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同じくHastings CenterのブログBioethics Forumに、
Alice Dreger& Joseph A. Stramondoが“Selective Parenting”(10月23日)を書き、

Lindemannの主張は選別的堕胎(selective abortion) というよりも
選別的子育て(selective parenting)というべきものだが、
子育てはもともと不確かさに満ちたものである、と反論しています。

Once you decide you want a child, parenting is going to involve a lot of uncertainty, a lot of taking and managing what comes. Thanks to things like meningitis and skateboards and elected officials who vote against SCHIP, no one knows which of our children will ultimately end up with a disability, any more than anyone knows which will end up to be a joy or a disappointment.

いったん子どもが欲しいと決めたら、子育てには不確かなことだらけで、
やってくるものを受け止めて、なんとかこなしていくしかないことが多い。
髄膜炎やスケートボードや、選挙で選ばれたくせにSCHIPに反対投票するような公職者のおかげで、
どの子どもが障害を負うことになるやら誰にも分かりはしない。
最終的に親を喜ばせてくれるのがどの子で、失望させるのがどの子かなんて、
誰にも分からないのと同じように。

激しく共感。


                ----


Alice Dregerは
1月18日に同ブログに発表したAshley and the Dangerous Myth of the selfless parentというエッセイにおいて、
また5月18日のUWのシンポジウムでの発言においても、
障害のある子どもの親の介護負担について
「親の無私の愛」という神話を排除するべきだと訴えました。
1月に読んだ当初も強く共感したエッセイなのですが、今考えると、
Ashleyのケース以上にKatieのケースに当てはまる内容のように感じます。

母親Alisonの「無私の愛」を
Alison自身もメディアも喧伝し続けていたから。

1月18日のAlice Dregerのエッセイの内容については、また改めて。


(注)SCHIPは、米国の子どものための医療保険。民間の医療保険を買う余裕がないけど、そうかといって貧困層を対象にした公的医療保険であるメディケイドの対象になるほど貧しくはない、という層の家庭の子どもが対象。近年の無保険者の急増を受けて、州知事らを中心にSCHIPの対象範囲拡大を求める声が高まっているのですが、むしろ税の優遇で民間保険の購入へと誘導したいブッシュ政権はSCHIPの予算増に否定的で、NYTimesにも「子どもの健康に拒否権」などと揶揄されています。
2007.11.11 / Top↑
以前のエントリーで紹介したイタリアの双子の堕胎ミス事件について、
8月にHastings Center関連のブログに興味深いエッセイが発表されていました。

Hilde Lindemann, Shotgun Weddings

著者はまず、

選択的堕胎を認める社会は
障害者に対して「君たちはもう要らない」とのメッセージを送ることになるかどうか、
という問題に関して、「なる」論と「ならない」論を紹介。

その後に、「特別な義務」に言及します。
ライフセーバーがおぼれる人を見つけた時には、
相手がどんな人間であっても救う義務がある。
医師や警官も同じであるように、救命に関わる職業の義務のこと。
ぶっちゃけて言えば「相手や状況がイヤだからといって逃げることが許されない」こと。

Lindermannは、
子どもを産んだ後の子育ては事実上、母親にこのような「特別の義務」を背負わせていると述べ、

障害のある子どもの子育てが、
その子に障害がなかった場合より、はるかに負担の大きなものであったとしても、
母親はその子育てを放棄せず引き受ける義務を負うことになる以上、
選択の余地が母親に与えられるべきだ
と、主張しています。

Because this care can consume even more of the mother’s time, energy, money, and emotional stamina than would the care of a healthy child, and because many seriously disabled children will never outgrow their need for it, women should not be forced into the special relationship that require them to provide it.

