なんでもありの世の中でついにこういうことも起こるか……。
Thomas Beatie氏(34)は、
女性として生まれたけれども性転換手術を受けて男性になったという経歴の持ち主。
女性として生まれたけれども性転換手術を受けて男性になったという経歴の持ち主。
その後結婚した相手の女性が数年前に子宮を摘出したので
それでは性転換手術の際に子宮も卵巣も残してあるから自分の方が子どもを産もうと
性転換手術以来受け続けている男性ホルモンの注射をやめ、
ドナー提供の精子を購入して妊娠。
それでは性転換手術の際に子宮も卵巣も残してあるから自分の方が子どもを産もうと
性転換手術以来受け続けている男性ホルモンの注射をやめ、
ドナー提供の精子を購入して妊娠。
さすがに医師らには断られたので、
home insemination……その購入した精子を自分で注入し受精させたということでしょうか。
home insemination……その購入した精子を自分で注入し受精させたということでしょうか。
1度目は三つ子の子宮外妊娠になって失敗、
2度目で成功して7月に女の子が生まれる予定。
2度目で成功して7月に女の子が生まれる予定。
本人の言によると、
「不妊手術は性転換の条件になっていなかったので、
胸の手術と男性ホルモンの補充だけを受けることにして
生殖の権利は残しました。
「不妊手術は性転換の条件になっていなかったので、
胸の手術と男性ホルモンの補充だけを受けることにして
生殖の権利は残しました。
血の繋がった子どもが欲しいというのは
男としての望みとか女としての望みということではなく
人としての望みですから」
男としての望みとか女としての望みということではなく
人としての望みですから」
Thomas Beatie, a married man who used to be a woman, is pregnant with a baby girl
The Times, March 26, 2008
The Times, March 26, 2008
ニュースにもビックリしますが、
もっとびっくりするのは記事に寄せられたコメントの中に
「家族の選択なのだから外野が口を出すことではない」という意見が思いがけず多いこと。
もっとびっくりするのは記事に寄せられたコメントの中に
「家族の選択なのだから外野が口を出すことではない」という意見が思いがけず多いこと。
(この辺りは“Ashley療法”に対するコメントと同じ傾向で、
このような個人の選択権意識がアメリカでこれほど広がっているということなのか、
インターネットでコメントを入れるタイプの人に
そういう意識の人の割合が高いということなのか?)
このような個人の選択権意識がアメリカでこれほど広がっているということなのか、
インターネットでコメントを入れるタイプの人に
そういう意識の人の割合が高いということなのか?)
いや、しかし……身体機能的に技術的に可能だから
なんでもかんでも個人の選択でやってもいいことにはならないでしょう。
なんでもかんでも個人の選択でやってもいいことにはならないでしょう。
法律的には男性なのだから
レズビアンのカップルと区別して考えなければならないのだろうとは思うのですが、
法律がそもそもこんなケースは想定していないのだろうとも思うし。
レズビアンのカップルと区別して考えなければならないのだろうとは思うのですが、
法律がそもそもこんなケースは想定していないのだろうとも思うし。
妊娠というのはとても濃密な体験なのだけれど
「産まれてくれば自分が父親で妻が母親」だという本人の言葉のように
人間の心が単純に割り切れるものなのかなぁ……。
「産まれてくれば自分が父親で妻が母親」だという本人の言葉のように
人間の心が単純に割り切れるものなのかなぁ……。
(「男性が妊娠した」というよりも、
たまたま妊娠機能があった!夫が妻に代わって「代理妊娠した」という理解が正しいのか?)
たまたま妊娠機能があった!夫が妻に代わって「代理妊娠した」という理解が正しいのか?)
