http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/i-love-my-tony-and-thats-why-i-need-to-kill-him-2164309.html
米国の大学で学生を精神科ERに担ぎこむことが日常化し始めている。
http://www.nytimes.com/2010/12/20/health/20campus.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=a23
豪でガン、糖尿病、心臓病、喘息、精神障害などの慢性病のために亡くなった人の多くは、適切な介入があれば死を避けられた、社会経済的な要因の大きなケースだったことが判明。男性では慢性病による死亡率は、最も貧しい地域で最も裕福な地域に比べて2倍も高い。しかし女性では、男性の最も裕福な地域に比べても6割も高い。:これはきっとオーストラリアだけに限らない。
http://www.canberratimes.com.au/news/local/news/general/many-chronic-disease-deaths-avoidable-report/2030121.aspx?src=enews
来年あたり、米国の100の地方都市が財政破たん?
http://www.guardian.co.uk/business/2010/dec/20/debt-crisis-threatens-us-cities?CMP=EMCGT_211210&
Guardianがアンケートした「今年のベスト・ブック」:Stephen King 作品が入っている。http://www.guardian.co.uk/books/interactive/2010/dec/14/books-of-the-year-2010?CMP=EMCGT_211210&
子ども時代にガンの治療とか検査で頭や首に放射線被ばくすると、その後58年間に渡って、甲状腺がんのリスクが上がる。:これ、前にも歯科の放射線被ばくのリスク記事があった。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/211942.php
シアトルこども病院Truman KatzセンターのDiekemaの同僚で
論争当初から、ちょろちょろしているWilfond医師の書いたものだけに、
ずっと読みたかったものです。
もちろん読んだからといって、予想通りの「身内の援護射撃」でしかないのですが、
ただ、1つ、見逃せない発言があるので、エントリーに。
The Ashley case: the public response and policy implications
Hastings Center Report, the Sept-Oct, 2007 by Benjamin S. Wilfond
基本的には、
治療上の必要がなくても、社会的理由で医療介入が用いられるのは
ADHDの子どもに薬を飲ませたり行動療法を行うことや
口蓋裂の手術、頭の形を整えるためのヘルメットなど、既に行われており、
Ashleyに行われたことも、それと変わらない、との主張。
ただ、非常に興味深いのは、以下の一節で、
……those not directly involved in a case can have difficulty fully appreciating the thought processes of the parents, clinicians, and ethics committee. There is certainly value in reevaluating their choices, but we must appreciate that those looking in from outside may have limited insight into the particulars and nuance of the decision. Further, even those involved in the case may struggle to fully describe their thinking at the time. The medical journal article and the parents' description were published almost three years later. They may be based on fading memories and after-the-fact analysis. These observations point to the need for careful consideration in reaction to public disclosures about difficult cases.
外部の人間が、当時者の気持ちや考えについて云々したところで、
それは所詮、想像の域を出ることはないのだし、
主治医論文にしても親のブログにしても
3年も前の出来事を振り返って、薄れゆく記憶に基づいて書いているのだから
情報公開された困難ケースを批判する際には、そういうことも念頭に置いておけ……
……って、米国医師会雑誌に掲載されるような医学論文てな
「ずっと前の困難事例を、もはや曖昧な記憶に基づいて書き、
あくまでも事後に振り返って分析しているだけなんっすけど」という程度のものなのか?
仮にも、れっきとした医師の、こんな寝言論文を
HCRが、また、なんで、しゃらりんと掲載してるのか?
JAMAにもHCRにも、査読者ってものは、いないのか?
まさか、特定の論文には査読者がいない……とか……?
