えようとする場合、われわれは人間の間の差異から出発すべきではなくて、その能力と特質にかかわりなく、人間に共通のものは何かということから出発すべきである。
(p.195)



でも、「その共通のものが『重度の精神障害者』にはない」と
アンシュテッツもシンガーも言っているわけで……と、つい直感的に考えたところに、
さらなるシュトルクの言葉。

人間とは、人間から生まれたすべてのものである。
(P.195)



なるほど~。こういう文脈だったのかぁ……。
やっぱり勉強はしてみるものですねぇ。この本のさわりの部分を読んで
ここ2つばかりのエントリーで、あれこれ考えてみたおかげで、
立岩先生の「人間から生まれるから」が、ちょっとだけ分かった気がする。

「人間は人間から生まれるから、人間にとって特別」というのは、要するに、
「人間とは人間という同じ種に属しているものたちのことである」ということですね。

大型類人猿に人間という別の種の言語を無理やり教えこむという虐待を行って、
彼らにおける「人間で問題になる知能」を計測し、
彼らが「人間で問題になる意味で知的に」「人間に近い」から
彼らに「人間との平等」を認めようと主張するのは
優越者としての人間という種を基準にするところからして、彼らの種を否定し、
そもそも種差別ではないのか、ということをこちらのエントリーで考えてみましたが、

「人間から生まれるから」というのは、要するに、そういうことなのでは?

種差別をしない、ということは、
チンパンジーにとっては人間なんか特別でも何でもない、
チンパンジーにとってはチンパンジーが特別なのだとわきまえておくこと。
それが、つまり「人間は人間から生まれる」ということですよね……

――あれぇ? ……それって、結局、
”ちゃぶ台返し”の自己中心的な幼児性に繋がらないかなぁ……?

自分は頭がいいのだという自負が
議論において、自分の主張の正しさを相対化してとらえる視点を失わせていたように、

人間は知能が高いのだという自負があるために、
大型類人猿に対しても、人間は特別な種なのだという意識を相対化できない。
だから、彼らにとっては人間なんか特別でもなんでもなくて彼らの種が特別なのに
エラソーに「特別な人間の共同体を開放して、含めてやろう」と。

一番、人間を特別だと無意識に深く思いこんでいて、
一番、種差別意識が強いのは、実は、この人たちなのでは――?

種差別だけじゃなくて、自分ほど頭が良くないすべての生き物に対して、
この人たちには、ものすごい差別意識があるんだろうな……と思うよ、私は
2010.11.09 / Top↑
ローマの映画祭で、Dignitasを取り上げたブラック・コメディ“Kill Me Please” がグランプリを受賞。
http://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-11706395

米議会で優勢となった共和党が、歳出削減に向け大幅な予算カットに言及。:英国の連立政権と同じ方向性ですね。日本でも、今の民主党たたきが加速して、なだれ現象が起きたらば、なだれて行く先は国民挙げてファナティックな右傾化なのでは? 右に左に振れるたびに振れ幅が大きくなってゆき……いつか、どどどっ……と? 
http://www.nytimes.com/2010/11/08/us/politics/08govs.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=tha1

バイオテク企業が急増したために、ガンなどの治療法研究に10億ドルの助成金が出ても、各社の取り分は少なくなったのだとか。あ、米の話。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/11/08/AR2010110800226.html?wpisrc=nl_cuzhead

健康のために脂肪を控えましょうと訴えている米国政府が、ドミノ・ピザの不振に「みんな、もっとピザを」と説く矛盾。:あー、これは日本でも、同じ例がいっぱいあるぞぉ。
http://www.nytimes.com/2010/11/07/us/07fat.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=tha1

出兵中の兵士の子どもたちがメンタル・ヘルスで医師の診察を受ける確率は他の子どもよりも1割高い。
http://www.nytimes.com/2010/11/08/us/08child.html?nl=todaysheadlines&emc=tha22

生活圏でのクマとの遭遇は米国でも。:ロシアでは墓を荒らしていたっけな。
http://www.guardian.co.uk/environment/2010/nov/07/grizzly-bear-lifestyle-human-contact?CMP=EMCGT_081110&
2010.11.08 / Top↑
昨日、以下の3つのエントリーを書いた後で、

成長抑制WGの論文がHastings Center Reportに
Eva Kittayの成長抑制論文
Norman FostもAlice Dregerも成長抑制に関する論文

この4年近くに、Diekemaらがやってきたことの様々に思いを巡らせていたら、
ふいに、天啓のように頭に浮かんだ考えがある。

彼らは、もしかしたら、待っている……?


WPASと子ども病院の合意事項の年限は5年間だった。

これまでの当ブログでの検証から推測すると、
合意事項の内容は、恐らくは実行されてなどいない。

しかし、一応は、あれだけ権威ある子ども病院が
公に記者会見まで開いて発表した合意事項ではある。

これまで、
WGを組織してみたかと思えば、自分たちが勝手に論文を書いてみたり、
その時々で言っていることが違っていたり、と、
Diekemaらの言動は辻褄が合わなかったり、
ほとんど支離滅裂に見えるほど行き当たりばったりと思えた。

でも、あれは、内容ではなく、
シンポが開かれた、論文が書かれた、という事実が大事だったのかもしれない。

ただ世間から忘れられない程度に何事かが起こっていれば、
そして、それが正当化のポーズとなるものでありさえすれば、
それでよかったということなのかも……?

07年の、あの激しい論争と、
それに続くWPASの調査での追及を
なんとか無事にかわしきって真実を隠し抜いた彼らにとって、

あとは、合意年限が切れる5年後に向けて、
中身はともかく、正当化の手順を踏んだというアリバイ作りを重ね、
解禁後に向けた準備を着々と進めるだけでよかった……?

中身などどうでもよくて、
論文をこれだけ書きました。
シンポもやりました。
WGの検討もやりました。
……そういう既成事実を作っておくことだけが重要だった?

5年後に「我々は十分に正当化しました」と言うために――?

Diekemaらがそういう作業をせっせとやっている一方で、
父親の方は、世間に忘れ去られないように、ネット上で
「この問題を議論しよう。家族のブログを読もう」と
怪現象を起こし続けてきたのは
なるほど、そういうことだったのか……。

じゃあ、あと1年――?

あと1年したら、シアトルこども病院は
おそらく重症障害児に対する成長抑制療法を解禁する――?
2010.11.08 / Top↑
Ashley事件に動きがあったので
間に別エントリーが挟まってしまいましたが、

Singerらの「大型類人猿の権利宣言」、あんがい種差別的?のエントリー(5日)の最後で書いた
「オレ様たちの言うことは正しいのだから、正しくないというなら論破してみろ。
論破できないならオレ様たちの正しさが証明されたのだから
負けを認めて、オレ様たちの言うことをきけぇ」という部分は、

以下の原文部分を、私の耳に聞こえるヴァージョンに翻訳したものでした。

・・・・・・これらの扱い(実験室などでの大型類人猿への扱い)を弁護したいと考える人たちは、「大型類人猿を平等なものの共同体の中に入れる」という本書の主張を論破するに当たって、今や自分のほうが論拠を示すという検証責任を負わなければならない。われわれの議論が論破できないとすれば、人間以外の大型類人猿に対する今の扱い方は恣意的で正当化できない形の差別であることが証明されたことになる。この差別に対しては、もはやいかなる弁解も通用しないだろう。
「大型類人猿の権利宣言」P.ⅺ



この箇所を読んだときに、真っ先に感じたのは、過剰な攻撃性。
なんで、こんなふうに全肯定か全否定かという極論にいきなり飛躍するかなぁ……と。

ここでの著者らのものの言い方は
「自分たちが全面的に正しく、相手が全面的に正しくない」か
「相手が全面的に正しく、自分たちが全面的に正しくない」かの、
どちらかしか認めない立場に立っている。

その、白か黒か、ゼロか100か、に飛躍する形で表現される過剰な攻撃性と、
反論や批判を受ける前から、それを予測して先に攻撃的になってしまう過剰に防衛的な姿勢――。

その過剰な防衛と攻撃性とには、同時に、強い既視感もあった。

“Ashley療法”論争の際、故Gunther医師が、
07年1月にTimes紙の取材に答えて、これと全く同じセリフを吐いている。

If you’re going to be against this, you have to argue why the benefits are not worth pursuing.

