カナダで84歳の男性への治療停止を病院が決めたことに対して
家族が宗教上の理由から治療停止に反対して訴訟を起こしているケースに関して
Peter Singerが論評しています。
家族が宗教上の理由から治療停止に反対して訴訟を起こしているケースに関して
Peter Singerが論評しています。
まずタイトルですが、
「高齢者には病気なんか認めなくていい」という意味ではないか、と。
「高齢者には病気なんか認めなくていい」という意味ではないか、と。
Ashleyケースで彼が書いた論評にも同様の感想を持ちましたが、
今回も非常に粗雑で乱暴な議論。
今回も非常に粗雑で乱暴な議論。
論旨を流れに沿ってざっとまとめてみると、
かつて高齢で弱ってくると楽に死ねる肺炎は「老人の友」であったのに、
最近ではすぐに抗生物質で助けてしまうので「友」でなくなってしまった。
頭も確かでなくなった高齢者に抗生物質を使って何の意味がある?
歩けない、しゃべれない、自分で食べられない、我が子も分からないようになってまで
生きていたい人がどれくらいいるだろうか。
本人の意思が確認できず
何が患者の最善の利益かを判断しにくい場合には
社会のコストを考えなければならない。
こうした高齢者への抗生物質投与には無駄に費用がかかる上に
抗生物質の多用によって耐性菌を作るという問題もある。
カナダのGolubchukケースのように本人の意思決定が無理な場合には
通常なら家族の希望が尊重されるが
その家族の希望にしても
本人の最善の利益に基づいて行動する医師らの倫理的責任を上回るものではない。
Golubchukの認知レベルが争点になっているが、
分かっているなら分かっているで生かされることは無意味な拷問であり、
やすらかに死なせることが彼の最善の利益だろう。
このケースでもう1つ重要なのは
死が本人の最善の利益だと医師が判断した患者に
家族が希望するというだけでコストをかけて治療を続けるかどうか、
一家族の宗教信条を支えるためにのみ
カナダの納税者にコストをかける用意があるかどうかという点である。
医師らの判断の方が勝っているのだから
裁判所は治療を継続させる命令を出すべきではない。
最近ではすぐに抗生物質で助けてしまうので「友」でなくなってしまった。
頭も確かでなくなった高齢者に抗生物質を使って何の意味がある?
歩けない、しゃべれない、自分で食べられない、我が子も分からないようになってまで
生きていたい人がどれくらいいるだろうか。
本人の意思が確認できず
何が患者の最善の利益かを判断しにくい場合には
社会のコストを考えなければならない。
こうした高齢者への抗生物質投与には無駄に費用がかかる上に
抗生物質の多用によって耐性菌を作るという問題もある。
カナダのGolubchukケースのように本人の意思決定が無理な場合には
通常なら家族の希望が尊重されるが
その家族の希望にしても
本人の最善の利益に基づいて行動する医師らの倫理的責任を上回るものではない。
Golubchukの認知レベルが争点になっているが、
分かっているなら分かっているで生かされることは無意味な拷問であり、
やすらかに死なせることが彼の最善の利益だろう。
このケースでもう1つ重要なのは
死が本人の最善の利益だと医師が判断した患者に
家族が希望するというだけでコストをかけて治療を続けるかどうか、
一家族の宗教信条を支えるためにのみ
カナダの納税者にコストをかける用意があるかどうかという点である。
医師らの判断の方が勝っているのだから
裁判所は治療を継続させる命令を出すべきではない。
Singerは一体どういう手順を踏んで意思決定をするべきだと主張しているのか、
言っていることが段落によって違っていて、
結局はどんな場合でも社会のコストのみを基準とした結論が正しい、と読めます。
言っていることが段落によって違っていて、
結局はどんな場合でも社会のコストのみを基準とした結論が正しい、と読めます。
「本人の最善の利益によって行動する医師の倫理的責任」と
倫理的という言葉をSingerは1度だけ使っているのですが、
社会のコストを考慮の外に置いて「本人のみの最善の利益」を考える
患者に対する医師の「倫理的責任」を言っているのか、
それとも、
医師は社会のコストも考えた上で患者の「最善の利益」を考えるべきだとして
社会に対する医師の倫理的責任のことをいっているのか?
