Corwinが“Ashley療法”を批判して指摘しているのは4点。
①自分で意思表示できないだけではなく、
それ自体は決定の内容を正当化するものではなく、
決定内容は精査されるべきである。
抵抗することもできない人の身体に過激な処置が行われたこと。
特に「抵抗できない」ということが問題。
ただ「やってしまえるから」というだけで特に「抵抗できない」ということが問題。
特定の人たちに何かがされることはないように
特段の配慮が必要である。
②親が愛情から決定したことだからといって、特段の配慮が必要である。
それ自体は決定の内容を正当化するものではなく、
決定内容は精査されるべきである。
③Ashleyに行われた処置には一定の利益が確かにあると思われるが、
同じことが障害のない人に行われた場合には非倫理的だということになる。
それは何故なのかを考えなければならない。
同じことが障害のない人に行われた場合には非倫理的だということになる。
それは何故なのかを考えなければならない。
その人の状態によって結果的な処遇が同じである必要はないが、
その判断に適用される倫理判断の基準は一定でなければならない。
その判断に適用される倫理判断の基準は一定でなければならない。
④生後3ヶ月相当とされる年齢比喩の危うさの指摘。
Ashley事件では
対立の構図を強めていくことに熱心なTHニストが多い中、
対立の激化を懸念するTHニストもこのように存在するということが目を引きます。
対立の構図を強めていくことに熱心なTHニストが多い中、
対立の激化を懸念するTHニストもこのように存在するということが目を引きます。
倫理学は倫理学を適用する対象の人々の中に障害者を含めなければならない。
そうでなければ真の倫理学ではない。
……中略……
自分で主張することも身を守ることも難しい人々が体験してきた
力のアンバランスは非常にリアルなものであり、
歩くことも話すことも自分で食事をすることもできない人たちに
Ashley療法が適用される可能性については真剣に考える必要がある。
そうでなければ真の倫理学ではない。
……中略……
自分で主張することも身を守ることも難しい人々が体験してきた
力のアンバランスは非常にリアルなものであり、
歩くことも話すことも自分で食事をすることもできない人たちに
Ashley療法が適用される可能性については真剣に考える必要がある。
2008.03.19 / Top↑
Anne Corwinは去年1月に自分のブログに発表したエッセイ
Ashley X – Avoiding Oversimplification の冒頭で
“Ashley療法”の擁護論に引っ張り出される、
「人の精神は肉体と釣り合っていなければグロテスクだ」という考えを批判するのですが、
Ashley X – Avoiding Oversimplification の冒頭で
“Ashley療法”の擁護論に引っ張り出される、
「人の精神は肉体と釣り合っていなければグロテスクだ」という考えを批判するのですが、
他の批判論と全く違ってユニークなのは
その理由が非常にトランスヒューマニスティックだということ。
その理由が非常にトランスヒューマニスティックだということ。
THニストの考えでは
身体は個人の好みや考えによる自己選択で自由に選べるもの。
本人が「自分は猫の身体になりたい」と考えるのであれば
その人は自分の外見を猫そっくりにしたって
それも自己選択権の範囲内ということになるわけです。
身体は個人の好みや考えによる自己選択で自由に選べるもの。
本人が「自分は猫の身体になりたい」と考えるのであれば
その人は自分の外見を猫そっくりにしたって
それも自己選択権の範囲内ということになるわけです。
そういう価値観に立つとしたら
ある人の精神と肉体の釣り合いが適切かどうかなんて、
一体誰に決める資格があるのだ?
というのがCowinの「グロテスク」論批判のベース。
ある人の精神と肉体の釣り合いが適切かどうかなんて、
一体誰に決める資格があるのだ?
というのがCowinの「グロテスク」論批判のベース。
その上に立って彼女は
Ashleyの精神と肉体の釣り合いをグロテスクと呼ぶことは、
Ashleyのような障害者を理解することには全く貢献しないし、
Ashleyの精神と肉体の釣り合いをグロテスクと呼ぶことは、
Ashleyのような障害者を理解することには全く貢献しないし、
誰かが「ある人の精神にはこのような身体の方が釣り合う」と考えたというだけで
そのたびに病院の倫理委が過激な医療を認めるとしたら恐ろしいことだろう、と。
そのたびに病院の倫理委が過激な医療を認めるとしたら恐ろしいことだろう、と。
このように「グロテスク」論を否定した後で、
It’s not that she’s going to be small, it’s how she got that way, that is driving the widespread debates on this matter.
