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自立生活を送れない身障者も対象とするスコットランドの自殺幇助合法化法案については
3月3日の補遺で拾ったように、10週間に及ぶパブコメ募集が行われていましたが、

その結果がスコットランド議会情報センター(Spice)から発表され、
意見を寄せた人の87%が法案に反対だったとのこと。

意見を書面で寄せたのは601の個人または組織で、
賛成は6.5%(39件)のみ。

特に反対背も賛成でもない人または組織が6.8%。

意見全体の19.5%が医療専門職で、
その多くが反対意見だった。

免許を持った医師に終末期の自殺幇助の役割を担わせることを拒否する意見が多かったのは
多くの医師が自殺幇助はヒポクラテスの誓いに反すると感じたためで、

他にも、
合法化されると医師が本当に自分の最善の利益を考えて医療行為を行ってくれているか
患者が分からなくなるし、

弱い立場にある患者が医療職に不安や心配を率直に打ち明けにくくなる、との意見があった。

自殺幇助を希望する患者は
応じてくれる医師を見つけるまでドクターショッピングをする、との声も。

もう1つ、Spiceのまとめにある重要な指摘は、
「苦しんでいる人の尊厳を尊重するには死なせてあげるしかない」と
MacDonald議員の法案が前提してしまっている
こと。


例えば、The Scottish Council on Human Bioethicsからの意見には、
次のように書かれている。

Legalising euthanasia would mean that society would accept that some individuals can actually lose their inherent human dignity and have lives which no longer have any worth, meaning or value. It would give the message that human dignity is only based on subjective choices and decisions and whether a life meets certain quality standards

安楽死を合法化すれば、人として固有の尊厳を失い、もはや意義も意味も価値もなくなった生を生きている状態というものがあると、社会が前提することになる。

人間の尊厳とは、ある人の生が特定のQOLスタンダードに達しているかどうかを、誰かが主観的に選び決めるものだと、社会に向けてメッセージを発することになる。



Opponents deal a blow to MacDonald’s assisted suicide bill
the Scotsman, June 19, 2010


スコットランドの医療職と
そして、生命倫理カウンシルの良識に拍手――。

ここでもまた、ごく自然に「尊厳」が語られていることに深く安堵する。


【関連エントリー】
スコットランドでも自殺幇助合法化法案か(2009/2/20)
スコットランドでも「死の自己決定権」アドボケイトの医師が高齢障害者の餓死を幇助(2009/3/11)
スコットランドの自殺幇助合法化法案に倫理団体から批判(2009/4/22)
スコットランド議会で自殺幇助合法化案、提出へ(2009/4/25)
自殺幇助希望のスコットランドの女性、腎臓透析やめるよう医師に”命じ“る(2009/6/14)
英国看護学会、スコットランドの自殺幇助法案提出議員と会談へ(2009/7/28)
スコットランドの世論調査で3分の2以上が自殺幇助合法化を支持(2009/11/8)
「自立生活できない身障者も可」スコットランド自殺幇助合法化法案(2010/1/22)
ローマ法王がスコットランドの自殺幇助合法化法案を批判(2010/2/6)
スコットランド自殺幇助合法化法案を「死の自己決定権」アドボケイトが批判(2010/2/9)
2010.06.20 / Top↑
Mark Pickup というMS患者の方が
カトリック系のサイトに北米の病院での「無益な治療」の現実について書いています。

冒頭、
交通事故で重症の脳損傷を負った息子が
気がついたら、親の同意など求められてもいないのにDNR(蘇生拒否)にされていたが
息子は瞬きで親と意思疎通ができ、生きたいと言ったので、
医師に抗議して最終的に取り消してもらった……という夫婦の話に始まって、

北米の病院では、すでに担当医の判断で治療が停止されており、
医療職は「無益な治療」という用語でごまかすが、
実際は患者を無益だとして扱っている、と。

非常に印象的なのは、以下の個所で、

Across North America, we are seeing the bitter fruit of post-Hippocratic medicine where the sanctity of human life ethic has been replaced by a quality of life ethic.