もしもこれに反対だという人がいるなら、その人は、なぜ、この療法の利益を追求してはならないかをきちんと論じて見せなければならない。



私は07年当初にこれを読んだ瞬間、どえぇぇっ……と、のけぞった。

笑わせちゃいけない。
前例のない医療介入を、怪しげな倫理委の検討でやっちまったのは、アンタだよ。
Ashleyへの子宮と乳房摘出とホルモン大量投与による成長抑制について
説得力のある議論を提示する説明責任を負っているのはアンタの方でしょーが。

批判されているのは、
アンタがそれだけの議論を出せていないからだ。
それを、盗人猛々しいことに、批判する側に証明責任を転化するのかよ……と
はなはだしく呆れつつ、

この人、もしかして、追い詰められていっぱいいっぱいになっている……?
だから、こんなに防衛的になっているのか……? とも思った。

だいたい、人が必要以上に攻撃的になるのは、
その人が過剰に防衛的になっている時だと相場が決まっている。

そうしたら、Guntherはこの直後からメディアに登場しなくなり、
5月に行われたWA大学のシンポにも、
本来なら一番出てきて説明すべき人物なのに顔を出さなかった。
そして9月末になって自宅の車の中で自殺した。

その後、DiekemaとFostも、去年書いたAshley論文で
上記のGunther発言と同じ論法を用いて証明責任を転嫁している。

そういうところでお馴染みだったからかもしれない。
「大型類人猿の権利宣言」で上記の一節を読んだ時、
その過剰な攻撃性(否定されることへの過剰な防衛)、短絡性、自己中心性などに
GuntherやDiekemaに通じるものを強く感じて、ふっと思った。

これは「ちゃぶ台返し」なのでは……? 


家族の間で意見や利害の相違があった場合に、
家族と一緒に父親も自分の側の言い分を並べて話し合い、
冷静に説得を試みて問題解決を図ればよいのだけれど、

言葉できちんと話し合い、家族を説得するだけの力量が不足しているものだから
形勢が不利になってくると、どこかの時点から感情的になり、
追い詰められ、もはや他に劣勢を挽回する方法がないと悟るや、
「オマエら、わしの言うことが聞けんというのかぁ!」と、ちゃぶ台をひっくり返す。

あるいは家庭における自分の優越性を自分だけは信じこんでいるために
家族からの異議申し立てに、その優越性を脅かされる気がして、
それが単純に我慢ならない、または耐えられないのかもしれない。

ちゃぶ台をひっくり返す瞬間、父親は、その行動の攻撃性と短絡性によって
一気に優位に立とうとする幼児性を全開にすると同時に、
家族と自分の間で意見が食い違っている具体的な問題を
「わしの言うことが聞けるか聞けないか」という
全く別の問題にすり替えてしまう。

しかし、自尊感情が安定している成熟した大人なら、
意見の相違は相違として、冷静に議論し、話しあうことができる。
自分は優越者であるとの意識があればなおのこと、
自分よりも弱い立場の者の言うことを聞き、
その気持ちを慮った対応を考えようとするものだ。
意見の相違を超えて解決すべき問題を自分の問題にすり替える必要もないし、
そんな必要がなければ、激昂して自分の感情に相手を巻き込むこともない。

「自分たちの言うことに反対するなら、検証責任はそっちにある。
論破できるものならしてみろ」と、Singerらが必要以上の攻撃性で挑み、
「論破できないなら、我々の正しさが証明されたのだ」と、
わざわざ結論を先取りして言い置かなければ気が済まない時、

彼らもまた、対等な立場での丁寧な議論を拒否し、
自分たちの正しさは既定の事実とのスタンスにあらかじめ逃げこんでおいて、
大型類人猿への扱いを考え直すべきかどうかという問題を
自分たちの主張は正しいかどうか、という問題へと摩り替え、
それを問題にせよと相手にも強要しているのでは?

もともと、議論に参加する人が、それぞれに論拠を示しつつ、
誠実な論理展開でものを言わなければならないのは
いずれの立場をとる人にとっても、最初から当たり前のことだろう。

検証責任という言葉をどうしても使わなければ気が済まないなら、
自分の主張を十分な論拠を示しながら説明し、相手の主張もまた丁寧に論理的に批判していく……という
検証責任は、お互いが等しく背負っている。

(ただ、Singerらが偏重するような合理一辺倒の論理のパズルで
知的能力のパワーゲームを繰り広げることだけが論拠を示した議論だというわけではなく、
人間は必ずしも100%合理的な存在ではないのだから、そこには、もっと
「合理」だけでは計れない「洞察」というものがあるべきだと、私は思うけれど)

議論に参加するものは、互いに自分は正しいと考えているのであり、
(Ashley事件の議論には、自分が正しくないことを知っている人間がいるけどね)
「Singerらのいうことは正しいかどうか」の議論に
一方的に引きずり込まれなければならない、いわれは、誰にもない。

この前、Stephen Drakeが
障害者の権利擁護は動物の権利擁護と不可分だから手を結べという主張に対して
「自分たちにとって筋が通っているように思えるからといって、
誰にとっても筋が通っていると考えてはいけない」と指摘していたけれど、
それと全く同じ、自分の考えの「正しさ」を相対化して捉えることのできない
自己中心的な幼児性がここで露呈しているのでは?


ついでにいえば、
大型類人猿を解放してやろうという主張に
わざわざ知的障害者を巻き込まなければならない必然性がどこにあるのか
私にはちっともわからないのだけど、そこのところで私の頭に浮かぶのは、

ざっと30年、英語のセンセイをやってきて、
昔の学生さんなら考えられない最近の学生さん特有のヘリクツの一つ。

例えば、私語を注意された瞬間に、
注意したこちらの言葉や状況には不釣り合いなほどに逆上し、
ダレソレだってしゃべっていたぞと挙げつらい、
自分たちだけが怒られるのはフェアじゃない、と言い募っては
まるで命でもかかっているかのような切迫した激しさで、教師を糾弾しにかかる。

自分たちが怒られたことが不当だと主張したいなら、
自分たちについて説明すればいいようなものなのだけれど、
なぜか、ここ数年、大学生がいやに幼児化してきたなと感じるにつれて
自分たち怒られたことの不当を主張するために、他人を引き合いに出して
他人が叱責を免れていることを勝手に基準に設定し、そこから反転して
自分の主張を正当化しようとするヘリクツが急増した気がする。

動物が人間から受けている扱いが余りにも残虐だから
考え直さなければならない、まずは大型類人猿から解放してやろう、と主張したいなら、
動物虐待の実態とその不当さ、大型類人猿の解放について、きちんと論じればよいものを、

見てみろ、知的障害があってチンパンジーほどの知能もない人間が
人間だというだけで保護されているじゃないか、そんなのフェアじゃない、と
本来の主張とはまったく無関係な人たちを指差して見せるのは

私には、あの、
5歳児みたいな直線的な口調でジコチューのヘリクツを言いたてる大学生のように見える。
2010.11.08 / Top↑
成長抑制WGの論文と、Eva Kittayの論文と同時に、
Hastings Center Report の11-12月号に掲載されている関連論文としては、

①Norman FostのOffence to Third Parties?”

これはアブストラクトを読んでも、ワケが分からない……。
これまで通りに、詭弁を弄して牽強付会の正当化を狙ったものに決まってはいますが。

②それから、重症児の親の立場から、賛否それぞれ1本ずつ。

Against Fixing a Child – A Parent’s View
Sue Swenson

In Support of the Ashley Treatment - A Parent’s View
Sandy Walker


③論文ではなくコラムにも、非常に興味深い人が登場していて

Attenuated Thoughts
Alice Dreger

アブストラクトは

I was invited to join the Seattle Growth Attenuation and Ethics Working Group―collective author of the lead article in this issue of the Report―but I begged off, claiming I had too many other things on my plate. True, but the bigger reason for avoiding the project was my suspicion that I would be torn asunder by the complexity of growth attenuation for persons with disabilities. Reading the essays from the group reveals that instinct to have been dead-on.



