英語圏の“科学とテクノで簡単解決”文化は
まず「ビタミンDで心臓病・脳卒中予防!」に始まって、
あれよあれよという間に「ビタミンDはほとんど万能!」騒ぎとなり、
「みんなビタミンDのサプリを飲もうぜい!」キャンペーンの狂騒は
どう考えても異常だった。
当ブログの補遺だけでも、ざっとこんな感じ ↓
(09年4月27日)前立腺がんの治療に有効
(09年8月3日)米国の子どもはビタミンD不足
(09年9月24日)ビタミンDが不足すると歳をとって心臓病で死ぬ確率が上がる
(2010年1月21日)ナーシングホームの高齢者に転倒予防でビタミンDを、という実験
(2010年5月12日)国際骨粗鬆症財団から「高齢者はビタミンD不足。もっとサプリを」
(2010年5月22日)MSの予防に有効
それで、今年7月14日の補遺で
ビタミンDのレベルが低いとパーキンソン病を発症する確率が高くなるという記事を拾った時、
私は「またビタミンD……」とコメントしている。
――でもね。
この2年、私は忘れたことがないほどに衝撃的で
上記のいずれよりも「どーよ、これ」な事実は、こちら ↓
子どものビタミンD不足サプリで補えと米小児科学会(2008/10/15)
これだけニュースになるのだから、
当然ビタミンDに関する実験数も爆発的に増えていたし、
これだけ「飲め、飲め」と医師や学者が煽ったのだから
ビタミンDの売り上げは09年には08年の82%増で、4億3000万ドルに。
ところが、米国とカナダ政府の求めによって
Institute of Medicineが14人のメンバーからなる専門家委員会を作り、
関連文献と統計を広範に調査したところ、
「レベルが高ければ高いほど健康によい」は
とんでもない大ウソ八百だと分かったそうな。
なにしろ、どうやら最初に「ビタミンDを上げると良い」と
口火を切った2本の論文は不正確なものだったという。
それでも、その後、どういうカラクリだったのか、
いくつかの研究機関が、それでは総人口の8割がビタミンD不足になるだろ、という辺りに
正常値を設定する論文を次々に繰り出した。
そうこうするうちに、
必要レベルに達するにはサプリで補う必要があるという説が独り歩きしただけでなく、
高レベルのビタミンDの効果は様々な研究がある割に結果にはバラつきが目立って
大したエビデンスがあるわけでもないのに、論文や本が出るたびに
必要とされるレベルはどんどん上がって行ったんだそうな。
しかし今回の調査で分かったのは、
もともと、ごく一部の人を覗くと、
ほとんどの人は普通に暮らしていればビタミンDもカルシウムも足りていて
サプリで補う必要がないばかりか、
むしろビタミンDの摂り過ぎは腎臓結石、
高レベルが維持されると骨折や総じて死亡率が上がるし
カルシウムの摂り過ぎは心臓病のリスクになる、という驚きの事実。
(製薬会社がさんざん儲けたあたりで「やっぱり安全ではありませんでした」と
調査結果が出てくるパターンは、驚きでも何でもなくて、もうお馴染みなんだけど)
報告書をまとめた委員会は
追加でビタミンDとカルシウムを補えと説く人たちは
人に飲ませる前に安全だと証明してみせなければならない、と。
Extra Vitamin D and Calcium Aren’t Needed, Report Says
The NY Times, November 30, 2010
米国小児科学会の説明を聞きたい――。
それにしても、スタチンしかり。ペニシリンしかり。
そして、次は……やっぱり、ワク××?
自殺法改正法案を提出した人物。
同法案は7月に否決されたのですが、
今度は、Falconer卿が議長となり、上院に
幇助死(assisted dying)について検討する委員会が立ち上げられた、とのこと。
同氏がGuardianに語ったのは、おおむね以下の内容。
23歳の元ラグビー選手、Dan Jamesを両親がDignitasに連れて行って死なせた事件など
親族がスイスに連れて行って自殺させる事件は相次いでいて、
現在の自殺法の規定のもとでは犯罪だと思われるにもかかわらず、
誰もそれら親族を罪に問うだけの度胸がない。
この状況は、現行法に問題があるということではないのか、
今のままでは親族を守るために一人で死ななければならなかったり、
もっと生きられるのに早めに死ぬことを選ばざるを得ない人がいるのではないか、
との問題意識に基づいて
委員会では自殺幇助合法化の賛否両論を検討する。
また米国のオレゴン州、オランダ、スイスに実態に赴いて
合法化された自殺幇助の実態を視察する。
自分の自殺幇助で親族が罪に問われないとはっきりすることで
心の平穏が得られるのであれば、その方が良いだろう。
ただ問題は、
自分で選びたいよりも早く死ななければならないプレッシャーが
かかる状況もあるのだろうか、ということだ。
それについて委員会では医療職や司法によって
本人の自由意思を確認する方法を検討する。
委員会のメンバーには
29年前にラグビーの事故で首から下が麻痺したStephen Duckworthも加わっている。
彼は事故の直後に死なせてほしいと頼んだ友人に断られて、その後、生きる希望を取り戻したという。
しかし、自殺幇助合法化については、本当に一部の障害者が言うように危ういのか、
それとも一定の資力のある人だけがスイスへ行ける現状がフェアでないのか
まだどちらとも決めていないという。
(でも、この発言そのものが明らかに合法化に傾いている)
そもそも、委員会には合法化ロビーのDignity in Dying との繋がりが指摘されており、
アルツハイマー病で合法化アドボケイトの作家Terry Pratchettが
立ち上げの資金集めに協力たというのだから、
どう考えても“結論が先にありき”の委員会。
緩和ケア医で合法化に一貫して反対しているFinlay上院議員は
「委員会に近い人から、そこでは合法化すべきかどうかではなく
いかにして合法化すべきが議論されていると聞いている。
それで中立の委員会だと言えますか?」と。
Assisted suicide law to be reviewed by Lords
The Guardian, November 28, 2010
この委員会は中立なんかじゃねぇ! という声はこちらからも。 ↓
http://www.christian.org.uk/news/concern-over-assisted-suicide-commission/
【Baroness Finlay(Baroness は女性議員の称号と思われます)関連エントリー】
英国医師会、自殺幇助に関する法改正支持動議を否決(2009/7/2)
BMJの副編が「生きたい障害者が死にたい病人のジャマするな」(2009/9/6)
Campbellさん率いる障害者団体連合が自殺幇助ガイドラインを批判(2009/12/22)
Warnock, Finlay, Purdy他が自殺幇助で円卓討論(2010/1/31)
「PAS合法化なら年1000人が死ぬことに」と、英シンクタンクが報告書(2010/10/26)
http://blogs.yahoo.co.jp/carer_jp
スコットランドの自殺幇助合法化法案、水曜日の投票を前に提出者のMacDonald議員が最後のアピール。
http://news.scotsman.com/scotland/Last-minute-push-to-progress.6643394.jp
英国上院に、Falconer議員を議長として、親族の自殺幇助合法化を検討する委員会。:なんなんだろう、この突然の動きは? 気になるけど、今日のところは本文まで読めない。
http://www.guardian.co.uk/society/2010/nov/28/assisted-dying-falconer-commission
ユニセフから、女性器切除をなくすためには社会のあり方を変えなければならない、とする報告書。
http://www.unicef-irc.org/publications/618
そのユニセフの報告書を取り上げたLance論文。: Diekema、どうする?
http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736%2810%2962149-6/fulltext?elsca1=TL-261110&elsca2=email&elsca3=segment
抗てんかん薬を飲んでいる女性が母乳で育児をしても、将来その子どものIQに影響はない、との調査結果。「女性のみなさん、良いニュースですよ」と記事は明るく書き出されているんだけど、IQに影響しないと分かれば、それで安心して母乳で……っての、なんか変じゃない? 最近ずっと引っかかっているのだけど、子どもの頭のよさとか成績のよさを保障することが、いつから科学研究の重要な目的の一つになったんだろう? それよりも、もっと調査すべき因果関係は他に沢山あるような気がするのだけど。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/209399.php
オーストラリアでここ数年議論になっている増え過ぎたカンガルーの殺処分問題で、殺処分を正当化するエビデンスはない、との研究結果。:たしかPeter Singerは殺処分に賛成の立場だったよ。
http://www.canberratimes.com.au/news/local/news/general/little-evidence-to-justify-roo-culls-research/2010538.aspx?src=enews
ロボット兵士やハイテク戦闘機器が導入されるにつれ、戦争は「安全」なものになるだろう、と。
http://www.nytimes.com/2010/11/28/science/28robot.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a2
それらハイテクで戦場がどうなるかというグラフィック(DRにちょっと時間かかりますが、それなりのグラフィックではあります)。無人戦車、無人戦闘機、無人小型潜水艦、センサーで敵兵を探知する無人ロボット兵士などなど。:確かに「安全な」戦争かもしれないけど、それは、出て行って闘う立場を想定した場合。テロ攻撃を受けることも含めて逆の立場を想定すれば、対応不能なほどに「危険」なものになるということなんでは? それとも、それは西側キリスト教世界のゼニとテクノロジーの力は絶対的に優位だという意識? どっちの側に立っても、「安全な」戦争が行われているところでは戦争が安全でなかった時代と同じ破壊と殺りくが行われているという事実に対して、感覚が鈍くなっていくんだろうな。じゃぁ、「安全な」戦争は、起こしやすい、起こりやすい戦争だということにも?
http://www.nytimes.com/interactive/2010/11/27/us/ROBOT.html?nl=todaysheadlines&emc=ab1
マイクロソフトのキネクト・システム普及で、ビデオ・ゲームはWiiなどのコントローラによるものから自分の体の動きによって遊ぶものに変化していく?:ウチの子もそうなんだけど、Wiiは体の不自由な人たちにヴァーチャルな世界での遊びをある程度体験させてくれる優れモノではある。ただ、余りにもスピードやコントローラーの感度が上がると、対応できなくなるので、任天堂が一方でマイクロソフトのキネクト系のさらなるハイテク度アップに追随するのはやむを得ないとしても、その一方でむしろ高齢者や身障者など、ちょっと緩やかな動きでヴァーチャルな遊びを楽しめるヴァリエーションを模索してくれるとありがたいなんだけどな~。
http://www.nytimes.com/2010/11/28/arts/video-games/28video.html?nl=todaysheadlines&emc=a26
介護者支援チャリティ Carers UKのカンファレンスで
連立政権の今後の介護施策のアウトラインについて講演。
全文が、自由民主党のHPに掲載されている。
Liberal Democrat Care Service Minister, Paul Burstow gives speech to Carers UK Conference
Liberal Democrats, November 26, 2010
以下、概要。
英国中の介護者が、経済的困難や孤独を抱え、ストレスだらけで、うんざりし、疲れ果て、
それでも愛と献身を見せて介護を担っていることは承知している。
事態を打開するために、もっと努力は必要だが、
しかし、予算を増額することだけでは解決にならない。
依存状態を減らし、
介護者の福祉を支え、
柔軟な働き方のできる機会を介護者に提供するために、
以下の4点を柱として考えている。
① 個別ケア
まず最初に、国がすべての解答を持っていると考えるのは止めよう。
一人一人の介護は異なっていて、誰にも当てはまる解答というものはない。
決定権を国会や市会から個々人や家族の手に委譲しよう。
2013年までに、すべての要介護状態の人は地方自治体からダイレクト・ペイメントで
介護費用を受け取ることができるようになる。その費用の使い方は
それぞれの人や家族が自由に決めることができる。
② 介護市場の発展
ダイレクト・ペイメントで現金を受け取っても、
買うべき介護サービスがなければ意味がない。
例えば、自立支援で重要になってくる新たなテクノロジーが介護分野の主流となり、
自治体の給付対象にならない人でも買おうと思えば買えるような
市場を形成する。
地方自治体も、介護者の声に耳を傾け、意見を聞きながら
これまで以上に介護者と協働していかなければならない。
③ NHSでの支援強化
協働する姿勢はNHSでも必要だ。
多くのGPがまだ意識が低く、介護者に対して命令口調で接し、
十分な説明をすることや介護者の意見を聞くことができていない。
「私抜きに私のことを決めないで」を理念とし、
介護者の心身の状態に心を配ることができる、
介護者支援の意識を持ったGP育成に予算を組んだ。
また、介護者のレスパイトにも400万ポンドの追加予算を組んだ。
④ 地域での民間セクターの活用
公共のサービスに留まらず、地域でボランティアの活用を推進するべく、
すでに3つの全国的介護組織に150万ポンドを支援している。
英国社会は高齢化と認知症患者の急増に直面しているが、
英国の労働環境をさらに介護者にやさしいものにするべく、
これからも企業や各種団体と協働しながら
介護者の権利を守り、介護者のニーズに配慮ある各種団体と
パートナーシップを組んで取り組んでいくべき課題であると考えている。
これは野党の時代から一貫して主張してきたこと。
政権与党となっても、実現を目指して力を尽くす。
急速な少子高齢化社会と認知症患者の急増を受け
公助だけではなく、自助、共助も含め地域で……と言われている方向性は
日本の介護保険でここ数年の間に打ち出されてきたものと、ほぼ同じ。
ただ、日本のヴィジョンに比べて、かなり散漫な印象もある。
こういうのを読むと、
日本に介護保険という制度ができたということは
やっぱり先駆的なことだったんだなぁ……と、つくづく。
介護者支援の視点では大幅に遅れをとっているものの、
(ボランティアの定着や組織化という点では、英国での地域づくりは
既に日本では想像もつかないほど完成度が高いのかもしれないけど)
だいたい30分で行ける日常生活圏域(中学校区にあたる)で
介護、医療、住まい、予防、生活支援など必要なサービスが
介護と医療それぞれの制度の協働によって地域包括支援システムで
一体的に提供される仕組みが、拠点施設を整備しつつ、描けつつある日本の方が
英国よりもはるかに具体的で、先を行っているんじゃないのかなぁ……。
世界で最も速い速度で少子高齢化が進んでいる日本は
介護と医療の連携によって高齢者を地域できちんと支え看取るモデルを
世界に示すことができるんじゃないんだろうか。
世界に冠たる、ユニヴァーサルな医療保険制度と
世界に冠たる、介護保険制度と、
世界に冠たる、その両者の連携による地域包括支援システムで
かつての北欧のように世界中から視察に人が訪れるような、
“高齢者ケア観光”立国を目指すというのだって
案外に、いい選択肢じゃないのかなぁ……と、時々考える。
科学とテクノの国際競争に勝つことだって大事かもしれないけど、
自然を克服する対象としか見ない英語圏の弱者切り捨て方向の価値観に
鼻づら引きずりまわされながら、ただ付いて行っても、あんまり良いことなさそうだし、
本当に良いものをコツコツ作ってきた日本のモノづくりの伝統と同じように、
日本の自然観、死生観ならではの高齢者ケアのモデルを
地道にコツコツと作りあげていったら、どうなんだろう。
もちろん「日本の家族介護の美しき伝統」だとか「アジアの親孝行の美風」とか
そういう前時代的な家族介護や嫁介護モデルに後戻りするのではなく、
今後の単身高齢者世帯や老老介護・認認介護世帯の増加を考えれば
個々人に介護サービスが提供される団塊の世代仕様の包括的支援の仕組み、
上野千鶴子さんが提唱している「おひとりさま」支援モデルで。
そういう新しいモデルとして世界に胸を張って示せるだけの21世紀型の
医療と介護の連携の仕組みを、もしも日本が作ることができれば、
後を追いかけてくる先進諸国から
視察や研修の依頼が引きも切らない高齢者ケア観光立国という道だって
日本にはあるんじゃないか……という気がするんだけど。
あー、もちろん、それなりの覚悟と投資は必要と思いますけど。
http://news.stv.tv/scotland/211269-poll-shows-huge-public-support-for-assisted-suicide-law/
英国で、支援サービスにつなげるべくGPが新たに介護者を見つけられるよう、今後4年間で600万ポンドの予算。:社会保障費大幅カットの中、英国政府が次々に飴玉を繰り出している? それとも介護者支援を充実させて、その代わり家族で介護を担ってね、という方向での経費削減策?
