http://newsfeed.time.com/2010/06/16/roadside-controversy-looms-with-right-to-die-billboards/
キルギスでたいへんなことが起きている。:他にも、あちこちからこういうニュースが報じられるようになっている。国名を聞いてもどこにあるのだか私には恥ずかしながら分からないいような国や地域で、大した理由もなく、人々が虐げられてあまりに不幸で荒んで、ただ自分よりも弱い立場の人たちに攻撃性を爆発させるような無政府状態が発生しているような気がする。そして、そういう場所が、地球上にじわじわと広がっているような気がする。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/jun/16/kyrgyzstan-killings-attempted-genocide-uzbeks
英国の民間介護サービス業者の酷い実態。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/191709.php
40年前に英国軍が北アイルランドのデモ隊に向け発砲し多くの死傷者を出した「血の日曜日」事件について、98年に当時のBlair首相が調査を命じ、その報告書が出たことを受けてCameron首相が国として謝罪。
http://hanran.tripod.com/irish/record/1972blood.html
フランスで定年を62歳に引き上げ。年金制度改革の一端として。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/10326002.stm
フランス南部で大洪水。15人死亡。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/world/europe/10327034.stm
ここでも、ごく自然に「尊厳」が触れられている……ということを思い、
そのことと併せて、
ずっと前から考えているDiekema医師の
「尊厳」は定義なく使っても無益な概念……との主張のことを考えていたら
なぜ「尊厳」が無益な概念ではないか、反論のようなものが1つ、頭に浮かんだ。
まだ、まとまりを欠いているし、
私が考えつく程度のことは、誰かがとっくにどこかで書いているとは思うのだけど、
尊厳については、私なりに、ずっと継続して考えていきたいと思っているので、
1つの段階として、頭に浮かんだことを、以下に。
「尊厳」が定義なくつかわれても決して無益な概念ではないのは、「尊厳」は
例えば「神」とか「信仰」とか「愛」とか「理想」と同じ種類の概念だから――。
簡単に言うと、これが、今回、頭に浮かんだことの主旨です。
これらの概念は、
それが「ある」とか「ない」と万人で統一して決めたり、
それを万人が共有できるような形で定義することが難しいもので、
それは「ある」と信じることによって「ある」のであり、
「ある」と信じることによって、それがあることに意味が生じる、という種類のもの。
「神を信じるか?」と問われたら、
私は、特定の宗教の「神」は信じていないような気がするけど、
でも、そういう「神」を信じている人の「信仰」も否定しない。
一方で、私は、
この世界には、それを成り立たせている一定の法則性のようなものがあると感じていて、
人間をはるかに超えた「自然の意図」とか「大いなる計らい」と受け止めたりしつつ
そういうものが「ある」と漠然と信じているし、
それも、ある意味では
「神」を信じている、ということなのではないかという気がする。
(科学というのは、もしかしたら
「自然の法則性」の美しさや崇高さに魅せられた人が
それを解明する行為を通じて、それに近づけると信じる信仰……?)