生理的に考えても、
男性ホルモンを打ち続けて身体に男だと言い聞かせ続けてきたのを
ホルモンを中止して今度は身体に突然女性の機能を果たせと要求し、
子どもが生まれたらまた男性ホルモンを投与して……って、
男性ホルモンを打ち続けて身体に男だと言い聞かせ続けてきたのを
ホルモンを中止して今度は身体に突然女性の機能を果たせと要求し、
子どもが生まれたらまた男性ホルモンを投与して……って、
身体に無理を強いるのは間違いないし、
ずっと女性の生理を繰り返してきた体とは別の話なのだから、
お腹の子どもへの影響だって全く未知数ですよね。
ずっと女性の生理を繰り返してきた体とは別の話なのだから、
お腹の子どもへの影響だって全く未知数ですよね。
心底仰天したのは、
「ジェンダーの垣根をなくす快挙」とか
「男女差をなくすことは何であれ天晴」いうトーンで拍手を送る意見もあること。
「ジェンダーの垣根をなくす快挙」とか
「男女差をなくすことは何であれ天晴」いうトーンで拍手を送る意見もあること。
いや、しかし……この人は女性の身体機能を残していたから産めるのであって、
女性の産む性としての負担をこれで男性と分かち合うことになるとか
それでジェンダーの垣根が越えられるとか
男女の差がなくなるということになるのかどうか??
女性の産む性としての負担をこれで男性と分かち合うことになるとか
それでジェンダーの垣根が越えられるとか
男女の差がなくなるということになるのかどうか??
それとも、ジェンダー・フリーだと拍手を送る人が言っているのは
もしも今後、例えば子宮を移植して男性が妊娠することも技術的に可能になるとしたら
夫婦のうち男でも女でも好きなほうが妊娠・出産を担う選択もOKにしようということ?
もしも今後、例えば子宮を移植して男性が妊娠することも技術的に可能になるとしたら
夫婦のうち男でも女でも好きなほうが妊娠・出産を担う選択もOKにしようということ?
それをいえば、
夫も妻も社会生活を妊娠なんかで中断させるのはイヤだけれども
血の繋がった子どもは欲しいという「人間としての望み」だけはある場合に、
お金があれば代理母を雇って体外受精で生んでもらえば
夫婦はどちらも妊娠・出産の不自由や身体的な負担からは逃れられて
なおかつ遺伝子的には夫婦の子どもを持てるわけですよね。
夫も妻も社会生活を妊娠なんかで中断させるのはイヤだけれども
血の繋がった子どもは欲しいという「人間としての望み」だけはある場合に、
お金があれば代理母を雇って体外受精で生んでもらえば
夫婦はどちらも妊娠・出産の不自由や身体的な負担からは逃れられて
なおかつ遺伝子的には夫婦の子どもを持てるわけですよね。
(こういうことを考えると、代理母って、
どこか売春みたいだと思えてしまうのですが。)
どこか売春みたいだと思えてしまうのですが。)
さらに、もっと技術が進んで生殖そのものが
妊娠・出産という女性の身体にも社会生活にも負担をかけるプロセスを経ないものへと
向かっていけば(もうBrave New Worldそのものですが)、
それこそ男女の差はなくなるということなのかしらん?
妊娠・出産という女性の身体にも社会生活にも負担をかけるプロセスを経ないものへと
向かっていけば(もうBrave New Worldそのものですが)、
それこそ男女の差はなくなるということなのかしらん?
じゃぁ、男であるとか女であるとかってどういうことなのか、とか
親になるというのはどういうことか、とか
いろいろ考えていくと頭の中が混沌として訳が分からなくなってくるのですが、
親になるというのはどういうことか、とか
いろいろ考えていくと頭の中が混沌として訳が分からなくなってくるのですが、
とりあえず、この人の場合に抱くのは
とても素朴に「でも、あなたは男になることを選んだのではなかったのか」という疑問。
とても素朴に「でも、あなたは男になることを選んだのではなかったのか」という疑問。
男であるとか女であるということは
仮に選べるとしても、
何度もその時々の都合で選びなおしたり
部分的に保留にして選べるという種類の問題とは
やはり違うんじゃないでしょうか?