WGに誘われたけれども、断った。
その理由は、他のことで手いっぱいだというのもあったけど、本当のところは
障害者への成長抑制という問題の複雑さに自分は引き裂かれてしまうだろうと思ったから。
WGのエッセイを読んでみると、思った通りだった、と。

Dreger氏は07年5月のワシントン大学の成長抑制シンポで
批判サイドで最も目覚ましい追及を見せた人。

その後、すっかり論争から姿を消して、
私は正直、逃げてしまったのだとばかり思っていたので、
ここにきて論争に戻ってきたのは、ちょっと意外。

何を書いているのか、大いに気になるけど、
とりあえず、これ以上は読めない。


【Alice Dregerの特にA事件関連発言に言及しているエントリー】(いずれも最後の部分で言及)
「選別的中絶」というより「選別的子育て」(2007/11/11)
英国の介護者支援に思うこと(2008/7/4)

              ――――

成長抑制ではなく自殺幇助議論の方では、
モンタナの最高裁のBaxter判決について、
John Robinsonという人が以下のエッセイを書いている。

Baxter and the Return of Physician-Assisted Suicide

他にも「良い死に方のアート」というエッセイも。
2010.11.07 / Top↑
ちょうど来日寸前(もしかすると既に来日中?)の
米国の哲学者で重症知的障害のある娘のいるEva Feder Kittay氏は
シアトルこども病院の成長抑制WGのメンバーの1人でした。

そのKittay氏の成長抑制に関する論文がHastings Center Reportに
WGの論文と同時掲載されています。

Discrimination against Children with Cognitive Impairments?
The Hastings Center Report 40, no.6 (2919): 32


アブストラクトは以下。

Those who have not raised a severely cognitively disabled and nonambulatory child into adulthood may feel diffident about expressing opposition to growth attenuation because they have not walked in the parent’s shoes. I have walked in them, or at least in very similar ones. My daughter Sesha is now a woman of forty. She, too, does not toilet herself, speak, turn herself in bed, or manage daily tasks of living, and she has no measurable IQ. Like Ashley, Sesha is so loving and easy to love that her impossible-to-articulate sweetness and emotional openness make it tempting to call her an “angel.” Still, we refrain. To love Sesha as she is, we must accept that, unlike an angel, she has a body that grows and ages.

重症の認知障害があり歩くことのできない子どもを成人するまで育てたことのない人は、親の立場に立ったことがないために、成長抑制に反対することについて違った感じ方をするのかもしれません。私は、その立場で育ててきました。少なくとも、非常に似た状況で子どもを育ててきました。娘のSeshaは現在40 歳の大人の女性です。彼女もまた、排泄が自立していなくて話すことができず、寝返りもできず、日常生活が全介助です。IQも計測不能な範囲です。 Ashleyと同様に、Seshaもたいそう愛らしく、いとおしくて、言葉で言い表せないほどのかわいらしさと、まっすぐに気持ちを表現するところなどは、つい「天使」と呼んでしまいたくなるほどです。しかし、私たちはそうしません。Seshaをありのままに愛するために、彼女が天使とは違って、 Seshaには成長し置いていく身体があることを受け入れなければならないのです。



このアブストラクトからすると、
成長抑制の一般化には反対のスタンスで書かれたものと思われますが、
タイトルに「認知障害児に対する差別?」と疑問符が付いているところが
ちょっと気になります。

10日の講演で成長抑制が話題になるとはあまり思えませんが
論文が発表されたばかりとあって、なにか言ってくれないかなぁ……。
2010.11.07 / Top↑
Ashley事件はまだまだ終わってなどいないと
当ブログではずっと言い続けてきましたが、やはり……。

Hastings Center Reportの11月―12月号に
シアトルこども病院が組織した成長抑制ワーキング・グループの論文が掲載されました。

Navigating Growth Attenuation in Children with Profound Disabilities: Children's Interests, Family Decision-Making, and Community Concerns 

アブストラクトは以下の通りで、
09年1月のシンポでの報告内容を取りまとめたものと思われます。

Our working group sought to engage the underlying ethical and policy considerations of growth attenuation―that is, administration of short-term, high-dose estrogen to close growth plates, thereby permanently limiting height. We hoped to move beyond staking out positions with divisive and polarizing rhetoric about growth attenuation in order to find common ground and better identify and understand the areas of deep disagreement. In this paper, we offer sympathetic accounts of differing views so that those who hold a particular view can better understand others’ concerns. We also reach for a middle ground―a moral compromise based on respect for sustained disagreement rather than on consensus. Most of our group agreed to the compromise that growth attenuation can be morally permissible under specific conditions and after thorough consideration.



とりあえず、このアブストラクトのみから、指摘しておきたい点は以下。

・09年のシンポでも同じだったように
「結論」とはせず「妥協」として、
「成長抑制療法は一定の条件下では道徳的に許容できる」と主張している。

・ただし、その「妥協」については、
「コンセンサスよりも、支持を集めた不同意も尊重したうえでの道徳的な妥協」を選んだと
まったく訳のわからない説明がされている。

・この妥協点に同意したのは Most of our group であって、全員ではない。

・著者は以下のようになっており、

Benjamin S. Wilfond, Paul Steven Miller, Carolyn Korfiatis, Douglas S. Diekema, Denise M. Dudzinski, Sara Goering, and the Seattle Growth Attenuation and Ethics Working Group

同意しなかったメンバーがいるにもかかわらず、
WGの名前が論文著者とされているのはどういうことなのか。

例えばメンバーの一人で障害学の学者 Adrienne Aschは、
AJOBのDiekema&Fost論文へのコメンタリーで
署名したのは議論のプロセスに同意したという意味で
決してその結論の内容に同意したわけではないと述べているが?

・なぜメンバーのうち6名だけが個人名なのか。その他WGに一括されている著者との線引きは?

・また、このWGの議論の進行中に、メンバーでもある
DiekemaとFost他1名が成長抑制は妥当だとする論文を投稿していた事実もあるが?

・要するに、最初から結論ありきで立ち上げられたWGで
思いがけない反論が相次いで支持を集めたために「結論」とすることは不可能となり、
やむなく「妥協」としたものの、実質的には当初の狙い通りに
反論もそれらに対する支持もねじ伏せておいて
「妥協」と銘打っただけで当初の予定通りの結論が
この論文によって提示されている……ということなのでは?



この論文が出てきたことで、ここまでやるかぁ……と、この問題に関する
シアトルこども病院の異様なほどの周到さと執念深さについて
つくづく考えてしまったのだけど、

本当のところ、重症児に対する成長抑制療法というのは、
権威ある子ども病院が何年にも渡って病院を上げてこれほどの大騒ぎをして、
なにがなんでも世の中に広めていかなければならないほど、
医学的に見て、たいそうな医療介入なんだろうか。

正直、シアトルこども病院ほどの権威ある病院がここまで入れ込んで、
姑息なウソをつき、マヤカシやトリックを仕組んでのゴリ押しをしてまで、
なにがなんでも一般化しなければならない必然性というのが、
本当のところ、私には見えてこない。

それを考えると、この周到さ、執念深さ、入れ込みよう、
ゲイツ財団と繋がりがあるらしいAshleyの父親が望んでいるから、という
単にそれだけの理由では説明がつかないような気もしてくる。

もしかして、背後には、もうちょっと根深いものが……?
2010.11.07 / Top↑
またまたA事件の怪現象。例によって全く同じAP記事のコピペ。今回はコメント欄まで、以前にどこかで起こった怪現象時のままのような気がする。
http://blogginge.com/how-will-this-effect-ashleys-gender-development.html

神戸に外国人富裕層の生体肝移植の希望者をドナーと一緒に来させて、移植手術で稼ごうという計画があるらしい。こちらの補遺の一番上の話題と繋がっている。情報源も同じ神戸のドクターのブログ。:私たちの知らないことが、この国ではいっぱい起こっている。
http://blogs.yahoo.co.jp/kitaga0798