定義しろと言われても、
それは、その人それぞれにとっての「神」だったり、
「神」とか「信仰」という名前ですらないものだったりもする。
でも、それで何も困らない。
それは、人がそれを感じるのが
その人の個人的主観的な体験においてだからで、
その点は「愛」とか「理想」も同じなんじゃないだろうか。
それぞれの人にとっての愛であり理想であり、
もっと言えば、それぞれの人と、ある特定の人との関係性の中でだけ
あり得たり、問題になったりする愛とか理想というものだってある。
でも、個人的、主観的に体験されるものだからといって、
「ない」わけでも「無意味」なわけでもない。
万人が共有できる客観的な定義などできないけど、
それが「ある」と信じることによって
それは、その人にとって「ある」のだし、
それが、その人にとって「ある」ことによって、
それは、その人にとって大切なものとして意味を持ってくるし、
その大切さを、
自分を超えた誰かとのつながりや関係性の中で体験することによって
その人は自分を超えた誰かとか、もっと大きな何かと繋がっていくことができるし、
その繋がりを信じたり、その繋がりに意味を見いだすことができる。
そんなふうにして、
それらが「ある」と信じることが
私たちの中の何か「善いもの」を生む力になっている。
それが大切だと感じることによって、私たちそれぞれの中で、
人として大切な何か「善いもの」が損なわれずに守られていく。
同じように、
一人一人が「ある」と信じるだけではなくて、
多くの人が「ある」と信じることによって
それが人々つまり社会の中で大切なものとして意味を持ち、
それが大切なものとして意味を持っていることによって
人間としての我々の中の、なにか善いもの、貴重なものが
損なわれずに守られていく。
それは、例えば、
なんだか身に沿わなくて使うのが気恥ずかしい言葉だけど「ヒューマニティ」とか。
もうちょっと自分の身の丈に沿った言葉を探してみると、
人としての良識とか品性とか、
ただ単に、なるべく「ひとでなし」にならずにいられる、ということとか。
例えば、インターネットで書き込みをする時に
実名で書きこむ際の「自分」から、匿名になった途端に、かなぐり捨ててしまう人がいる部分のこと。
実名で書けないことは、匿名でも書かない節度として、
自分からそぎ落とすことをせずに守る人もいる、そういう部分のこと。
だから、私たちは
「愛なんていくらでもお金で買える」と放言する人に不快になるし、
「理想なんて口にしたって仕方がない」と言う人がいたら心が痛んで、
そういう人が一人でも少ない社会であれかしと考えるんじゃないだろうか。
そういうものとして「神」とか「愛」とか「理想」とかがあって、
「尊厳」も、また、そういう種類の概念の1つなんじゃないだろうか。
もちろん「神」や「愛」や「理想」が、
人によって、場面や文脈によっては、
丸反対の意味で使われることだって可能だし、
時には非常に偏ったものになったり
武器として利用されたり、操作の道具として使われてしまうこともあるし、
まっすぐに信じるがゆえに危険な概念になり
多くの人が被害に遭うことがあるのと同じように、
「尊厳」も、
人によって、場面や文脈によって内容も使われ方も違っていたり、
何かの目的で利用されることや、時には、とても危険な使われ方をすることだってある。
でも、それだからといって、「愛」や「理想」と同じように、
「そんなものはない」とか「そんなものには意味はない」「無益だ」と
切り捨てることは、してはいけないんじゃないだろうか。
「尊厳」なんて無益な概念だ、と皆で躊躇いなく切り捨てる社会は、
「愛」や「理想」を「そんなものは無意味」と皆でかなぐり捨てる社会と、きっと同じ場所のはずだ。
そんなところには誰も住んでいたくないはずだ……と、
私はまだ信じているし、この先も信じたいのだけど、
最近、世の中に増殖しているよう見える
「機能」とか「能力」とか目に見えるもの数値化できるもののことしか言わない人たちには
な~にを無意味なタワゴトを……愛も理想も脳と遺伝子次第なのに……と、一蹴されるのかな。
本人や他者への危険があると判断した際には、
本人の同意をとることなく、患者への守秘義務を侵して警察に連絡することを
英国のGPが申し合わせた。
カルテに目印をつけることで銃を所持している患者を判別する。