http://www.thegovmonitor.com/world_news/britain/uk-invests-6-million-to-identify-new-carers-43294.html
高齢化見据える韓国で、子どもたちに認知症サポーター養成講座。
http://www.nytimes.com/2010/11/26/health/26alzheimers.html?nl=todaysheadlines&emc=a2
【関連エントリー】「大人なら誰でも基本的な家事・育児・介護ができる社会」というコスト削減策(2009/5/25)
米国のメディケアの給付カットで、高齢患者が診察予約をとろうと思っても何カ月も待たなければならない事態に?
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/11/25/AR2010112503638.html?wpisrc=nl_cuzhead
ネット上の健康や医療関連サイトが、利用者からゲットした個人情報を製薬会社などにマーケッティングのための資料として流している、と米国のプライバシー監視団体。
http://www.nytimes.com/2010/11/24/business/24drug.html?_r=1
ミシガン大学の調査で、妊娠34-36週で生まれた未熟児は、母親のIQその他の属性とは無関係に、後に認知・情緒障害を生じる確率が高い。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/209036.php
【関連エントリー】
未熟児はどうせ早死にするから助けるのをやめようって?(2008/4/15)
超未熟児には行動障害、情緒障害が4倍(2008/9/13)
未熟児にかかる社会的コストを試算(2009/2/2)
未熟児を産ませず、生まれても救命しないための科学的エビデンス作りが進んでいる(2009/6/10)
ALSのミュータント遺伝子研究でブレイクスルー。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/209035.php
命にかかわるほどの血栓症でも、血小板を制御する遺伝子発見のブレイクスルー。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/209118.php
ある調査で、南アフリカの男性の3人に1人がレイプの経験があると答えた。女性は4人に1人が被害に遭った、と。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/nov/25/south-african-rape-survey?CMP=EMCGT_261110&
米国ライフル協会がテキサス州で18歳から銃を買って持ち歩くことを認めさせようと訴訟を起こしているらしい。
http://www.nytimes.com/2010/11/26/opinion/26fri1.html?nl=todaysheadlines&emc=a211
英国でオモチャのトランスフォーマー・シリーズに、spastic(不随意運動でピクつきのある)と箱に銘打った新型トランスフォーマーが登場。
http://www.bbc.co.uk/ouch/opinion/b1tch/db_transformer.shtml
事故で道路が渋滞して、いつもより20分も遅くなってしまった。
部屋に入ったら、
テレビの前で車いすに座っている娘は
鼻も目も真っ赤に泣き腫らしていた。
ミュウは金曜日には、どうかすると師長さんを大声で呼びつけて
「あたしは今日、家に帰ることになっている?」と確認してもらっていた時期もあるので
(彼女には言葉はないけど、今の師長さんとは、かなり細かく会話が成立します)
てっきり迎えが遅くなったから泣かせてしまったのかと思って
夫婦で娘に向かってしきりに謝っていたら、
娘と一緒にテレビを見ていた身障の女性が「おかーさん、ちがうよ」。
なんでも、1年だか1年半だか短い間働いて、この春辞めた元職員の男性が
今日、園に来て、つい、さっき帰ったのだとのこと。
働いていた頃にミュウのことをずいぶん気にとめてかわいがってくれた人で
ミュウは再開を大層喜んだ。
その人もミュウとの再会を喜んでくれたそうな。
そして、その人が帰る時に、ミュウは大号泣したのだという。
(最近のマスコミは、ただ涙を流すことを大げさに「号泣」と称しますが、
ウチの娘が泣く時には、本来の「号」の意味通り、わぁわぁ大声で号泣を放ちます)
「ふ~ん。そうだったのかぁ。で、その人って、だれ?」と訊くと、
その女性が「たぶん、お母さんの知らない人」
「あ……そう……。ふ~ん。そっかぁ。
ミュウ、泣いたかぁ。別れが悲しかったんだぁ」
こういう時、親としては、ちょっと複雑な気分にはなる。
迎えが遅くなったから泣かせたんだと早とちりしてしまったのは、
とっくに大人になったミュウを前に、親の自意識過剰だったのね……。
これは、ちょっとバツが悪いし、ちょっとヘコむ。
でも、ヘコみつつ、どこか、猛烈に嬉しい。
こんなにも重い障害があり、言葉という表現手段を持たない娘が
親の知らないところにちゃんと自分の暮らしを築いていて、そこで
親の知らない人と、それほどの繋がりを作っているということ。
それは、やっぱり、すごいじゃないか。
それって、なんだか、わくわくするじゃないか。
今までも、どこかで親の知らないミュウの知り合いに声をかけられると、
「親の知らないミュウの知り合い」に心躍ったことは何度かあった。
でも、これは、また、それ以上に、
ああ、この子は自分の力でそれだけの広い世界を作り生きているんだなぁ、
言葉を持たないこの子を受け止めてくれる人がちゃんといるんだなぁ、
その人と再会して別れるのが、こんなにも悲しいほど、
ミュウはその人が大好きだったんだなぁ……。
ミュウ、あんた、すごい人間だねぇ……。
泣き疲れてブスッと泣き腫らした娘の顔を見ながら、つくづく思う。
そして、会う機会も話す機会もなかった、その元職員さんに、
心から、ありがとう、と、つぶやく。
だって、それは、
この子をいつか社会に託して逝く勇気があるか
それだけ総体としての人間を信じられるか、と
ずっと自分に問い続けている私にとって、
私の方こそ大声あげて泣きたいほど、
嬉しく勇気の湧いてくる話だったからさ。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/208901.php
ギリシア状態のアイルランド政府が財政立て直し案。大増税と福祉の大幅カット。:ネオリベ・グローバリゼーションの果てに、実は世界中がこういう方向に向かいつつあるような気がする。こわい。
http://www.nytimes.com/2010/11/25/world/europe/25ireland.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a22
サラ・ペイリンさんが、今度は「同盟国である北朝鮮を支えなければ」と規視感の強い失言。
http://www.guardian.co.uk/world/richard-adams-blog/2010/nov/24/sarah-palin-north-korea-allies?CMP=EMCGT_251110&
英国の警察に、DV夫に48時間自宅から去るよう命じる権限。被害者の妻が支援を見つけるための時間稼ぎとして。
http://www.guardian.co.uk/society/2010/nov/25/domestic-violence-police?CMP=EMCGT_251110&
ここしばらく補遺で拾っている英国の大学学費値上げ問題で、大規模デモ。
http://www.guardian.co.uk/education/2010/nov/24/student-protests-school-children-streets?CMP=EMCGT_251110&
FDAが自殺リスクを警告したことで、子どもへの抗ウツ剤の処方が減ったとの調査結果。特に12歳以下のうつ病では心理療法を主要な治療とするケースが増えた。:前に、でも、こういう現象が起きた時に自殺率は上がったんだぞ、と誰かが言っていたような記憶があるんだけど……。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/209080.php
マサチューセッツ州の保健当局が、製薬会社と医療機器会社から医師や看護師に支払われた金銭情報のデータベースを公開することに。:MA州といえば、ハーバード大学がある、かのB医師スキャンダルのご当地。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/209188.php
ProPublicaのビッグ・ファーマ・シリーズの最新記事。製薬会社が何年も前から、新薬について説明する教育講演に医師を集めるべく、有名アスリートに莫大な金を払って来てもらい、人寄せパンダに使っていたとのこと。有名アスリートと会ったり一緒に写真が撮れると思うとルンルンして集まってくる人が実際に多かったらしい。
http://www.propublica.org/blog/item/for-years-drug-company-paid-top-athletes-to-attract-doctors
きょうびの子育て支援グッズ。赤ちゃんがなぜ泣いているのか、泣き声から意味を読みとってくれるマシーン。親の膝に乗っているのと同じ揺さぶり方をしてくれるベビー・チェア。寝かしつけるときに耳元で囁き続けてくれるアプリ……などなど。
http://www.nytimes.com/2010/11/25/garden/25hometech.html?nl=todaysheadlines&emc=a26
健康なゲイ男性が抗レトロウイルス剤を毎日飲むと、エイズ予防になる、との研究結果。
http://www.nytimes.com/2010/11/24/health/research/24aids.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a2
子どもの時に親の離婚を経験すると、後の人生で脳卒中になる確率が高くなるそうな。:こういう報告を見ると、AとBの因果関係しか調査・実験できない“科学的エビデンス”の限界を感じると同時に、その実験ないし調査によってBが選択されたということは、無限にあり得たはずのB以外は選択されないままになったことを意味する……ということを考える。子どもの時に3回以上引っ越しを経験するとか、何歳までに親と死に分かれた経験があるとか、里子に出されたとか、極貧だったとか、若年介護者だったとか、親から虐待されたとか、雨が多い地域に住んでいたかとか、ペットがいたかいなかったかとか、家から学校が1キロ未満だったか以上だったかとか……。あー、ここまで来ると、さすがに関係ないか。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/209022.php
ヴァチカン、カトリックのコンドーム使用を認める方向。エイズの感染リスクを考えての方向転換。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/nov/23/catholic-church-condom-use?CMP=EMCGT_241110&
サンデル教授の「これからの『正義』の話をしよう」を読みながら思い出されて、
本棚から引っ張り出したのが紀野一義著「私の歎異抄」。
(もう文庫しかないみたいですね。私のは93年の初版16刷ハードカバー。)
読み返すたびに著者の根深い女性蔑視にはなはだしく不快になるのだけれど、
きっと女性に恨みつらみやコンプレックスの多い人生だったのだろう、と決めつけることで、
そこの点だけは“ならぬ堪忍”を自分に強いつつ、何度も読み返してきた本の1つ。
このブログで、英語圏のラディカルな生命倫理の議論、
特に合理合理でゴリゴリと押してゆく論理のパズルのような議論について考えていると、
脂っこく噛みごたえのある洋食続きで弱った胃袋が
「そろそろ滋味のある和食でいたわってくれろ」と助けを求めるかのように
人間の心の綾を丁寧に描いて味わい深い小説や
日本の死生観・自然観について書かれたものを読みたくなる。
……人間は……(略)……無量の光、無量のいのちである大いなるものに生かされているのであることが完全に理解されたとしても、理解され、一体となればなるほど、自己の我執の根の深さを思わせられるのである。自分の中にどうにもならぬものがうごめいていることを思い知らされるのである。この自分のどうしようもなさを思い知らされた人間は、自分のことをどうにもならぬ「悪人」と感ずるのではないか。
それは、宿業の恐ろしさを身にしみて感じた人間のことであるといってもよい。
いわゆる「善人」は、文字通り「よい人」であって、日常生活においても、さわりのよい、常識的に人々が善と考えることを抵抗なく実行できる人のことである。この人々は宿善、すなわち、過去の善縁によって善事を行なわしめられているのにすぎないのであるが、それを、どこやら、自分の力で善いことをしていると抵抗なく考えることのできる「幸福なる人」である。
私は、そういう人はそれでよいと思う。親鸞もそういう生き方がいけないといっているのではない。いいわるいの問題ではない。そうであるか、そうでないかだけの問題である。
