2日の補遺で拾った、Floundersさん夫妻のDignitasでの自殺前のメッセージビデオをExit International が実際にYouTubeに流したとのこと。ときどき覗かせてもらっているBioEdgeブログが「こんなの倫理的に許されるのか?」ととりあげている。:検索すれば見つかると思うけど、敢えて見たくないので探さないことにした。
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/9520/
5月5日の補遺で拾った、アイルランドの女性のDignitas行き中止の件で、案の定、Exit International Irelandが動いている。:それにしても、自殺幇助合法化を「プロ・チョイス」とは?
http://www.examiner.ie/breakingnews/ireland/pro-choice-group-shocked-as-irish-women-forced-to-cancel-assisted-suicide-trip-503792.html
「執行後に全身の臓器すべて提供させて」と、OR州の死刑囚(2011/3/6)でとりあげた訴えについて、4月21日にArt CaplanがMSNBCに「そんなことをさせてはいけない」とコメンタリーを寄せていた。
http://www.msnbc.msn.com/id/42669327/ns/health-health_care/
米国で現在15年服役しており、今後も服役が続くレイプ犯 Kenneth Pikeが心臓移植待機患者リストのトップであることが判明し、批判が殺到、本人が移植希望を取り下げたという。功利主義的な配給医療で行けば、これ以外にもややこしいことが沢山起きてくると思う。すべての人を「社会にどの程度有用な人物か」という尺度で序列化し、移植待機リストの順番を含めてあらゆる医療を受ける資格の有無が判定されることになるだろうから。でも「社会にどの程度有用か」って、どうやって計るんだ? そんなことをマジに言うような人こそ有害であっても有用ではないという見方もあると思うけど。
http://bioethicsbulletin.org/archive/crime-and-transplants/#utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=crime-and-transplants
卵子ドナーになって健康を害した女性の体験談。
http://www.ruthblog.org/2011/04/20/egg-donor-interview-linda-in-los-angeles/?tr=y&auid=8218223
Bill GatesとWarren BuffetがGiving Pledgeなるキャンペーンでちょっと前から世界中の大富豪に資産の半分を慈善に差し出せ、と呼びかけているのは知っていたけど、その呼びかけに応えようかという人たち69人ほどがアリゾナ州に結集したとのこと。非公開で。:「世界のスーパーリッチ・クラブ」の初会合ね。とはいっても、Gatesは去年の6月にもBuffetや何故かOpra Winfreyなど6人と完全非公開で集まって、世界人口抑制などを話しあっている。あれはこれの予行演習だったのか? いよいよ慈善帝国主義が本腰を入れて世界を席巻していく準備を始めている……。
http://lezgetreal.com/2011/05/buffett%E2%80%99s-billionaire-philanthropy-club-meets/
http://www.google.com/hostednews/ap/article/ALeqM5gVXN_8nZYKE0TwRPMa9w6pNHrM9A?docId=45130f0fc84547c890fcd16ffb557b5f
ProPublica「ゼニの繋がりが医療界を製薬会社・医療機器会社と結んでいる」。:まだ読めていないけど、これは必読。
http://www.propublica.org/article/medical-societies-and-financial-ties-to-drug-and-device-makers-industry
母の日に、NC州の州知事が女性は長生きで、要介護状態になったり独居高齢者になる確率が高いので、それぞれ自分で号炉のことを考えておくように、と。:たしか米国の非公式の介護者は7割が女性だったと思うし、女性は離婚した元夫の介護まで引き受けているという記事もあったけど、それはみんな社会保障制度の不備を女性の労力が補っているということでもあるはずなのだけど、その挙句に女性自身が老いて要介護状態になった時には、こういう言われようをするわけか。
http://www.theapexherald.com/view/full_story/13131535/article--Governor-Perdue-urges-women-to-plan-for-their-future-?instance=home_news_lead
母の日の今日から米国ナーシング・ホーム週間。
http://www.acorn-online.com/joomla15/thebridgeportnews/community/93187-northbridge-celebrates-national-nursing-home-week-.html
http://www.emmetsburgnews.com/page/content.detail/id/508820/Celebrate-National-Nursing-Home-Week.html?nav=5001
認知症患者の経管栄養導入には十分な情報提供もインフォームドコンセントも行われていない?