障害児のケアは健康な子どものケアよりも
多くの時間、エネルギー、お金、そして気力を母親に使わせるものであり、
多くの重症障害児のケア・ニーズは成長と共に必要なくなるというものでもないので、
女性にこのようなケアの提供を求められる特別な関係が強要されることはあってはならない。

ってことは、
子どもが思春期になってグレたり、
引きこもって親に暴力を振るったり、
または重病にかかったりして、
親が時間やエネルギーやお金を使わせられてウンザリしたら、
「もう、し~らない」と逃げ出せばいいのね、きっと。

……と、つい思ってしまったのですが、それは逆で、
生まれてきてしまったら、いくら大変でも逃げ出すわけには行かないから、
そういう状況を引き受けなくても済むように
負担が分かりきっている障害児については予め選択させろ、
と言っているわけですね。

           ――――――

このエッセイを読んで「違うだろう、それは」と思うのは、

「負担を背負う人に決める権利がある」という考えは、
「障害児をケアする苦労なんか知らないアンタたちには口を出す権利がない」という、
Alisonの主張と結局は同じであり、それは

「障害新生児の医療の継続は、経費を負担する病院に決定する権利がある」
と言うに等しい 「無益な治療」法に通じていくということ。

負担を担える側にいるのはたいてい強い者なのだから、
強いものの論理と都合だけが通っていくことになるのでは、と。

②女性が子育て負担を背負っている現実を前提にするのであれば、
障害のある子どもが生まれることよりも、
女性にのみ子育て負担を背負わせている社会のあり方のほうを問題にするべきであって、

この点ではLindermannの論理展開って、
社会の問題を医療で解決していると批判された
“アシュリー療法”の正当化の論理と同じような気がする。

             ――――――

こういう人には、障害の可能性以外にも、きっと
いろいろ選択して排除したいものが出てくるのでしょうね。

いろんなものを排除することが技術的に可能になるにつれてね。
2007.11.09 / Top↑
かえすがえすも、
「お気に入り」に入れたままでプリントアウトしておかなかった
おのれの愚かさが悔やまれてならないのですが、

いまさら言っても仕方がないことを、やっぱり気になるので書きます。

2ヶ月くらい前だったか、もう少し最近だったか、
「ナースマンの生卵 insolence」という
看護師を目指して勉強中の方のものと思われるブログ(livedoor)で
Ashley事件を取り上げてコメントしておられるのを発見しました。
かなり長い記事でした。

温かく柔らかい文章で、
でもしっかり説得力のある批判を展開するコメントを
共感しながら読ませてもらったのですが、
記事そのものは論争がにぎわっていた1月に書かれたものでした。

しかし、ぎょっと目を剥いたのは、
記事の後の読者とのコメントのやり取りの中で「ナースマンの生卵」さんが

Ashleyの母親は再婚で、
Ashleyが生まれた後で離婚し、
再婚して2人の子どもができた

と書いていたこと。

すぐに、この情報はどこにあったものか問い合わせるコメントを入れましたが、
なにしろ、ブログそのものが看護師になるまでの体験をつづる目的のもの。
今年の4月から全く更新されていませんでした。

めでたく看護師になられて、忙しい日々を送っておられるものと思われ、
それでも、いつか気づいてもらえることもあるかと時たま覗いていたのですが……

しばらくサボっていて、久々に覗いてみたら、
ブログそのものがなくなっていました。あちゃ。

          ====

これについては、確認できてから書こうと考えていたのですが、
「ナースマンの生卵」さんを通じて確認するすべが断たれてしまったので、
むしろ、一人が知っていたということは、他にも知っている人がいることに期待して、
書いてみることにします。

もう無駄なことかもしれませんし、
こんなに目立たないブログでは意味がないかもしれないのですが、
やはり聞き捨てならない重大情報だし。

だって、

もし、この情報が事実だとすると、
あのブログを書いた(そして恐らく“アシュリー療法”を思いついた人物である)父親は
Ashleyの実の父親ではないことになる……。

どなたか「ナースマンの生卵」さんの連絡先または所在をご存知でないですか?

または、どなたか、上記の情報をご存知では?