英国の高齢者は米国の高齢者よりも健康度は高いけど、死ぬのは早い。:英国の医療は原則無料だけど、その分、「さっさと脱水、死ぬまで鎮静」がルーティンになっているらしいから。それに米国の方は、数少ない金持ちは健康で死ぬのもゆっくりだけど、圧倒的に数の多い貧困層の不健康と早死にとが統計のバランスを崩しているだけなのでは?
http://www.medicalnewstoday.com/articles/206765.php

ビッグファーマが売れ筋薬のアジアでの治験を活発化させている。:成熟しきって、訴訟だらけ、手の内までばれちゃった欧米の市場には、もうあまり旨味もないからね。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/206696.php

お父さんたち、家事をやって子育てする方がハッピーになれますよ~、という研究結果。
http://www.guardian.co.uk/lifeandstyle/2010/nov/04/fathers-happier-more-housework-study?CMP=EMCGT_051110&

佐野洋子さんが亡くなった。:痛快なエッセイが大好きだったのに。本当のことをスパーンと言える骨のある人だった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101105-00000009-oric-ent

コンゴとアンゴラの国境付近で、違法入国者の送還の際に600人もの女性・少女が監禁され、保安要員によって繰り返しレイプされた、と国連。
http://www.nytimes.com/2010/11/06/world/africa/06congo.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=tha21

NYで武器を持っていないだけでなく、路上にうつぶせになっている黒人男性を射殺した白人の警察官に2年間の懲役刑との判決。それを不満とする黒人のデモが暴徒化。:ハリケーンカトリーナの際にも、武器を持っていないどころか何もしていないのに警官によって黒人市民が射殺されたケースが複数あった。
http://www.nytimes.com/2010/11/06/us/06transit.html?nl=todaysheadlines&emc=tha22
2010.11.07 / Top↑
11月1日のエントリーを書いた後で
借りていた本を返しに図書館に行ったら、「大型類人猿の権利宣言」があったので、

これだけブログでボロカスに書いていることだし、
目についた以上は読むのが仁義かと思って借りてきた。

で、最初に編者のパオラ・カヴァリエリとピーター・シンガーが書いている「序」と
それに続く「大型類人猿についての宣言」合わせて8ページ分を読んだ。
(その他の部分は、まだペラペラしてみただけ)

「序」によると、著者らの実践的なレヴェルでの目的とは
「監禁されているチンパンジー、ゴリラ、オランウータンをすべて解放し、
彼らの生理的、知的、社会的必要に一致する環境に帰してやること」となっている。

私はこれには賛同する。

08年にこちらのエントリーでとりあげた
脳とコンピューターのインターフェイスの実験のニュースにあった映像で
サルのあまりにも痛々しい姿が、その後もずっと忘れられない。
(上記エントリーの記事リンクから見れます)

また、07年にシンガー関連で読んだ本の何冊かにも
あまりにも残虐な動物実験の実態は描かれていてショックだった。

こういう実験のことを考えると、
Singerらの目的を達成しようと主張することは、同時に、
科学とテクノロジー研究の進歩が止まるも同然になっても
やむを得ないと主張することでもあろうけれど、

こういう主張をする以上は、この本の著者らだって、
それくらいは覚悟の上で言っていることなのだろうし
私個人的には、今の科学とテクノの簡単解決文化の暴走こそ危うい感じがするから
まぁ、この辺でペースダウンして、その分いろいろ考えるべきことを考えながら、
ゆっくり前に進んだっていいんじゃないかと思っている。

(科学とテクノの進歩がユートピアをもたらすと信じるTH二ストが
どうして同時に大型類人猿の解放を唱えていられるのか、私には謎だけど)

だから、ここのところには、賛成。賛同。拍手。

ところが、それが最終目的だという前提を共有したつもりで、その他の部分を読むと、
著者らのいう「理論的なレヴェルの目的」は、
あまりにも上記の目的と矛盾しているように思えて、
にわかに頭が混乱してくる。

「理論的なレヴェルの目的」とは、何度も繰り返されているのだけど、
「平等なものの共同体」を拡張してチンパンジー、ゴリラ、オランウータンを含めること。

で、その根拠とは、これら大型類人猿は
例えば人間の言語を理解できるなど、知能のレベルが高く人間に非常に近いから。

でも私には、この論理そのものが種差別ではないのか、という気がするんだけど……。


特に「人間の共同体」と書かれているわけではないのだけど、
「われわれの住んでいる世界では」とか「われわれの国の中で」とも書かれているので、
この「平等なものの共同体」とは「現在は人間だけを平等なものとして含むことになっている
我々人間の共同体」のことを意味しているのだろうと推測される。

それを大型類人猿にも「拡張」して、
その人間の共同体に彼らを「含める」ことが提案されているわけです。

でも、「彼らの生理的、知的、社会的必要に一致する環境」とは
彼らが人間とは関わりを持たずに暮らせる環境のことのはずであり、

それならば理念のレヴェルにおいても、
「彼らの生理的、知的、社会的必要に一致する環境」は
「人間の生理的、知的、社会的必要に一致する環境」とは重ならず、
したがって「われわれの共同体」とも重ねるべきではないはずで、

我々の共同体の門戸を開いて彼らをそこに受け入れてやろうと言うのは、
先の目的と矛盾しているだけでなく、それを言う人間の
大型類人猿に対する不遜であり傲慢なのでは?

大型類人猿たちにとって人間は特別な存在でもなんでもなく、
自分たちこそが特別な存在なのであり、
それを尊重することが彼らの尊厳を守ることになるはずなのだから、

大型類人猿にとっては、人間の共同体に含めてもらったり
「人間と平等」にしてもらったり
「人間の道徳的地位」を与えてもらうことは
種としての尊厳を守られることにはならない。

シンガーらの「理論的なレヴェル」の目的には
大型類人猿よりも優位な存在である人間サマが
自分たちよりも劣等・下位な大型類人猿を「人間に近い」存在だと「認定」し、
自分たち優位な者と同等なものとして「承認」してやろうという傲慢が潜んでいるのでは?

でもって、それって「種差別」意識なのでは?


「我々の共同体に、我々と同じように平等な道徳的地位を持った存在として
彼らを受け入れよう」と主張する根拠とされる彼らの「知能」の高さにしても、
そこで基準とされているのは、あくまでも「人間で問題になる意味での知能」だ。

ゴリラの生理的、知的、社会的必要に一致する環境で
「ゴリラにとって問題になる知能」ではない。

人間の知能の基準と計測ツールを用いて
彼らにおける「人間で問題になる知能」をあれやこれやと計測し、
その結果、彼らは「人間で問題になる意味で知的」に「人間に近い」から、
彼らには人間と同じ共同体に入る資格がある、と主張することは、

人間の能力を基準にして彼らの能力を測り評価することの妥当性に
全く疑いを持たない意識のありかたそのものが、
チンパンジー、ゴリラ、オランウータンに対する
人間の傲慢であり、種差別ではないのか?

人間の言語を教えて、
その習得の程度によって彼らの知能の高い・低いを云々するのも、
人間の言語を教えこもうと試みることそのものが、一種の虐待なのでは?

それは、人間の世界で問題になる形での知能を測りたいという
人間の側のニーズによって行われることであって、
人間の言語を獲得して人間とコミュニケーションをとるニーズが
ゴリラやチンパンジーにあるわけではない。

彼らを彼ら本来の生理的、知的、社会的環境に戻してやることが
彼らの尊厳を守ることなのだという考え方に同意するならば
人間の言語を覚えさせたり、人間のようにふるまうことを求めることは
彼らにとっては何の利益にもならないばかりか、
種としての彼らの本来のあり方を捻じ曲げようとする行為に他ならない。

(「志村動物園」でパンくんを人間のように飼育することが動物虐待だという
指摘が出ていたのは、要するにそういうことですよね?)

