しかし、論文執筆者の1人であるDiekema医師はメディアで発言する際には、ほぼ一貫してアシュリーのメンタル・レベルを生後6ヶ月と述べています。「ほぼ」というのは、2月9日付けのSalon.comの記事では、今度は「生後3ヶ月」と語っているからです。そしてシンポでは、完全に断言するほど確かな記憶ではありませんが、彼は月齢を使わず「乳児並」という言葉を使っていたように思います。
両親のブログにある、生後3ヶ月の頃から知的発達が止まったという見解は、ともに暮らしてきた中での観察を率直に述べたものでしょう。つまり、両親はそういうふうに感じている、という主観的観察です。ブログの他の箇所には、実験的なものまで含めて可能な限りの検査を行ったと書いてあるのですが、特に触れてないことを考えると、その中に発達検査や知能検査は入っていなかったのでしょうか。
1月12日のCNN「ラリー・キング・ライブ」での当人の発言によると、彼がアシュリーに初めて会ったのは、シアトル子ども病院内分泌科に紹介されてきたアシュリーの6歳7ヶ月時以降なのだから、彼には両親のような観察をすることはできなかったはずです。では、彼はどこからこの生後6ヶ月という数字を持ってきたのでしょう。そして、なぜそれが後では3ヶ月に変わったのでしょうか。
彼は「3ヶ月ないし6ヶ月」と一貫して言っているのではなく、「6ヶ月」と言っていたものが「3ヶ月」に変わっているのです。
しかしながら、Diekema医師はあちこちで発言し、シンポでも言っていたように、今後適応を検討するケースの条件として「乳児並の知能」と「歩かないこと」の2点をあげているのです。広く使われている発達検査が複数あることは、障害児医療にかかわっている医師なら知らないはずはありません。知的レベルを根拠とする以上、少なくとも発達検査を行い、用いた検査の名前、検査方法、検査日時、観察者、などが明らかにされるべきでしょう。アシュリーのケースのように医師がなんら実証もせず、「この子の知的レベルは生後6ヶ月くらい」と言えば倫理上の問題がクリアされてしまうのであれば、こんな危険なことはありません。
②何が行われたのか
③それは何故か
④アイディアが生まれて実施に至るまでの経緯
もちろん、一つ一つは注意してみなければ気がつかない程こまかい食い違いです。これからのエントリーで私が指摘しても、まずは取り立ててあげつらうこともない些細な差に見えるかもしれません。しかし、実はそれらには1つずつ、食い違っている意味や理由がちゃんとあるのです。食い違いそのものよりも、なぜそういう食い違いが起こっているかを掘り下げて考えてみると、そこから、とても重要なことが見えてくるように思われます。
上記2.でも触れたように、WPASはかかった費用の総額と支弁者を解明しようと試みています。報告書に添付されている明細では、病院に支払われたのは26389ドル15セント。ただし報告書「Ⅲ事実」のDに書かれているように、この26389ドルには含まれていないものが多く、総額は依然として不明です。
アメリカの医療費の支払いは、医師からは別立てで請求されるシステムになっているので、この金額にさらに外科医、麻酔医、内分泌医への支払い、各種検査、退院後のフォローアップなどの費用がかかっているほか、ホルモン療法にかかった費用も含まれていません。
私の記憶では、午前の場面でもWoodrum医師は当該倫理委には弁護士も含まれていたと述べていました。
しかし、彼は倫理委のメンバーに言及したその2つのいずれの場面でも、当該倫理委の具体的な人数や構成について、それ以上に詳しく述べようとはしませんでした。
②両親の誤解から広く流布した40人という誤解を病院サイドは敢えて指摘・訂正しなかった。
③上記のシンポでの倫理委のメンバーを巡る各場面。
2.生理回避には他の方法があるのでは?
3.乳房切除がどのようにQOLの改善に結びつくのか?
4.誰の利益か? 患者が親か?