【追記】

その後、上記ブログ記事の文章をネットで見つけてくださった方がありました。
(ありがとうございます)

「ナースマンの生卵」に書き込まれていたコメントの当該部分は正確には以下です。

実はアシュリーの母親は離婚してて、再婚してるんです。
再婚者との間に2名の子供が生まれ、育児に大変になった時期にアシュリー治療をしたって経緯もあり、
本当にアシュリーの事を考えた上での結論だったのか、疑問が残ります。
(07.01.26 19:51)

う~ん。

やっぱり、これはいい加減な推測ではなく、
どこかでそういう情報を見た人の書き方のような……。

これを見て以来、何度か検索してみたのですが成果はなく、
あくまで未確認情報ですが……気になる。
2007.11.08 / Top↑
前回のエントリーで、Gunther医師へのAshleyの親の弔辞を紹介しましたが、

実は、Ashleyの親のブログを久々に覗いてみようと思いついたのは、
英国のKatieのケースについて何かコメントしているのでは、と
考えたためでした。

そんなコメントは結局なかったのですが、

そういうことをやっていると、改めて「妙だなぁ……」と思えてくるのは、

英国でKatieのケースが報道された10月のはじめ、
Katieのケースは、いわばAshleyに続く“2例目”で
どの記事も必ずAshleyのケースを引き合いに出していたのだから、
普通に考えたらメディアはAshleyの親のコメントを取りにいくはず。
Diekema医師のところにも取材依頼が殺到するはずだと思うのですね。

メディアが彼らのところに行っていないのか(そんなはずはないような気がしますが)?
行ったのだけど沈黙を守っているのか?
それなら、それは何故なのか?

(特にあんなにおしゃべりだったDiekema医師が?
1月にはアシュリーの一件で講演までしようかというのに?
まぁ、Gunther医師の自殺直後のことではありましたが。)

          ―――――

さらに、改めて考えてみたら、
1月8日にAlisonはGuardianに登場してAshleyの親の勇気を絶賛し、
自分も裁判も辞さない覚悟で医師に談判すると決意を述べているのですが、
なぜ、実際に婦人科医のところに行くまでに半年もかかったのか?

AlisonがGuadianに登場し、その後英国メディアに露出していた1月当時、
メールアドレスを公開したAshleyの親の元には共感のメールが続々届いていました。
Alison自身はAshleyの親にコンタクトを取らなかったのでしょうか。

この人って、
1月3日からAshleyのケースが報道されるや、
8日はもうメディアに登場する行動の速さ。
今回自分の娘のケースでいろんなことをしゃべっている勢いを考えても
直情径行の猪突猛進タイプのようにも思えるのですが?

         ――――――

そして、さらに、
8月にAlisonの要望を受けた医師は婦人科医です。
内分泌医だったGunther医師のように重症児について詳しいとは思えません。
注目を浴びるケースだということも承知していたはず。
普通に考えれば、そんなケースを検討するに当たっては、
重症児からの子宮摘出について情報が欲しいところでは?

尋常に考えれば、その場合、
一番確かな情報源は前例を担当した内分泌医。
Gunther医師とコンタクトをとり、
確認したいこと、聞いておきたいことなど、
情報を集めようとするのでは?

こんなに簡単に連絡が取れ、
情報のやり取りができる情報化社会なのだから?

(ちなみにAlisonが婦人科医に要望したのが8月。Gunther医師の自殺は9月30日。)
2007.11.08 / Top↑
Ashleyへの一連の医療処置を担当したGunther医師の自殺を受けて、
10月12日に両親のブログを確認した際にはなかったのですが、
どうやら私が覗いた直後にアップされたようで
12日付で以下のような弔辞が書かれていました。

We are deeply shocked and saddened to learn of the sudden death of Doctor Daniel Gunther. His tragic death is a tremendous loss to everyone, especially to other vulnerable kids like Ashley and their families, to whom he represented hope.

Our prayers are with Dr. Gunther’s family.