ただ、自分の力で善いことをしていると抵抗なく考えることのできるこの幸福なる人は、過去の悪縁が働いてきた時は、また抵抗なく「どうしようもなかったのだよ」と無反省に過ぎて行ってしまうであろう。
しかるに「悪人」は、そう無反省に過ぎていくことはできない。いわゆる「悪人」ももちろん善事を行う。しかし本人はとても善事を行っているというような意識はない。……(略)……「悪人」の意識の根底にあるのは「自分は極重悪人だ」という気持ちである。どうしても無我になりきれないかなしみ、無私になりきれない憤ろしさがある。もちろんそれを人に言うのではない。言えば、「自分を極重悪人と思う反省の深さがわたしにはある」という驕慢心が忍び込む。そのことが悪人にはすぐにわかる。わかるからよけいに無我になれなくなる。だから言わぬのである。
(p.73)
ここは、悪人正機説の要諦のような下りなので、
読むたびに、その時々のこちらの精神状態によって、いろいろに受け止め直すのだけれど、
今回はAshley事件からこちら考え続けている「親のプライバシー権」の問題に重なった。
Ashleyの父親はブログで、loving parentsとして我々はこれを考えたのだと
繰り返し書いている。このことに、私は当初から違和感があった。
本当に愛情深い親は、それをわざわざ言葉にして念押しする必要も
感じないものなのだよ……みたいな。
もちろん、ここでは、もともと、それを訴えるためのブログなのだという点は
いくぶん差し引かなければならないだろうけど、それにしても、
親が、子の身体を不必要に侵害することに微塵も疑いを抱かないばかりか、
親と子の間にある利益の相克、権利の衝突に気付きもせず、
したがって親であるということそのもの持つ抑圧性や暴力性にも無感覚なまま、
こんなにも無邪気に、子への愛を盾に取り、言い訳に使い、
なおかつ自分は「こんなにも愛情ある良い親なのだぞ」と胸を張る時に、
そして、そこに世間が
「さわりのよい、常識的に人が善と考える」「良い親」を見て感動し、手を叩く時に、
私は、改めて、
「親は一番の敵だ」と言い放ってくれた日本の障害者運動の先駆性、腹の据わり方のすごさを思う。
親や介護する側に立つ人が、そこに潜む支配―被支配の関係に自覚的であるということの重要さを思う。
10月に来日した哲学者のEva Kittay氏は講演で、
介護者の「透明な自己」という表現を使っていた。
ここには2重の意味があるということを考えながら私は聞いたのだけれど、たぶん、
その1つは、支配せず、介護される者の側に立ち切った介護者ということ。
それからもう1つは、依存者をケアする役割を引き受けることによって
自分自身のニーズや様々な欲求を捨てざるを得ず、
透明になるほど抑圧された介護者の自己。
介護者にとって前者は理想とすべきあり方でありながら、
それを実現しようと努めれば努めるだけ、介護者は後者の抑圧を引き受けることとなる。
介護者はみんな多かれ少なかれ、それぞれの事情の中で、そのジレンマの中に身を置いている。
そのジレンマを、介護者自身も、そして社会も
事実そこにあるものとして認識することの必要と、
その事実を排除したまま論じられてきた社会正義・政治哲学が
その事実を組みこんで新たに考え直されなければならないこと。
Kittay氏の理論が向かっているのはそういうところではないかと思う。
再び、「私の歎異抄」から。
「もういい、仕方の無い事ではないか」ということばは、安易に吐かれると大変危険であるが、悲しみが昇華したあと、あるいは、苦しみ多き長い人生を歩き通して終着点近くなった人の口から言われると、仏から来たことばのような安らぎがある。人間のぶざまさ、足りなさ、恰好の悪さ、どうしようもなさをしみじみと思い知ったとき、もう大きな力に促されるままに生きてゆくほかないな、という自然法爾(じねんほうに)の世界につながってゆくことになるのである。
(P.222)
三島由紀夫は恥をさらしたという人がある。その人は恥をさらさぬのであろうか。おそらくそういうことをいう人は、恰好よく生き、自らを恰好のいい人間と思っているから、そう言うのであろう。しかし、恥をさらして何が悪いか。恥をさらさぬ人間というものがあろうか。そういう人間は上手に逃げているだけではないのか。……(略)……
人間が恥をさらさずにどうして生きてゆけるのか。病んで身動きもできず、激痛に苦しめられている時、恰好よく、恥をさらさずに生きてゆけるか。老いてなおかつ美しく生きてゆけるか。脳の一部の血管が切れただけで、もう人間は恥をさらすのではないか。
親鸞が「凡夫」といったのは、「人間は恰好の悪い、恥さらしの存在である」ということではないのか。
(p.235)
Kittay氏が提示した、もう1つの重要な概念は「みんな誰かお母さんの子ども」。
これは要するに、親戚のオバサンなんかが、
大人になって“いっぱし”なことを言う甥っ子とかに向かって
「あたしゃ、昔、アンタのオムツを替えてやったんだからね」とピシャリと喰らわせる、アレですね。
今でこそ「恰好よく生き、自らを恰好のいい人間と思っている」高みから頭の良さにゴーマンかまして、
頭の悪い障害者は動物以下だなどとホザいているPeter SingerやTH二ストだって、
生まれた時には、オシッコもウンコも垂れ流しだったやないか。
お腹がすいたら、誰かが来てくれるまで無力にピーピー鳴いてたやないか。
お母さんに全面的に依存した存在だったやないかい。
お母さんがケアしてくれたから今のアンタがあるんと違うんかい?
さも自分は優秀だから誰の力も借りずにここまで来たんだ……みたいな顔しくさってからに。
人間はね。み~んな、そういう無力な存在として生まれてくるの。
そして、そういう無力な存在になって、死んでいくの。
その間を生きていても、ちょっと何かがあると、すぐに誰かのケアが必要な状態になる。
人間てのは、アンタも私も、み~んな、そういう存在なの。
そういうことを自覚し、ちったぁ謙虚になって、そんなゴーマンかましてる暇に、
みんながそういう存在として生きられるような社会を考えたら、どないやねん、こら!
――と、Kittayおばさんは
「みんな誰かお母さんの子」によって言いたいんじゃないかなぁ……。
――と、spitzibaraおばさんは考えるのだけどね。
―――――
もう1つ、上記の最後の2つの引用は、
「死の自己決定権」を唱えている一部の人にも当てはめて読めるような気がする。
恰好よい自分として生きられないなら、生きる価値がないと思う人たちに――。
この2つの個所を読みながら「くぐりぬける」という言葉が私の頭には浮かんだ。
中途障害を負った人や、障害児の親などが、障害を負ったり、子どもの障害を知った直後には
大きな衝撃を受け、自殺を考えるほどに打ちのめされるけれども、それでも多くの人は、その後、
もだえ苦しむ葛藤をくぐりぬけて、弱い人間でしかない自分や子どもを引き受けて
生きていこうと思える場所に這い出してくる。
「くぐりぬける」ということを経ることで、その時、人は、
くぐりぬける必要が生じる前よりも深いところにある何かに触れるんじゃないだろうか。
もはや「恰好をつける」ことも「上手に逃げている」こともできなくなった人間が
もう死んでしまいそうなところを、やっとの思いで命からがら、くぐりぬけた時に、
「もういい、仕方のないことではないか」と以前の自分への執着を解き放ち、
今のありのままの自分として生きることを受け入れることができるのではないんだろうか。
「死の自己決定権」を認めて自殺幇助を合法化し、
例えば事故でマヒを負った23歳の青年の自殺幇助を認めるのは、
彼の持つ「くぐりぬける」力を信頼しないということだ。
人はみんな、全面的に無力な依存者として生まれ
誰かに温かくケアしてもらって生き、大人になってきたのならば
本当はみんなに「くぐりぬける」力は備わっているんじゃないだろうか。
必要なのは、くぐりぬけようとする前から諦めることに手を貸すのではなく、
その人が生まれてきた時に誰かがケアしてあげたように、
その人がくぐりぬけることにも誰かが支える手を差し伸べること、
誰にとっても、そういう社会であろうとすることじゃないのだろうか。
「これからの『正義』の話をしよう - いまを生き延びるための哲学」を、やっと読んだ。
私は
何らかの体系的な学問とか知識があって、それを土台にAshley事件を考えているというのではなくて、
最初にA事件との出会いがあって、
その出会いによって、そこから大きな世界を覗き見る小さな窓を得たことになり、
そこから覗き見えることを目につくままにチマチマ追いかけたり
考えてみたりしているに過ぎないので、
そういう窓のこちら側から、初めて外の広々とした空間に出て、
道徳哲学という大きな平原を見はるかす高台に立ち、
あそこが功利主義、あっちに見えるのはカントが描いた風景、と
1つ1つ指差しながら懇切丁寧なガイドさんに案内してもらったようで
分かりやすい風景を鳥瞰する爽快感と
“道徳哲学観光ツアー”的ワクワク感があった。
もちろん、それら風景の場所を直接訪れたことはないのだから、
この本について何ごとかを語るには私は圧倒的に知識を欠いているし、
ただの直感的な感想とか印象程度のことを追加しながら、
特に印象に残った個所を、いくつかメモ的に。
①
もっとも、カントはわれわれがつねに理性的に行動できるとか、自律的に選択できると言っているわけではない。そうできるときもあれば、できないときもある。カントはただ、人間には理性の能力と自由の能力があり、この能力は人類共通のものだと言っているだけだ。
(p.141)
カントが言っているのが、個々人の能力についてではなく
むしろシュトルクとか立岩氏が「人間とは人間から生まれたもの」というのと同じ意味で、
人間に共通する資質について言っているだけであり、
それが種としての人間と動物の間に一線を画するのだからこそ、
そのような種である人類の一人として、人は自律的に義務にしたがって生きよ、と
説いているのだとしたら、
パーソン論がそういうのを個々人に当てはめて、
それぞれの人の道徳的な地位を認められる資格審査の物差しに流用するというのは、
もともと全然、筋が違ってない?
(パーソン論の論拠はカントのこういう理性の定義だと、
たしか What Sortsブログの議論で読んだような気がするのだけど、違うかもしれない。
元祖がトゥーリーだというのは、ここで読んだ。)
②
近代科学の誕生とともに、自然を意味のある秩序と見る見方は影を潜めた。代わって、自然はメカニズムとして理解されるようになり、物理的法則に支配されると見られるようになった。自然現象を目的、手段、最終結果と関連づけて解釈するのは無知ゆえの擬人化した見方とされるようになった。
(p. 245)
① の部分とか、ここのところとか、
総じてサンデル先生がカントを解説してくれる部分を読んでいたら、去年、
大統領生命倫理評議会の「人間の尊厳と生命倫理」と「おくりびと」とか
「納棺夫日記」と吉村明の最期とかで書いたようなことを、また考えた。
後者のエントリーでちょっと触れた紀野一義氏の「私の歎異抄」を読み返したくなり、
実際に、「これからの『正義』」の直後に、また読み返してみたりもした。
30代の頃に、般若心経の解説書を何冊か集中的に読んだことがあって、
その中のどの本に書いてあったのか、それが本当に書いてあったことなのか、
それらを読んで私が頭に勝手にでっち上げた解釈なのか(たぶん、これのような気がする)
もう今となってはよく分からないのだけど、
カントが言っている自律的な生き方としての自由というのは、
「自由」よりも、仏教の「自在」の方により近い……とか?
欲望を満たすための自由ではなく、
欲望・我執から解放されて初めて到達することのできる自在。
人が、自分を突きぬけて、自分を超えた何か大きなものと繋がり、
その大きなものに突き動かされるように、
「やりたい」という欲望でも「やらなければ」という意思でもなく、
大いなるものの促しによって、ただ「やらずにいられないから」やる、
ただ、ひたすらに、ひたむきに、やる、という境地に至った時に、
その時々に、己の心の欲するままにふるまって、
それがそのまま善であるという自在――。
別の言葉で言えば、融通無碍の涅槃の境地。
または、老子のいうタオ? (私が読んだのはもちろん老子ではなく加島祥造)
その、自分とか個というものを突き抜けた先にある大いなるものというのが、
自然の秩序であったり、そこに繋がる人間性であったり、
はたまた共通善(これはアリストテレスだっけ?)であったりするのでは?
そういう生き方という同じ到達点に、
欲望を捨て我執を放れて大いなるものに身をゆだね切ることによって
そこに至れと仏教が説いているのに対して、カントはそれを
理性により自律的に選びとることによって至れ、と言っているような……。
全くの見当違いなのかもしれないけど、なんとなく、そんなことを。
③その他、
自然的義務と異なり、連帯の責務は個別的であって、普遍的ではない。そこにはわれわれが負う道徳的責任も含まれるのだが、この責任は理性的な人間そのものではなく、一定の歴史を共有する人間に対する責任である。……(略)……その道徳的な重みの源は、位置ある自己を巡る道徳的省察であり、私の人生の物語は他人の物語とかかわりがあるという認識なのである。
(p. 291)
ちなみに、物語る存在としての人間とは、アラスデア・マッキンタイアが
「美徳なき時代」(1981)の中で唱えたものだそうな。
例えば「私の人生の物語はつねに、
私のアイデンティティの源であるコミュニティの物語の中に埋め込まれている……」
(P.289の引用)
(「ナラティブ・ベイスト・メディスン(NBM)」が言われ始めた背景も、もしかして、これ?)