http://www.medicalnewstoday.com/articles/224456.php
アルツハイマー病の血液検査が近々売りだされる。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/224538.php
脳内セロトニンの動きを規制する遺伝子が見つかり、「幸福遺伝子」と名付けられたんだと。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/224536.php
双極性障害の治療薬 Abilifyの長期服用の安全性に疑問。もともと統合失調症の治療薬だったものを2005年にFDAが双極性障害の治療にも認可。
http://www.thirdage.com/news/bipolar-treatment-abilify-questioned-for-long-term-use_05-05-2011
オーストラリアで飲酒運転ならぬドラッグ運転のネズミ捕り。
http://www.canberratimes.com.au/news/local/news/general/roadside-drug-tests-start-soon/2156124.aspx?src=enews
NYTなのでタイトルとリードのみで、Op-Ed「悪い奴を殺したからといって我々が悪い奴になるわけではない」:そっかなぁ??? 西側先進国がこぞって憎んでいるからといって、どうして裁判もなしに殺すことが正当化されるのか、その法的根拠というのが良く分からないんですけど。
Killing Evil Doesn’t Make Us Evil:It wasn’t bad for college kids to feel good about their country.
同じくNYT のOp-Edで「医師よ、自らを癒せ ― 医師が看護師その他の病院職員イジメをやめなければならないわけ」。
Physician, Heel Thyself: Why doctors need to stop bullying nurses and other hospital personnel.
2冊の中で
動的平衡に対する人為的かつ操作的な干渉として言及されているのは、
たとえば、
ES細胞(新書②第4章)
臓器移植と遺伝子組み換え(新書①第3章)
SSRI(上記第3章内、p.108-111)
子どもに増えてきたアレルギー(新書① p.121-122)
コンビニのサンドイッチの添加剤、ソルビン酸(新書②第3章)など。
私には特に、臓器移植について
動的平衡には取り込んだ情報の解体と再構築の繰り返しが不可欠だとの指摘と
その指摘を中心に展開される「臓器移植という蛮行」批判と、
「動的な平衡系に対して、単純な因果関係のモデルや安易な予測に基づいて
操作や干渉を行うと、意図したものと反対の結果をもたらすことがある」例として
SSRIの副作用のメカニズムが推理されている点が
非常に興味深かった。
これら科学とテクノロジー応用の問題点はそれぞれに具体的に詳述されていて
もともとそうした操作的な介入に懐疑的な立場で読むからか非常に説得力がある。
いずれの問題にも共通した要点は、どうやら以下のようなあたりか。
環境に対する人為的な組み換え操作は、一見、その部分だけをとるとロジックが完結し、人間にとって便利になったように見える。たとえば牛に高たんぱく食を与えれば効率的に肥育できる、あるいは、大豆に農薬体制のある遺伝子を導入すれば、強力な除草剤を散布しても大豆だけは生き残るようになる。しかし、動的な平衡系には部分のロジックは通用しない。すべてのことは繋がっているのである。