      -----

Daniel Gunther医師の突然の死を知り、深い衝撃と悲しみを感じております。先生の痛ましい死は全ての人にとって大きな喪失ですが、とりわけAshleyのような弱い子どもたちとその家族にとっては大きな喪失です。こうした人たちにとって先生は希望の象徴でした。

私たちの祈りは先生のご家族とともに。

この弔辞で見る限り、

いまなお
Ashleyに行われたような医療処置が多くの障害児に広げられていくべきだと、
父親は考えているのですね。

病院が違法性を認めたことも、
WPASの報告書も、
まるで全く気にならないかのように。

この弔辞の後に、
担当医自殺を巡って彼らのブログに寄せられたコメントが
延々と引用されているのですが、
当たり前のことながら、擁護と賛美の声、批判に対する非難。

こんなに多くの人が、
子宮摘出の違法性が認められた事実など意にも介さず、
Ashleyに行われたことが一般に広まるべきだと主張していることに、
改めて驚いてしまう。
2007.11.07 / Top↑
「家族と法」(二宮周平)の中に「親権とは何か」という項目があるのですが、
その中から。

一九八九年、国連で採択された子どもの権利条約において、子の権利主体性が確認された。子の権利を守るとはいっても、それは、子が未熟、未発達な存在だから保護するというのではなく、子自身に発達し成長する権利があり、親や国・社会はこれを援助するものだという発想に変わってくる。(P.141)

今日では、親権の権利性は、親として子に対して有する養育の義務を遂行するのに必要な限りで認められ、他人から不必要に干渉されない法的地位として構成される。そして不適切な養育については、国や社会が子の利益を守るために介入することがある。(P.141)

「親子の利益の対立」の項目では、

民法は特に財産に関して、親権者の利益と子の利益が相反する場合(たとえば、子の財産を担保にして親が借金するなど)には、あらかじめ特別代理人を選任して、その人に子の代理をしてもらうようにしている(八二六条一項)。これは親権者を100%信用できないからである。(P.142)

9月末に出された英国医事委員会の医療における子どもの権利の考え方は、
国連の子どもの権利条約に沿ったガイダンスということが言えそうです。

これらを念頭に
体というものをその人の財産と考えて(そう考えていいのかどうかは分かりませんが)、
Ashley と Katie のケースを振り返ってみると、

そこら辺のオッサン、オバサンたちがワイドショー的に
「やらせてあげたらいいじゃない。こんなに愛と涙で頑張ってるんだから」と
ウルウルと情緒的な反応するのはともかくとして、
仮にも障害児の医療や福祉に関与する専門職やメディアがそういう論調でいいのか!!
……と疑問に思う。

でも、彼らだって卑しくも専門家であり報道機関であるならば、
上記のような考え方が共通理念となりつつある世の中の動向を
まったく知らないはずはないだろう、
とも思うわけで、

それなら、どうして知らないフリを決め込むのだろう
というのが、やっぱり不思議。

だから、

知っていて、それでもそういう論調になっているのは、
「なる」のではなく、そういう論調に「している」のでは……
というのが、ちょっとひっかかるところ。
2007.11.07 / Top↑
書店でタイトルを見た時にAlisonとKatieの顔が浮かんだので、
「家族と法---個人化と多様化の中で」(二宮周平 岩波新書)を買ってみました。

日本の話にはなりますが、家族の中での権利の衝突を考えてみる手がかりになるかと思って。

第5章の「人の世話をすること ―─保護と自立へのサポート──」冒頭に
「自立できない人を助ける仕組み」として民法が定める保護の3類型が紹介されています。

①身の回りの世話
②財産の管理と法律行為の代理
③扶養

未成年者については親権者が①②③を総合的に担う仕組み。
成人の場合は、それぞれが分離されて運用される。
ただし、このシステムの問題として著者は以下の3点があると。

(1)高齢や障害などで自立しえない人を家族が引き取り同居して①②③を総合的に行ってきたこと。
   家族のライフスタイルが変化してきたことから、
  「男女が共同し、家族の中だけで支え合うのではなく、
   地域や社会と連携しながら、担っていくことが求められる」。
   そのようにして「①②③を分離するメリットを生かすという課題がある。」