仮に選べるとしても、
何度もその時々の都合で選びなおしたり
部分的に保留にして選べるという種類の問題とは
やはり違うんじゃないでしょうか?
【追記】
もともとの出典はゲイの雑誌とのことなのですが、
この人、どういう意図でそういうメディアにわざわざ自分の妊娠裸像を公表したんだろう?
もともとの出典はゲイの雑誌とのことなのですが、
この人、どういう意図でそういうメディアにわざわざ自分の妊娠裸像を公表したんだろう?
2008.03.27 / Top↑
MicrosoftとGoogleが個人の健康情報管理ソフトの完成に向けて
熾烈な戦いを繰り広げているとのこと。
熾烈な戦いを繰り広げているとのこと。
両社のソフトが共通して目的としている機能としては
・自分の健康・医療情報をオンラインで記録・保存し、
・医師や医療機関、医療情報の検索ができ、
・病院の予約
・服薬管理
・オンラインでのコミュニケーション、
・医療関係者との情報共有
・医師や医療機関、医療情報の検索ができ、
・病院の予約
・服薬管理
・オンラインでのコミュニケーション、
・医療関係者との情報共有
もちろんネットバンキングと同じ程度には個人情報は安全に守られ、
おまけに両者とも無料のサービスとする、と。
おまけに両者とも無料のサービスとする、と。
しかし、検索欄の有料広告を収入源とした場合に
健康や病気に関する検索で提供される情報が利益関係に影響される可能性の懸念も。
(例えばサプリメント会社の情報とか)
健康や病気に関する検索で提供される情報が利益関係に影響される可能性の懸念も。
(例えばサプリメント会社の情報とか)
今のように
「薬物とテクノロジーでもっと健康に、もっと頭がよく、もっと長生きに」と
誰も彼もが煽られ、それが莫大な利権に繋がっている時代に
多くの人の健康に関する個人情報をネットで管理・利用するというのが
本当は一体どういうことなのか──。
「薬物とテクノロジーでもっと健康に、もっと頭がよく、もっと長生きに」と
誰も彼もが煽られ、それが莫大な利権に繋がっている時代に
多くの人の健康に関する個人情報をネットで管理・利用するというのが
本当は一体どういうことなのか──。
この記事は2社のサービス内容に共通している点を羅列した最後に以下のように。
「あぁ、それからマイクロソフトとグーグルに共通しているのは
もう1つ別のゴールが常にあるということだ。
世界を支配するというゴールが。」
もう1つ別のゴールが常にあるということだ。
世界を支配するというゴールが。」
2008.03.27 / Top↑
この1年余りAshley事件を調べてきて、
また、ここしばらく尊厳死や無益な治療を巡ってわずかに読みかじる中で、
また、ここしばらく尊厳死や無益な治療を巡ってわずかに読みかじる中で、
とても強く思うのは、
生命倫理の議論はもっと言葉を厳密に使うべきではないのか、ということ。
生命倫理の議論はもっと言葉を厳密に使うべきではないのか、ということ。
その中の1つとして、
「障害」は「病気」ではないのだという事実を
みんな一度しっかり再確認しましょうよ、と。
「障害」は「病気」ではないのだという事実を
みんな一度しっかり再確認しましょうよ、と。
Ashley事件で言えば、
static encephalopathyという彼女の“診断名”ですが、
これは「脳に損傷がある状態」を “診断”しているだけであって「病名」ではありません。
static encephalopathyという彼女の“診断名”ですが、
これは「脳に損傷がある状態」を “診断”しているだけであって「病名」ではありません。
Anne McDonaldさんが主張している通り、要するに「脳性まひ」と同じことなのですが、
「脳性まひ」もまた「脳に受けた損傷が原因で麻痺が起きている状態」という意味に過ぎず、
やはり「病名」ではありません。
「脳性まひ」もまた「脳に受けた損傷が原因で麻痺が起きている状態」という意味に過ぎず、
やはり「病名」ではありません。
「障害がある」=「健康ではない」ではなく、
「障害がある」=「病気である」でもなく、