家族や同胞の行動に誇りや恥を感じる能力は、集団の責任を感じる能力と関連がある。どちらも、自らを位置ある自己として見ることを必要とする。位置ある自己とは、自ら選んだのではない道徳的絆に縛られ、道徳的行為者としてのアイデンティティを形づくる物語にかかわりを持つ自己だ。
(p.304)
私もこのブログで、Peter Singerの言っていることや
“Ashley療法”擁護論を含めて“科学とテクノの簡単解決”文化の人たちは
あまりにも人を周囲から切り離された「個体」として眺め過ぎているという印象を強く受けていたので、
自ら選んだわけでもない諸々の“しがらみ”や“くびき”を背負い、
人や地域や社会や、個々の家族や国や人類の歴史の中に「位置ある自己」として
それぞれの物語を生きる人、という捉え方に、とても納得するものがあった。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/208743.php
オーストラリアで入院待ち状態のまま死ぬ患者数が、交通事故による死者数と並んだ。
http://www.canberratimes.com.au/news/local/news/general/hospital-wait-deaths-on-par-with-road-fatalities/2003807.aspx?src=enews
医療検査の放射線被ばくは子どもでは特に深刻な影響があるため要注意、というのは医療現場の常識となりつつあるなか、歯科医療だけはその意識が薄い。それどころか、さらに放射線量の多い検査も登場しつつある。でも現在、無規制とのこと。:ガン検診で、利益の割に被ばくリスクの方が大きいという話は、こちらの文春の特集にもあった。
http://www.nytimes.com/2010/11/23/us/23scan.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a2
http://video.nytimes.com/video/2010/11/22/us/1248069363524/the-price-of-a-smile.html?nl=todaysheadlines&emc=ab1
IT技術からの絶え間ない刺激に慣れて育った若者は、じっくり本を読むといった集中を要する学習の能力を失いつつある?
http://www.nytimes.com/2010/11/21/technology/21brain.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a2
ずっと補遺で追いかけているイランの女性の投石処刑問題で、絞首刑かと言われていた女性に、助けてやろうという声。:いったい、どうなっているのか、さっぱり。ただ、イスラム世界の女性差別が、国際世論を意識して、揺らいでいるということ……なのであれかし、と思う。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/nov/23/sakineh-mohammadi-ashtiani-stoning?CMP=EMCGT_231110&
Ulrich Koch氏(67)が、ヨーロッパ人権裁判所に、
自殺幇助を違法としているドイツの法律は
個人のプライバシーと尊厳のある死の権利を侵していると訴えた。
Koch氏の妻は2002年に自宅前で転んで首から下が麻痺し、
人工呼吸器をつけ、介護スタッフの常時のケアが必要となった。
Koch氏によると、
妻は「ひどい痙攣があり」、「車いすに座っているのも困難だった」。
マヒしていることを理由に、自殺幇助を求めて、2004年に
ドイツ連邦の医薬医療機器機関(Federal Institute for Drugs and Medical Devices)に
自殺に必要な薬物を手に入れる許可を求めたが
ドイツの麻薬法に違反するとして拒否された。
そこで夫婦は上訴し、その結果を待たずにスイスに赴いた。
妻の死後、妻に代わって訴訟を闘いつづけたKoch氏は
08年11月にドイツ連邦憲法裁判所で違法判決、
次いで今年、別の裁判所でも消極的自殺幇助のみ合法との判決が出て、
2度に渡って敗訴。
そこで今回、ヨーロッパ人権裁判所に提訴したもの。
万が一、認められた場合には影響は大きく、
顛末が懸念される。
German widower goes to court over assisted suicide
DW-WORLD.DE, DEUTCHE WELLE
それにしても、この記事でも妙な表現が目につく。
医薬品機関に却下されたために
Couple forced to go abroad.
「夫婦は国外へ行くことを強いられた」。
それから、
Because she was paralyzed, she appealed for active help to end her life.
「マヒしているので、死ぬための積極的な助けを求めた」。
ちなみに、Dignitasで死んでいる外国人のうち、最も多いのがドイツ人で、
08年時点で既に500人を超えている。
なお、ドイツでは今年の夏、消極的安楽死に合憲判決が出ていますが、
以下のように、その際にはAP通信やNYTが自殺幇助と問題を整理せず、
グズグズに報じていました。
ドイツ最高裁が本人意思なら延命治療停止は合法との判断(2010/6/25)
ドイツの延命治療停止判断を自殺幇助とグズグズに書く NY Times(2010/6/29)
AP通信がドイツの「自殺幇助合法化」報道を訂正(2010/7/3)
来日したばかりのEva Kittay氏の論文を取り上げている。
あまりコメントせず、引用中心のエントリーになっているのもありがたい。
The Best for Last
No More Ashley X’s: Say NO to Growth Attenuation, November 20, 2010
まずClaireさんも、前にBill Peaceが引用していたのと同じ箇所を引く。
My daughter Sesha is now a woman of forty. She, too, does not toilet herself, speak, turn herself in bed, or manage daily tasks of living, and she has no measurable IQ. Like Ashley, Sesha is so loving and easy to love that her impossible-to-articulate sweetness and emotional openness make it tempting to call her an “angel.” Still, we refrain. To love Sesha as she is, we must accept that, unlike an angel, she has a body that grows and ages.
Kittay氏にも重症障害のある娘さんがいること、
その娘Seshaさんを、天使に例えたり子ども扱いではなく、
成長し老いていく体ごと、ありのままに受け入れようとしていることを提示する。
I respectfully disagree. I do not believe that growth attenuation is ethically or medically appropriate, even when limited to children with profound developmental and intellectual impairments.
The compromise position rests on the assumption that the constraint will avoid many of its possible abuses. The problem is that the limitation is itself already an abuse. If growth attenuation should not be done on children without these impairments, then it should not be done on any children. To do otherwise amounts to discrimination.
成長抑制WGは、
濫用防止のために、制限さえ設けて重症障害児に限定すれば
成長抑制は倫理的に妥当であるとの妥協点に達したというが、自分は、反対である。
なんとなれば、障害のない子どもにやるべきでないことを
障害がある子どもだからやってもいいとする限定そのものが差別だからである、と。
ここまでは、先日Bill Peace氏のブログ記事を通じて、
Kittayさんに成長抑制WGのことを聞いた!で紹介した箇所。
Claire さんが新たに引用してくれているのは、
It is easy enough to grant the point that medical interventions aim at particular ills and thus “discriminate” by targeting the population who can benefit from the treatment. But consider some procedures that disabled children often face: gastrostomy tubes for feeding, spinal fusions for scoliosis, and tendon releases for spasticity. All may also be carried out on children not otherwise disabled, or they address a specific medical disorder, not a class of persons per se. Some, like gastrostomy tubes, may be more frequently administered to those with impaired cognitive function, but only because the impairment is often coupled with difficulty swallowing and ingesting food. Severe cognitive disability is not an indicator for these or for any other procedure. But the majority of the working group believe that profound cognitive disability is a necessary and sufficient justification for growth attenuation.
医療介入とは特定の疾患に対応するものであり、それゆえに本来的にその介入から利益を得る患者を差別化して対象とするものだとの反論はありうるかもしれないが、多くの障害児が受ける医療介入の中で、例えば経管栄養を考えてみると、重症知的障害がある子どもが対象となることが多い。
咀嚼や嚥下に問題がある子どもが対象の介入であり、重症知的障害が咀嚼や嚥下の問題の指標となるわけではないはずだ。しかし、成長抑制WGは、重症認知障害を成長抑制に必要十分条件としている。
(全文翻訳ではなく、概要)
私としては、この反論に対しては、
成長抑制は“社会的問題の解決策としての医療技術の応用”に過ぎず、
健康上の問題によって介入が必要となっているという意味での“医療介入”ではないのだから
治療はもともと対象者を差別化して応用するものだという反論は成り立たないのではないか、と思うけど、
一方、胃ろうについては、Kittayさんと同じ問題を、以下のエントリーで指摘している。
ヘンだよ、Ashleyの胃ろう(2008/12/20)
食事解除の時間短縮策としてのみ語られる胃ろう(Wilfond論文)(2008/4/27)
師長の大国(2008/12/24)
Kittayさんの結論は、
The real supposition underlying the restriction is that severely cognitively disabled people will never know the difference―even though we cannot be sure this is true. And with that supposition, what else might we be able to do to this population? The long and gruesome history of abuses done to people with severe cognitive disabilities includes a litany of similar claims―that they won’t know the difference if a part of their brain is lobotomized, if they are deprived of clothing, if they are showered communally by being hosed down. Yet we have learned that once we stop supposing that they don’t know the difference anyway, we learn how often they understood the treatment as mistreatment.
The Pandora’s Box of horrors is opened still again when severe cognitive disability is the lone and sole indicator for a certain treatment. The shame of it is made that much worse when some turn out to be cognizant of their mistreatment. The risk that these demons will reemerge is too great for the procedure to be acceptable.
実際には、重症知的障害児への限定の背景にあるのは、重症認知障害児なら、どっちみち(身長が自然に伸びようが抑制されようが)違いなど分からない、と、それ自体疑わしい推測である。
しかし、その推測が正当化の論拠として成り立つなら、重症認知障害者には成長抑制以外にも、正当化されてしまうことは多い。長く陰鬱な歴史を見ても、彼らにはどっちみち違いなどわからないと、ロボトミーが行われ、衣類を着せず、人前でホースで水をかけることでシャワーの代わりにされてきた。それらの歴史から我々は、どうせ違いなど分からないという前提を捨てて、ひどい扱いを受けたことは分かるのだと学んだのである。
認知障害が特定の治療の唯一の指標とされる恐怖のパンドラの箱が、ここに再び開けられてしまった。ひどい扱いを受けたと分かっている子もいると後でわかれば、いっそう恥ずべきこととなる。そんなおぞましいことが繰り返されるリスクを考えれば、成長抑制を受け入れることは出来ない。
(こちらは、ほぼ全文翻訳に近いもの)
【Kittay氏関連エントリー】
Eva Kittayの成長抑制論文(2010/11/7)
ずっと書いているClaire Royさんのブログが、その合間に、
テクノロジーの進歩によって重症障害者の意識が証明されたり、
これまで意思疎通不能だと思われていた人たちとコミュニケーションがとれるようになる
可能性について書いた誰かの文章から、
そういうテクノロジーは、Ashley療法を提唱している人たちの
重症児ステレオタイプにどのように影響するのだろうか、という点について
考えを巡らせている。
Will Technology help us avoid more Ashley X’s?
No More Ashley X’s: Say NO to Growth Attenuation, November 18, 2010
私もちょうど先日、ひょんなことから、ある人との間で
重症児・者のコミュニケーションについてメールでやりとりすることがあったばかりで、
そのやりとりのおかげで、
私の中でこれまでイマイチちゃんと整理できずにいたことが、
ほんのちょっとだけ、これまでよりは整理できた気がする。
やりとりしながら最後に書いた自分のメールの文章の一部をメモ的に以下に。
(私信のため、一部に手を入れていますが、ほぼ原文のまま)
今の時代が恐ろしい方向に向かっていることや、
多くの問題が根っこのところで繋がっていることについての問題意識は、
確かに私も共有していますし、
重症障害児・者の認知能力を客観的に証明する必要も、そういう時代の方向性のなかでは、
多分かなり切迫してあるのだろうとも認識はしているのですが、
それを、何を通じて訴えようとするのか、という点で、
○○さんとは相いれないものがあるように感じます。
特にAshley事件を通じて私が考えている重症児のコミュニケーションの問題は、
拙ブログの「A事件・重症障害児を語る方に」という書庫の中の
エントリーを読んでいただければと思うのですが、
ごく普通の当たり前の生活の中で、ごく普通に「共にいる」こと、
その子どもを「障害児」としてではなく名前も顔も個性もある「○○ちゃん」として知ることから、
つまり普通に相手を人としてありのままに尊重し愛することから、
そこはかとなく、であれ、自然に生じてくるはずのコミュニケーションのことです。
それは、実は多くの通園・入所施設や養護学校、デイサービスなどで、
ごく自然にやり取りされていることであり、
そこには奇跡のような特定のメソッドや特別な技能をもった人は無用だ
というのが私の考えです。
意思伝達装置の可能性を私も否定しませんが、装置から始まるのではなく、
当たり前の非言語コミュニケーションが前提として、
また周囲の姿勢として、まず存在して、その中での補助ツールだろうと思います。
もちろん脳死者や植物状態、最少意識状態とされている人たちの意識状態についても
大いに問題は感じ、考える必要も感じていますが、
そこは十分に整理しておかないと非常に危うい議論になるように思うので、
私はとりあえず分けて考えたいです。
ただ、そこを自分としてどのように分けて整理するのかは、まだまだ混沌としているので、
私にとっては今のところ手をつける自信のない問題かなぁ、と思います。
この時には頭に浮かばなかったけれど、
これを書いたことをきっかけに、その後、考えたこととしては
① 脳死者、植物状態、最少意識状態の人のコミュニケーションの問題と
重症心身障害児・者のコミュニケーションの問題には違いがあることを確認しておきたい。
前者のテクノロジーによるコミュニケーションの可能性で問題になるのは、
まず第一に「意識の有無」であるのに対して、
後者では、明らかに「意識はある」ので、
その点の違いを確認しておく必要があること。
(Ashleyの意識についても alertと書かれています。
父親のブログの写真を見て「Ashleyには意識がない」と言える人はいないはず)
② 重症身体障害者のコミュニケーションの問題と、
重症心身障害者のコミュニケーションの問題には違いがあることを確認しておきたい。
例えばALSをはじめ重症身体障害者は、ツールと適切な支援があれば
文字を使った意思表示が可能になりますが、
日本でいわゆる重症心身障害児・者とされている人たちは
文字を使った意思表示ができない人たちです。
もしも、ひらがなが認識できて使えるなら、
その人は、たぶん重心児・者の範疇ではなく、
身体障害を伴う軽度の知的障害者が
重症心身障害者と誤診されていたということだと思う。
そのため、重症身体障害のある人たちに有効なコミュニケーション・テクノロジーの多くは
重症心身障害のある人たちには、有効ではない可能性があります。
ただ、前者の人たちに有効なテクノロジーが後者の人たちに有効でないからといって
それが直ちに、後者の人たちに意思も感情もないことを意味するわけでも、
後者の人たちにコミュニケーション能力が一切ないことを意味するわけでもありません。
ALSをはじめ重症身体障害の人たちのコミュニケーションの問題と
重症重複障害児・者のコミュニケーションの問題とでは、
そこに決定的な違いがあることは、事実として確認しておく必要があると思う。
③ 重症知的障害児・者の意識や意思や感情が「ある」と証明するために、
彼らを天才に祭り上げたり、彼らに高度な議論をさせてみせたりして
知的障害そのものを否定してみせる必要はないことと同時に、
重い知的障害がある事実は、精神活動そのものが乏しいことを意味するわけではないことも
2つ合わせて、きちんと確認しておきたい。
重症の知的障害があるのだから、
知能については私たちと同じではありません。
しかし、知能は
人間の精神活動や、人の心や人格の、わずかな一部に過ぎません。
平仮名さえ認識できず、数の概念すら持たず、
知能の働きが私たちと同じでないなら、じゃあ
「やっぱり幼児や赤ん坊と同じ」じゃないかと言われるなら、
それはやっぱり違うのです。
具体的にそれが「どう違う」のか、ということを
直接体験として重症児・者を知らない人に
どのように伝えていくことができるのか――。
それは、本来なら体験してもらう以外に、了解し得ないことなのかもしれません。
それなら、ミュウを含め、重症心身障害のある人たちが、
どのような人として、そこに生きてあるのか、ということを、
論じたり説明したりするのではなく、ありのままの姿として描くことによって
ある程度それを伝えることができないかという試みとして、今までに書いてみたものは
上記引用にあるように「A事件・重症障害児を語る人に」という書庫にあります。
よかったら、覗いてみてください。
重い知的障害があるのだから、そこはもちろん
私やあなたと全く同じではないかもしれないけど、
彼らは障害があるなりに、自分なりの分かり方で「分かっている」し、
私たちが思っているよりもはるかに多くのことを理解し、感じ、考え、それを
自分なりの方法で「表現している」し「伝えようとしている」のです。
私たちと同じような分かり方をしていないからといって、
何も分かっていないわけじゃない。
私たちと同じ方法でコミュニケーションが取れないからといって
全くコミュニケーションの能力がないわけじゃない。
ところが、現在、一番危ういのは、
これら実はそれぞれ別問題であるものたちが
ちっとも整理されないまま、ぐずぐずに混同されて
「私たちと同じ方法でコミュニケーションが取れないなら意識がない」という
事実無根の短絡が、まかり通ろうとしていること。
そして、それが身体障害、知的障害いずれも含めて
重症者の生死に関わる大問題になろうとしていること。
でも、その大問題の手前で、もっと整理されるべきことが、
意識の有無の問題
知的障害の有無や程度の問題
知能と知能以外の精神活動や情動との別という問題
文字による意思表示の可否の問題
非言語コミュニケーションの問題
……と、実は沢山あるはずなのだと思う。
(誤解を避けるために、追記しておくと、
脳死者、植物状態や最少意識状態の人の意識の有無については
「あると証明できない」とは、あくまでも「ない可能性もある可能性も依然として残っている」のであり、
それならば「ある」とする側に立つべきだと、私は考えています)
http://edition.cnn.com/2010/HEALTH/11/19/male.circumcision.sf/index.html?hpt=C1
Claire Royさんが、Ashley事件におけるNorman Fostのこれまでの発言の中から、いかに彼が過激で不当な発言を繰り返しているかを例示した上で、Hastings Center ReportのFost論文を取り上げて、「第三者」と称する障害学や障害当事者らの主張の内容に彼が依然として無関心であることを指摘している。:なるほど、あのタイトルの「第三者」とは、障害当事者だったのか。じゃあ、あのタイトル Offence to Third Parties? が言わんとしていることは、「要するに障害当事者が気に入らないというだけなんだろ」なんだな。つまり、感情論に過ぎない、と。……違うわい。
http://saynoga.blogspot.com/2010/11/infamous-quotes-by-norman-fost.html
新型と季節インフルの混合ワクチンで2人死亡。日本。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101119-00000101-mai-soci
米国のシンクタンクの調査で、英国のNHSは先進国で、患者の金持ち度が医療へのアクセスに影響しない唯一のシステムである、との結論が出ている。:日本政府、厚労省の感想を聞きたい――。
http://www.guardian.co.uk/society/2010/nov/18/nhs-best-free-access-healthcare?CMP=EMCGT_191110&
Lancetに報告された調査。08年4月1日から6月30日までに英国の病院で外科手術を受けた後に死亡した80歳以上の高齢者のケアに関するデータを調べたところ、多くの高齢者が適切なケアを受けられていない惨状が明らかに。:上記の調査結果と比較すると、どこの視点からどのデータをどのように眺めるかによって、どんな研究結果も、非常に限定的な範囲についての報告に過ぎない……と言えるような。まぁ、高齢者の医療については、これまでも似たような報告は出ているので、ある程度そろえば、一定のエビデンスなのかもしれない。
http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736%2810%2962115-0/fulltext?elsca1=TL-191110&elsca2=email&elsca3=segment
ツイッターで陪審員の守秘義務が崩壊しかけている?