(2)未成年、高齢や障害によって判断能力が低下していく人の自己決定を尊重するという課題。
   画一的に②を制限するのではなく、状況に応じて②を使い分ける必要。

(3)障害者の継続的な保護。障害を持つ人も成年に達すれば大人であり、
   雇用を含めた自立へのサポートが不可欠の課題。

なるほど、基本理念はケアの社会化、本人の自己決定の尊重のようで、
アメリカ、イギリスと同じ方向を向いているんだなぁ……と思って読んだのですが、
ここで著者は上記の3つの問題にもう1つ付け加えています。

最後に、私たちの日常生活でとても大切な問題がある。それは、保護する人とされる人との関係性である。どうしても、保護する人がされる人を支配しがちになる。される人が、する人の思いどおりにならないとき、する人が負担感から感情が爆発することもある。お互いが笑顔で接することができるようにするには、どうしたらよいのか。それは、もっとも基本的な課題であり、法制度を考える場合にも重要である。つまり、保護は、される人の視点に立つことが原点だということである。される人は、可能な限り、独立、平等、自由な存在となるために、保護を受ける権利を有しているのである。

                ―――――

私自身は病院や施設でのケアを考える際にいつも感じるのは
「保護」と「管理」の間の距離は短いなぁ……ということ。

多数を対象とするケアでは一定の管理が避けられないため「保護」と「管理」の距離がしごく短くて、
本来は「保護」であるはずのところが「管理」に置き換えられてしまうこともよくあって、
「保護」に置き換わった「管理」が「支配」の手段に使われることも。

でも本当は、家族ケアにおいても同じことが起こりうるのでは?

誰もケアなど必要としてなくても
「支配―被支配」の関係が存在する家庭って、結構あるように思います。

そこに家族の誰かがケアを必要とする事態が起こると、
もともとあった「支配―被支配」の関係性が影響しないはずはなく、
場合によっては支配が強化されてしまうこともありそうです。

保護される人への支配だけでなく、
ケアを担う人への他の家族からの支配が強化されることもありそうです。
(ケアされる側がケアする側を支配しているという家族も見たことがあります。)

また、家族はそれまでの暮らしの中でお互いに対する様々な感情のねじれを抱えてもいて、
ケアを巡る家族の関係性にはそれが重層的に絡まりあい時に奇怪に錯綜したりもして、
しかも常にうつろっている……。 

そんな、元来ややこしいものをいろいろ抱え込んでいる家庭という場で、
ケアする側に負担感が過重に感じられる場面があると、
そこにはやはり虐待の芽が生じやすいのではないでしょうか。

必ずしも「ケアされる人とする人」の関係だけでなく、
他の家族間での支配関係も、ケアされる人への虐待の引き金になりそうな気がします。
(例えば夫に強く支配されている妻が、ケアしている夫の親に感情を爆発させるとか?)

そういう家族の危うさが病院や施設ほど見えにくいのは、家庭という場の閉鎖性の他にも、
周囲にある「介護とは美しいものである」という介護のステレオタイプや
「家族は愛情に満ちたケアをしているはず」とか
「施設よりも家庭でのケアの方が本人は幸せ」という
家族ケアについてのステレオタイプな思い込みによるのかもしれません。

もともと「ケアされる人とする人との関係性」という“場”には、
施設ケアであれ在宅ケアであれ、
それぞれの個人がどのような人かという資質とは別に、
そういうリスクを避けがたく孕んでしまう厄介さがあるような気がします。

だからこそ、
「保護はされる側の視点に立つことが原点」という時の「される側の視点」は
「保護する人とされる人との関係性」の外から保証されるべきなのではないでしょうか。
2007.11.06 / Top↑
9月27日のBBCニュースDoctors told take young seriously によると、
英国医事委員会が医療における子どもの権利に関する指針を出し、
医師の責任と役割を明確にしたとのこと。

3ヶ月かけて350人の子どもと600人の医師、親、各種団体に調査を行ったところ、
子どもたちは医師がまともに相手にしてくれないという不満を抱いていると分かった。
そこで、子どもを「大人の小型」と捉えるのではなく、
固有のニーズと権利を持った患者と捉えるとの姿勢をはっきりと打ち出したもの。