んっとに、呆れてしまうのだけど、結局のところ、
Wilfondは医師らの論文がマヤカシ・穴ぼこ・矛盾だらけだということも
論文の内容と親のブログの内容とが齟齬をきたしていることも
十分に承知していた……ということでしょう。
この下り、
病院内でGuntherにプレゼンさせた際にも、
冒頭に出てきたWilfondが「当該ケースそのものをretrospectivelyに扱うのではない」と
わざわざ念押しをしていたことと、ぴったりと符合します。
そういえば、今に至ってもなお、DiekemaもAJOBの論文で、
倫理委の検討プロセスに対するQuelletteらの鋭い批判に対して
「でも、その場にいなかった人たちの想像に過ぎないでしょ」と
幼稚な反論をしていましたね。
結局、そういうお粗末な言い訳しかできないほど、
この点については、自分たちの正当化が破たんしているという自覚が
Diekema本人にはもちろん、Wilfondにも07年の初めからあったということなのでしょう。
それこそ、彼らが互いに手を組み、
たくらみを巡らせて一般化の動きを急ぎ作ることによって
Ashley事件の真実から目をそらせ、隠ぺいを図ったことの証拠――。
そのうちにすっかり忘れてしまっていた論文と、時間が経ってから何かの折にネットで再開してみると、
思いがけず全文公開されていた……という嬉しい発見が、たまにあります。
07年の論争当時に書かれた、これも、その1つ。
Disability and slippery slopes
Anita J. Tarzian, Hastings Center Report, Setp-Oct, 2007
一部の障害者運動の関係者がA療法の問題について
「何がAshleyにとって幸福なのか」という視点で語られるのを見聞したことから、
「障害者運動も無意識に重症児・者は障害者の中でも別、と線を引くのですか」と問い、
Ashleyにとっても他の障害者と同じように「権利の問題」ではないのかと問題提起して、
重症児・者を(後には親をも)置き去りにしない社会モデルを訴えたことがあるのですが、
Tarzianの論文が私にとって非常に興味深いのは、
私と同じ問いを発していながら、その主張は全く反対であること。
私は、別扱いするのは障害者の権利運動の重症児への裏切りだと考えたのに対して、
Tarzianは、別扱いしないのが障害者の権利運動の重症児への裏切りだと主張し、
重症児・者に線引きをせず“A療法”を「権利の問題」として扱う障害者運動は
身障者の利害に基づく社会モデルを優先して重症児の特性や彼らとの違いを無視し、
Ashleyという重症児個人を犠牲にしたのだ、と非難している。
とても印象的なことに、冒頭で著者はTerry Schiavo事件に言及している。
07年の論争時、ネットでは「これはシャイボ事件の再来だ」という懸念の声が結構出ていて、
当時の私はその意味が良く分からなかったのですが、このブログでの作業を通じて、
今は2つの事件に相通じるものがあることも「これはシャイボだ」と思わず口走った人たちの警戒心も
非常によく理解できるようになりました。
しかし著者が考えるSchiavo事件とAshley事件との共通項とは
重症障害児・者に対する軽視や偏見ではもちろんなく、
本来そうではないものを障害者運動が敢えて「人権問題」にした事件であること。
Tarzianの論文要旨は、だいたい、こんな感じ。
身体障害者の利害を中心に考えられた「障害の社会モデル」は、
支援によって社会生活が可能なレベルの知的障害者くらいまでは織り込んでいるものの
Ashleyのような社会生活がありえない重症知的障害児・者のことは念頭にない。
社会モデル・自己決定権を唱えられるような障害者と違って、
Ashleyのように自己決定できない重症児の場合には親が本人の最善の利益を考えてやるしかないのに、
そうした親の愛情ある行為を、自分たちの原則論で人権を持ち出して否定するのは
障害者運動が自分たちのアジェンダのためにAshley個人を犠牲にしたのだ。
“Ashley療法”を重症児に認めれば“すべり坂”が起きるとの彼らの批判は、
重症児・者とその他の障害者の違いを理解すれば起こるはずのない“すべり坂”であり、的外れ。
“すべり坂”の懸念を言うなら、
障害とQOL、医療資源の分配について社会全体で広く議論を推進することこそが肝要。
(と、まさに医学モデルで結論しているわけですね)
Tarzianの批判の背景にあるのは、本当は、
重症児・者はその他の障害児・者と同じ権利には値しないという線引きを
障害者の権利運動も共有すべきであり、それをしないのが怪しからん、という主張でしょう。
それはAshley父やDiekemaらの主張するところと、まったく同じです。
Ashleyの父は08年のCNNのメール・インタビューで以下のように書いています。
We are in the unfortunate situation today where activists with political power and motivated by their ideology have successfully taken a potentially helpful option away from families whose pillow angels might benefit. (See this activism Web site. )
A collective agenda/ideology is being shoved down the throat of all individuals with disabilities, whether it serves them as individuals or not. This is disturbing in a society that believes strongly in the well-being of children and in individual rights. Pillow angels should not be deprived of this treatment when their parents and their doctors have carefully considered the options and concluded that it would be of benefit.