http://www.guardian.co.uk/law/2010/nov/19/law-jury-twitter-internet?CMP=EMCGT_191110&
http://news.scotsman.com/news/Margo-MacDonald39s-assisted-dying-Bill.6631635.jp
http://www.cisionwire.com/media-intelligence-partners-ltd/care-not-killing-scotland-responds-to-the-decision-of-the-end-of-life-assistance-committee-to-reject-euthanasia-and-assisted-suicide-bill-
当然ながら、上記法案提出者のMcDonald議員は怒り心頭で、委員会のメンバーは法案が書かれる前から自殺幇助に対して反感いっぱいだった、だから、今回の議論で出たエビデンスなんか丸無視している、と。
http://www.heraldscotland.com/news/politics/msp-hits-out-as-committee-rejects-bill-on-assisted-death-1.1069396
米国カトリック教会のアーチビショップが、自殺幇助に反対する声明を出すべく、意見の取りまとめを図っている。
http://www.catholicreview.org/subpages/storyworldnew-new.aspx?action=9108
カナダで自殺幇助合法化に関する世論が、ほんのわずかながら反対に振れつつある?
http://www.onenewsnow.com/Culture/Default.aspx?id=1234644
Wesley Smithのブログによると、英国のケアホームで、自殺念慮のある高齢者が追い出されている。公訴局長のガイドラインで、専門職に対しては見方が厳しいことから、ホーム内で自殺されて、ホーム職員らが自殺幇助の責任を問われるのを恐れるため? Smith「自殺防止はどうなったんだ?」:自殺するならホームと無関係に、自宅で勝手にやってくれということか。
http://www.firstthings.com/blogs/secondhandsmoke/2010/11/18/uk-nursing-homes-evicting-the-suicidal/
この話、もしかしたら9月5日の補遺で拾ったSinclair氏の事件かもしれない。警察の捜査の結果として、以下の記事に。
http://www.jarrowandhebburngazette.com/latest-news/Care-home-denies-suicide-man39s.6631442.jp
15日の補遺で紹介した、英国保健相から出たソーシャルケアの枠組みの原文。この概要からだけ見ると、予防と、医療と介護と福祉の連携が柱。:日本の介護保険の制度改革の方向性と一致。
http://www.dh.gov.uk/en/Aboutus/Features/DH_121664
BBCの若年介護者特集の企画で、母親がMSで父親が関節炎で両親を介護している16歳の少女らがCameron首相と面談。
http://www.mssociety.org.uk/news_events/news/press_releases/young_carer.html
米国での終末期医療は、最後まで延命にこだわるところがあるかと思うと、さっさとホスピスに送り出すところもあって、病院によってまるきり違う、という調査結果。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/208444.php
確かに写真を見るとデカイ男性のようではあるけど、自己啓発スピーカーの車いす使用者の男性が、事故の際に責任を持てないからと飛行機から降ろされた。:これを言い始めると、障害者は社会のいたるところで排除されまくることになると思うんだけど? ハリケーン・カトリーナの際のメモリアル病院の安楽死事件で、巨漢の重症障害のある患者の一人は安楽死させられて、もう一人は最後の最後にヘリで救出された皮肉を思う。
http://www.patriciaebauer.com/2010/10/20/too-disabled-to-fly-30340/
2008年に自閉症児親子が飛行機から降ろされた事件はこちらのエントリー。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/40462299.html
同じころ、教会からの自閉症児の締め出しも話題になった。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/40685628.html?type=folderlist
自閉症スペクトラムの子どもたちの学校での成績は、これまで考えられていたよりも良いそうな。:こういう研究、やっぱり出てくるなぁ……と思ったら、 Washington大学の研究だった。ふ~ん。そういえば「ビル・ゲイツだってアスペルガー」というの、最近まるでスローガンみたいに、よく目につくような気がする。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/208381.php
アスペルガーと才能を対にして語ることについて、前に考えてみたのは、以下の2つのエントリー。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/48277591.html
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/48312741.html
善玉コレステロールをグイッと上げて、悪玉コレステロールをどんっと下げる奇跡のような薬が開発されるらしい。お医者さんたちは大興奮。:そりゃ、メルク社はそれ以上に大コーフンでしょうよ。
http://news.yahoo.com/s//ap/20101117/ap_on_he_me/us_med_cholesterol_drug_9/
ハイチで、コレラを流行らせたのは国連の平和維持部隊だという噂が流れ、国連職員が襲われるなど暴動が発生。広がりつつある模様。
http://uk.news.yahoo.com/4/20101119/twl-cholera-protests-hindering-doctors-41f21e0.html
http://www.google.com/hostednews/ukpress/article/ALeqM5ijgiIeweBNMjaKU7zxP3oawLWpKg?docId=N0132631290042456897A
http://www.bbc.co.uk/news/uk-scotland-11781981
http://news.stv.tv/politics/209887-committee-recommends-mps-throw-out-legalised-assisted-suicide-bill/
前に、ある人からAshley事件の問題構造は、日本の聴覚障害児に行われている人工内耳手術に通じるものがある、と教えていただいたことがある。以来、気になりながら人工内耳について知る機会がないままできたのだけど、その人工内耳について興味深いツイッターのやり取りがあった。確かに、構図が似ている。特に今はClaireさんのエントリーを続けて読んだところだから、一番そっくりだと感じたのは、当事者らにとっては仮にうまくいったとしても、それで障害がなくなるわけでもなければ当事者の抱える困難が完全に解決されるわけでもないのに、やりたがる医師の側は、手術から先に目を向けようとせず、それで万事解決のように言いなしているらしいこと。
http://togetter.com/li/68342
ワシントン大学の法学の教授で、障害者の権利運動のリーダー的存在でありながら(本人は小人症。Obama政権の障害者問題担当顧問だかに就任していたはず)、Ashley事件で成長抑制WGのメンバーとして、Ashleyや重症児の権利を擁護することのなかった Paul Steven Millerが、10月に亡くなっていた。49歳。ガンだったそうだ。:なんか、最後に成長抑制WGに引っ張り出されたりして、内心いろいろあったんじゃないのかなぁ……。
http://www.nytimes.com/2010/10/21/us/21miller.html?hpw
オーストラリアで出生前遺伝子診断でダウン症の可能性が出たことを理由にする妊娠中絶手術が2006年までの10年間で3倍に。
http://www.patriciaebauer.com/2010/07/29/australia-ds-related-abortions-29941/
聾の関連の全遺伝子をチェックするスクリーニングが可能に。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/208133.php
PoPublicaの特集で暴かれたことを受けてなのかどうなのか、ビッグ・ファーマがプロモに起用する医師については今後はちゃんと背景をチェックする、と。
http://www.propublica.org/article/pharma-payments-to-doctors-with-sanctions
代理出産の契約は市場に馴染むか、という問題の下りを読んだばかりだった。
10月14日に標題の通りのニュースがあったらしい。
Abortion of surrogate fetus with DS sparks ethics debate
Disability News, October 14, 2010
カナダで、ある夫婦の精子と卵子を使って代理母が妊娠している胎児に
出生前診断でダウン症の可能性が高いことが分かった。
(こういう場合、本当は「代理母が妊娠している」という表現は、おかしいですね。
代理母は「妊娠している」というよりも「胎児をおなかの中で育てている」と言う方が、より正確。
まさにサンデル教授の言う「借り腹」。でも、それは行為全体を指す名詞だから
代理母のそういう行為を表わす動詞としては英語だったら carryingで済むのだろうけど、
日本語では……? 「育てている」というのも、やっぱり違うような気がする)
ダウン症の確率が高いなら、と、
夫婦は代理母に妊娠中絶を要求し、
代理母はそれに抵抗した。
しかし、3人が署名した契約では、
代理母が夫婦の意思に逆らって産むことを選んだ場合には
生まれてくる子どもの養育に関して夫婦には経済的な責任が全くないことになる。
やがて代理母は折れて、中絶を受け入れたという。
カナダの生殖補助医療カンファレンスでこのケースを報告した(ただし匿名)医師は
代理母契約が増えている中、このような倫理問題を考えると、
代理出産契約に法的な規制が必要なのではないかと問題提起。
生命倫理学者らから、
人間の生命は工場の物品じゃないのだから
ビジネスの契約法は代理母契約にそのまま当てはまらない、との声が出ている。
Calgary Herald紙も社説で
代理母とその他IVFの問題には決定的な議論が必要、と。
あー、でも、きっと、こういうこと、
表に出ないだけで、今までにも実際には結構あったのでしょうね……。
【追記1】
この記事をアップした際に、Yahoo!が自動的に拾ってきた記事に、
2007年の同じような話題があったので、その方のブログ記事を以下にTBしました。
「この中絶は、代理母のあなたが中絶するのではなく、
あくまで我々に代わって中絶する代理中絶」と
依頼者夫婦は主張したとか。
【追記2】
ついでに、今日の補遺に拾った気になる話題を2題、以下に。
オーストラリアで、出生前遺伝子診断でダウン症の可能性が出たことを理由にする妊娠中絶手術が、
2006年までの10年間で3倍に。
http://www.patriciaebauer.com/2010/07/29/australia-ds-related-abortions-29941/
聾の関連の全遺伝子をチェックするスクリーニングが可能に。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/208133.php
同じく重症児の母親の立場で成長抑制に反対するSwenson論文を取り上げている。
こちらはClaireさんも私も同じスタンスなので、
ちょっとお気楽に、論点のみを。
① 冒頭、自分が重症児の親であり、
その介護が如何に大変なものかを直接体験として知っていることを述べて、
「反対する人たちは、重症児についても介護についても知らないから言えるのだ」
との批判が当たらないことを示す。
② ちょっと論旨が明瞭でない部分もあるようだけれど、
家族支援によって、重症児も欠けるところのない満足な生活を送ることができ、
地域に暮らす一人として人権を尊重されることは可能だと
Swenson論文は論証している、とClaireさんは考えている。
③ 「成長抑制がもともとの障害を治療するものでない限り、認められるべきではない。
子どもの人権が親の権利を制限すべきである。
我が子が望むこと、将来望むであろうことを私に分かるでしょうか?