公共の安全という利益が患者に対する守秘義務よりも優先するとの判断は
英国医師会の倫理委員会によって承認された、とのこと。
英国医師会は
「ただし、銃を所持している患者個々が自分や他人を傷つけるリスクを監督せよと
警察が医師に求めるなら、医師会としては、それは警察長官の責任だと考える」
2008年8月にChristopher Fosterが妻と娘を銃殺し、
自宅に火を放って自殺した事件で、FosterがGPに自殺したいと話していたことから、
その事件の後、警察が医師会に検討を求めていたもの。
医師の中から出ていた懸念の声としては
そんなことをすると銃を持っている患者が健康を害しても受診しなくなるという点と、
患者に対する守秘は不可侵の義務であるとの点。
また、患者の乱射事件で被害者が出た時に医師が責められるのではないか、とか
適切なアセスメントの時間も研修もない、とか。
さらに警察からは
医師らのカルテの管理がどこまで厳重に行われるのか、
それによっては、カルテに印をつけることで
銃の所有者情報が犯罪者に流れやすくなるとの問題の指摘や、
銃所有ライセンスを取り消す権限が医師に移行するわけではなく、
あくまでもその権限は警察にあると確認する声も。
しかし、英国では今月初め、
英国カンブリア州で銃乱射 12人死亡 25人負傷という事件があり、
カルテに印をつけるという検討中の案が俄かにクローズアップされることとなったもの。
しかしカンブリア事件の詳細は、これからの捜査によって明らかにされるところで
自殺した犯人のBird容疑者に精神障害があったとの事実は確認されていない、と
The British Association for Shooting and Conservationは
今回の決定に一定のメリットは認めつつも、
事件の詳細を待つべきだ、と主張。
同協会のSimon Clarke氏は
「治療の必要があるのにライセンス取り消しを恐れて
受診しなくなる会員が出ては困るが、
メンタル・ヘルスに問題があるというだけで取り消しというのが
デフォルトになってしまうと、そういうことが起こる」。
現在、銃器ライセンスの担当部局 the Acpo と、英国医師会、内務省その他の関連部署が
協力体制づくりを進めている。
The Acpoの責任者は
「情報の共有について大筋の合意はできて、
現在テクニカルな詳細の詰めが進んでいるところ。
今の段階でこれ以上のことを話すのは時期尚早であり、
その他の変更も含め、英国の銃器ランセンスのあり方について今後議論されるだろう」と。
英国の銃所有許可の有効期間は5年。
申請者はライセンスに関わる健康問題を申告し、
健康問題について警察が医師に問い合わせることに同意しなければならない。
GPs agree to waive privacy of mentally ill gun owners
The Guardian, June 14, 2010
不思議なことに、記事のどこにも
「誰のカルテに印をつけるかの情報はどのようにGPに提供されるのか」については
書かれていませんが、大筋合意された「情報の共有」がそれに当たるのでしょう。
ざっと、頭に浮かんだ疑問は
① 精神科医ではなくGPが
どれほど正確に患者のメンタルヘルスと公安リスクを判断できるのか。
② GPから警察に通報されたら患者はどうなるのか。
警察によって監視されるのか。
それは本人に知らされるのか。
ライセンスを取り消されるのか。
③ こういう合意をした以上、事件が起きた時には
結果論でGPの判断ミスが責められるのは必定。
そうすれば、GPの意識としては自分が責任を問われないために
リスクを高く見積もり、早めに警察に連絡することになっていくのでは?
そして、目の前の患者の治療よりも、社会のリスク管理機能へと、
GPの診察行為の意味が少しずつ変わっていくのでは?
④ 警察や英国医師会の判断では、
「公共の安全」vs 「患者に対する医師の守秘義務」という構図で
問題が提示されているけど、実際には、これは
患者に対する医師の守秘義務とは無関係な、
「英国の銃規制のあり方の問題」ではないのか。
⑤ 「公益が医師の患者に対する義務よりも優先」という論理が
まかり通っていくなら、今後こういう動向は他にも広がって行くのでは?