18歳以下の子どもの治療で医師に保証する責任があるとされているのは、
子どもが自分の治療に関する話し合いに直接参加できること、
自分の状態や治療について適切な説明を受けること、
彼らの意見も真面目に考慮してもらえること、
敬意を持って遇されること、
最善の利益を検討するに当たっては文化的または宗教的な信条や価値観に配慮してもらうことなど。

また本人がそう望むならば、子どもは親のいないところで医療を受けることができるし、
そのことを、きちんと知らされていなければならない。

          ――――――――

こういうニュースを読むと、
Katieのケースのニュース・ブレイクからずっと抱えている疑問が、
改めて膨らんでくるのを感じるのですが、

Cafcassやthe Official Solicitorのような代理決定や権利擁護の制度が整備されており、
Mental Capacity Act 2005が成立したのは2年も前で、この10月に施行されたばかり。
そのガイダンスが医療の現場で出されたり、
上記のような医療における子どもの権利が初めて明確に打ち出されようとしていたり……と、

英国社会では子どもや自分で決定することのできない人の権利擁護について、
意識がかなり明確になりつつあるように思われます。

そういう社会のメディアが、なぜ
「Katie本人の固有な権利が然るべき手続きによって代理されるべきでは」
という発想をしなかったのか?

私の手元にあるファイルの記事を見る限りでは、
10月8日のGuardianで脳性まひ者のチャリティScopeが
Katie本人の権利を代理する法定代理人の必要を強く訴えていますが、
Timesがこのケースが裁判所に持ち込まれることを伝えた18日まで、
それ以外にScopeと同じ主張をしたメディアも、そういう主張を取り上げたメディアも
(見落としがあったとしても、ほとんど)ありませんでした。

これが裁判所の判断を仰ぐべき性格の問題であることについても、
Katie本人の固有の権利が正当に代理されるべきことについても、
メディアは口をつぐんでいたのです。

しかし、Times もGuardianも TelegraphもBBCもDaily Mailも、
1月にはAshleyのケースを報道していました。
シアトル子ども病院が子宮摘出の違法性を認めたことも知っているはずでしょう。
その違法性が、
知的障害のある人への不妊手術には法的手続きを必要とする州法に由来するものだったことも、
このケースを調査したWPASの報告書にAshleyの権利を代理する人が敵対的審理を尽くす必要があるとの判断が織り込まれたことも、
それらのメディアは知っていたはずです。

それなのに、その問題には一切触れられないまま、
メディアによって「Alisonの言い分」対「障害者運動活動家の批判」という構図が作られていきました。

18日にこのケースが裁判に持ち込まれることになったことを報じるTimesの記事も、

Disability groups and academics have been united in urging caution the case in which Alison Thorpe wants doctors to ……

Alison Thorpeが……と望んでいるケースでは、障害者団体と学者らが手を結んで慎重な対応を呼びかけている。

と書き、あたかも一部の特殊な利害をもつ人々の偏った主張であるかのようです。

それとも英国のメディアは、
まさか、あのシアトル子ども病院生命倫理カンファレンスでのFostParisのように
「どうせ拘束力などないのだから医師は裁判所の言うことなど無視すればいい」とでも?

Ashleyのケースを報道していた時の姿勢に比べてみると、
Katieのケースを報道する際の英国のメディアには、
どこか奇妙な変節があるような、
とても不自然なものを感じるのは私だけでしょうか?

1月のAshleyのケースでは、
一部のメディアには操作されていた節があったことを、
改めて思います。
2007.11.06 / Top↑
ちょっと前の本ですが、

”Choosing Naia: A FAMILY’S JOUENEY” (Mitchell Zuckoff, Beacon Press 2002)