私の勝手な解釈を超えて意思決定ができる、
支援された意思決定プロセスというものがあるでしょうか?
私の子どもの権利を守ってくれる人は?
親のプライバシーの縦に隠れて行われた決定は、
親の利益のための決定となりがちでしょう」という個所について、
DiekemaとFostが提案しているように、
3歳児に選択肢として主治医から提示される場合には、
親のプライバシーという盾だけではなく医療という盾もある、とClaireさんは指摘。
子どもの障害に動転している親は医師の発言に誘導されやすく、
とうてい医師のバイアスをきちんと検討できるはずもない、とも。
④ Swensonの、既に成人した息子Charlieが、
一軒の家に2人のルームメイトとスタッフと暮らし始めたこと、
そこでのケアが本人主体の素晴らしいものであること、
地域に資源とサービスがあれば、重症児・者でも
このような生活が可能だと書かれていることについて、
Claireさんは、それだけのサービスはどこでもあるものではないと指摘しつつ
しかし「やはりサービスよね」とも。
⑤ 「子どもに障害がなかったら、やるかどうか、考えてみて」と
Swenson論文が「やりたい」という親に呼び掛けている点について、
障害児への介入なのだから、論点が違うと指摘しつつ、
しかしここでSwensonが言いたいのは、やはり
障害児の人権が侵害されているということなのだろう、と。
⑥ 最後のSwensonの問いは、
「これは親である自分のプライドやエゴの問題なのだろうか」。
「社会から支援を受けていることに後ろめたい気持ちになることがあるのは事実だけれど、
弱者への支援はたいていの場合は政府の当たり前の行いとみなされるはず。
支援を受ける恥ずかしさを社会の側へ理解を示そうとすることによって、ごまかしていない?
でも、他の人たちが普通に生きて暮らしているのと同じように、
障害のある人たちだって、普通に生きて暮らしていけるのです」という結論部分で、
Claireさんは、この最後の
Disabled people, too, can live simply so that others may simply live.の個所が
イマイチ、真意を読みとれないと書いています。
私はすうっと抵抗なく読めたけどな……。
Another Hasting article addressed
No More Ashley X’s: Say NO to Growth Attenuation, November 17, 2010
http://news.smh.com.au/breaking-news-national/euthanasia-could-be-forced-on-patients-mp-20101117-17x10.html
WHOとIHME他の共催で、明日、the First Global Symposium on Health Systems Research: Science to Accelerate Universal Health Coverage というシンポ。全体会でMurrayが講演。
http://www.healthmetricsandevaluation.org/events/first_global_symposium_1110.html
英国保健相が来年、高齢者介護に関する白書を出す他、いくつかの施策を発表。介護費用をパーソナル・バジェット(ダイレクト・ペイメントのことだと思う)にするほか、介護者のレスパイトや趣味のための費用も出す。それも、なるべくダイレクト・ペイメントで。など。それら介護者支援に今後4年間で4億ポンド。:先に飴玉しゃぶらせといて、すかさずムチで叩きのめす?
http://www.guardian.co.uk/society/2010/nov/16/1m-elderly-get-personal-care-budgets?CMP=EMCGT_171110&
http://www.dailymail.co.uk/news/article-1330310/Carers-holidays-paid-state.html
http://www.kirkleeslink.cloverleaf-advocacy.org.uk/content/%C2%A3400-million-funding-carers-breaks
BBCの調査でティーンエイジャーの8%が介護者で、公式推計の4倍。
http://news.bbc.co.uk/local/humberside/hi/people_and_places/newsid_9194000/9194407.stm
さしものCameron党首も、子ども介護者への支援予算カットには慎重を呼びかけ。
http://www.bbc.co.uk/news/education-11764267
米国の保険大手MetLifeが介護保険から撤退したことを受け、保健当局が「いや、介護保険は需要も多く、ビジネスとしての将来は有望なんだ」と。
http://www.send2press.com/newswire/2010-11-1117-001.shtml
スーダンの南部の独立を巡り、国民投票。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/nov/16/sudan-referendum-william-hague-un?CMP=EMCGT_171110&
日本。電子タバコが大売れしているらしいのだけど、こことここの補遺で拾っている情報によると、ものすごく体に悪いらしい。でも例によって米国では大々的に報道されていることを、日本では、なぜかメディアがスル―してしまうみたいですね。独特のフィルターがある。科学とテクノとその利権構造あたりには、大きな穴の開いたフィルターが。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101117-00000061-yom-soci
いろいろあったみたいだけど、7月14日、アップルがビートルズの楽曲のダウンロードを開始。
http://www.nytimes.com/2010/11/17/business/media/17apple.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a26
前のHCRの重症児の親による成長抑制支持論文にClaireさんが見事な反撃の続きです。
私はもう長いこと、この人のブログを読んでいるけど、
Claireさんは、たぶんBill Peaceとの出会いあたりから、
ものすごい勢いで様々なものを吸収し、学んで、ぐんぐん変ったような気がする。
ここへきて、ついにPeaceを追い越しちゃったのかもしれない。
なにしろBill Peace氏の方は
Walker論文で「障害当事者から疎外された」と批判されたことに
かなりオタオタして、妙に中立的なところに逃げている。
障害児の権利が侵害されたと主張してきたくせに、それでは話の筋が通らない。
私自身は、
親と子の間、介護する者とされる者の間には
避けがたい利益の相克、権利の衝突があることをこそ、
Ashley事件・成長抑制の倫理問題は突きつけていると考えているので、
その相克や衝突を考える上では、障害者運動の人たちには、もちろん
親の置かれている立場や抱えているニーズや問題にも理解の目を向けてほしいけれど、
仮に、どちらかに自己同視して論じるしかない場面があるとしたら
私は障害当事者や運動には、親の側ではなく、断固として子どもの側に立ってほしい。
だから、Bill Peaceも、障害者運動のサイドも、
堂々と「自分たちは、もの言えぬ子どもの側に立つ」と言い切ればいいのだ、と思う。
そして、親の思いやニーズを考えても、
親が支援の手を借りつつ安心して子育てができ、
親が安心して子を託して死んでいける社会が作られることが必要なのだと、
それは、まったくClaireさんが言う通りなのだから、
そのことを一緒になって訴えていこうよ、と親に呼び掛けてくれれば、と思う。
私たち重症児の親も、障害者運動から学ぶ必要があるというのは
本当にClaireさんが言う通りだ。
子どもの障害を知った時から、
私も自分の主観では、ずいぶん頑張って闘い続けてきたつもりになっていたけれど、
そんなの、わずか20年程度のことだ。それに、本当は、ただ腹を立てていただけで、
私は何も知らず、知ろうともせず、何もしてこなかった。
Claireさんが言うように、目の前の我が子という一本の木、
我が子が通う施設、入所している施設、私たちの住んでいる町という木を眺めていただけのこと。
私が森の存在にやっと気付いたのは、Ashley事件と出会ってからだった。
そんな私でも、森が見えてくれば来るほど、
時々「なぜ、通じないのか!」と、やるせなく、歯がみする思いになることがある。
でも、このブログを始め、
いくつかのMLに参加させてもらって、いろんなことを知り、いろんな人と出会い、
最近、歯がみする思いになるたびに頭に浮かぶのは、
私などよりも、ずっとずっと前から、闘い続けてきた人たちがいる、ということ。
このやりきれない思いを抱えたまま、その思いにじっと耐えながら、
何十年も闘い続けてきた人たちがいる……ということ。
重症児の親として、私も障害者運動に対して思うことは様々にあるけれど、
その運動の長い歴史と、そこに参加した多くの人たちを思う時、
私よりもはるかに昔から、当事者として、私が想像もできないほど深く傷つき、
私よりももっとやり切れない思いを抱えて、それでも声を上げ、
闘い続けてきてくれた人たちに対して、深い敬意と感謝に包まれる。
長い年月の運動によって思考と心を鍛えられてきた人たちの声の強さ、明瞭さに打たれる。
その声が語る言葉に耳を傾け、私も学び、考えたいと思う。
私は私にしか語れない一本の“木”のことを語り続けながら
より大きな“森”を見る努力をし、森のことを一緒に考えていきたいと思う。
そのことを通じて、私も障害のある子をもつ親として、思考と心とを鍛えられ、
いつか、その時がきたら、託してゆく勇気を持てる親に成長していたい、と思う。
そして、その時には、
総じて信頼し、子を託していける人間社会だと、思える世の中であってほしい。
【関連エントリー】
成長抑制を巡って障害学や障害者運動の人たちに問うてみたいこと(2009/1/28)
重症心身障害児・者にはアドボケイトがいない、ということ(2009/1/29)
親と障害学の対立の構図で議論から締め出されている他の存在も見えなくなっている(2010/1/30)
親の立場から、障害学や障害者運動の人たちにお願いしてみたいこと(2010/3/12)
Hastings Center Reportに掲載された重症児の親2人の論文のうち、
成長抑制をやりたいとの立場で書かれたSandy Walkerさんの文章を取り上げ、
その問題点を指摘、見事に反駁しています。
この論文への反駁にとどまらず、見事な成長抑制批判になっています。
同じ町に住んでいたら、今すぐに駆けつけて
思いっきりハグしたいくらい。すばらしい!!
Friday, November 12, 2010
No More Ashley X’s: Say NO to Growth Attenuation
まず、Claireさんが指摘していることとして、Walker論文の主要なポイントは
娘Jesseicaさんの成長につれて、本人も家族もこれまで出来ていたことが、
あれもこれもできなくなった、介護もしにくくなった、という問題の羅列であること。
よく、まぁ、こんな甘っちょろいものがHCRの査読を通ったものだと呆れている。
(それを言えば、06年のG&D論文をはじめ擁護側の論文はみんなそうなんだけど)
以下、Claireさんの指摘。
① 介護がしにくくなった要因として、
膝の拘縮と不随意運動が出てきたことが挙げられている点について、
ちょっと待ってよ、それらの問題に成長抑制が対応するわけではないでしょ、と。
成長抑制の効果は成長を抑制することだけのはず、
成長抑制にあれもこれもの効果があるように言わず、
ちゃんと問題を整理しましょうね、と。
(私は厳密には「身長抑制」と言った方がいいと思うし、
その「身長抑制」の効果すら疑問視する医師や学者もいる)
② 次にClaireさんが疑問を投げかけるのは
Jessicaさんが前はできたのにできなくなったことの中に、
「立ったりテレビの前で踊ったり」が含まれていること。
Jessicaさんがそういう障害像なのだとしたら、
彼女はもともと成長抑制の対象にならないはずでは?
そういう障害像の娘をもつ母親がこういう論文を書いていることそのものが
“すべり坂”ではないのか、と。(鋭いぞ、Claireさん!)
③ Walker論文が「社会支援の必要が問題なのだと言って反対する人がいるが、
こういう状態の重症児と家族にとっては、どれほどの社会支援があったとしても助けにはならない。
そういう立場で反対する人たちは、ウチの娘のニーズも、Jessicaの安楽・健康を守り、
“退屈と孤絶”から救ってやりたい親の望みも分かっていない」と主張することに対して、
自分が以前住んだ町と現在住んでいる町にどれほど利用可能な施設があるかを
Claireさんは具体的にあげてみせる。
人口40万以下の町に、障害者にも利用可能なプールが最低1つ、
スヌーズレンの部屋が最低一つ、障害児を特に意識した子どもセンターもある、
利用可能なグランドに、こども美術館、良質な学校プログラム、
利用可能なバスも小型バスもある……などなど。
確かに障害児と家族が利用できる社会資源はまだ十分ではないかもしれないけれど、
いくらあってもJessicaを退屈と孤絶から救うことができないというのは全くの事実無根だ、と。
身体が大きくなって、かつてできたことができなくなるのは事実だけれど、
だからといって、それが即「退屈と孤絶」になるわけではないし、
逆に、成長抑制がそれら全ての問題を解決してくれるわけでもない。
(この次、本当にアッパレだから、拍手の準備してね)
そもそも、どの家庭にだって変化はやってくるものなのよ。
だいたい、障害がある子どもだからといって、
一生涯、同じことばっか、やって生きていきたいかしら?
