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「移植臓器不足は誇張されていた」という3月のエントリーでちょっと書きましたが、

ペンシルバニア大学の倫理学者Arthur L. Caplanについては
Ashley事件で初めてその発言に触れ、
その後も様々なニュース記事でコメントを読むにつれて
ちょっと気になってきたので、

読みやすそうなところで、Caplanによる生命倫理の入門書を買ってみました。
頭のいいマウス、それほど頭が良くない人間」というタイトルも楽しかったので。
(買ったのは2008年版のPB。ハードカバーは2006年刊。)

まだ半分も読んでいないので、
あれこれの感想を一応保留ということにして少しずつ読み進んでいるところなのですが、
たまたま製薬会社の巨悪(?)ニュースに目が向いていたところで
この章に行き当たった。

Commercial Concerns Should Take a Backseat to Public Awareness
(商売の思惑は後部座席に退いて、情報提供に席を譲れ)

章タイトルそのものが製薬会社へのメッセージです。

この章の中に、
あらゆる医薬品の人体実験データが公開されるようなルールを作れと
米国医師会が政府に対して要望することで意見が一致したという話が出てくるのですが、

初版が2006年とすると、このAMAの決議は
今月NY Times取り上げていた避妊パッチ事件なども進行していた時期でしょう。

AMAがこんな決議を行った背景にはそうした事件の影響もあったでしょうが、
臨床試験の実態があまりにも酷いことを医師らが知っていたからでもあって、
その実態をCaplanは次のように書いています。

いい結果でなければ、論文を掲載してもらうことそのものに研究者は苦労する。否定的な結果に終わった実験は、まず雑誌の編集者がOKしない。影響力が小さな研究なら結果がネガでも掲載されることはあるが、話題にはならない。「一般的な風邪薬で風邪は治らない」という話がニュースになることはないし、誰かの口に上ることもないのだ。

でも、掲載される論文にバイアスがかかっているという問題以前に、
多くの実験や研究のスポンサーが製薬会社なのだから
「ああ、これはマズい結果になりそうだ」と見れば、その研究がつぶされるだけのことだ、とも。

ちょっとびっくりするのですが、
製薬会社には都合の悪いデータをFDAに知らせる義務はあっても
一般や医療者に公開しなければならない義務はないのだそうで。

子どもに使われた抗ウツ剤が自殺に繋がると製薬会社の実験データが指摘された時にも、
州検事が強硬に裁判に持ち込むまで、製薬会社はデーター提供を拒否した、と。

(そういえば、この敏腕検事はつい先ごろセックス・スキャンダルで失脚したっけ。)

AMAとしても、
こんな状況では製薬会社の売り言葉だけで患者に医薬品を処方するのは危険、と
判断したということでしょう。

この章のメッセージは「ソロバン弾くよりも情報公開が先だろー」ということで、
今年の3月に英国当局が製薬会社に訴えた「お願いだから倫理観念をもって」と同じ。

しかし、NY Timesの記事などを読むと、
その後も改善はなく、事態は悪化の一途と見えます。

             ――――

しかし……
こういう実態を知って懸念もしている倫理学者が
スポーツにおけるステロイドなどパフォーマンス向上薬物については
「認めればいいじゃないか」という立場であるということを始め、

全体に薬とテクノロジーの人体への応用には非常に前向きであるということが
私はイマイチ理解できない。

今のところ、Caplanのスタンスは
「テクノロジーそのものが悪だというわけではないから規制の必要はない。
問題はそれを使う人間の側のセルフ・コントロールである」
という辺りのように思えるのですが、

なんとも楽観的だなぁ……。

そんなに簡単に人間の欲望がコントロールできるものなら、
なんで製薬会社がこんなにもコントロール不能状態で野放しになっているんだ──?
2008.04.18 / Top↑
……というタイトルどおりの動きを NY Times が指摘しているのですが、

そこで製薬会社と政府が盾にとっているpre-emptionという法理論というのは、
どうやら専門家の専門性に絶対的な免罪符を与えて司法判断より上位に置くといったもの。
これでは専門性を隠れ蓑に何でもやりたい放題じゃないか……と唖然とする。

そして、これは、もしかしたら
「無益な治療」での訴訟つぶしにも応用できる論法ではないか……と考えると、
なんだか今度は慄然とする。



The Dangers in Pre-emption
The NY Times, April 14, 2008



数年前、Johnson&Johnsonの避妊薬パッチOrtho Evraが問題になりました。

経口避妊薬より何かと便利で
世界中で400万人の女性に愛用されていたOrtho Evra、

実はエストロゲンを通常の避妊薬の1,6倍も含み、
それだけ使用者のエストロゲン血中濃度を上げるものだったのですが、
Johnson & Johnsonがそれを発表したのは
同パッチが原因と見られる血栓症によって多くの死者と脳卒中患者が出た後の2005年秋。

3000人もの女性や家族が同社相手に訴訟を起こしています。

裁判過程で判明したのは、
Johnson & Johnson社が社内的に同パッチを認可した2001年以前に
パッチがピルよりも血中濃度をあげることを把握して、
FDA提出資料の上では「修正」を行っていたという事実。