障害があるという状態のまま健康だという人は沢山いるのです。
「障害がある」=「病気である」でもなく、
障害があるという状態のまま健康だという人は沢山いるのです。
無益な治療や尊厳死を巡る議論の中で
terminally ill (末期の病気)という表現が使われる際に
病気でもなければ末期でもない、ただ障害が重いというだけの人が
その範疇にいつのまにか紛れ込んでしまっているのを見るたびに、
病気と障害の区別がついていないよなぁ、
それとも敢えて混同して語っているのかなぁ、
と考えてしまう。
terminally ill (末期の病気)という表現が使われる際に
病気でもなければ末期でもない、ただ障害が重いというだけの人が
その範疇にいつのまにか紛れ込んでしまっているのを見るたびに、
病気と障害の区別がついていないよなぁ、
それとも敢えて混同して語っているのかなぁ、
と考えてしまう。
Golubchuk氏の無益な治療論争についてのPeter Singerの発言を読むと、
「自己決定できる人の病気の末期」と
「自己決定が難しい人の病気の末期」が
きちんと区別した上で議論されていないという疑問をまずは感じるのですが、
「自己決定できる人の病気の末期」と
「自己決定が難しい人の病気の末期」が
きちんと区別した上で議論されていないという疑問をまずは感じるのですが、
同時に「重度の障害」と「末期の病気」の区別も付いていない。
そして、これらが都合よく混同されたまま
読者を極端な結論に向かって誘導していると思う。
読者を極端な結論に向かって誘導していると思う。
このような議論をする側にもそれを受け止める側にも
障害は病気ではないのだという事実認識、
したがってどんなに重い障害があっても
病気でなければ末期ではありえないのだという事実認識が
きちんと共有されているべきではないでしょうか。
障害は病気ではないのだという事実認識、
したがってどんなに重い障害があっても
病気でなければ末期ではありえないのだという事実認識が
きちんと共有されているべきではないでしょうか。
―――――
また、NY Times のコラムのように、
Irreversibly ill (不可逆的な病気、不治の病)という表現が
terminally ill (末期の病気)とほとんど同じように使われて
尊厳死が云々されてしまうことも非常に気になります。
Irreversibly ill (不可逆的な病気、不治の病)という表現が
terminally ill (末期の病気)とほとんど同じように使われて
尊厳死が云々されてしまうことも非常に気になります。
「不可逆的な病気」=「末期」ではないことはもちろんですが、
「不可逆的な病気」、「治らない病気」という曖昧な表現は
どれだけ広範な病気を指すことになるか分かりません。
「不可逆的な病気」、「治らない病気」という曖昧な表現は
どれだけ広範な病気を指すことになるか分かりません。
さらに、
障害は「状態」である以上、多くの場合において「不治」ですから、
ここで「障害は病気ではない」という事実がちゃんと確認されていないと
障害の多くが「不可逆な病気」に含まれてしまったまま議論が行われる
ということも起こり得るのです。
障害は「状態」である以上、多くの場合において「不治」ですから、
ここで「障害は病気ではない」という事実がちゃんと確認されていないと
障害の多くが「不可逆な病気」に含まれてしまったまま議論が行われる
ということも起こり得るのです。
この2つの表現は決して混同されてはならないと思うのですが、
生命倫理の議論では過激な発言であればあるほど
言葉の使い方に厳密さがなく抽象的かつ曖昧でイメージ先行、
その曖昧さの陰でなし崩し的に
対象のズラしや拡大が行われているのではないかと、
懸念されてなりません。
言葉の使い方に厳密さがなく抽象的かつ曖昧でイメージ先行、
その曖昧さの陰でなし崩し的に
対象のズラしや拡大が行われているのではないかと、
懸念されてなりません。
2008.03.27 / Top↑
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