④ Walkerが親の老いを介護が困難になる要因として挙げている点について
夫婦のどちらかが障害を負うことだってあるし、
離婚や経済的な破綻や、死ぬことだってあるのよ、と。
成長抑制を提唱する人たちは短期的な視野しかないし、
実際、障害児の将来については何も見ないふりをしているけれど
長期的に見れば、80歳の親にはどんなサイズの我が子だってケアできないでしょーが。
子どもを小さなサイズにフリーズしたからといって、時を止められるわけでもなければ
人生の想定外の出来事を阻止できるわけでもない。
私がケアできなくなった時に、誰がこの子の面倒を見てくれるのか、
その将来の問題は、変らずにそこにある。
だからこそ、やはり必要なのは社会サービスであり、
親は子どもの将来のために、そういうサービスの整った社会を作ろうとすべきでしょう。
どんな子どもであれ、成長抑制がその子に特定の将来を保証することなどありえません。
(そーだ、そーだ! このブログでも、その点をずうううううっと言ってきたんだ)
⑤ Walker論文が結論において、成長抑制を批判する障害者運動の人たちの発言は
自分たちのような考え方をする親や当事者は仲間として認められていないのだ、
重症児とその親は疎外されているのだと感じた、傷ついた、と書いていることについて、
Claireさんは、障害者運動の当事者については、
一方で、自分も同じ感想を抱いていることを認めつつも、
また他方では、
これまで社会で障害者に行われてきたことの大きな歴史的な流れや
障害者の処遇に対する考え方の変遷などを振り返ると、
自分たち親には木しか見えないところで、
彼らには森が見えているのだと捉えるのです。
だから、重症児の人権が成長抑制で侵害されているとの彼らの声に、
今、耳を傾けないでいたら、親が自分でそれに気づくには、これから50年かかるわよ、と。
(なんて、ブラボーな発言だろう。なんて賢い人なんだろう)
⑥ Walkerには、成長抑制を社会という幅広い背景の中で眺める視点が欠けていて、
医療の範疇でしか見ることができていない、との指摘。
それは上記⑤での指摘と重なって、
Claireさん自身はそういう言葉を使っていないけれど、
「アンタは医学モデルでしか成長抑制を捉えていないけど、
そこは社会モデルで考えるべきでしょ」と言っているのだと思う。
最後に、これも、そういう言葉は使っていないけど、
「医学モデルしか見えていないアンタは、だからこそ
障害者アドボケイトから学ばないとダメなのよ」と
説教して終わっているのが、チョーおかしい。
Claire Royさんに、スタンディング・オベーションを――。
(次いで「Claireさんの文章から、親と障害者運動について考えた」を書きました)
【Claireさん関連エントリー】
「一筆ずつ描かれていく絵のように子は成長する」成長抑制批判(2009/7/23)
重症児の親Claire Royさんによる成長抑制批判(2010/4/28)
重症児の親による成長抑制批判の落とし穴(2010/4/28)
http://www.onenewsnow.com/Culture/Default.aspx?id=1230492
チンパンジーの社会を50年間研究した学者さん。:この前シンガーらの「大型類人猿の権利宣言」を読んだ時に、その中で、知的障害者より大型類人猿の方が知的レベルが高いと主張する“特別教育”の専門家の文章で、なんで学者って、障害のために言語をもたない人間の非言語コミュニケーションよりも、チンパンジーの非言語コミュニケーションの方に研究意欲をそそられるんだろう……と、すごく不思議だった。でもって、すごく研究されているチンパンジーの非言語コミュニケーションの能力を評価しつつ、障害者の非言語コミュニケーション能力は単に研究されていないというだけで、その能力がないと決めつけられる、その思考の非論理性というか非科学性をなぜ誰も問わないのだろう? 少なくとも、あの文章はそういう結論の導き方をしていたけど?
http://www.nytimes.com/2010/11/16/science/16conversation.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a210
世界で初めて登場した生命倫理の出版物、Hastings Center Reportの40周年を記念して、若手研究者らに向け、次世代の生命倫理の課題とは? と寄稿を呼び掛け。:Ashley事件を通して同センターを眺めると、結構うさんくさい感じがするけど。それにしても次世代の生命倫理の課題って……、考えただけでも背筋に冷たいものが走る。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/207733.php
BBCが若年介護者の特集を組んでいる。若年介護者(young carer)の他に子ども介護者(child carer)という言葉も新しく登場。この記事は双極性障害の母親のケアをしている8歳のLeighちゃんの日常を、介護の必要のないクラスメイトMeganの日常と比較するもの。:日本でも、この問題、意識をもつべきだと思う。医療や福祉が患者や高齢者や障害者のところで切り捨てられていけば、必然的に、その周辺にいる子どもたちへの負担となってのしかかる。その問題は、日本ではまだ可視化されていない。
http://www.bbc.co.uk/news/uk-11745231
人さまのブログのコメント欄から拾ってきたニュース。デパスとかソラナックスとか一般的な安定剤として使われているベンゾジアゼピンに長期間の服用で脳委縮の副作用があることが30年も前に分かっていたとの秘密文書が出てきているらしい。:そういえば松平健さんの妻の自殺に関するコメントの中に、「心通じ合う医師に出会うことができませんでした」とあったのが、妙に心に残った。
http://www.independent.co.uk/life-style/health-and-families/health-news/drugs-linked-to-brain-damage-30-years-ago-2127504.html
アルビノ殺しが横行しているタンザニアで、初めて選挙で選ばれたアルビノの政治家。命の危険を感じている、と。この記事によると07年からこちら、59人が殺されたとのこと。アルビノの血や内臓が呪術に使われるため。
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/africaandindianocean/tanzania/8134841/Tanzanias-first-elected-albino-MP-fears-for-his-life.html?utm_source=Telegraph&utm_medium=Tweetdeck
NY市警が犯罪容疑者の指紋と写真だけでなく、眼球の虹彩の写真も撮り始めた。
http://news.yahoo.com/s/ap/20101116/ap_on_re_us/us_iris_scanners
米共和党の一部から、テロ容疑者は裁判なしに無期限の拘留を可能にするよう法改正を、との声。:サラ・パレツキーの著書が頭に浮かぶ。
http://news.yahoo.com/s/afp/20101116/pl_afp/usattacksjusticepoliticscongress
CO州で、自転車の14歳をはねて死なせたトラック運転手が、過失致死で有罪判決を受けた後、少年の親を訴えた。ヘルメットをかぶるように注意する責任があったのに、それを怠って息子を自転車に乗せたことで、自分が結果的に過失致死の判決を受けた、と。事故当時、道の真ん中で目に余る2人乗りをやっていたらしいのだけど。
http://news.yahoo.com/video/us-15749625/23048947#video=23050189
ヨーロッパでも極右勢力が台頭。移民に対する攻撃が激化している。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/nov/15/europe-immigration-far-right-threat?CMP=EMCGT_161110&
英国看護学会が、NHSの職員リストラが政府の予定通りに行われると患者は医療を受けられなくなる、と警告。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/207767.php
いわゆる超重症児にあたる息子Segevくんについて、
また重症児の意識や尊厳や、それから成長抑制療法について
イスラエル在住のカナダ人で指圧と生体人間工学の専門家Erikさんが
ブログで興味深いエントリーを書いている。
500.000 seizures have not killed my son
Erik
I am a broken man/You can’t break me, November 14, 2010
毎日けいれん発作を起こしては呼吸が止まったり、ぐったりして
これまでに、もうざっと50万回もの発作を繰り返しているSegev、
何度も手術台の上で死んだと思われた息子は、しかし、
それでも死なずに生き延びてきた。
A person like that is quite special and deserving of respect. Deserving of having someone nurture him and thus give him a dignified existence. For me nurturing is a complex issue that encompasses this idea of dignity while maximizing his ability to experience positive things in life. Maximizing may mean treatments and therapies but, having tried and seen Segev's potential does not lie with trying to make him stand or turn over since he cannot control his body, the maximizing lies with physical contact, the holding but also with using that moment to apply techniques of pressure to steady, change and encourage not only his bodily functioning but his knowledge that there is this love where one person takes care of another.
こういう人は特別な存在で、敬意に値する。
誰かにケアして(nurturing)もらい、尊厳のある生を生きさせてもらうに値する。
私にとって、ケアすることとは、
人生における良いものを経験できる能力を最大限に生かしながら
尊厳という考えも広くカバーする複雑な問題だ。
もちろん、その人の能力を最大限に生かすとは治療やセラピーのことでもあるけれど、
立たせたり寝返りさせたり身体を自分で動かせるようにするということだけが
Segevの潜在能力を捉えて伸ばそうとすることなのではなく、
身体に触れたり抱いて身体を支えてやったり着替えさせたりするケアの瞬間にも、
彼の身体機能を伸ばそうとすると同時に、彼の知識をも伸ばそうと働き掛けることなのだ。
人が人をケアするところには愛があることを、
Segevが知ることができるように――。
(Nurturingには適当な訳語が思いつかなかったので、
とりあえずケアとしておきました)
施設の職員さんが「忙しいから“関わりの時間”が持てない」というのを聞くたびに、
この人は、無言で着替えさせ、無言でトンラスファーをし、
無言で食事介助をするのだろうか……と、私は考えてしまう。
その人を人として尊重し、尊厳ある存在として遇しているならば
黙って着替えさせたり、オムツを交換したり、食事を食べせたりしておいて
「さぁ、関わりの時間だから、お話ししましょう」なんてことは、
ありえないはずなのに……と。
もっともErikも、
あまりにも依存度の高い人の場合には、ケアする側がだんだんと
その人自身よりも障害や病気の方に気を取られて、
まるでその人が障害そのものであるかのような意識になってしまう、と指摘する。
しかし、Segevの頭の中で何が進行しているのかについては
たぶん、こちらの目に見える以上のことが進行しているのだろうと
Erikは考えているし(私もそう思う)、
実際、これほど重度のSegevは、50万回もけいれんを起こしつつも、
今なお、新しいことを身につけ続けている。
舌を突きだすことが新たにできるようになったと思うや、
立て続けに突きだして見せることまでできるようになった。
思いがけない時に、おや、やっぱりこの子は分かっている、と
かすかな信号を出して、こちらを驚かせてくれる。
だから、たぶん、こちらの目に見える以上に、
この子は分かっているのだと思う。
そういう子どもの父親として、Erikは
全介助の重症児の身体が小さいことのメリットを考えないではないけれど、
しかし、成長抑制には大いに疑問があるという。
第一に、Ashleyに行われた乳房摘出。
あれが一体どうしたら正当化できるというのか。
健康上の必要のない、本来、治療ですらないものを
成長抑制と称して医師らは提唱している。
人類の歴史を振り返れば、
自分で選択できないAshleyに違法な手続きでの前例ができると、
ただ話題になり騒ぎになって、無意味な議論でガイドラインなどが作られ、
後先を考えずに、ひたすら、まろび進んでいくのだろう。
人類は、そうして進歩を生んできたというわけなのだから。
この後でErikが書いていることが私には非常に興味深かった。
It may seem tempting to view her parents as either brave or heroic for putting Ashley under this treatment since they apparently acted upon information that she would never develop mentally, never have any body control. This may accurately describe her condition even, I know that such a description fit my boy perfectly. But they were wrong about my son's chance of development because we are in need of better assessments. Assessments which can be written by medical professionals who are guided by the parent.
Ashleyは生涯に渡って、知的発達を見ることも身体的な自立を見ることもないと
言われたことに基づいてAshleyの親があのような医療介入を受けさせたことをもって
勇気ある親だとか英雄的な所業だと思いたい気分にもなるかもしれないし、
確かに、そういうふうに言われればAshleyはそういう子どもなのかもしれないし、
うちの息子にもぴたりと当てはまる。
しかし、ウチの息子の発達の可能性を考えれば、
そういう言い方はやはり間違っている。
本当は、もっとマシなアセスメントがあって然りなのだ。
ただ医療職が書いたアセスメントだというのではなく、
親の言うことを指針にした医療職のアセスメントが。
Erikは、この後、息子の頭の中で起こっていることについて
最後の最後まであきらめない、と書いて締めくくっている。
Assessments which can be written by medical professionals who are guided by the parent.
医師と障害児の親との、あるべきパートナーシップの1側面が
このフレーズよって提言されている……と、私は思う。
障害一般について知識があるからといって
医師が特定の障害児その子についてすべてを知っているわけではない。
正直、期待はずれだった。
やっぱり小説家は小説で表現するのが仕事なんだなぁ……と
改めて痛感させられる散漫な容だったけど、
パレツキーさんにしてみれば、
小説では表現しきれないことを言わないでいられない切迫した気持ちになったんだな……
というのは、ブッシュがブイブイ言わしていた当時の状況を考えれば分かる気がする。
原書が書かれたのは06年、刊行が07年なので
Obama大統領の誕生をはさんで今、翻訳を読むと
多少のギャップを感じるのもやむを得ないのかもしれない。
ただ、Obama政権への失望で
(その過剰な期待と過剰な失望はどちらも私には理不尽に思えるのだけど)、
06年当時以上に極端に右に触れそうな現在の米国の不穏な空気を思うと、
逆に今読むのもタイムリーなのかも……と考えてしまうことが、けっこう恐ろしかったりもする。
例によって、全く個人的に(特にフェミニズムの視点から)メモしておきたい個所を以下に。
この(レーガンと二人のブッシュによる中絶反対の)恐怖のキャンペーンは絶大な効果をあげた。中絶医の大部分が中絶手術をやめてしまった。十三パーセントを覗くアメリカの郡のすべてで中絶が禁止されるか、姿を消すかした。中絶手術の方法を教えるメディカル・スクールは十パーセントにも満たない。わたしたちはこのアメリカで、存在しない医療処置に対して法的権利をもつという状態に近づきつつある。貧しい女性と未成年者が社会でいちばんの弱者なので、合衆国議会は悪名高きハイド修正条項を使って早めに動き、貧しい女性の中絶費用を公費から出すことを禁じた。女性の中絶費用をメディケイドで負担する州はほんのひと握りだ(ニューヨーク州は負担しているが、わたしの住んでいるイリノイ州はしていない)。また、大部分の州が未成年の中絶を禁じている。しかし、男性の性行動に注意を向ける州はどこにもない。
(P.121)
宗教界の右派は、女性が一九七0年以降獲得してきたすべてのものを害悪とみなしている。女性に対する怒りの最大の矛先は生殖の権利に向けられている。これら女嫌いの連中は中絶との戦いに勝利を収めたことで得意満面になり、現在は、避妊ピルに反対する運動をくりひろげている。四分の一の州がすでに、薬剤師にピルの調剤を拒否する権利を与える法律を制定した。あとの州のうち二十ほどは考慮中である。“信教の自由”という名のもとに、全国レベルでこの法律が提議されたときには、リベラルで知られるジョン・ケリー上院議員までがやむなく署名しなくてはならなかった。
(p.123)
最近のわたしたちアメリカ人は奇妙な心理状態にある。制約のない資本市場を望んでいる。車の制限速度も、銃規制も、税金も、個人の自由を不当に侵害するものだと思っている。しかし、女性のセクシュアリティは是が非でも取り締まる必要があると感じている。
(p.124)
政府が「われわれはアフリカのエイズと戦う」といっておきながら、「コンドームを流通させてはならない。話題にしてもならない」というとき、私は自分が『一九八四年』の世界にいることを知る。
合衆国大統領が、生命の尊厳を重んじるという理由から、胎児の幹細胞の使用を研究者に許可する法案に対して拒否権を行使し、中絶と避妊を違法とすべく全力を尽くしていながら、その一方で、自国政府による拷問を黙認し、中東で毎日のように多数の男女と子どもが死んでいくのをながめ、さらには、帰還兵やホームレスの子どもたちのための医療費負担を拒否するとき、わたしは自分がたぶん現代の世界にいるのだろうと思う。
(p.210)
その他、パレツキーが思春期・大学時代を過ごしたのはカンザス州ロレンス。
私にとっても、28歳の1年間を過ごした町なので、懐かしかった。
地平線に囲まれたみたいな、の~んびりした田舎町――。
私はパレツキー作品を読んだことがなかったのだけど、
フェミニズムと弱者への視点の確かなハードボイルドというのも興味をそそられて、
売れ筋のPBを2冊ばかりオーダーしてみた。
Bleeding Kansasというタイトルのものもあったので、
ハマったら、そのうち読んでみよう。
http://www.molecularstation.com/science-news/2010/11/annual-medical-ethics-conference-focuses-on-health-disparities/
12月3日は英国のCarers UKが定めた「介護者の権利の日」。
http://www.wolverhampton.gov.uk/council/news/2010/november/151110a.htm
米国の保険会社大手のMetLifeがこれ以上の介護保険の販売停止を決めた。保険料が上がり過ぎ、その割に保障が小さく、商品としての魅力がなくなったために、要するに商売として成り立たないということみたい。:だから、社会保障は競争原理では成り立たないということなのでは? 日本の介護保険でも、いつのまにか“Pay as you go”なんて、いかにも胡散臭いスローガンが使いまわされ始めているけど……?
