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医師による自殺幇助(PAS)が合法化されているOregon州Portlandで、
Sellwood地区の住民向けに、Dignity Houseという名称で
米国版Dignitasを作ろうとしている医師がいる。

その人は、Dr. Stuart Weisberg.

オレゴンの尊厳死法にのっとって余命6か月以内の人が
自殺幇助受ける場合には、医師は上限5000ドルまでの報酬を受け取ることができる。

Weisberg医師は
同法の元で毎年、10人が死んでいるので、
その人たちに「共感に満ちた選択肢」を、と言っているが

家庭医からは「自動販売機みたいな医療をやろうとしている」との批判も。

ちなみにWeisberg医師は精神科医。
なので、自殺希望者の精神状態のアセスメントも「お任せください」てなもん?

他の医師のセカンドオピニオンが必要となったって、
お友達がちゃんと確保してあるのだろうし。

Psychiatrist plans to open assisted suicide business
Southeast Portland KATU, June 22, 2010


「精神科医の中には、薬の自動販売機のような人もいる」というのは
先日、ある医療職に大ウケした、我ながらの名言だと思っていたのだけど、

まさか自殺幇助で自動販売機的に
「やりまっせぇ。さぁ、どなたでもいらっしゃい」と
揉み手しつつ店開きする医師がいるとは想定外だった……。


そういえば、今年の初め、英国の作家で
「高齢者がいつでも死ねるよう街角ごとに“安楽死ブース”を」と提案した人がいたっけ。


つい先日ビルダーバーグ会議の存在を知ってから、
頭の中が何かにつけて陰謀説でぐらぐらするのだけど、

2050年までに40億人の世界人口削減を完了するという同会議の目標と
自殺幇助合法化議論の高まりというのも、そういうことと関係している??

(この目標についてはこちらのエントリーの末尾に追記してあります。)

なんでC&Cや、合法化アドボケイトが総じてあんなにお金を持っているのか
ずううううっと私は不思議だったのだけど、

もし、そうなのだとしたら、
そりゃ、なんの不思議もありませんが……。
2010.06.24 / Top↑
4月28日にMaryland大学で行われた
障害者の権利に対する医療と倫理委の無理解を考えるカンファについては4 月3日のエントリーで紹介し、

その分科会で、
アシュリー事件について、一貫して「障害者全体の問題」として批判を続けてきた
障害当事者のWilliam Peace氏が講演する内容をこちらのエントリーで紹介しました。

その講演内容に手を加えたものが、
22日付でHastings Centerのブログ Bioethics Forumに掲載されています。
タイトルが非常に印象的で、「アシュリーと私」。

Ashley and Me
William J. Peace
Bioethics Forum, June 22, 2010

Bad Cripple こと William Peace氏は2007年1月の論争当初の1月18日に
Counterpunchというネットサイトに長文の批判記事を寄せた際に、
既に「アシュリーは自分だ」という視点から書いていました。

Peace氏 に言わせれば、
障害者に対する強制不妊の歴史は、
障害者に対する人権侵害のわずかな一面に過ぎず、
米国の歴史において障害者はずっと価値の低い存在として、
その権利はずっと値引きされてきたのであり、

Ashley療法や成長抑制療法が仮に重症児を対象としたものであっても、
そこで繰り返されているのは、これまでと同じ論法であり、
障害者を健常者とは別の世界の住人として差別し、
その権利を値引きするための詭弁に過ぎない。

その意味で、
Ashleyは寸分たがわず自分自身であり、すべての障害者である、
Ashley療法は、ただシアトルの一人の重症児の問題ではなく、
すべての障害者の問題である、と主張します。

最後の部分を以下に。

What are the larger implications of the Ashley treatment? The answer to this question is clear to me: the Ashley treatment is about more than one girl in Seattle – it is about all people with disabilities. We are the Other, a pervasive and important concept in the social sciences. The Other are strangers, outcasts if you will, people who do not belong. The Other often have fewer civil rights and experience gross violation of those rights.

Thus at a fundamental level there is an us-and-them – those with a disability and those without. This is a false dichotomy, but is a part of the American social structure and dare I say medical establishment. The degree of disability is not important, nor is the type of disability. We people with a perceived disability are the other.

Given this, I do not consider myself one iota different from Ashley, in spite of the great difference in our cognitive ability. In developing the Ashley treatment, doctors have not only overreached the bounds of ethics in medicine but also sent a shot across the bow of every disabled person in American society.