ここにあるのもまた、障害者運動は
障害者全体のイデオロギーのために個々の障害児の幸福や権利を顧みず、
親の愛情ある決断を邪魔し、利益のある治療を子どもたちから奪っている、との非難。
これまでA療法/成長抑制を認める立場の人に共通していると私が思うのは、
① 重症重複(特に知的)障害者はその他の障害者とは別の存在だと考えている。
② 別の存在なのだから、別扱いすべきだと考えている。(「権利」ではなく「最善の利益」)
③ 親の愛情を疑わない。つまり親子の間に利益や権利の衝突があるとは考えない。
④ 親の決定権を絶対視する。
⑤ 重症児は親がずっとケアするものだと考えている。
もちろん、一番根っこにあるのは「別の存在だから別扱いすべきだ」の点で、
A事件の根っこは「重症(特に知的)障害児・者はその他の障害者とは別なのか否か」という問いなのだと
改めて痛感させられます。
別だと考える人にとっては、これは個々の「最善の利益」の問題であり
別ではないと考える人にとっては、万人の「権利」の問題だということになる。
で、ここで大事だと私が思うのは、
後者の人は「別ではない」と考えると同時に「別だと考えるべきではない」と考えてもいること。
言いかえると、それは、
原理原則を守ろう、「守るべき原理原則」というものを捨てまい、という姿勢でもある。
私がずっと疑問に感じているのは、
もともと、これは「権利」か「最善の利益」かという選択の問題ではなく、
本当は検討の位相の違い、順番の問題ではないのか、と。
「利益vsリスク」論は前提がおかしい(2008/2/6)でも書いたのだけど、
論理的な検討の段階として、「利益vsリスク」検討よりも前に
「それは条件によっては許されることか、それとも条件を問わず許されないことか」
という問いの段階が、まず、あるはずなんじゃないだろうか。
まず「条件を問わずに許されないことか、条件次第ではやっても良いことか」が問われ、
そこで後者だと判断された場合にのみ、その「条件」の検討が行われる。
その基準が「最善の利益」――。
「利益vsリスク」の検討というのは、本来そういうものじゃないのだろうか。
上位にある問いだからこそ人権概念が万人にあてはまる原理原則となるのは当たり前で、
むしろ、生命倫理の議論から、その原理原則を外してしまおうとする人たちが、
わらわらと沸いて出てきていることの方が問題なのだと私は思うのだけど、
その動きは、ちょうど、
科学とテクノロジーが可能にしていく多くのことを背景に、
「できるか、できないか」の問いだけがクローズアップされて
「できるとしても、やるべきではないことか」の問いが
時代遅れで無意味な問いであるかのように扱われ、
幼稚で皮相的な功利的な理屈で強引に押しのけられようとしていることと
きれいに並走しているのだと思う。
そうして、それら諸々の勢いを借りて、世の中は、
「殺してもいい人」と「殺してはいけない人」を平然と
線引きして痛痒を感じないような方向に向かっていこうとしている……。
そんなふうに、Ashley事件はShiavo事件と繋がっている――。
―――――
Tarzianの非難を受けて、Not Dead Yet のStephen Drakeがブログで反論しています。
「障害者とも呼べないほど重度の人の代弁を障害者がするな」論法は
昔からあった、と面白い表現を使って切り捨てているのですが、
一応、Ashleyの人権侵害はWPASだって認めたじゃないか、とも。
Hastings Ctr Report: Article Claims Ashley X “Sacrificed for the disability rights agenda”
Not Dead Yet News & Commentary, October 19, 2007
【関連エントリー】
成長抑制を巡って障害学や障害者運動の人たちに問うてみたいこと(2009/1/28)
重症心身障害児・者にはアドボケイトがいない、ということ(2009/1/29)