なるほど、「ポスト・ヒポクラテス医療」……。

Do not harm. 患者を害する行為はしない を含めたヒポクラテスの誓いが
もはや意味を持たなくなった医療ということですね。

ポスト・ヒポクラテスの医療では
人の命を神聖なものと考える倫理に、QOLの倫理が取って代わってしまった、と。

この部分に続けて、著者は
しかしQOLを一体だれが、どのような基準で判断するというのか、と
その曖昧さを指摘します。

そして、障害よりも死の方がマシだと社会が捉えているかのようだと語り、

しかし、その一方で
社会では障害者を排除しない努力も行われており、
障害者は相反する2つのメッセージを受け取っている、
一体どちらが本当なのか、と問うています。

Catholic hospitals ensure compassionate care
Mark Pickup,
Western Catholic Reporter, June 21, 2010


家族が知らない間に医師が勝手にDNRにしていたといえば、
カナダ、トロント子ども病院の Annie Farlow事件を思い出します。

生まれたばかりのAnnieちゃんが、
トリソミー13だというだけで勝手にDNRにされていたという話を
去年、初めて知った時には大きな衝撃を受けましたが、

そういうことは、もはや、取り立てて珍しいことではなくなったのでしょうか。

そうだとしたら、これまでは「延命治療の中止」を決定する病院側の決定権として
議論されてきたはずの「無益な治療」は、いまや「蘇生に値する患者かどうかの判断」へと
さらに踏み込んできたということではないでしょうか。

やっぱり「無益な治療」論は、
「死の自己決定権」がマヤカシでしかないことを、ますます証明しているな、と
いつも思うことを、また考えました。

日本で現在、
「自己決定」としての「尊厳死」をしきりに説かれている我々は、
その先には「無益な治療」論が待っている英語圏の実態を念頭に置いて、
それらのデマゴーグを聞いた方がよさそうです。


それから、
Pickup氏は一体どっちのメッセージが本当なのか、と問うているけど、

社会の中で、それぞれの生を生き日々を暮らしている障害者の現実の姿を
直接的に知っていて、その体験を通して、さらに、
人が生きる上で大切なのは個々の機能や能力だけではなく
人と人との関係性であり繋がりだということも分かっている、
奥深い人間理解と成熟した文化を持つ分野から送られているのが
「インクルーシブな社会を作ろう」というメッセージであり、

機能と能力至上の価値意識と浅薄で未熟な人間観しか持たず
障害についての自分たちの無知と偏見に対して無反省な分野から送られているのが
「障害を持つくらいなら死んだ方がマシ」というメッセージなのでは?

でもって、
科学とテクノの簡単解決万歳文化の浸透ぶりに見られるように
科学とテクノの進歩によって、社会一般の人たちまでが
科学とテクノの狭い世界の価値観や人間観を何となく共有させられ始めていて、

また、そのことが
科学とテクノの国際競争に生き残ることに忙しい国家の世論誘導に
巧妙に利用されてもいるので、

後者のメッセージの方が少しずつ声を大きくしつつある……という、
憂慮すべき事態に立ち至ってきたということなのでは?

これについては、例えば文末にリンクした、いくつかのエントリーで
考えてきたことなのだけど、

でも、世の中のマジョリティが、
科学とテクノの限られた専門世界の価値意識や人間観を
完全に共有してしまうことって、あるんだろうか……?

そういうことが起こりうるとしたら、本当にそれでいいのか……と、
この辺で一度、みんなそれぞれに真剣に考えてみた方がいいような気がするんだけど。



【関連エントリー】
Obama政権の医療改革案への誤解を巡る事実確認:AP記事(2009/8/20)
障害者の権利に対する医療と倫理委の無理解を考えるカンファレンス:Maryland大法学部(2010/4/3)
afcpさんへのお返事(2010/4/8)
「科学とテクノ」と「法」そして「問題の偽装」(2010/5/24)
2010.06.20 / Top↑