そしてその「修正」情報に基づいてマーケティングが行われた
(つまりウソ情報で売られた)ということ。

しかし、
現在は新ラベルに正確な含有量と適正な使用方法を記載し、
正しく使えば安全な薬だと主張する同社は
裁判ではpre-emptionという戦術で訴訟そのものを否定してかかっています。

pre-emptiveはイラク開戦の際の「先制主義」でも使われた言葉ですが、
ここでは、

製薬会社を規制することのできる専門知識を持っている唯一の機関がFDAである以上、
FDAの決定を裁判所が疑うことはできない、という主張。

従って、同社を訴えることはできないはずだ、というわけ。

驚くことに
Bush政権もこの論理を後押ししており、どうやら、
頻発している製薬会社に対する訴訟崩しにpre-emptiveを慣例化する狙いがあるのではないか……
というのが、ここ10日間で2度もこの問題を取り上げた NY Times の論旨。

なにしろ過去10年間に認可を取り消された薬や訴訟を起こされた薬は
統合失調症治療薬のZyprexa
鎮痛剤のVioxx
糖尿病治療薬のRezulin
胸焼け治療薬のPropulsid
さらに抗ウツ薬が数種類。

Zyprexaの訴訟では
独自の検査を行わず製薬会社のデータ頼み、
リスクを把握しても消費者に強く警告することは製薬会社に求めない
FDAの弱腰体質が明らかにされているところ。

(こちらの事件の当初報道を紹介して下さっているブログがあったので、
 TBさせていただきました。)

こんな状態でpre-emption原則がまかり通るということになると

FDAと癒着している製薬会社のやりたい放題、
患者・消費者は製薬会社の食い物で、
いいかげんな臨床試験やデータ改ざんの犠牲になっても
裁判も起こせなくなるということです。

そして、このpre-emption、
医薬品以外にも拡げていける理屈ではないでしょうか?

私には今でも裁判所など無視せよと提唱しているNorman Fost医師が
pre-emptionに飛びつく声が聞こえてくる――。

「医療の専門家は医師である。裁判所に医師の医療上の判断を疑う資格はない」

(そういえば最近、日本でもこういう声をたま~に耳にしますね。)



英国では米国のFDAに当たるMHPRAが3月に製薬会社に対して
倫理観を持てと異例の訴えを行っています。
FDAやブッシュ政権よりもマシなのか?
それとも、この「お願い」、最後に残った良心を振り絞っての絶叫──?
そのまま制御不能状態に突入する“いまわの際”の──?
2008.04.18 / Top↑
CNNが4月6日に「ダウン症の決断」と題した特集を放送し、

おなかの子がダウン症だと分かって産むことを選択して
現在4歳になった娘Faithと息子と幸福に暮らしているMitchell夫妻と、

ダウン症だと分かって中絶することを選び、
その後、障害のない子どもを産んだという夫婦とに
それぞれインタビューしています。

Down Syndrome Decisions
CNN Video, April 6, 2008


後者の夫婦は姓を隠してインタビューに応じ、
中絶の決断を後悔していないし間違ったことをしたとも思わないが、
自分たちがしたことを軽蔑する人たちが世の中には沢山いることは感じている、と。

Mitchell夫妻は
ダウン症だと分かった時に医師からネガティブな情報ばかりが出てきた、
この子を産むと「お兄ちゃんの重荷になりますよ」とまで言われた、と。

医師らは最悪のシナリオだけを頭において話をしているが、
出産前の夫婦には偏った情報ではなく、
情報をすべて提供して欲しい、と。

上記リンクから、
バースデイ・ケーキのろうそくを吹き消し、
友達と遊んだり、シャボン玉を吹いている
Faithちゃんの可愛らしくほほえましい姿が見られます。

障害の種類も程度も様々なのに、
その具体的な障害像や現実を置き去りにしたまま、
「障害児は自立できず家族のお荷物になる」とか
「生まれてこないほうが本人のため」だと考える人は
彼女の姿を見て、一度自分に問うてみて欲しい。

この子の姿を前にしても
果たして同じことを同じ口調で言えるのかどうか。

       ――――――

障害の多様性も個別性も置き去りにしたまま、
“障害”という言葉で一括りにしてイメージだけで語ると
すべての障害に最悪のシナリオが思い描かれてしまう。

シアトル子ども病院の生命倫理カンファレンスで
障害新生児への「無益な治療」停止を提唱していたNorman Fostが引いた
「重い障害を持った新生児」の例が無脳症児であったように。


障害児・者を功利主義で切り捨てようとする人たちは
意図的に敢えて最重度のイメージを付加して語るのかもしれないから、

それだけ余計に、
両義的なところで迷いつつ悩みつつ
自分なりに真摯に考えてみようとして
“障害児”の選別的中絶や安楽死や「無益な治療」論による治療停止を論じる人は

自分が語っている“障害”とは
具体的にどういう障害が
どの程度にひどい場合を想定しているのかを

まず具体的にしっかり確認し、
その障害についてせめて基本的な知識を身につけた上で
初めてその問題を考える……というくらいの慎重さ・繊細さを持ってほしい。



2008.04.18 / Top↑