Peter Singerが本当に種差別を禁じるならば、
彼ら自身にニーズもなければ利益にもならない人間の言語を
彼らに無理強いすることも批判し否定しなければならないはずだ。

もしも、彼らと本当に対等なコミュニケーションをとって
彼らについて何事かを知らなければならないニーズが
こういうことを主張したい Singerらにあるのだとしたら
そのニーズのあるSingerの方が、ゴリラ同士のコミュニケーションの方法から
彼らの言語を学んで、身につけ、彼らの言語でアプローチするべきだろう。


「理念レヴェル」で、あれこれのヘリクツを並べ、なまじな理論武装をして
自分たち以外の人間の種差別をひどく高いところから攻撃・糾弾しているうちに
自分たちの中にある種差別意識までうっかり露呈させてしまうくらいなら、

ヘンに手の込んだ合理一辺倒の傲慢な攻撃姿勢を棄てて、
現在の動物実験でどれほど惨いことが行われているかの詳細を根気よく提示し、
その他の動物虐待の実態を多くの人に伝える丁寧な努力を重ねることによって
「人間の都合で動物を虐待するのは止めましょう。
まずは大型類人猿から本来の生息場所に帰してやりましょう」と
素直にまっすぐ主張したらどうなんだろう?

彼らの知能がどのくらい人間に近いとか近くないとかいうヘリクツがなくたって
その方がよほど、それらの実態に心を痛める人が多く、
解放してやろうとの主張に素直に共感できる人も多いのではないかと
私は思うのだけど。――違います?


少なくとも、
オレ様たちはオマエらよりもはるかに頭がいいのだから
オレ様たちの言うことが正しいに決まっているのだ。
もしもその正しさを否定するなら、オレ様たちの理屈を論破してみろ。
論破できないなら、オレ様たちの正しさは証明されたのだ。
負けを認めて、オレ様たちの言うことを聞けぇ。分かったかぁぁぁ、と

まるで赤ヘルかぶって拡声器持った70年代のニイチャンたちみたいに
いい歳の(しかも一応、学者だよ)大人に
高~いところから、おめきたてられるよりも、

そういう素直なメッセージの方が、
はるかに多くの人の心に届くと思うよ。心に――。
2010.11.05 / Top↑
昨日の朝日新聞に報告されていた朝日の死生観に関する世論調査の中で、
延命治療についての問いは以下のような文言になっている。

「あなた自身が重い病気にかかって、治る見込みがない場合、
病気の完治ではなく延命を目的とした治療(延命治療)を希望しますか。希望しませんか」

いつの間にか「延命治療」を巡る議論から
「終末期の」という形容も「死が差し迫っている場合には」という形容も
きれいさっぱり外れてしまったらしい。

「耐え難い苦痛」とも縁のない議論になってしまったらしい。

ここで問われているのは、
余命が限られているわけでも死が差し迫っているわけでもなく
耐え難い苦痛にさいなまれているわけでもないとしても、
「重い病気」で「治る見込み」がなく、どうせ「完治できない」なら
「延命を目的とした治療」を希望しますか。しませんか?

この問いを簡単に言い換えると
「どうせ治らない重病なら、完治に結び付くことのない治療、たとえば
痛みを取ったり、その他の症状を抑えて、少しでもQOLを上げるとか、
それなりのQOLで穏やかな時間が過ごせる延命すら諦めて、
さっさと死なせてもらいたいですか」

すなわち、「完治する見込みがないなら治療は全て無駄な延命ですよね?」という
暗黙の誘導が、ここには仕組まれているのでは?

でも、その誘導が具体的に意味することは、といえば、

例えば、がんが進行しても、
それなりに痛みが抑えられて、それなりの日常を送ることが出来ている患者さんが、
その状態でしばらくの間家族と共に過ごせる時間を伸ばすことは可能だとしても、
それは完治に結び付かない治療で、無意味な延命に過ぎないから、
そういうのは希望しませんよね、あなた?

……であったり、

例えば、脳卒中や事故や病気で寝たきりになったり意思や感情の表出が難しくなって、
周囲が感度を上げたり、方法を工夫さえすればコミュニケーションは可能だとしても、
そんな面倒なことは考えず、丁寧なアセスメントをする必要も感じない医師に
とっても安易に「最少意識状態」だとか「植物状態」だとか「脳死みたいなもの」と
決めつけられがちな状態になった時に、

丁寧なケアを受け、栄養と水分の供給によって、または呼吸器装着によって
かなり長期に渡って生きることは可能ですが、
でも、どうせ完治も改善も期待できないなら
その状態で生きることは「ただの延命」に過ぎないので
そんな延命は希望しませんよね、あなた?

……ですら、あり得るのでは?

それは、10月28日に以下のエントリーで書いたことに
そのままあてはまるような気がする。 ↓

日本の尊厳死合法化議論を巡る4つの疑問(2010/10/28)



医療についても医療倫理や終末期医療の議論にも
全くといっていいほど興味を持たずに暮らしている私の友人が
Kaylee事件のことを私から聞かされて、反射的に口から突いて出たのが
「でも、どうせ治らないんでしょ?」だったというのは、

私たちが日常生活の中で、この問いのように
「どうせ治らないなら、それは生きるに値しない命」
「どうせ治らないなら、臓器のために殺されても仕方のない命」という
暗黙のメッセージを流され、無意識のうちにそれを受け取り続けているからではないのか。

テレビや新聞や雑誌を通じて何気なく見聞きする文言の
ただの不注意な省略や、ただの不用意な曖昧さを装った、そうしたメッセージが
サブリミナルな効果を私たちに及ぼし続けているからではないのか。



【関連エントリー】
日本尊厳死協会・井形理事長の「ダンディな死」発言(2010/3/2)
「『尊厳死法制化』を考える」報告書を読む(2010/5/6)
安楽死に関するシンポを聞いてきました(2010/10/4)
在宅医療における終末期の胃ろうとセデーション(2010/10/6)
2010.11.05 / Top↑
ちょっといかがわしそうなサイトの掲示板で、「ピロウ・エンジェルの倫理」というテーマのレポート課題を出されたという学生さん(または学生さんを装っている人)が、Ashley事件について意見を求めるスレッドを立てているのだけど、事件の簡単な解説の中で'''Ashleyは「脳死の子ども」と''' 書かれている。
http://www.newgrounds.com/bbs/topic/1209199

久しくニュースがなかった[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/61356541.html イランの投石処刑問題]で、夫の殺害計画に加担した罪で投石処刑に処せられた女性は、絞首刑になるのでは、と人権擁護団体。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/nov/02/iran-stoning-sakineh-mohammadi-ashtiani?CMP=EMCGT_031110&

英国の緊縮予算で160万人が仕事を失う、との批判。
http://www.guardian.co.uk/business/2010/nov/02/one-point-six-million-jobs-cuts?CMP=EMCGT_031110&

英国の予算カットが実行されたら、25万人が在宅ケアを受けられなくなる。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/206366.php

英国のエリート大学、貧困層の学部学生に資金援助することを条件に、上限9000ポンドまで学費を上げてもいいことに。9000ポンドって、これまでのほぼ3倍なんだとか。:20代の頃に英国人の友達が話していた印象だと、大学は学費タダよ~、てな感じだったけど。あ、そういえば、ちょうどサッチャー政権になった頃で、それが覆るんだと彼ら怒っていたっけな。
http://www.guardian.co.uk/education/2010/nov/03/universities-welcome-flexbility-triple-fees?CMP=EMCGT_041110&

米議会で発言力を大きくした共和党に対して、医療制度改革法は残した方が結局は節約になるよ、と呼びかけるNYTのコラムニスト。
http://www.nytimes.com/2010/11/04/opinion/04orszag.html?nl=&emc=a212

米国で(もしかしたらNY州で、かも)11月1日付で看護師に対する暴力法が施行に。Registerd nurseと licensed practical nurseに暴力をふるった患者が対象。:てことは看護助手とかは対象外ということ?
http://www.medicalnewstoday.com/articles/206308.php

NYTが入手した秘密文書によると、Genentech社は眼科医に対して、他の安価な薬(ただし適用外処方)でなく自社の高価な薬を使ってくれたら秘密のリベートを払うキャンペーンを開始。:やっぱり思い出すのは[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62004721.html ProPublicaの一覧表]。
http://www.nytimes.com/2010/11/04/business/04eye.html?_r=1&nl=&emc=a25

魚のDHAにアルツハイマー病の進行を遅らせる効果はない、との研究結果。:この前、[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/61907845.html 妊娠中にDHAサプリを飲んだからといって、生まれてくる子どもの頭が良くなるってことはない]、という話もあった。でも、こういう話って、まず「効く!」とまことしやかに言われて、散々サプリが売れた後になってから出て来るよね、いっつも。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/206436.php