結論として、「もしアシュリーが子宮がんだったら摘出できるのだから、不妊以外の目的のother compelling medical reasons なら認められる」とする。
同じく結論の2点目「アシュリーの状態の永続性」のところで、「アシュリーには親を訴える訴訟を起こす能力はないし、前にもちょっと言ったように、子ども病院を被告にして訴訟を起こす一流弁護士は殆どいない。陪審員に人気の子ども病院とその医師らが被告に含まれていたら、まず勝ち目はないから」
未成年の場合、親の決定権は成人の法定代理人よりも広いが、ワシントン州では本人の望まない精神科への入院、命に関わるような緊急時でない場合の電気痙攣治療、精神科手術、成熟した未成年の妊娠中絶、不妊手術、それ以外の侵襲性が高く不可逆的な治療、特に親と子の利害が異なっている場合には、裁判所の審理と許可が必要。
1980年のre Hayes 判例(16歳女児、機能は4,5歳。性行為あり妊娠の可能性を恐れた母親と医師が不妊手術を求めた)では、ワシントン州最高裁は発達障害のある子どもの親に不妊治療への同意権を認めなかった。本人の望まない不妊治療は本人の憲法上のプライバシーと自由権を侵すとの判断が示されたもの。不妊手術については、公平な立場の法定代理人または弁護士が子の利益を代理してヒアリングが行われることが必要。また、この判決によって、裁判所が発達障害のある人への不妊手術を認める基準が示された。
また、アシュリーの両親の弁護士がK.M.の判例を引いて、アシュリーはこのケースの子どものように親を訴えたり、モノを言うこともないのだから当てはまらないと述べている点について、法律上の権利が障害の重さによってグラデーション状態に漸減するわけではないと反論。
さらに、それら手続きなしに治療が行われたり薬が処方されることがないよう、病院のコンピュータ・システムにセーフガードを儲ける。また成長抑制療法に裁判所の許可が下りた場合は、プライバシー法の範囲で、子ども病院はWPASに通知する。
上記コンピュータ・システムの改善。職員への教育。
アシュリーのケースで巻き起こったメディア報道と論争を好機として、論争のあらゆる立場の人が加わって、ソーシャルサービス提供システム改善策を模索すればよい。WPASはこの問題をアシュリーと子ども病院だけの問題とせず、広く啓発活動を行う。(Executive Summaryに「次のステップ」あり。)
Washington Protection & Advocacy System
(2007年6月1日より Disability Rights Washington に改名)
The Developmental Disabilities Assistance and Bill of Rights (DD) Act(発達障害支援および権利章典法)、the Protection and Advocacy for Individuals with Mental Illnesses Act(精神障害者のための保護及び権利擁護法), the Protection and Advocacy for Individual Rights Act, the Revised Code of Washingtonなどに基づき、ワシントン州において障害者の保護と権利擁護サービスを提供する民間NPO。設置は連邦政府により各州、テリトリーに義務付けられており、全国で57のP&Aシステムがある。活動資金の大半は連邦政府が提供。発達障害のある人への虐待とネグレクトが疑われる場合に、調査を行う法的権限が与えられている。
また、子ども病院はWPASとの間で、今後の発達障害のある子どもの権利擁護に向けて改善と組織的改革を行うとの合意文書に署名。
当該外科手術は子ども病院で行われたものの、関与した医師はワシントン大学の職員であるため、同大のインフォームドコンセント方針を請求した。
民間の病院であるシアトル子ども病院において、ワシントン大学の職員である医師が外科手術を行った。
2004年の倫理委では両親が一連の介入を求める論拠を提示し、担当医らが両親の求める外科的介入と薬剤による介入について説明sh地あ。倫理委は提案された介入について「アシュリー本人への長期的利益がリスクを上回るとのコンセンサス」にいたり、医療として倫理的と結論付けたが、不妊手術部分に関しては病院には決定する権限がないので、合法性については”court review”を求めるべく弁護士を雇うように両親に告げた。
外科医は弁護士から父親宛の手紙のコピーと、倫理委員会の勧告文書の両方を受け取っている。彼は手術前に医療部長のところに相談に行ったとのこと。この弁護士の判断を持って倫理委の勧告した”court review”がクリアされたものとして、医療部長が最終的に手術の実施を承認したとのこと。
もっとも、今のIT時代、特に医療関係者でなくとも、その気になればどんなテーマであれ、相当専門的な知識を探し出すことは不可能ではないだろうから、医療関係者でなければ思いつけないというものでもないのかもしれません。
論文の中では、
ここまでGunther医師とDiekema医師が書いた論文と、その内容をめぐる彼らの発言を検証してきました。途中あちこち脱線してしまったので、一度ここで整理しておきたいと思います。
この論文についての考察の、とりあえずの結論:この論文は実はとても胡散臭い。
なぜなら、
①論文には隠蔽、ごまかし、トリックが潜んでいる。
②自分たちがやったことがマズイことだと、医師らが実は自覚していたフシがある。
③なぜ、こんな中途半端な論文を、あんな中途半端な時期に発表したのか、大きな疑問。
④なぜ、論文発表まで2年も漏れなかったかも、疑問。
「まっとうジャーナルに論文が掲載されている」という事実は、それを知る者にある種の予見を与えます。「まっとうなジャーナルに掲載されているのだから、まっとうな論文なのだろう」という予見です。もしかしたら「まっとうなジャーナルに論文を発表したくらいなのだから、医師らがよほど自信のある症例なのに違いない」とか「医師らのしたことが、それほど、まっとうだったのだろう」との予見に繋がった人もあるかもしれません。
「まっとうなジャーナルに掲載されているのだから、まっとうなことが、まっとうに書かれた論文なのだろう」という予見は、論文に直接当たらずに医師らの発言や報道を真に受けることに繋がっていきます。メディアで医師らが「乳房芽が云々」とぺらぺらしゃべっているのを聞くと、論文が乳房芽の切除を隠蔽しているなどとは夢にも考えない。もちろん、考えないのが当たり前なのです。隠蔽するほうが異常なのだから。しかし、この論文には、そうした異常が含まれているのが事実。
このように「実は誰も確かめていないことが、多くの人の予見によって、いつのまにか事実として一人歩きしている」という図式が、なぜかこの事件には非常に多いのです。こうした思い込みと、そこから生じる情報の錯綜は、隠したいことがある人たちにとっては思う壺。彼らを利するだけでしょう。
次回は、「こんなアイディアを思いついたのは誰だったのか」という点について、検証してみたいと考えています。