2ntブログ
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夕方、CNNjを流しっぱなしていたら、
たいていは意味を結ばず流れていく音楽みたいなのに
そのニュースだけ、なぜかはっきり聞こえてきて
思わず包丁を使う手を止めた。

オーストラリアで実の父と娘が夫婦となって子どもまでいる――。

2人で仲良くインタビューを受けているので、
そこだけはテレビの前までいって見たのですが、
父親の方が言い放った言葉がすごかった。

「違法だってことくらい分かっているさ。
 そうだよ。違法行為だよ。
 だから何なんだよ?」

“ながら”で聞いて分かるほどの英語耳ではないので
前後に報道された詳細は分からないまま、
この開き直りだけは頭にリフレインし続けた。

それからずっと考えているのは、

これは例えば FostParis が医療の世界で
「どうせ医師の思うようにはさせてくれないから裁判所へは行くな。
 実際に罪に問われたことはないのだから法律など無視して
 生きる価値のない患者は切り捨てよ」
と言い放つことの、
ちょうど裏返しではないのか、ということ。

競争原理・市場原理・グローバリスムだネオリベラリズムだ功利主義だと、
強者の側・権力の側が弱者を守る責任を放棄して
一部の富裕層にだけ都合のいい世の中がものすごい勢いで作られていき、

オマエらはワシらの世の中を支える底辺労働力となるか、
もしくは都合よく使い捨てられる消耗品となるかしか道はないぞ。

世の中の役に立てるか。それを証明できるか。
身を捨てて証明するか。証明できなければ生きる価値はない。
もうオマエたちを守るものはどこにもいない──。

そんなメッセージを
名もなき貧しき民草は自分たちが呼吸する空気の中から
既に敏感に読み取り始めていて、
(もちろん意識してなどいないけれど)

もはや個々人の寄る辺となる社会が崩壊しつつある
ただの弱肉強食なのであれば
社会の秩序を尊重する意味もないし、

権力の側が切り捨ての武器にしてきた「自己責任・自己選択」を
個の側だって社会秩序を拒否する盾にとる……。

それも考えてみたら自然の成り行きだよね、と。


もちろん近親相姦を肯定するわけではありませんが、
(そういえば兄弟が夫婦になっていたという話も最近どこかであったような気がする)

近親相姦そのものがどうだというよりも、
近親相姦すら「違法だから、それで?」と開き直れるほどの
自己選択・自己責任、社会秩序や法の軽視に受けた軽いショックは

男性が妊娠腹をしている写真を見た時と同じ
「ありえないものを見た」という衝撃に近くて

「ありえない言葉を聴いた」という感じだったので。

              ―――――

この“夫婦”については 
ネットで検索したら裁判で2人は既に近親相姦の罪で有罪判決を受けているのですが、

以下の記事によると2人は「リスペクトと理解を求めている」のだそうです。
この2人も「わかってほしい」わけですね。

2008.04.09 / Top↑
昨夜、Guardianで
世界で初めて妊娠した男性 Thomas Beatie がテレビに出たとの記事を読み、

YouTubeでOprahと話をしている彼のビデオを見て、
前のエントリーを書き、

ずっと彼のことが頭に浮かび続けているうちに
今日になってふっと思ったのですが、

この人はもしかしたら、
ただ「わかってもらいたい」だけなのかも……、と。

「普通」から外れていることに苦しんできた自分が
「普通でなくてもいい」ということと「普通の願いをかなえたい」ということの間で
答えを探しながら生きているんだということを、

それが苦しいことであると同時に自己肯定の試みでもあるだけに、
ずっと自分の「普通でなさ」を受け入れてくれなかった周囲に
ただ「わかって欲しい」……んだろうか。

そんなふうに感じたのは、
彼がOprahの質問に緊張しながらも誠実に答えようとしていた姿に
あまり余分なものを感じなかった気がするからなのか、

自分からテレビに出てわざわざ脚光を浴びたいとか
特にゲイの人権がどうのこうのと講釈を垂れたいタイプでもなく、
他の人にも自分と同じことができる可能性を説きたいわけでもなさそうで
むしろ戸惑っているようにすら見えた。

「ゲイとかトランスセクシャルの人はどこかの時点で
自分の性別に違和感を感じるようになったというけど
あなたはどうだったの?」

「やっぱり女の子に惹かれたの? 女の子と付き合いたかった?」

などの質問にもOprahの期待通りの答えは出てこなくて、むしろ
かなり遅くまで自分の性に違和感を感じなかったような話だったのと、

5歳の時に母親が自殺して、
それ以後は父親が母親役割と父親役割の両方を担って育ててくれた
と話していたのが印象に残ったのですが、

この人が自分が妻に代わって妊娠した姿をゲイの雑誌に公表したのは、
例えば大きな病気と必死で闘っている人が「自分だけの闘病記」を書かずにはいられないのと
実は同じなんだろうか?


            ―――――――

性別を意識していないと敢えて主張しなければならないのは
誰よりも性別を意識しているということでもあるという堂々巡りが、
性別によって傷ついたり苦しんできた人の自己肯定作業の宿命なのかも知れないのだけれど、

(「障害」は「個性」だと声高に主張しないといられないことにも
 私はこれと同じ宿命的な堂々巡りを感じるのですが)

「一度男であることを選んだ」のだから性別を意識していないわけではないし、

でも、その「男であることを選んだ」という事実から
「女でもない男でもない人として我が子を持ちたいから
性別とは関係なしに妊娠している今の自分」までには、
ちょっと距離というか飛躍がありますね。

性転換手術をするときに、具体的な方法までは考えていなかったけど
将来子どもを産むことも想定して生殖機能は残した……という話が
その距離と飛躍を埋めるのかなぁ。

実は何も大して深く考えてなかったりしてね。
2008.04.09 / Top↑