操作の本質、それは多くの場合、効率を求めた加速である。早い肥育、大きな収穫。加速には必ず余分なエネルギーの投入があり、そこには平衡の不均衡が生じる。不均衡の帰趨はすぐには現れることがないし、現れるとしてもその部分に出現するとは限らない。乱された平衡は、回復を求めて、新たなバランスを求めて、ゆっくりとリベンジを開始する。どこかに溜められた不均衡は地下にもぐって目に見えない通路を分岐しながら思わぬところに噴出してくるのだ。
……(中略)……
だから動的平衡系では、情報も分子もすべてが繋がっており、互いに関係を持って流れている。地球環境はおよそ四五億年前に出発して以来、様々な変化を受け入れつつ、途方もなく長い時間をかけて微調整を繰り返しながら、その平衡を維持してきたことになる。……(中略)……
ここで、長い時間をかけて平衡に達する、ということは極めて重要なポイントである。複雑なサブシステムを内包する動的な平衡系が、揺らぎながらあるバランスに到達するためには長い時間の試練を経る必要があるのだ。
(新書① p.235-237)
クローン牛の安全性論議の際に、科学者の方々から
クローン技術など細胞レベルでの操作は時間の流れを無視しているという批判があったのは、
つまりはこういうことだったのですね。(詳細は文末リンクのクローン牛関連エントリーを)
それゆえ、クローン牛の安全性を言う際にさんざんあげつらわれた、あの「実質的同等性」を
著者は、遺伝子組み換え作物の安全性の根拠として使われる例をとって、否定する。
ES細胞についても明確に以下のように書く。
……今なお、私たちはガン細胞を十分コントロールすることができない。それと全く同程度にしか、私たちはES細胞をコントロールしえないであろう。
(新書② p.104)
機械論的な部分のロジックは通用しない、とか
細胞レベルでの操作は時間の流れを無視している、などの批判は、
クローン肉批判や、ES細胞研究にも通じていくし、
たぶん、さらに、ここには書かれていない生殖補助医療にも
また“Ashley療法”のあまりにも単純な正当化論、
そこに通底している安易なエンハンスメントの論理にも
通じていく、これは、すなわち、
当ブログが“科学とテクノの簡単解決バンザイ”と称してきた文化への
批判そのものではないか、と大いに共感しつつ読んだ。
例えば
Ashley事件で出た「自然に反する」という批判を
Diekemaらは「抗生剤だって自然に反する。それを言えば医療そのものが成り立たない」と
切って捨てたけれども、こうした大きな生命観に立てば、
「重症児にはどうせ無用な臓器だから取ってしまってもよい」という姿勢は
やはり「自然に反する」と言えるのではないだろうか。
それから例えば、ワクチンさえ次々にどんどん開発していけば
病気はいくらでも予防も撲滅もできるという考え方も、
やはり「間違いだ」とまで言えないにしても「限界がある」とは言えるのではなかろうか。
新書①から新書②で深められている考察から生じてくる
際立って鮮やかな指摘として「おおっ!」と思わず膝を打ったのは、
「死んだと定義した身体から、まだ生きている細胞の塊をとりだしたい」ために
「脳死」という人為的かつ操作的な概念の導入によって
「人が決める人の死は、生物学的な死から離れてどんどん前倒しされている」 P.144)一方で、
再生医療などの名目で利用するために受精卵および胚を
単なる細胞の塊に過ぎないとみなす「私たちが信奉する最先端科学技術は」
私たちの寿命を延ばしてくれているのでは決してない。
私たちの生命の時間をその両側から切断して、縮めているのである」
(① P.144-145)
私は、最先端科学が可能にした生命の操作が及ぼすすべり坂の社会心理的影響として
生命がそのスタートと終点とで縮められていくことは考えていたけれど、
最先端科学技術そのものが生命の時間を両端から縮めているというのは目からウロコだった。
で、②の結論として著者が提言するのは、
すべてのものは繋がり流れているという認識に立ち、以下の努力をすること。
1.環境を人間と対峙する操作対象と捉えることをやめる。