この問題で広く議論を巻き起こしているのは
Ashleyが小さいままであるということではなくて、
彼女がどのようにして小さいままにされたかということ(理由や意思決定過程や方法)なのだ。
この問題で広く議論を巻き起こしているのは
Ashleyが小さいままであるということではなくて、
彼女がどのようにして小さいままにされたかということ(理由や意思決定過程や方法)なのだ。
2008.03.19 / Top↑
当ブログでは
Ashleyの認知レベルを「生後3ヶ月(なぜか時に6ヶ月)」とするDiekema医師の
根拠のない「判定」に疑問を呈し、
表出能力が限られている重症児においては
表現しにくいことがすなわち「分かっていない」ことの証明ではないと
当初から一貫して主張してきました。
(詳細は「ステレオタイプの壁」の書庫のエントリーを。)
Ashleyの認知レベルを「生後3ヶ月(なぜか時に6ヶ月)」とするDiekema医師の
根拠のない「判定」に疑問を呈し、
表出能力が限られている重症児においては
表現しにくいことがすなわち「分かっていない」ことの証明ではないと
当初から一貫して主張してきました。
(詳細は「ステレオタイプの壁」の書庫のエントリーを。)
実はこの点に関しては、
「生後3ヶ月のマインド」という表現そのものが端的に事実として間違い
と指摘したエッセイが2007年1月7日の段階でありました。
「生後3ヶ月のマインド」という表現そのものが端的に事実として間違い
と指摘したエッセイが2007年1月7日の段階でありました。
(Existence is WonderfulはCorwinのブログ。
ここでの出典は、転載先IEETのサイトです)
ここでの出典は、転載先IEETのサイトです)
例えば、Ashleyは「生後3ヶ月のマインド」の持ち主であり、
今後も常にそうであろうと主張することは端的に事実として間違っています。
彼女のマインドは生後3ヶ月のマインドではなく、
発達障害のある9歳のマインドなのです。
30歳になれば、その時の障害の重さに関りなく、30歳のマインドの持ち主でしょう。
平均的な30歳のマインドではないかもしれないけれども、
それでもやはり30歳のマインドです。
このような年齢比喩を用いることは(これは比喩以外の何でもない)物事を曖昧にし、
人々が細部に目を向けることを阻んでしまいます。
Ashleyがどのようにこの世の中を体験しているかは誰にも分かりませんが、
まだ3ヶ月しか生きていない赤ん坊と同じように世の中を体験しているということはないでしょう。
Ashleyが脳のスキャンを受けたとか、
もしかしたら意思疎通が可能だという前提で試してみた
(座るより横になるほうが好きなようだと両親が気づいている他には)
という文書も目にしたことはありません。
彼女の「メンタル年齢」がどのように導き出されたものかという証言も
目にしていません。
今後も常にそうであろうと主張することは端的に事実として間違っています。
彼女のマインドは生後3ヶ月のマインドではなく、
発達障害のある9歳のマインドなのです。
30歳になれば、その時の障害の重さに関りなく、30歳のマインドの持ち主でしょう。
平均的な30歳のマインドではないかもしれないけれども、
それでもやはり30歳のマインドです。
このような年齢比喩を用いることは(これは比喩以外の何でもない)物事を曖昧にし、
人々が細部に目を向けることを阻んでしまいます。
Ashleyがどのようにこの世の中を体験しているかは誰にも分かりませんが、
まだ3ヶ月しか生きていない赤ん坊と同じように世の中を体験しているということはないでしょう。
Ashleyが脳のスキャンを受けたとか、
もしかしたら意思疎通が可能だという前提で試してみた
(座るより横になるほうが好きなようだと両親が気づいている他には)
という文書も目にしたことはありません。
彼女の「メンタル年齢」がどのように導き出されたものかという証言も
目にしていません。
医師にも間違いはありえます。怠慢もありえます。
複数の医師と倫理委の存在でその可能性を最小化することもできますが、
重い身体障害のある人のメンタルな機能のアセスメントの難しさは
どんなに強調してもしすぎることはありません。
Ashleyのメンタル年齢のアセスメントでは、
この困難さはどれほど考慮されたのでしょうか。
それとも彼女の治療内容を導き出すには、このようなカテゴリーに分類する必要がある
という考えに基づいてアセスメントが行われただけなのでしょうか。
複数の医師と倫理委の存在でその可能性を最小化することもできますが、
重い身体障害のある人のメンタルな機能のアセスメントの難しさは
どんなに強調してもしすぎることはありません。
Ashleyのメンタル年齢のアセスメントでは、
この困難さはどれほど考慮されたのでしょうか。
それとも彼女の治療内容を導き出すには、このようなカテゴリーに分類する必要がある
という考えに基づいてアセスメントが行われただけなのでしょうか。
何よりも興味深いのは
この文章を書いたのが女性トランスヒューマニストだということ。
この文章を書いたのが女性トランスヒューマニストだということ。
Corwinも世界トランスヒューマニスト協会の理事であり、
Hughes やDvorskyが中心人物であるInstitute for Ethics and Emerging Technologiesのお仲間。
Hughes やDvorskyが中心人物であるInstitute for Ethics and Emerging Technologiesのお仲間。
彼女のエッセイは他の点でも誰よりも鋭い指摘を行っています。
ずっと紹介したいと思いつつ、他の話題の取り紛れてきたのですが、
両親のインタビューを機に次のエントリーで。
ずっと紹介したいと思いつつ、他の話題の取り紛れてきたのですが、
両親のインタビューを機に次のエントリーで。
2008.03.19 / Top↑
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