米国のヒスパニック系って貧しいというイメージがあったのだけど、ワシントンDCのヒスパニックは米国で一番お金持ちで一番の高教育層なんだそうな。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/11/03/AR2010110308268.html?wpisrc=nl_cuzhead
2010.11.04 / Top↑
カナダのKaylee事件を知ってショックを受け
腹立たしくてならないわ、むやみに危機感は募るわで
フライパンで煎られるような気分だった去年の春の終わりのこと――。

友人と食事をした際に、
頭に噛み付いて離れなくなっていたKaylee事件のことを私は夢中で話した。

カナダでね、
重い障害があるというだけでターミナルでもなんでもない生後2ヶ月の赤ちゃんを、
心臓のドナーにしようって、親や医師が寄ってたかって相談して、決めたんだよ。

どうせ助からないなら人のためになる死に方をさせてやりたいって
メディアに語った父親は、世間からさんざっぱら英雄扱いされてさ。

ところが、よ。
ベッドサイドに身内が集まってお別れ会をやって、
もちろん、すぐに心臓を摘出する準備も万端整えられて、
いざ呼吸器を外したらね、Kayleeちゃんは自力で呼吸を続けたんだ。

もちろん、それで心臓は摘出されずに終わったんだけど、
でも、こんなの、言語道断だと思わない?

ターミナルでもなんでもないし、
写真を見るかぎり意識だってはっきりしてるよ、あの子は。

そういう子どもを、どうせ助かってもQOLが低いからといって、
移植用の心臓ほしさに殺そうって・・・・・・

カナダって、もうそこまで行っちゃってるんだよ。

――と、私が一気にまくし立てるのを、ふむ、ふむ、と聞いていた友人は、
「ったく、怖い話だよね」と私が話を締めくくると、
デザートのプリンをスプーンですくいながら、
とても無邪気に首をかしげて、言った。

「でも、その子、どうせ治らないんでしょ?」

絶句した。いきなり横っ面を張られたみたいだった。

彼女はミュウが生まれる前からの古い友人で、
私たち親子のことをいつも心配してくれている、心の優しい人だ。

その彼女にして、
まだ生きていて、別に死にそうになっているわけでもない子どもを
ただ重い障害があるからというだけで臓器のために殺そうとすることに対して、
「でも、どうせ治らないんでしょ?」と反射的に口走ってしまう――。

あまりのショックに、私は自分の頭に反射的に浮かんだ言葉を口にすることが出来なかった。

どうせ治らないなら、殺してもいいの?
じゃぁ、ウチのミュウもどうせ治らないから、殺してもいいというの――?

もちろん、彼女は、別にそこまで考えて言ったわけじゃない。そのくらいは私にも分かる。
もともと彼女にはたいして興味のない問題を、私が勝手に持ち出し、
私が無理やり聞かせた話に過ぎない。ただ友人だからというだけで、
ずっとこういうことを考え続けてきた私と同じ問題意識で受け止め、
同じように憤ってくれると期待したこと自体が、そもそもの私の間違いだ。

当事者性というものが、もともとそういうものなのだろうけれど、
その時の私は、彼女と自分の間にある、絶望的なほどの「分からなさ」「通じなさ」に
ただ呆然としてしまった。

その場でいくら言葉を尽くして説明しようとしたところで、それはきっと、
同じものを我が身の中に「知らない」人との間では
決して越えることのできない種類の「分からなさ」……。
そんな徒労感があった。

そして、彼女と私の間にある、この絶望的に超えがたい「分からなさ」の溝は、たぶん、
世の中の、彼女以外の、重症児のことなど知らないし考えたこともない多くの人との間に
無数に、もっと救いのない深さで、存在する溝なのだ・・・・・・。
そのことを、痛切に思い知らされる気分だった。



その友人の家族が、最近、癌だと診断された。
彼女はたいへんなショックを受けているし、何かとしんどい生活を送っている。
私には愚痴を聞いてあげることくらいしかできないけど、
出来る限りの力になりたいと思っている。

そんな彼女の患者の家族としての生活を思う時、
ふと、聞いてみたい気がすることがある。

もう一度、カナダのKayleeちゃんのことを。
今でもまだ「でも、その子、どうせ治らないんでしょ」と言えるかどうかを。

治るかどうか分からない病人の家族の立場に自分が置かれた時に初めて、
Kaylee事件の恐ろしさが実感されるようになる――。
当事者性というのは結局そういうものなのかどうかを。

もちろん、実際にそんなことは口にしない。
だって、それがどんなに残酷なことか、そのくらいは私にだってわかる。
それくらいは誰にだってわかる。それが当たり前の分別というものだろう。

・・・・・・でも、それなら、
と、ここで私は、いつも同じ問いにつまずいてしまう。

闘病中のがん患者の家族に向かって
「どうせ治らないのなら」という言葉を投げつけることが
誰にだって分かる残酷なのだとしたら、

重症障害児の親に向かって同じ事を言う残酷には
なぜ人はこんなにも鈍感なのだろう?

例えばPeter Singerは、
自分の友人に重症障害のある子どもがあるとしても、
その友人に面と向かい、その子どもを指差して
「障害児は生きたって幸せにはなれないよ。
犬や猫やネズミにさえ知能の劣る、殺したっていい存在だ」と
平然と言える、とでもいうのか――。


【関連エントリー】
心臓病の子の父に「ウチの子の心臓をあげる」と約束してヒーローになった父、呼吸器を外しても生きる我が子に困惑(再掲)(2009/6/19)
2010.11.03 / Top↑
ProPublicaって、マジ、あっぱれなメディアだと思う。

あのGrassley議員の頑張りで表面化した様々なスキャンダルを受けて作られた
The Physician Payments Sunshine Actによって(詳細は文末リンクのエントリーに)
ビッグ・ファーマ7社がネット上に公開している
金銭を支払った医師の名前と金額など
ディスクロージャー情報をつぶさに調べた。

なにしろ各社とも、
詳細・全貌をなかなか掴ませないようなディスクロージャー形式になっていて、
たいそう困難な作業だったらしい。

そして
09年から10年初頭までに10万ドル以上を受け取った医師384人を
金額順に以下の一覧表に並べてみせた。

Top Earners

トップはネヴァダ州の内分泌医 Firhaad Ismail医師で金額は$303,558。
第2位はテネシー州の神経科医 Stephen H. Landy医師の$302,125。
第3位がまた内分泌医でSamuel Dagogo-Jack医師に$257,012。

その後に、20万ドル以上もらった医師が、
数えてみたら、ざっと40人も続く。

もちろん、どこの会社からいくらという内訳つき。

一人の医師に日本円にして3千万円、2千万円という、この金額、
リンク記事のどれだったかがmoonlighting(内職)と呼んだ教育講演活動の稼ぎ――。

当たり前のことながら、これらのプロモ費用は消費者(つまり患者)に跳ね返っている。
つまり医療費の高騰につながっている――。


なお、医師への金銭支払いに関する総合情報サイトはこちらで↓

Dollars for Docs
What Drug Companies are Paying Your Doctor
ProPublica, October 19, 2010

ここから上記のリストや7社のディスクロージャーの詳細ページその他に入れるほか、
関連のメディア記事のリンクも並ぶ。

自分の担当医の名前と州名を入れてデータベースを検索することも可。

        ――――――

さらにProPublicaがすごいのは、この先の調査までやっていることで、

こうしてビッグ・ファーマから日本円にして1千万単位の金銭支払いを受けて
薬のプロモで教育講演して歩いている医師らは
表向き、それなりの権威だということになっている。

ProPublicaは、これら医師の経歴をチェックした。

すると、過去に医療ミスや過誤で州当局から処分を受けていたり
中には研究者や専門医としての資格を欠いている医師まで交じっていたという。

その数、hundreds。

例えば痛みを専門とするWilliam D. Leak医師は
20人の患者に不必要な神経検査を行い、その中の数人に
神経組織を破壊する薬物の注射を含め「過度な侵襲的な治療」を行ったと
Ohio州の医療委員会が結論付けているのだけれど、
Eli Lillyは09年以降、85,450ドルを支払って
同医師を販促講演に使っている。