2.出来る限り生命の動的な平衡を乱さない。
特に興味深かったのは、鴨長明を引用して、
著者がシェーンハイマーの動的平衡という生命の捉え方を
日本の死生観やチベット医療の生命観になぞらえていること。
分子科学者が、その専門性を追求していき、ふと突き抜けたところで
一見、科学の対極にあると思える哲学や宗教の近辺に行きついているということ。
これは科学者だけに限らないと思うのだけど、
非常に優れた専門性を持った人は、むしろ「らしさ」から離れていく傾向って、
あるんじゃないのかなぁ……ということを、ずっと前から考えている。
逆に、実際にはまだまだ半人前であったり未熟であったりする人たちが
必要以上に「らしく」ふるまい「らしい」物言いをしたがる……そんな
ある種の逆説って、あるんじゃないのかなぁ……みたいなこと。
例えば、なりたての新米教師はいかにも「学校の先生」然とふるまいたがるし、
彼らはいかにも「叱っています」然と叱ることしかできないのだけれど、
本当に実力のあるベテラン教師は一見ぜんぜん「叱っている」と見えないのに
ちゃんと叱ることが出来ていたりするんじゃないのか、ということとか
生半可な学者さんは難しい単語や横文字をこれ見よがしに並べて
大した内容でもないことを黒々と固くこわばった難解な文章にしてしまうけど、
本当は難しいことを柔らかい普通の日本語で表現する方が難度がはるかに高くて
よほど中身を自分のものにしていなければ、そんな芸当はできないのだ、というようなこととか、
実際には科学者ではないトランスヒューマニストが
自分が誰よりも科学的な発想をし、科学的なものの言い方をしていると
信じて疑っていないらしいこと、とか。
キメラ胚作製に山中教授の方が立花隆より慎重だったり、
なだいなだ先生の説く「こころ医者」論とか、
「医師の姿勢で薬の効き方違う」と非科学的なことを言う緩和ケアの徳永医師とか、
専門性というものは、案外に極めていけばいくほど
一般に思われている意味での専門性から遠いところへとその人を運んでいくものなのかも、
または、専門性というものをいよいよ極めた先に、
本当にすごい人は、どこかでふっと「突き抜ける」のかも、
そうしたら、その人の専門性はその人ならではの融通無碍なものとなり、
その時、その人の専門性は専門性一般ではもはやなくて、
その人ならではの独自の専門性に至っているのかも、
そして、それは「成熟」ということに、ある種、通じていくのかも……
……などということを、この2冊を読んでいる間ずっとグルグルと考えていた。
例えば福岡氏は「ヒューマン・ボディ・ショップ」を翻訳したことに関連して
こんなことを書いている。
不思議なことに私が親和性を感じるものは、すべて自分自身の方法への懐疑と再考を喚起するようなものばかりだった。
(p.56)
このことと「成熟」ということとが
なにかとても関連している気がしてモヤモヤしているのだけど、
例えば、
自分や自分のやっていることに懐疑や再考を向けることができる能力と、
また人としてのホーリスティックな「成熟」との関係。
あるいは専門性の「成熟」度と「頭がいいだけのバカ」と
「科学とテクノで簡単解決バンザイ」文化の関係性
……みたいなこと……?
モヤモヤをうまく言葉で捕まえることができたら、
いつか、また書いてみたい。
【関連エントリー】
「ない」研究は「ない」ことが見えないだけという科学のカラクリ?(2008/11/7)
まずは「クローン肉たべろ」という人に3世代食べ続けてもらおう(2009/1/6)
「飛騨牛の父」クローンで、ぐるぐる(2009/1/8)
大統領生命倫理評議会の「人間の尊厳と生命倫理」と「おくりびと」(2009/6/30)
「インドで考えたこと」で考えたこと(2009/11/21)
「現代思想2月号 特集 うつ病新論」を読む 3:社会と医療の変容と「バイオ化」(2011/2/23)
cf.