The message is very clear: disabled people are not human – they are profoundly flawed beings, and extreme measures will be taken to transform their bodies. Consent is not necessary. Modern science has come to the rescue, and doctors have the technology to save us. The problem with this line of thinking is that it is inherently dehumanizing. Ashley did not need to be saved.



    ――――――

私自身、ずっとこのブログで考えてきたことが
最近、1つ、まとまりを持った言葉になってきたのですが、
それが、Peace氏が書いていることに通じていくように思うので、以下に。

Ashleyに行われたことについての
父親やDiekema、Fost医師らの正当化の基盤はアシュリーの知的障害の重さであり、
したがって、彼らの論法を正面から受け止めた場合、倫理上の問いは
「Ashleyの知的障害の重さは“Ashley療法”を正当化するか」。

私は、まずAshleyの知的障害の重さについて
同じような重症重複障害のある子どもを持つ親として、
彼らの「どうせ何も分からない」「生後3か月の赤ちゃんと同じ」という認識が
事実とは違い、彼らの中にあるステレオタイプに基づいた偏見に過ぎないことを
繰り返し指摘してきました。

したがって、上記の問いにおいて
まず、正しく認識されていない「Ashleyの知的障害の重さ」は
何ものも正当化しない、というのが1つの答えだとは思うのですが、

でも、この問いへの答えは、そこでとどまらないし、とどまってもいけないと思う。

なぜなら、問題は
Ashleyの知的障害が正しく認識されていないことにあるのではなく、
なぜ正しく認識されないか、の方にあるから。

現実の障害像が正しく認識されないことの背景にあるのが
無知とステレオタイプである、という事実がここでは問題の本質であり、
それこそが、障害者に繰り返されてきた差別の根っこそのものだから。

その意味では、
Ashleyの障害の重さが正しく理解されていないから
“Ashley療法”は正当化されないのでなく、

Ashleyの知的障害が医師らの主張するよりも軽い可能性があるから
”Ashley療法”が正当化されないのでもなく、

Ashleyの障害の重さが正しく理解されていないまま
正当化の根拠になっていることが証明しているように、

障害を根拠として別の扱いや基準を正当化する行為そのものが
障害の重さとは無関係に、無知とステレオタイプに基づいた差別であるがゆえに、
障害者に対する差別による“Ashley療法”の正当化は成立しない、のだと思う。

だから、仮に医師らの言う通りに、またはそれ以上に知的障害が重かったとしても、
障害の重さとは関わりなく、どんな重症者に対しても、
その論理の差別性ゆえに、正当化が成立しないのだと思う。

“Ashley療法”の正当化論は
「重症障害児・者は他の障害者とは別」との線引きを試みていて、
それは現在「無益な治療」論や安楽死議論、恐らく臓器提供を巡る医療倫理において
じわじわと進行しつつある線引きでもあるからこそ、

“Ashley療法”正当化論の線引きについては、
その両方のことが、きちんと両方とも言われる必要があるんじゃないか……ということを
最近ずっと考えている。



実は08年12月にPeter Singerの発言がらみのエントリーに、tu_ta9さんから
「じゃぁ、認知が出来なければ殺されても仕方ないと言えるだろうか」という
コメントをいただいた時に、

“Ashley療法”論争がすべてのスタートだった私にとっては
正面からお返事するだけの手持ちの考えというものがなくて、
その後、ずっとtu_ta9さんからもらった宿題として、その問いが意識されていました。

1年以上かかったし、まだ、これは1つのステップに過ぎないけど、
あの時の宿題がなかったら、この方向にこだわって考え続けることはできなかったかもしれません。

tu_ta9さん、ありがとうございました。
2010.06.24 / Top↑
一昨日、“Ashley療法”関連のカン違いで、はた迷惑な大騒ぎを演じてしまった際に、
Cambridge Quarterly of Healthcare Ethicsの最新号のサイトで
以下の論文が、たまたま目についた。

東京大学公共政策大学院の赤林朗氏の
子どものワクチン施策に関する共著論文で、

Japanese Childhood Vaccination Policy
Peter Doshi and Akira Akabayashi
Cambridge Quarterly of Healthcare Ethics, Volulme 19, Issue 03
July 2010

