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なだいなだ……え? 

図書館で文庫の背表紙を見た時には、そんな驚きを感じたくらい、
なんというか、私にとってカンペキ「過去の人」になっていた。

思春期にせっせと読んだ記憶があるのだけど、そのうち、すっかり忘れて、
忘れていることすら一度も意識することなく今に至った。

その間が、なにしろ30年以上なのだから、

失礼ながら「まさか、まだ生きておられたので……?」とつぶやきつつ、手に取ってみたら
なんと、本当にご健在で、「こころ医者講座」は2009年第一刷発行。

なんだか昔なつかしい恋人とひょっこり再会したかのようで、
猛烈に嬉しくなったものだから、ろくに中身も見ずに借りて帰った。

そしたら、滅法いい本だったのよ。これが。

ちょうど、
頭でだけ、合理によってだけ、人に関わる諸々を
利益だリスクだコストだと点検する議論にうつつを抜かしていると、
心で受け止め、心で向かい合う力を人間は鈍らせてしまうんじゃないかと
こちらのエントリーなどで考えていたところに、ぴたりと重なる内容でもあったので、

今の時代に、黙っていられなくなって、
こんなことを言ってくれる老精神科医の思いと言葉を
しみじみと温かくありがたく受け止めつつ読んだ。

ごく大まかに、例によって勝手な解釈と私自身の言葉で、
なだ先生がおっしゃっていることをまとめると、

日本で、うつ病が増えているそうな。
「病人が増えているのか、受診者が増えているのか分からない」が、
とにかく精神科医が診きれないほどの数に膨れ上がっているそうな。

それなら、患者本人も、患者の周りにいる人も、それからもちろん精神科医も、
みんなで「こころ医者」になったらどうか。

病気を治して問題を解決しようとするのが精神科医。
話を聞いて本人の「こころ」を成長させて自分自身で問題を解決させようとするのがこころ医者。

もちろん、こころ医者の方がステージが高い。
精神科医が医師としても人としても成長して初めてこころ医者になれる。

本来、精神科医はこの両者が出来なければならないはずだが
「今はそれができない状況になっている」。

(それは、先生、例えばこういう状況のことでしょうか……?)

正常か異常か、イエスかノーか、すぐに何でも白黒をつけたり、
その白黒を権威ある誰かによってつけてもらわなければ気が済まない人々や、
そうした世の中の風潮が人を追い詰めている。

患者さんがふと黙る、その沈黙の中にある濃密なこころの綾や、
イエスでもノーでもない「どっちつかず」で「中途半端」なアンビバレンツが
人のこころにとって非常に大切な機能を果たしていることなど、
こころに対する理解と洞察をしっかり深めて、

今すぐに結果を出そうとするのではなく人生という長い時間の中でものを考え、
個としての人の中だけではなく周りの人との関係性の中で問題を考えるなど、

柔軟かつ繊細に、人のこころの複雑さと向き合い、
その人が本来持っているはずの、人として成長していく力をサポートすること。

近代人は、封建制度から解放されることによって
自由と引き換えに不安を抱え込んでしまったので、
つい、その不安を消そうとしたり、そこから逃げようとしてしまうけれども、
その不安は不安として引き受けつつ生きていくしかないものなのだから、

そうする力を身につけるところまで、こころが成長すること以外にない。
周りはそれをサポートすることが大切。

大切なのは「正常」ではなく「成長」。

そういう視点で人をサポートする「こころ医者」には誰でもなれる。
そして、こころ医者になることを通じて、自分自身を見つめ、
自分自身もこころを成長させていける人が増えれば、

「正常」や「権威」で人を追い詰め病気にしてしまうような人も減って、
ウツ病の人がこんなに増えるような社会ではなくなる。



念のために断わっておくと、もちろん、
なだ先生は、薬を使うということを否定しているわけではありません。


実は、この直前に読んだ河合隼雄氏の「縦糸横糸」にも、
ほとんど同じことが沢山書かれていた。

例えば、

……根本には、人間である限り、その奥底に必ず持っている実存的な不安に対する自覚がなさすぎる、という事実がある。このような不安に対するものとしての人生観、世界観を持ってこそ、人間は安心して生きていくことができる。(p.26)



人の心や行動の複雑さは、
原因―結果という単純な図式で納得などできるはずもないのに、

「なぜ」と問えば必ず答えが返ってくるはずだ、というのは現代人のあさはかな思い込みである。(p.74)



または、
客観的な近代科学の分析の方法論を人間に当てはめようとしたことの間違いを指摘し、

そもそも人間が人間を厳密な意味で「対象」になどできないのだ。(p.152)



……などなど。

その2冊を読んで、思ったのは、

人の心は、脳にあるわけでもなく、
客観的に把握したり簡単に調査研究できるようなものでもなく、
案外に、その人の中のどこかにあるものですらなくて、

その人と誰かとの関係性の中で、
その人の心と、その誰かの心とが、
お互いに相手に向かって力を使い合う時に生じる、
心の力が交錯する磁場のような場所にあるものなのかもしれない……
……みたいな、こと。

それは、前に考えてみた、
「どろどろ」と「ぎりぎり」にこそ意味があるということでもあるのだけど。

何を選択するかじゃない。
人生の一回性の中で、いかにどろどろし、いかにぎりぎりのところで選択するか。
その選択までに、どれだけ、心を動かし、心のエネルギーを注いだか。

そこに関わる人たちが、どれだけ自分の心を動かし、使い、
心のエネルギーを、その人のために注いだか――。

人を変えたり、人を動かしたりできるものがあるとしたら、
心の磁場でのそういう絡まり合いから生まれてくるエネルギーみたいなものなんじゃないのかなぁ。

そして、Ashley事件からこちら、ずっと考えている「尊厳」も
そういう磁場のあたりに関わっているんじゃないかという気がする。

          ----

頭で割り切ろうとするなよ。
そんなもん、最初から割り切れるものじゃないんだよ。

どこまでいったって割り切れないことも
どうしたって不確かなままでしかないものも、
心で受け止めるしかないものなんだよ。
人間なんだから。

そうやって頭ばっか使ってないで、
心をもっと、しっかり、使わんかい。こら。

その逆ばっかりやっとるから、
人間観のあまりに浅薄な、頭がいいだけのバカが
世の中にどんどん増えていくだろーが、おら。

……と、本当は、なだ先生は言いたいんじゃないだろうか。

いや、それは私の我田引水か……。あははっ。
2010.06.03 / Top↑