「洗車機とUFキャッチャーでおむつ交換ロボットできる」と言う工学者の無知(2010/4/5)
映画「わたしを離さないで」のプロモでNHKが作った番組「カズオ・イシグロをさがして」で
以下のように語った分子生物学者の福岡伸一氏の生命観が印象に残った。
人間の細胞は繰り返し滅亡と再生を繰り返して、
自分という存在は物質としては常に移り変わっていることを思うと、
個体 というよりも液体のような存在ではないか。
さらに長いスパンで個体の変遷を考えると、
むしろ気体、ガスでしかないのかもしれない。
では、そういう存在でし かない自分が、
それでも間違いなく自分だと言える根拠はどこにあるのか。
それを考えた時に、それが記憶なのではないかと思う。
福岡氏の著書は前に「生物と無生物の間」を読んだきりだったので、
新書①「もう牛を食べても安心か」と
新書②「世界は分けてもわからない」の
2冊を読んでみた。
後者によると
私と福岡氏との出会いは「生物と無生物」以前に既にあったみたいで、
それは今でも忘れ難い「ヒューマン・ボディ・ショップ」という翻訳書。
たぶん私は95年か96年に読んで、目から大きなウロコがはげた。
それは新書②の福岡氏自身の解説によると氏の初めての翻訳で
「臓器、組織、細胞、遺伝子など人体部品の」
商品化と生命操作の危うさを描いたもの」(p.56)。
私が2006年に英語ニュースを読んで介護雑誌にコラムを書き始めた時に
葬儀屋のボディ・パーツ横流しスキャンダルに目を引かれたのも
この本を読んでいたからだったと思う。それくらい
私にとって「ヒューマン・ボディ・ショップ」の衝撃は大きかった。
で、今回この2冊の新書を読んで、新たに学んだのは、
上記の福岡氏の生命観の背景にある生命の「動的平衡」という考え方。
「動的平衡」そのものは福岡氏のオリジナルな考えではなく
1941年に自殺したユダヤ人科学者ルドルフ・シェーンハイマーの説。
シェーンハイマーは放射性同位体による分子の追跡技術を編み出し、
それによって、生命体は安定した「内燃機関」ではなく
それ自体が自らの内部においても、また外部環境との関係においても
つねに変化する流れの中にあることを発見。
その流れによって生命体内外に動的平衡が保たれている、
その流れこそが生命である、というホーリスティックな生命観を打ち出した。
新書①に引用されたシェーンハイマーの解説によると
生物が生きているかぎり、栄養学的要求とは無関係に、生体高分子も低分子も代謝物質もともに変化して止まない。生命とは代謝機会の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である
(p.62)
これを同じく①で福岡氏が噛み砕いてくれる表現によると
肉体というものについて、感覚としては、外界と隔てられた個物としての実体があるように私たちは感じているが、分子のレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている、分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この回転自体が「生きている」ということであり……
(p.60)
この地球上に存在するそれぞれの元素の総量はおおむね一定である。それがほかの元素とあるときは結び、別の時には離れながら、様々な分子を形作り、大きな循環の中にある。循環は、環境とその構成要因である生命体との間を往還し、全体として動的なバランスを保っている。
(P.233)
95年に「ヒューマン・ボディ・ショップ」を翻訳した福岡氏が
その後も数々の自身の著書で書き続けていることは、このような大きな生命観に基づいた、
二元論や還元論や機械論の否定であり、たぶん次のような警告なのだろうと思う。
……現在、私たちが悩まされているほとんどの問題はすべて、人為的な操作に対して環境がその平衡を回復するために揺り戻しをかけている、その揺らぎそのものであるといってよい。
(p.238)
新書①は狂牛病をその揺らぎの1例として
草食の乳牛に生産性向上のために共食いを強い
動物たんぱくを与えるという植物連鎖への人為的な操作に端を発する
狂牛病の発生と感染のメカニズムを詳細に推理しつつ、
関連企業からの圧力や輸出入を巡る国家間の力関係のはざまで
政治的な思惑に左右され操作される科学の危うさを徹底批判したもの。
新書②は、その後、文学的な文章の名手として腕を上げた氏が
それと同じことを、ミステリー仕立てで、より広く、
より美しく面白く描いてみせたもの、と言えるかもしれない。
ただ分けてみる以外に分かろうとするすべがないから分けてみているだけで、
分けたからといって世界は分かるような単純明快なものではないのだと繰り返し説く
科学者の謙虚さが好もしい。
それは簡単にわかったフリをして見せる科学者たちへの批判でもある。
次のエントリーに続く。
http://www.theatlantic.com/technology/archive/2011/05/bill-gates-puts-his-money-and-mouth-behind-nuclear-power/238300/
http://venturebeat.com/2011/05/03/bill-gates-nuclear-power/
http://www.pcmag.com/article2/0,2817,2384820,00.asp
MS末期のアイルランド人女性のDignitasへの自殺ツーリズムに付き添う予定にしていた友人が、チケットをとりに行った先で自殺幇助はスイスでは合法でもアイルランドでは違法なので帰国後に起訴されることもありうると知り、2人は計画を取りやめ。:こういう報道が出てくるなら、次は英国のDebbie Purdy裁判のようなことがアイルランドでも起こるのでしょう。