鎮痛剤Celebrexのリスクを過小に語って適用外の利用を勧めて歩いているとして
2001年にはFDAがリューマチの専門医James I McMillen医師に対して
「偽りの、またはミスリーディングな」プロモはやめるよう命じたにもかかわらず、
他の3社は18ヶ月間に渡って販促講演をさせ、総額で224,163ドルを支払っている。

ProPublicaの調査に対して、7社のうち数社は
医師らに対する州の処罰情報サイトをチェックしていないと認めたとのこと。

Docs on Pharma Payroll Have Blemished Records, Limited Credentials
ProPublica, October 18, 2010


このシリーズ、まだまだ続くようです。



【関連エントリー】
2009年のまとめ:巨大製薬会社・“科学とテクノの簡単解決”文化関連(2009/12/24)
「米国のワクチン不信と、そこから見えてくるもの」を書きました(2010/7/5)
2010.11.02 / Top↑
Vermont州知事選の民主党候補者Peter Shumlin氏が、当選したら自殺幇助合法化に向けて努力する、と。
http://www.lifesitenews.com/ldn/2010/nov/10110109.html

モンタナ州のPlanned Parenthood が、妊娠予防のためのバース・コントロールが給付対象になっていないとして、モンタナの子どもを対象にした医療保険助成CHIPを巡って訴訟を起こした。州法では、ニキビと重い生理に対して避妊薬の処方への給付が認められているらしい。:州によっては、生理が重い場合には子どもにも避妊薬の処方が公的医療保険で認められている……。これはAshley事件を考える際にも重要な情報。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/206253.php

ヨーロッパ人権裁判所が収監中の囚人に投票権を認める。
http://www.guardian.co.uk/uk/2010/nov/02/prisoners-vote-european-court-human-rights?CMP=EMCGT_021110&

英国とフランスが防衛協定(?)。共同核弾頭実験も?
http://www.guardian.co.uk/politics/2010/nov/02/britain-france-defence-cooperation?CMP=EMCGT_021110&

英国の研究者らが「子どもの成績を上げるには親の努力がカギ」。:いつから「子どもの成績を上げること」が科学研究の重要課題になったんだろう。子どもの成績を上げるために本気になって親が“努力”するのは、仮にそれが成績を上げるために有効だとしても、親が自分の手で我が子を不幸にしたくなければ、やめた方がいいと思う。子育ての目標は成績を上げることじゃない。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/206269.php

英国のソーシャルワーカーが白人夫婦には他の人種の子どもを世話したがらないので、養子縁組が進まない、人種間の養子をもっと進めろ、と英国の子ども大臣。
http://www.guardian.co.uk/society/2010/nov/02/inter-racial-adoption-children-social-workers?CMP=EMCGT_021110&

メキシコ初の女性大統領、勝利演説で女性の権利のために戦う、と。:Hurray!
http://www.guardian.co.uk/world/2010/nov/01/brazil-first-presidenta-womens-rights?CMP=EMCGT_021110&

同性愛が違法行為となっているウガンダで、同性愛者狩りが激化している。政府は死刑により罰する法律を検討中。メディアも同性愛者の実名や顔写真を暴き、ヘイト・クライムを煽っている。ここ数日、気になっているニュース。そんな中、一人の同性愛者が連帯を呼び掛けるブログを始めた、というニュースを夕方見たのだけど、とりあえず以下のリンクは同じ話題の昨日のもの。
http://edition.cnn.com/2010/WORLD/africa/11/01/uganda.gay.list/index.html?iref=allsearch

「米国中間選挙」でググったら、朝日小学生新聞が分かりやすかった。
http://www.asagaku.com/jkp/2010/10/1017.html

NASAがロボットを月に送ろうとしている。「1000日以内に」。
http://www.nytimes.com/2010/11/02/science/space/02robot.html?_r=1&nl=&emc=a26

米国政府が人身売買に関する報告書で国内に現代の奴隷制が存在していることを認めた。
http://www.inthesetimes.com/article/6192/slavery_in_our_time/
2010.11.02 / Top↑
The Spokesman-Reviewという新聞への投書。

Katie Densleyさんの伯父さんは
1年前にWashington州の尊厳死法を使って
医師による自殺幇助を受けて亡くなった。

尊厳死法が出来る1年ほど前から自殺幇助を口にしていたらしい。

ガンの手術を受けて、術後はカテーテルを入れていた(詳細は不明)。
94歳で、ウツ状態だったけど、友人やプロの介護者の支援を得て自宅で暮らしていた。

尊厳死法が出来ると、友人たちが伯父さんを医師のところへ連れて行った。
元車のセールスマンだった伯父さんは、それが自分の望みだと医師を説得してしまった。

介護してくれていた友人たちは、
あんたはターミナルじゃないから無理だよ、と言って諦めさせようとしていたのに。

その日、Katieさんは亡くなるまでの25分間、伯父さんを抱いていたという。
そして「それは処刑のように感じられた」という。


伯父は新しい法律のもとで死んだ3人目でした。
ウツ状態でした。ターミナルではありませんでした。



Suicide like execution
The Spokesman-Review, September 26, 2010




WA州の尊厳死法で起きている「すべり坂」については、

WA州の尊厳死法、殺人の可能性あっても「問わず語らず」で(2010/9/16)


Oregon州でも、ウツ病の人が死なされている。

オレゴン州の尊厳死法、セーフガードは機能せず(2010/8/17)
2010.11.02 / Top↑
先日、医師による自殺幇助に反対するスタンスの報告書を議会に提出したLiving and Dying Wellというシンクタンクは、あの報告書が立ち上げの狼煙だったみたい。Alex Carile と Ilora Finlay両上院議員がチェア。 BMJ電子版に10月28日付で「PASに反対する“確かなエビデンス”を提示する目的のグループ立ち上げ」というタイトルの記事。:最近「すべり坂を言うならエビデンスを出せ」とタカビーな人たちが言い募っているからね。
http://www.bmj.com/content/341/bmj.c6120.extract

日本。医療提供体制見直しに向け議論スタート ――社保審医療部会。NICUに長期入院している子どもの受け皿作りが必要との議論の流れで、相澤孝夫委員(日本病院会副会長)「高齢者がたくさん入院してくるが、いくら病気を治してもその人は帰れないし、帰す場所もない。子どもの問題と同時に、そういう状況になった高齢者をどうするかは、医療提供体制を考えていく上で重要な問題だと思う」。:
どういう意味それ具体的には「どうする」といいたい?
https://www.cabrain.net/news/regist.do;jsessionid=7936DE24FF125C174CCBD5C3588CE888

アルツハイマーなど一定のタイプの認知症の進行を遅らせる効果が、統合失調症の治療に使われている薬にあるのではないかと、オーストラリアの研究者らが  Our hope is……。:こういうニュースはメディアの騒ぎ方の割に、読んでみると「可能性がある」だったり……ということが多いけど、「そうだったらいいと思っている」というのは私は初めて見た。まだそんな段階なら、もう少し先の段階になるまで口を閉じていたらどうなのかと思う。認知症患者への安易な抗精神病薬の投与が問題視されてきていることを考えると、こういう先走りニュースが出ること自体が、なんだか、なぁ……。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/205997.php

本人に及ぼす害だけでなく周囲に及ぶ害まで考えると、ヘロインよりも酒の方が有害。
http://www.guardian.co.uk/society/2010/nov/01/alcohol-more-harmful-than-heroin-crack?CMP=EMCGT_011110&

エルトン・ジョンが、この歳になってレディ・ガガなんかとテレビ出演を張りあえるか、とポップス界から引退。音楽活動をやめるわけではない。
http://www.guardian.co.uk/music/2010/oct/31/elton-john-goodbye-pop
2010.11.01 / Top↑
障害者と動物は、社会の神経学的ノームから外れているという全く同じ理由によって
社会から差別され、価値を貶められて、様々に抑圧されているのだから、
障害者の権利と動物の権利とは繋がっていて、相互依存の関係にある、と
主張する人たちが出てきているらしい。

NDYのStephen Drakeが批判のポストを書いている。

Connecting Disability Rights and Animal Rights – A Really Bad Idea
Not Dead Yet, October 11, 2010