ノンフィクションです。

お腹の子どもがダウン症だと知りながら
「選ばないことを選ぶ」という選択をした米国コネチカット州のFairchild夫妻は、
夫が黒人、妻が白人で共に専門職。
夫婦が待望の妊娠を知る喜びの場面から、
お腹の子どもが重症の心臓病を伴うダウン症児だと分かり、
selective abortionが可能なのは24週までという州法のタイムリミットが迫る中、
様々に揺れながら最終的には「選ばないことを選ぶ」という選択をする。
Naiaと名づけられた娘が生後まもなく心臓の大手術を経て、
無事に2歳の誕生日を迎えるまでの物語。

the Boston Globe紙が98年に長期連載したシリーズを一冊の本にまとめたもの。
Greg とTierney夫婦はもちろん、
彼らの決断の周辺にいた専門職や友人、親戚など多くの人に綿密な取材を行い、
資料から歴史的な背景やダウン症を巡る医学の現状も考察した
骨太のドキュメンタリーになっています。

彼らが決断に至るまでには、
人種の違いという問題をはらんだ非常に複雑な感情の葛藤があるのですが、
2人は冷静な情報収集と検討、丁寧な議論を重ねることで
夫婦共に納得できる決断に至ろうと懸命の努力をします。
小児心臓外科医に会い、
遺伝学の専門家に会い、
遺伝カウンセラーから送られてきた資料を読み、
双方の親族と話し合い……
最終的に心を決めようとして、何に迷っているのだと夫に迫られた時、
妻のTierneyは言います。

“I want to talk to people who’ve been through this,” she said. “I want to talk to people who have children with Down syndrome.”

「これと同じ体験をした人と話してみたい」と彼女は言った。「ダウン症の子どもがいる人と話をしたいのよ」

そして2人は、ダウン症の娘のいる一家に会いに行きます。そこには成人して、穏やかな日々を送るダウン症の女性がいました。

                        ======


この本で私が最も心を打たれたのは、
この夫婦が
「ダウン症」をスティグマに満ちた“イメージ”にしたまま
「産むか産まないか」を考えるのではなく
できる限りダウン症の実像をリアルに知ろうと努力をしたこと

それはむしろ、
黒人と白人の夫婦であり、そのことが生む葛藤を常に乗り越える必要のあった夫婦だからこそ、
できたことなのかもしれません。
お腹の子どもがダウン症児だと知って、
実際のダウン症の人に会いに行こう、その人の現実の生活に触れてみようとする人が
どれほどいるでしょう。

もう1つ印象的だったのは、遺伝カウンセラーの存在と役割。
カウンセラーはまず最初に情報パッケージを送ってくれます。
その子どもの心臓病についての情報とダウン症についての情報。
ダウン症の家族会が作ったビデオもその中に入っています。
カウンセラーの姿勢が
「決断はあなたたちのもの。
必要な情報を提供し、そのプロセスを支えるけれど、いずれかに誘導はしない。
しかし、あなたたちの決断がいかなるものであっても、自分は徹底的に支え抜く」
というものであったことも、強く記憶に残っています。

決断そのものの是非も大事でしょうが、
既に既成事実がどんどん作られて「ダウン症児の堕胎は当たり前」になりつつある現在、
その決断に至るプロセスももっと議論されるべきでは、と考えさせられます。

(”アシュリー療法”論争で「重症児」への過激な医療の是非を云々している人たちの中にも、
子宮摘出や成長抑制の是非を云々する際に、
自分の中にある「重症児」像が実はスティグマに満ちたイメージに過ぎないのでは、
と自問してみる人は、一体どれほどいるのでしょうか?)
2007.11.04 / Top↑
間違えて双子のうち障害がない方を堕胎してしまったから、残ったダウン症の胎児も堕胎した……という話が6月にイタリアで。

母親は38歳。妊娠18週目に双子のうちの一人がダウン症であると知らされ、その子について堕胎を希望。ところが医師が誤って障害がない胎児の方を堕胎してしまった。「間違い」に気づいたのはどうやら母親で、もう一度病院に行き、もう一人の方を堕してもらった。その上で彼女が警察に通報し、病院スタッフは現在警察の取調べを受けている。病院側は、超音波検査と実際の手術の間に双子の位置が入れ替わっていたための“misfortune(不幸な出来事)“だ、と。

ちなみにイタリアでは1978年に中絶が合法化され、妊娠90日目までの中絶が認められている。母体に危険がある、または胎児に奇形がある(malformed)場合はそれ以降でも可。