こちらは、“Ashley療法”がらみの論文と違ってアブストラクトが読めたので、以下に。

The ethical tension in childhood vaccination policies is often framed as one of balancing the value of choice with the duty to protect. Because infectious diseases spread from person to person, unvaccinated children are usually described as putting others around them at risk, violating a perceived right to be protected from harm. Editors of Lancet Infectious Diseases recently argued against mandatory vaccination, reminding us that the resort to mandatory vaccination as a means of achieving high vaccination rates is still very much a topic of Western vaccine debates. The nation of Japan offers an interesting case study in childhood vaccination policy, as it has an entirely voluntary (opt-in) system that achieves high vaccination rates. In this paper, we offer an overview of Japanese childhood vaccine policy, suggest some ways to contextualize and understand how a voluntary system achieves high vaccination rates, and speculate on what the future of Japanese vaccination policymaking and government–public relations may hold.




へぇぇぇぇ……。

私たちは現在、日本はワクチン後進国で、
国際レベルからすると遅れているんだと耳にタコができそうなくらい
聞かされ続けているのだけれど、

赤林氏らによれば、日本は
全く強制なしでも高い接種率を誇っている稀有な国であるらしい。

欧米では義務付けなければ接種率が上がらなくて、
個人の選択権か公共の安全かという議論になっているのは、
当ブログでもDiekema医師の発言などを中心に追いかけてきた通り。
(詳細は文末の関連エントリーに)

そこで、赤林氏の論文は、
日本ではなぜ任意接種にしても接種率が高いのかを
ご参考までに分析してみましょう、という趣旨のように思われます。

その要因の1つは、私が思うには
日本では製薬会社のスキャンダルがまともに報道されないために
製薬会社や医薬行政そのものへの不信感がないこと。

(スキャンダルだけじゃなくて不可解な治験の実態まで隠されていたりもする?)

ワクチンを巡って起こっている諸々や陰謀説についても、
日本ではほとんど知られていないこと。

日本の我々一般国民は、
なんとなく「おかみ」のすることを無邪気に信頼していること。

でも、まさか論文で、そんなのを日本の高接種率の要因としたのでは
結論が、欧米でもメディアの口を封じて国民に情報が届かないようにしましょう……
みたいなことになってしまうから、

もちろん別の分析になっているのだとは思うけど。


で、最後に、今後の日本のワクチン施策の方向性について
考察してみましょう、という辺りがどういう内容なのか、

なんとなく、
今後、子どもに接種されるワクチンの種類が増えていくにつれて、
任意接種のままで高接種率を維持するには、やはり公的助成が不可欠、という
方向に向かっているのかも……と気にはなるのだけど、
そこはアブストラクトだから全く分からなくて残念。

ともあれ、
日本は、必ずしも「ワクチン後進国」というばかりではなくて、
ある意味、むしろ欧米諸国の範たるべき「ワクチン先進国」なのらしいから、

その点、ちゃんと覚えておきましょう。


【関連エントリー:日本】
「HPVワクチン」検索結果の怪(2008/9/2)
朝日のワクチン記事にも「米国では」の印籠(2009/8/8)
「健康ギャップ」なくても「ワクチン・ギャップ」埋めないと「世界に恥じ」る……と説くワクチン論文(2010/3/5)

【関連エントリー:米国の親のワクチン拒否問題】
米国の親によるワクチン拒否、裁判所介入へ(2008/7/10)
Diekema医師がMD州ワクチン拒否事件で論文(2008/7/10)
ワクチン拒否問題でまたもDiekema医師コメント(2008/9/2)
「ワクチン拒否の親には他児に害をなす“不法行為責任”を問え」とDiekema医師(2010/1/20)


【追記】

この記事を一応書いてアップすべく寝かせている間に読み始めた
「ビルダーバーグ倶楽部」に、以下のようなくだりがあった。

ビルダーバーグ会議の秘密の計画では
2050年までに戦争、飢餓、疾病を通じて世界人口を40億削減する予定で、
その計画完了後に残る20億人のうち、中国人と日本人は合わせて5億人とされている。

その理由はジョン・コールマン博士によると、
「彼らはその生活を何世紀にもわたって画一的に管理されてきたので、
余計な疑問を持たないまま権力に従うことに慣れているからだ」。
(p.80)


【関連エントリー】
”優生主義者”ビル・ゲイツ、世界エリートの“陰のサミット”ビルダーバーグ会議にデビュー(2010/6/9)
ビルダーバーグ会議2010(6月3日ー10日)(2010/6/10)
2010.06.24 / Top↑