親と障害学の対立の構図で議論から締め出されている他の存在も見えなくなっている(2010/1/30)
親の立場から、障害学や障害者運動の人たちの願いしてみたいこと
シアトルこども病院での去年のTruogの講演「心臓死後臓器提供DCDの倫理問題」を聞いてみました。
Ethical Issues in Organ Donation After Cardiac Death
Provider and Nursing Grand Rounds Online Videos
Seattle Children’s Hospital, August 20, 2009
Truogは臓器提供の「死亡者提供ルール」を廃止して
生きている人間からでも採っていいことにしようと主張している倫理学者だということは
小松美彦氏の著書でも読んだし、08年に以下のBostonBlobe記事でも言及されており、
ずっと気になっていました。
臓器提供で「死亡者提供ルール」廃止せよと(2008/3/11)
なお、08年の秋には、TruogはHCRに以下の論文を書いており、
Rethinking the Ethics of Vital Organ donations: accepted medical practice already violates the dead donor rule. Explicitly jettisoning the rule―allowing vital organs to be extracted, under certain conditions, from living patients―is a radical change only at the conceptual level. But it would expand the pools of eligible organ donors.
Franklin G. Millerand, Robert D. Truog
翌夏のこの講演でも、論文への反響について語られています。
例によって1度聴いたくらいでは分からない部分の方が圧倒的に多いのですが、
大まかな流れとしては、上記Boston Globe紙でのNorman Fostの、
死亡者提供ルールは今でも欺瞞に過ぎず、
脳死者とされる人は死んでいるわけではないのだから、
それならば命を救うために死亡者提供ルールを撤廃してはどうか、
という主張と同じ論理展開で、生きている人を死なせて臓器を摘出するDCDについて
倫理的に問題はない、と結論付けるもの。
前半を聞いていると、
DCDではドナーとなった子どもは生きているうちにICUから手術室に移されて
そこで臓器保存に必要な処置を受け、その後に人工呼吸器を取り外すので
家族は死後の子どもと一緒にゆっくり過ごすことができない。
生命維持装置を外しても一定時間死ななかったらICUに戻って終末期医療を続けることが
いずれのDCDのプロトコルでも定められているので、その場合には
家族は子どもの喪失を2度も体験しなければならない。
終末期医療の質の基準とされる項目53のうち、
DCDとの間で両立できる項目はわずか9しかない。
生命維持治療停止の決定と臓器提供の決定は別々に行われると
DCDの方針ではされているが、それは現実には線引き不能なもの。
両者の間には利益の衝突がある。
家族のカウンセリングを含め、
現在のシステムそのものが提供臓器を最大限に増やす目的でできている。
例えば、家族にアプローチする段になると
それまで関わってきた医療者が引っ込みOPO(臓器獲得機構)の人間が登場する。
家族に対して中立な立場で語りかけるアプローチと、提供を前提に語りかけるアプローチとでは
「臓器提供についてご説明します」と「大切なお子さんの臓器を生かせる機会についてご説明します」
「もしも(If)提供をご決断されるとしたら」と「提供を決断されると(When)」など、まるきり違う。
そもそも、DCDのドナーは死んでいるのか?