6月に起こったことが翌月になって明るみに出たもの。報道を受け、キリスト教民主党議員が「人命軽視から起こった赤ん坊殺しだ」と非難。ヴァチカンに近い上院議員からは、保健省の調査と中絶法の見直しを求める声も。ヴァチカンの新聞は、選択的中絶はナチスの優生思想に相似した完璧を求める文化がもたらしたものだと批判。

夫婦は「双子だと聞いた時の喜びが失望に変わった」、「このむちゃくちゃなミスには大きな打撃を受けており弁護士に相談している」、「人生を台無しにされた」、「2人とも夜も眠れない」と。

……というニュースなのですが、よく分からないのは、

母親が病院スタッフを警察に通報して、警察が取調べを行っているという、その嫌疑は一体なんなのか?

「人生を台無しにされた」というのは、この出来事のどの部分によって、なのか?

彼らは恐らく最初の予定通りの堕胎が行われていた場合には「夜も眠れない」ことはなかったのでしょうから、そういう意味ではダウン症の胎児は「堕ろした」のだけど、障害のない胎児については「殺された」と受け止めているのでしょうか?

また上院議員が保健省の調査を求めるのは、どういう嫌疑なのか? 90日以内の中絶ではなかったから? ダウン症の胎児の中絶が違法だから? 

夫婦が怒っている点と、キリスト教保守の議員さんたちが怒っている点とは、ほとんど絶望的に食い違っているようにも思えるのですが……?

このモヤモヤ、上院議員の次の言葉が多少はすっきりさせてくれるでしょうか。

「ここで失敗が問題にされているのは、選別なのです」

                 


上記の事件の関連記事は以下。




the Star “Culture of Perfection” destroying us, Helen Henderson Sept.8, 2007

Helen Hendersonは障害のあるカナダのコラムニストで、“アシュリー療法”でもパンチの効いたコラムを書いていました。今回は「バイオテクや遺伝子診断を通じて完璧を求める文化によって、多様性がどんどん許容されなくなっていくが、社会が多様性を許容し、普通という枠からはみ出した人々を無条件に快く迎え入れる努力をしない限り、内面的にも外的にも平穏は得られない」といったことを書いています。
2007.11.02 / Top↑
しばらく静かだった(私がヒットしていないだけかもしれませんが)Katie Thorpeの子宮摘出を巡る議論ですが、
10月30日付で脳性まひのDavid Reillyという人が書いたものがひっかかりました。

The Herald
Reillyが呈している疑問。

障害児・者のケアをAlisonや同じ意見の親がメディアやインターネット上でこと細かく描写してみせる言葉が、
「私には、このうえなく非人間的で蔑視に満ちた言葉遣いが混じっているように感じられる
(to my mind, some of the most inhumane and degrading language)」と。

この点については私も、
Alisonだけでなくイギリス・メディアの言葉の選択にも、
障害に対するネガティブな視線を感じます。

例えば、Alisonの言を受けて、
メディアはこぞって「Katieはdoubly incontinentだ」と書く。

これは公式には「大小便失禁」なのでしょうが、
重症児の母親の言葉として何度も私自身が耳にした日本語にすると
「オシッコもウンチも垂れ流し」。

さらに、あたかもオムツ使用が極めて異常なことのような書き方もする。
まだオムツが取れていない」と書いた新聞まで……。
まだ……って……

これは障害に関するメディアの勉強不足なのか、
Alisonに引きずられているのか、
それとも他に 何か意図でもあるのか……?



Reillyのもう1つの疑問。

英国は多様性を受け入れるinclusiveな社会であるはずなのに、
文化の多様性は受け入れても障害という多様性、障害者の権利だけが、なぜ受け入れられないのか、と。

彼は、重症障害新生児を巡る英国産婦人科学会などの動きを指摘したうえで、次のように書いています。

障害とは、新生児を死なせなければならないほどに
何としてでも避けなければならないほどのお荷物なのか……


障害のある当事者に、こんな言葉を書かせてはいけない。
そんな社会にしてはいけない、と思う。
2007.11.01 / Top↑