Drakeの基本姿勢としては、まず
障害者の権利と動物の権利を一緒にすることに何のメリットがあるのか
特に障害者に何のメリットがあるのか、というもの。

彼が具体的に取り上げているのは
アスペルガーで、動物の権利アドボケイトであるDaniel Salomonが書いた
「動物の権利と自閉症のプライド:対立を癒そう」という以下の文章。

Animal rights and autism pride: Let’s heal the rift
The Scavenger, October 10, 2010


Salomonが冒頭、動物倫理の社会的認知におけるPeter Singerの功績から
話を起こしている点について、Drakeはまず、

「一見、障害者の権利アドボケイト寄りに見える記事が
Singerへの称賛から始まっていたら、ろくなことにはならない」

(私は「そーだ、そーだ!!」と、この個所で盛大に拍手した)

Salomonはこの文章で、自閉症も動物も、
神経学的典型をスタンダードにする社会に適応できないことを理由に
差別され、同じタイプの抑圧を受けているのだから、
両者の権利は相互に対立するのではなく、
相互に結び付き、相互に依存する関係にある、と説いている。

Drakeの具体的な批判の論点としては2点で、
その内容はおおむね、以下のような感じ。

Salomonは自閉症のみについて語りながら障害者一般の権利へと話を広げているが、
動物の権利はアドボケイトが一方的に定義し提唱しているもので
それに対して動物の側から異議申し立てが起こることはあり得ない。
自閉症のアドボカシーにおいては活動に対して当事者から異議申し立てが起こってきた。

それからしても、
動物の権利アドボケイトが話を結び付ける障害者の権利における障害者とは
実際には重症の認知障害のある人たちになる。

シンガー以外にも、我々の社会には
高齢者、病者、障害者、特に重症の認知障害のある人たちを
殺すことに賛成する人たちは、現在、恐ろしいほどの数になっている。
そういう人たちは自分たちの主張を正当化する際に、
ペットなら苦しまないように殺しているじゃないか、と
ペットの安楽死を引き合いに出してくる。

しかし、ペットが死に瀕して苦しんでいるから安楽死させるというのは
単なる神話に過ぎない。

実際、動物擁護組織PETAの施設内では殺処分の件数が非常に多く、
その理由に挙げられているのは、長年の虐待でペットと呼べない状態の動物の他、

They were aged, sick, injured, dying, too aggressive to place, and the like
「殺処分されたのは高齢だったり、病んだり、怪我をしていたり、死に瀕していたり、
置いておくには余りに攻撃的であったり、そういうペットたちで」

こういうペットだから死なせてやったのだという論理を
そのまま重症知的障害のある人間に当てはめたら一体どういうことになる?

人間の無責任な行動が、そうしたペットの増え過ぎを招いて
限られた資源の中では殺処分するしかなくなるのだから
人間の動物に対する扱いを変えなければならないという主張には一理あるが、
増え過ぎて資源を食うから殺すと言われるなら
その問題が最も深刻なのは動物よりも人間だろう。
抑圧され、スティグマを貼り付けられ、虐待やネグレクトに遭い続けてきた知的障害者が、
動物と従妹同士みたいに扱われると一体どうなる?

被虐待的な処分施設を設計したアスペルガーの動物学者
Temple GrandinをPETAは表彰したが、
私がもしも動物を食べることそのものに反対しているとしたら
私はそんな筋の通らないことはしない。そんなのは、
人道的な殺戮方法を選んだといって、アムネスティが
戦争を起こした人間を表象するようなものじゃないか。
全然、筋が通っていない。

障害者の権利と動物解放が相互に繋がっていると言うのも、
それと全く同じだ。全然、筋が通っていない。



このポストには、いくつものコメントが付いていて、
動物の権利擁護の立場の人が数人、長いコメントを立て続けに入れている。

面倒くさいのでまともに読んでいないけど、
Drakeの返事コメントの中でだいたい次のようなことを書いてある個所に
私は個人的に拍手した。

動物の権利擁護運動の内部でもシンガー批判はあると言うが、それは
部分的に動物を殺さざるを得ない場合があると
彼が認めていることに対しての批判に過ぎない。

シンガーに対して行われるべき批判とは、
障害と障害者を殺すことについて書く際に彼が露呈する
知的誠実の欠落(lack of intellectual honesty)に向かうべきである。
不正直でないなら、Singerは単に不注意でいいかげんなのだ。



Drakeは動物の権利擁護運動そのものを否定することはしない。
したがって、Wesley Smithが自殺幇助合法化を批判する本を書いて、
その中で動物の権利擁護運動そのものを批判したことは
Smithの死の自己決定権に対する批判が有意義なものであるだけに
残念だった、と述べている。

しかし、だからといって、
動物の権利擁護運動が障害者と動物とを繋げて考えようとすることは認められない。
その理由を、Drakeはおおむね以下のように説明している。

15年間、NDYの活動をやってきて、なお
知的障害のある人を人間よりも劣った存在だと考える専門職や一般人は後を絶たないし、
今だに多くの人が、そういう見方をしている。

動物の権利擁護運動のメッセージに賛同することが
そうした状況にある障害者の現状をさらに後退させるものではないとは
自分には確信できない。

彼ら/我々/私は、障害者が人類の十全な一員であると認められ、
それが揺るがないものとなるよう求めていくことで、今なお忙しい。
我々はいまだにそこに至っていないのだ。

障害者は歴史の中で、不妊、搾取、廃絶(安楽死)のターゲットとされてきた。
不妊と安楽死はいずれも、少なくとも、ある状況下では
動物には認められるものとされている。

重症認知障害があるとみなされている人たちを医療の現場で
まだ死ななくてもいい時期から死なせてしまわないように支援するという目的においては
あなたたちの提案の通りにすることは、後退にしかならない。



彼は、実際問題として、自分は種差別の問題にはそれほど興味を持てないとも語り、
自分の時間とエネルギーにも限りがあるのだから
自分としては時間とエネルギーは障害のある人間に注いでいくとして、
この問題については、これ以上は知らん、と突っぱねている。

         ―――――

ちょっと前に、“シンガー論者”の“功利主義者”を自称される学者の方と話をした際、

シンガーを批判する前に、彼が何故こんなことを言っているのか、
その背景にある彼の思いを理解してあげなければいけない、と言われ、
それ以来、そのことをずっと考えていた。

1ケ月考え続けて、
その人が言うことは逆だと思う、という結論に達した。

なぜなら、私ごときが批判したからといって
それでSingerが脅されるわけでは全然ないけれど、

Singerがロクに障害について知りもしないだけでなく
誠実に知ろうとする努力を払うことすらせず、
無責任に障害者から尊厳をはく奪し貶めるような発言をすることによって
私の娘をはじめ、世の中の多くの障害児・者の命や諸々の権利は
リアルに脅かされているから。

「なぜ、そんなことをいうのかを分かってあげよう」と努力する必要があるのは、
障害者運動の側ではなく、シンガーの方のはずだ。

「障害者が好戦的なことには驚いている。
障害児を殺しているのは医師であって私ではないのに彼らは私を攻撃するんだよ~」と、
まるで5歳児のような被害者意識を振りかざすのはやめて、
ちゃんと大人の学者として自分の発言には責任を取り、
なぜ障害者運動から自分が批判されているのか、その批判の背景に何があるのかを
誠実に知ろうとする努力を始めたらどうなのか、と思う。

私はシンガーの著書をロクに読んでいるわけではないから
批判する資格はないのかもしれないし、本当のところ、
私も種差別がどうのこうのという議論には興味ないです。

どんなに崇高な理想をかかげていようと、
どんなに世の中を良くしようとの善意からであろうと、Singerの障害児・者に関する
lack of intellectual dishonesty(Drake)と willful ignorance(Kittay)は
学者の姿勢として許されるべきではないと思う。それだけ。


Peter Singerにも、
彼の言説を借りて、それに乗っかることによって
自分自身の差別意識や偏見を正当化し、解き放つ学者さんたちにも
私が言いたいのは、一言。

学者なら、自分がきちんと知らないことについて、無責任にしゃべらないでください。
2010.11.01 / Top↑