生きている患者をドナーにすることを巡っては
「不可逆性」という概念で正当化されているが、ここでの「不可逆性」とは
「蘇生しないことを選んだために不可逆になる」ことに過ぎない。
デンバー・プロトコルでは心停止から75秒だけ待って心臓を摘出したが、
では75秒過ぎたところで母親が「やっぱりやめます」と決意を翻したとしたら?
その時に蘇生させれば、その子の拍動はおそらく戻るに違いない。
それでも「不可逆」だというのだろうか。
こんなふうに話が続いてくると、
聞いている側はあやうく、この人はDCDに反対の立場なのだろうと思いこみそうになる。
ところが、デンバー子ども病院のプロトコルを例にとった上記の展開に続いて
Truogは「いったいDCDのドナーは死んでいるのか?」と問い、
すぐに続いて「死んでいるかどうかが、そもそも問題だろうか?」と問うことで
それまでの話の流れを一気に逆転させてしまうのです。
その後の彼のプレゼンの要旨は以下のような感じ。
医師には患者を殺してはならないという規範意識が沁みついているので
(また裁判所の介入で話が面倒になる可能性もあるために)
自分たちは患者を死なせているわけではないと、あれこれと詭弁を弄し、
言い替えの工夫をしては、ごまかしてきただけで
医師は患者を死なせる行為を頻繁に行っているのが現実である。
(質疑の際に、Truogは、世界最初のヨハネスバーグでの心臓移植手術の際、
ドナーの胸をあけた医師らが拍動する心臓を前に摘出をためらい、
わざわざ氷水をかけて停止させてから摘出したというエピソードを、
心臓の拍動で生死を線引きすることの無意味さの事例として紹介。
会場からも「氷水をかけて停止」のところで笑いが漏れました)
医師が患者を死なせる行為の正邪は、倫理的に考えると、
患者の状態と予後、患者の希望、家族が考える患者の最善の利益など、状況次第である。
臓器提供の場合の倫理ベクトルは3つある。
・ここに、やがて死に至るほど重大な脳損傷を受けた3人の子どもがいる。
・親は提供を決めている。提供は親に心理的なメリットももたらす。
・移植臓器がなければ3人の子どもが死ぬ。
これを考えてみれば、どう考えてみても反対する理由はない。
わざわざ75秒も待つ必要すら、ない。
HCRの論文に対して、この提言は功利主義だとの批判があった。
功利主義は悪であるとのニュアンスで悪のレッテルを貼られた。
しかし自分の提案は功利主義ではない。
臓器提供は善であるとの立場に立つ限り、
臓器移植を待っている患者のニーズに社会は何としても応えなければならない。
自分の提案はむしろコミュニタリアニズムでもある。
Truogは一応ここではDCDの倫理性を説いていますが、
彼の論理が「どうせ死ぬ患者なんだから殺したってかまわない」である以上、
TruogもまたJulian Savulescuと同じく、次の射程として
「臓器提供安楽死(ODE)」を捉えていることは間違いないでしょう。
なお、プレゼン冒頭で、紹介者が
シアトルこども病院が前米初の小児科DCDの方針を作ったこと
画期的な移植出をしたばかりであることなどに言及しているので、
検索してみたところ、方針そのものにはヒットできなかったのですが
シアトルこども病院は、
いまだに少ない小児科領域でのDCDを積極的に行っている数少ない病院の1つとのこと。
同病院の医師が07年にDCDについて論文を発表していました。
Trends in Pediatric Organ Donation After Cardiac Death
Robert Mazor, MD, Harris P. Baden, MD
Pediatrics Vol.120 No.4 October 2007, pp. e960-e966
また、行われたばかりの「画期的な移植手術」というのは、
時期とタイトルから、こちらではないか、と。 ↓
http://www.king5.com/health/60728917.html
母親の腎臓を娘に移植。85年の第一例から同病院の500例目に当たる移植手術。
なお、同病院では年間50例の移植を実施している、とのこと。
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