――――
実は、英国政府は去年、狂牛病感染者数を把握するために、
法医学者らに解剖の際に調べてくれるように要望し、断られています。
その時の記事を拾った去年8月19日の補遺で
私は以下のように書きました。
これ、地味な記事だけど、昨今どんどんビッグ・ブラザー社会化している英国では、
とても今日的に本質的で重要な問題を含んでいると思う。
狂牛病が ひそかに蔓延して、実は多くの人が知らず知らずにかかっている恐れがあるため、
どれくらいの人が目立った症状がないまま感染しているかを調べる唯一の方法 として、
英国政府は法医学者らが解剖の際に調べてくれることを望んでいるのだけれど、
解剖は死因の特定のために行うものであり、
その際に研究への協力を遺族に求めることになると、
本来の法医学者の立場の中立性が失われ、仕事への信頼を失う、と法医学者らは反発。
その反発にエールを。
でも、 “科学とテクノで何でも予防、なんでも簡単解決万歳”の文化からは
「法医学の中立性と信頼という利益と、
狂牛病蔓延の実態が把握できないままに放置される害やリスクを検討すれば、
法医学の中立性がなんぼのもんじゃい」的な反論が出てきたって、もう、たぶん驚かない。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/8207034.stm
今回は、まさに、この時の私の予測通りの論理が登場してきたぞ……という話。
その論理には確かにもう驚かないけど、
英国医師会がそれに易々と追随してしまったということには、ちょっと驚く。
Ashley事件しかり。
貧困層や障害者に対する強制不妊しかり。
医師による自殺幇助合法化しかり。
ゲイツ財団などがやっている途上国でのワクチンと避妊による貧困対策しかり。
社会の問題を社会の問題として、その原因に対処して解決を図るのではなく、
社会の原因を放置したまま、個々に表れてくる結果のところだけで
医療によって簡単に解決して済ませてしまおうという動きが
強まってきているような気がする。
それは、科学とテクノによってできることが増えて、
それだけ科学とテクノによる簡単解決文化がはびこってきたということなのだろうけど、
原因よりも結果のところで簡単解決を図ることのポテンシャルを
統治する権力の側が科学とテクノに期待することと
我々統治される側の一般人までが一緒になって
科学とテクノによる簡単解決万歳文化に浮かれ騒ぐこととは
まるで質の違う話だということが、もっと意識されるべきなんじゃないだろうか。
科学とテクノの分野の人たちにも、
ビッグ・ブラザー管理に組みし、権力による統治の手先となることに対して
もうちょっと敏感であってほしい気がする。
英語圏における生命倫理の絡んだ議論で、
医師が患者の側から、患者を差別・疎外・排除する社会の側へと
どんどん立ち位置を移しつつあると思われることに、
医師自身がもっと問題意識を持つべきじゃないだろうか。
もちろん、Ashley事件でも自殺幇助議論でも、
ヒポクラテスのDo not harm. を言う医師はいるのだけれど、
……あ、でも……もしかして、
そういう簡単解決を実現するポテンシャルを持っている自分たちこそが
権力の“手先”ではなく、権力そのものなのだ……と勘違いしているのが
Bill Gatesやthe Singularity Univ. を作ったトランスヒューマニストたちなのか……?
なお、ビッグ・ブラザー社会化する英国の実態については
こちらのエントリーなどに。
Dr. Deathこと Dr. Jack Kevorkianと同窓なんだとか。
それで、Michigan Medical SchoolのあるAnn Arborで会い、
一緒に母校を訪問して、キャンパスでインタビューを行った、と。
驚くのは、彼らが母校のキャンパスを歩いていると、
K医師に気付いた人々の中に、声をかけてくるのはともかく、
サインをもらいに来る人までいたこと。
(アンタら、有名人なら、誰でもええのんか……いや、
それとも医大には彼を尊敬したりヒーロー視する人がいるものなのか……)
インタビューでは弁護士がGupta氏の真後ろに立ち、
Guptaの正面に座ったK医師は、しばしば弁護士の方を見ながら答えている。
そして、Guptaの質問の大半を、
ただ聞き流したり、はぐらかしている。
6月28日にもHBOのドキュメンタリーが放送されるとのこと。
K医師自身はこのテレビ映画で一銭ももらっていないそうなのだけれど、
このインタビュー、やっぱりプロモの意味もあるのかもしれない。
Guptaが聞きたいことは何も語っていないのだけど、
必要以上にドラマチックに書かれている記事の描写から受けるのは、
Kevorkianという人は、なんてビターな人なんだろう……という印象。
この人、たぶん、人間が嫌いなんだな……
心の奥底に、何かに対する根深い憎しみを抱えている……?