http://www.businessweek.com/news/2010-11-11/metlife-halts-sale-of-new-long-term-care-insurance.html
USATodayが「この不況化で始まるブーマー世代の高齢化」特集。
http://www.usatoday.com/news/nation/2010-11-14-baby-boomers-turn-65_N.htm?csp=DailyBriefing
英国政府が打ち出した生活保護の打ち切り路線に対応する施策として、なんと障害者や障害児の母親など長時間勤務ができにくい人向けに、4時間くらいの短時間勤務の形態を普及させよう、と。:これ、派遣切りより過酷かも。
http://www.guardian.co.uk/politics/2010/nov/14/welfare-reform-working-slivers-of-time?CMP=EMCGT_151110&
インドで死んでいる年間150万人の子どもたちの死因は下痢とか肺炎など、母子医療やワクチンで予防可能な原因によるものだ、との調査結果。いや、ワクチンでなくとも、政府が医療ツーリズムに投入している予算のいくらかを自国民の普通の医療に振り向ける方が先なんじゃないでしょうか?
http://www.medicalnewstoday.com/articles/207609.php
ブッシュ前大統領が出版した回想録に、あちこちの他人の著書から取ってきたエピソードがあると指摘されている。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/nov/14/george-bush-accused-borrowing-memoirs?CMP=EMCGT_151110&
10月20日のエントリーでちょっと触れましたが、
2007年にJournal of Medical Ethicsに、オレゴンとオランダの実態調査を分析した結果、
“弱者”に特に悪影響が出るというエビデンスはない、と結論する論文があったようです。
アブストラクトは以下から読めます。
Legal physician-assisted dying in Oregon and the Netherlands: evidence concerning the impact on patients in “vulnerable” groups
Margaret P Battin, Agnes Van der Heide, Linda Ganzini, Gerrit va der Wal, Gregje D Onwuteaka-Philipsen
Journal of Medical Ehitcs, 2007
この度、同じジャーナルに、英国のFinlay上院議員らが
上記Battinらの論文の分析手法を検証し、その結論に疑義を呈する論文を発表しています。
また、Battinらの論文以降に出てきた研究によっても
むしろOregonではウツ状態の患者がチェックから漏れた可能性があると指摘。
Legal physician-assisted suicide in Oregon and The Netherlands: evidence concerning the impact on patients in vulnerable groups – another perspective on Oregon’s data
IG Finlay, R George,
Journal of Medical Ethics, November 11, 2010
アブストラクトは以下。
Battin et al examined data on deaths from physician-assisted suicide (PAS) in Oregon and on PAS and voluntary euthanasia (VE) in The Netherlands. This paper reviews the methodology used in their examination and questions the conclusions drawn from it―namely, that there is for the most part ‘no evidence of heightened risk’ to vulnerable people from the legalisation of PAS or VE. This critique focuses on the evidence about PAS in Oregon. It suggests that vulnerability to PAS cannot be categorised simply by reference to race, gender or other socioeconomic status and that the impetus to seek PAS derives from factors, including emotional state, reactions to loss, personality type and situation and possibly to PAS contagion, all factors that apply across the social spectrum. It also argues, on the basis of official reports from the Oregon Health Department on the working of the Oregon Death with Dignity Act since 2008, that, contrary to the conclusions drawn by Battin et al, the highest resort to PAS in Oregon is among the elderly and, on the basis of research published since Battin et al reported, that there is reason to believe that some terminally ill patients in Oregon are taking their own lives with lethal drugs supplied by doctors despite having had depression at the time when they were assessed and cleared for PAS.
ついでに、この論文の周辺を検索していたら出てきたのが以下の論文。こちら全文が読めます。
Physician-Assisted Dying
Robert E. Enck,
American Journal of Hospice and Palliative Medicine, 2010 27:441
先日カナダ医師会雑誌に掲載されたベルギーの実態調査の要点について
まとめてある他、上記Battinらの論文についても言及しています。
そういえば、先日、某シンポの若手研究者のプレゼンで、
このベルギーの報告書から1つのデータだけが引っ張られて、
ベルギーでは“すべり坂”が起こっていないエビデンスとされていた。
ネットで見る限り、この報告書はむしろ“すべり坂”が起きているエビデンスだと
捉えている人が多い印象だったので、ちょっと、びっくりした。
【Baroness Finlay(Baroness は女性議員の称号と思われます)関連エントリー】
英国医師会、自殺幇助に関する法改正支持動議を否決(2009/7/2)
BMJの副編が「生きたい障害者が死にたい病人のジャマするな」(2009/9/6)
Campbellさん率いる障害者団体連合が自殺幇助ガイドラインを批判(2009/12/22)
Warnock, Finlay, Purdy他が自殺幇助で円卓討論(2010/1/31)
[http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/61950037.html「PAS合法化なら年1000人が死ぬことに」と、英シンクタンクが報告書 ](2010/10/26)
http://www.lifesitenews.com/ldn/2010/nov/10111205.html
第2次大戦後、米国はナチスの犯罪者をかくまっていたとの秘密文書?
http://www.nytimes.com/2010/11/14/us/14nazis.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a2
07年に米国人口の1%に当たるスーパーリッチの収入は、米国国民の収入総額の23.5%を占めていた(1976年には9%だった)という。毎年、広がる格差の中、先日の中間選挙の敗北で、Obama大統領はさらなる譲歩を迫られている。手前勝手な振る舞いをするスーパーリッチを止めることができるのは一体だれか?:かつて天安門事件の際に戦車の前に活動家が立ちはだかったシーンそのままに、戦車がリムジンに置きかえられたイラストが面白い。
http://www.nytimes.com/2010/11/14/opinion/14rich.html?nl=todaysheadlines&emc=a212
NYの静かな通りで、自転車の4歳児と5歳児が、歩行器を使って歩いていた87歳の女性をはねて、救急車で病院に運ばれ治療を要する怪我を負わせた。女性は3カ月後に事故とは無関係な原因で死亡したが、遺族が子どもたちと、その場にいた子どもたちの母親2人を訴えた。州最高裁は、4歳という年齢は被告とするに可能と判断。the NY Law Journalは子どもたちの実名を掲載した。その後の報道にも実名が使われ、中には女性が事故で死んだかのように書いたものもあるらしい。:子どもたちの実名報道がどうのこうの以前に、自転車に乗れるようになった子どもたちが、体の不自由な人が歩いていたら配慮しなければならないという意識をもっていなかったこと、そんな当たり前のことすら親に教えられていないことに唖然。
http://www.nytimes.com/2010/11/14/opinion/14pubed.html?nl=todaysheadlines&emc=a212
我が子がいじめられることを案じる親は多くとも、我が子がいじめる方に回っていることを案じる親は少ない。もしも我が子がいじめっ子だとわかったら? まずは落ち着いて、パニックせず、家で、地域で、大人がやっていることのマネをしているのでは? と我が身を省みましょう。子どもの言い訳を許さず、敬意をもって他者を遇するとはどういうことか、繰り返し教えましょう。:敬意をもって他者を遇する……ということができない大人が増えているのは確か。自分が相手にどのように遇されるか、ということしか頭にない感じの人が。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/207791.php
アシュリー事件から考える
障害、医療、介護、人権そして「愛」
というタイトルの、8ページの文章を書きました。
Ashley事件については、
07年の論争当時にリアルタイムで「介護保険情報」誌の連載で何度か取り上げましたが
その後、このブログを通じて事件の詳細を追いかけ始めてから
事件に関して、まとまった形で書いた初めてのものになります。
Ashley事件には非常に多くの複雑な問題が絡まっていますが、
ここでは特に、ステレオタイプの問題と、重症児・家族支援における医療のあり方、
親と子どもの間の権利の衝突、”愛と献身”神話について
重症児の母親としての立場から書いてみました。
良かったら、読んでいただけると幸いです。
(他に、堀田義太郎氏の
「脳死臓器移植は殺人である:臓器移植法改正にあたり再確認しておくべき論点について」や
インドの男女産み分けの実態や、富士見産婦人科病院事件、出生全診断に関する記事など、
刺激的で、とても勉強になる記事が満載でした)
――――――
「介護保険情報誌」の連載で07年からこちら同事件について書いたものは
今から振り返ると不十分だし、誤った捉え方をしている部分もあるのですが、
現在、立命館大学「生存学」のサイトに全文掲載していただいています。
「“アシュリー療法”論争」
「介護保険情報」2007年3月号
「“アシュリー療法”論争 続報」
「介護保険情報」2007年7月号
“アシュリー療法”続報としてのKatie Thorpe事件
「介護保険情報」2007年12月号
Katie Thorpe 事件続報
「介護保険情報」2008年3月号
Angela事件
「介護保険情報」2010年5月号
http://www.ewtn.com/vnews/getstory.asp?number=108623
トルコでは医療サービスが不十分なために、法整備なしに消極的安楽死が一般化しつつあるとか。
http://www.hurriyetdailynews.com/n.php?n=no-legal-euthanasia-in-turkey-but-patients-left-to-die-experts-say-2010-11-09
LA Timesが8月に、LAスクール・ディストリクトの先生全員の評価データベースを公開した。その中で「平均以下の有能さ」とされた小学校の先生の一人が、ウツ状態となり自殺。同僚らがLA Times本社前で抗議行動。:米国社会って、社会全体が血に飢えた暴漢みたいになりつつある?暴漢とまで言って悪ければ、いじめっ子?
http://www.nytimes.com/2010/11/10/education/10teacher.html?nl=todaysheadlines&emc=a22
第2次大戦後、ナチの迫害を受けたと申告して米国に入国後、ナチの犠牲者のために設立された基金から支援金を受け取った人たちの中に、でっち上げの物語を語っていた人がいる、という指摘。:その指摘、なんで今ごろになって? これもまた、血に飢えた暴漢的症状だとか?
http://www.nytimes.com/2010/11/10/nyregion/10holocaust.html?nl=todaysheadlines&emc=a1
中国の不安分子が精神病院に入れられている、という活動家ら。
http://www.nytimes.com/2010/11/12/world/asia/12psych.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a22
英国では生活保護受給者の切り捨てが進んでいる。
http://www.nytimes.com/2010/11/12/world/asia/12psych.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a22
大学学費上限撤廃には、学生たちが抗議デモ。
http://www.guardian.co.uk/education/2010/nov/10/students-streets-protest-tuition-fees?CMP=EMCGT_101110&
そして、講演後、ほんのわずかの間だったけど、
Kittayさんとお話しすることができた。
成長抑制WGのメンバーだったKittayさんは、
自分は同意なんかしていない、と言った。
サインもしていない、と言った。
Kittayさんは、WGでのDiekemaらのやり方に、
ものすごく怒っていた。
具体的な内容を詳しく教えてもらえる状況ではなかったし、
わわわっと早口で言われたことは、私の方が舞い上がってしまっていて理解できなかった。
でも、あの怒り方だけで、私には十分だった。
やっぱり、私が考えていた通り、
あのWGは最初から結論あきりのセット・アップだったに違いない。
メンバーの約半数、WA大学の職員以外の著名な学者さんたちは
正当化のアリバイ作りに利用されたのだと思う。
でも、Kittayさんの憤り方に、
この人が、あのWGにいてくれたことに、本当に、心の底から、深く感謝した。
その後、2日間、取材の仕事があって、
さっき3日ぶりに自分のパソコンを立ち上げたら、
私がKittayさんと会った10日に、なんと
お馴染みBill PeaceがHastings Center ReportのA事件特集について
早速にブログで書いてくれていた。
Ashley Treatment in the Hastings Center Report
Bad Cripple, November 10, 2010
彼は Hastings Centerと直接的なかかわりがあるために、
ちょっと妙に中立的に“いい子ちゃん”をやり過ぎているような気がして、
私は彼の文章には余りいい気持ちではないけど、
私がまだ読めないでいる、それぞれの論文の中から
一節ずつを抜き出してくれているのはありがたい。
中でも、Kittayさんの論文の一節は、
The Seattle Growth Attenuation and Ethics Working Group settled on the compromise that growth attenuation should be limited to severely cognitively disabled and nonambulatory children. I respectfully disagree. I do not believe that growth attenuation is ethically or medically appropriate, even when limited to children with profound developmental and intellectual impairments.
The compromise position rests on the assumption that the constraint will avoid many of its possible abuses. The problem is that the limitation is itself already an abuse. If growth attenuation should not be done on children without these impairments, then it should not be done on any children. To do otherwise amounts to discrimination.
ここでも、彼女は不同意だと明言している。
濫用を防止するために
条件を絞って妥当だと認めようというのがWGの妥協点だとするなら、
その条件そのものが濫用だと。
障害のない子どもに行われてはならないなら
障害のある子どもに行われることは差別である、と。
2日前に直接、言ったばかりだけど、改めて、
ありがとう、Kittayさん!!
(講演については、また改めて)