http://www.breakingnews.ie/ireland/women-prevented-from-travelling-to-switzerland-for-assisted-suicide-503786.html
英国の自殺幇助合法化議論で、抵抗勢力として頑張っているBaroness FinlayとLord Carlileとが、去年立ち上げたLiving and Dying Wellの調査報告書で、「合法化されれば薬局やナースから致死薬を入手することが可能になってしまう。結局は行政機関が死なせてもよい人を選別していくことに繋がる」。
http://www.dailymail.co.uk/news/article-1383704/Suicide-drugs-sale-chemist-euthanasia-legalised-claim-experts.html?ito=feeds-newsxml
何度か補遺で追いかけた事件の続報。カナダと英国の若者2人をネットでそそのかして自殺させたとして米国の看護師William Melchert Dinkelに1年間の実刑判決。320日服役した後、毎年犠牲者の命日に2日ずつ10年間服役するというもの。
http://www.globalsaskatoon.com/Former+nurse+gets+year+jail+aiding+suicide+Brampton+woman/4726510/story.html
Journal of Bioethical Inquiry Vol.6, NO. 3に、Two Decades of Research on Euthanasia from the Netherlands. What Have We Learnt and What Questions Remain? オランダの安楽死2年間に渡る調査からの教訓と疑問。
http://www.springerlink.com/content/r8j54p674n4lw860/
同じく The Suicide Tourist Trap: Compromise Across Boundaries 。こちらはスイスの「自殺ツーリズム」の問題点を3点考察。
http://www.springerlink.com/content/t2206018626q8745/
同じく、Savulescuの新優生思想に対する批判。”Unfit for Life”: A Case Study of Protector-Protected Analogies in Recent Advocacy of Eugenics and Coercive Genetic Discrimination.
http://www.springerlink.com/content/l87j7k8j0vrg0140/
同じく、無益な治療の差し控えや中止において、年齢を考慮することに倫理的な妥当性があるか、と問う論文。:とても興味深いのはシアトルこども病院トルーマン・カッツ生命倫理センターを経由して提出されている論文だということ。そういえばDiekemaが率いて、この論文と同じ2009年に米国小児科学会倫理委員会が出した子どもの栄養と水分停止のガイドラインの中でも、子どもに成人と別の扱いをすることは年齢差別だという見解を示されていたな。
http://www.springerlink.com/content/v021181533188445/
同じく、無益な治療論関連で以下7本あるらしい。
Same Coin-Different Sides? Futility and Patient Refusal of Treatment
Eleanor Milligan
Futility Determination as a Process: Problems with Medical Sovereignty, Legal Issues and the Strengths and Weakness of the Procedural Approach
Cameron Stewart
No Chance, No Value, or No Way: Reassessing the Place of Futility in Health Care and Bioethics
Sarah Winch and Ian Kerridge
Defining Medical Futility and Improving Medical Care
Lawrence J. Schneiderman
The Futility of Futility: Death Causation is the ‘Elephant in the Room’ in Discussions about Limitation of Medical Treatment
Michael A. Ashby
Minimally Conscious States, Deep Brain Stimulation, and What is Worse than Futility
Grant Gillett
Medical Futility and the Death of a Child
Nancy S. Jecker
英国で13歳から16歳の女児のみを対象に、セックスの誘いにNOを言えるよう指導する性教育を義務付ける法案が保守党議員Nadine Dorris氏から提出された。:なぜ、それは女子側だけの責任なのか?
http://www.guardian.co.uk/politics/2011/may/04/nadine-dorries-teenage-girls?CMP=EMCGT_050511&
過去1世紀に渡って広汎に児童書のジェンダー・バイアスを調査。主人公はたいてい男。動物が主人公でも、やっぱり男。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/224154.php