なんか、そんな、ビターな感じ。
最初に投げかけられた質問をはぐらかして、K医師がいきなり問うのは
「私の人生の最悪の瞬間というやつが、分かるかね」
そして、その答えは「私が生まれた瞬間」。
大学で、かつてのクラスメートらの写真を眺めながら
「死んだ。死んだ。こいつも、こいつも、もう死んだ。
こいつは、私なんか監獄にぶち込まれてしまえと考えていたヤツだ」
「そんなことがあったんですか」
「いや、きっとそうだったに違いない、と、な」
医学部受験の際の面接で、医師になりたい理由については何と答えたかと聞かれると、
「相手が望む通りを答えてやったさ。人を癒したい、とか
医学をやりたいのは全ての職業の中で最も……そうだな、
ノーブルな(崇高な?)ものだから、とか言ったんだったな」
「医療はノーブルな職業ですか?」
「いいや。ちがう」
130人の自殺を幇助したというK医師は
それを安楽死とは呼ばず、patholysis と呼ぶ。
PatholysisとはK医師の造語で、
path は、病気または苦しみ。lysis は、破壊。
したがって、patholysis とは「苦しみの破壊」。
彼は自分の裁判を通じて憲法修正9条について明確にしようとしたのだけれど、
最高裁が上訴を棄却したことをいまだに不満に思っている。
その辺りのことについて、
直接的に言葉を引用できないわけでもあったのか、
それとも実はさほどの内容がなかったのか、
Guptaが自分の理解を自分の言葉でまとめている。
I realized this was what he had building up to for some time. This wasn't just about assisted suicide; this was about upholding the ability for people to do whatever they wanted to do, without interference from doctors, the states or the federal government.
That the rights of the masses should not impede on the rights of a few. Someone once told me that was the "gist" of the Ninth Amendment, and it is something that has helped inform Dr. Jack Kevorkian's thinking and his life.
要するに、医師にも州や連邦政府にも、集団の権利にも侵されない
個人の自由、少数者の権利というものがあって、
それを保障しているのが修正9条だ、という主張であり、
自殺幇助の議論とは、K医師にとってはそういう権利の問題なのだ、という解釈。
私はKevorkian医師の裁判については、ほとんど知らないので、
この解釈の妥当性については、何とも言えない。
ただ、尊厳死の議論で「自然」を盾にとって安楽死を支持するのと同じ人たちが、
例えばAshley事件で「自然に反する」という批判に
「自然なんて意味のない概念だ」と突っぱねている人たちと
実は同じ人たちなんじゃないかと私は密かに疑っているのと同じ意味で、
「個人の自由」とか「自己選択権」「自己決定権」についても
同じ人が問題によって都合よく信奉したり、あるいは否定したり、と
ダブルスタンダードで使い分けているんじゃないかと
ここでも、なんとなく眉に唾をつけたくなってしまう。
Kevorkian: ‘I have no regrets’
Dr. Sanjay Gupt, CNN, June 14, 2010
このインタビュー、できればGupta以外の人にやってほしかった。
前から、あまり好きではなかったけど、
2007年1月の“Ashley療法”論争の際に
CNNのサイト内の自分のブログ Paging Dr. Guptaの1月5日のエントリーで
次のように問いかけて終わっているのを見た瞬間に「ダメだ、こいつは……」と、
思わず、つぶやいて以来、個人的に評価がものすごく低い。
「皆さんはどう思いますか?
Ashleyがあなたの娘だったら、あなたはどうしますか?」
医療職ではないメディア人が問うならまだしも、
仮にも医師なら、これが医療倫理のまっとうな問いの立て方かどうか、
これは、そういう問題ではないことくらい分かるはず。
もちろん、メディアやゼニに魂や良心を売っぱらった医師は
Guptaだけじゃないし、米国だけの話でもないけど、
このKevorkian医師のインタビュー記事の書き方にも、
「Ashleyがあなたの娘だったら、あなたはどうしますか?」と同じ、
紋切り型で皮相的なところが鼻につく。
【追記】
一旦アップした後で、以下の関連エントリーを追加していて気付いたのですが、
K医師は4月には「PASは医療の問題。法律は関係ない」と語っています。
ここでは「医師にも政府にも口出しできない個人の法的権利」と言っているのだとしたら、
その整合性は……?
それとも、やっぱり文脈と場面によるご都合主義の使い分け?
【関連エントリー】
自殺幇助のKevorkian医師、下院出馬の意向(2008/3/14)
アル・パチーノ主演でKevorkian医師の伝記映画作成か(2009/5/27)
Dr. Deathをヒーローに祭り上げ、シャイボさんをヘイトスピーチで笑い物にするハリウッド(2010/3/25)
FENが「Kevorkian医師の半生記映画見て“死ぬ権利”考えよう」(2010/4/22)
Kevorkian医師「PASは医療の問題。政治も法律も関係ない」(2010/4/26)