(じゃぁ、その場合の患者の最善の利益というのはどう導き出されるのか)
倫理的という言葉をSingerは1度だけ使っているのですが、
社会のコストを考慮の外に置いて「本人のみの最善の利益」を考える
患者に対する医師の「倫理的責任」を言っているのか、
それとも、
医師は社会のコストも考えた上で患者の「最善の利益」を考えるべきだとして
社会に対する医師の倫理的責任のことをいっているのか?
(じゃぁ、その場合の患者の最善の利益というのはどう導き出されるのか)
文脈からすれば後者を意味している以外にはないと思われ、
それなら結局「患者の最善の利益」など最初から存在せず、
「社会の最善の利益」しか存在しないことになるようでもあり。
それなら結局「患者の最善の利益」など最初から存在せず、
「社会の最善の利益」しか存在しないことになるようでもあり。
自分で排泄のコントロールができなくなり、
自分で食べることができなくなり、
もはや歩けず、しゃべれず、
我が子も分からないほどに精神能力がもう後戻りできない状態で悪化してしまったら、
そんな状態で生きる時間を引き伸ばしたいと
どれほどの人が願うだろうか?
自分で食べることができなくなり、
もはや歩けず、しゃべれず、
我が子も分からないほどに精神能力がもう後戻りできない状態で悪化してしまったら、
そんな状態で生きる時間を引き伸ばしたいと
どれほどの人が願うだろうか?
ここに描かれている身体の不自由は
必ず「我が子も分からない」ほどの知的な障害を伴うとは限らないし、
必ず「我が子も分からない」ほどの知的な障害を伴うとは限らないし、
さらにまた必ずしも、
このような状態にある人が生きることを望まないと
決め付けられるものでもないはずなのですが、
このような状態にある人が生きることを望まないと
決め付けられるものでもないはずなのですが、
「仮にGolubchuk氏の認知能力が残存しているとしても、
それは却って無意味な拷問ということになるのだから」
という部分に見られるように、
それは却って無意味な拷問ということになるのだから」
という部分に見られるように、
Singerは現実の障害像の多様さを無視し、
しかるべき意思決定の手順というあるべき議論も自己決定権もすっとぱして
しかるべき意思決定の手順というあるべき議論も自己決定権もすっとぱして
ただ
「そんなになってまで生きてたくはないよね、みんな?」
と自分の主観的な価値観を安易に一般化しているに過ぎず、
「そんなになってまで生きてたくはないよね、みんな?」
と自分の主観的な価値観を安易に一般化しているに過ぎず、
「本人の意思が確認できないならば」という前提を煙幕として繰り返しつつ
彼が主張しているのは実は「本人の意思も家族の意思も問題ではない」ということのみ。
彼が主張しているのは実は「本人の意思も家族の意思も問題ではない」ということのみ。
そしてGolubchuk氏の状態を引き合いに論じつつ、ちゃっかり更に飛躍して
タイトルで謳うのは「高齢者には病気などいらない」なのだから、
タイトルで謳うのは「高齢者には病気などいらない」なのだから、
本文の趣旨とは本当は
「高齢になったら状態を問わず、本人家族の意思も問わず治療は無用」ということなのかも。
「高齢になったら状態を問わず、本人家族の意思も問わず治療は無用」ということなのかも。
Ashley事件に際してSingerがNYTimesに発表した文章については以下に。
2008.03.24 / Top↑
2月14日のエントリー84歳患者巡る無益な治療論争、裁判へ(カナダ)で紹介したケースで、
この患者 Sam Golubchuk氏の娘さんが
裁判費用を援助するカンパを呼びかける手紙を
3月17日にインターネットに公表しています。
裁判費用を援助するカンパを呼びかける手紙を
3月17日にインターネットに公表しています。
この手紙によると、
障害があり介護施設で暮らしていたGolubchuk氏(84歳)は去年の秋に肺炎で入院。
肺炎は治ったものの高齢で弱っていたために
そのまま基本的なケア(栄養・水分の補給と呼吸器による呼吸補助)を受けることに。
障害があり介護施設で暮らしていたGolubchuk氏(84歳)は去年の秋に肺炎で入院。
肺炎は治ったものの高齢で弱っていたために
そのまま基本的なケア(栄養・水分の補給と呼吸器による呼吸補助)を受けることに。
病院側は去年11月に基本的なケアを停止しようとしたため、
家族が裁判所から緊急の差し止め命令をとったもの。
家族が裁判所から緊急の差し止め命令をとったもの。
娘さんは
Golubchuk氏が植物状態でもなければ末期的な病気でもなく苦痛も感じていないのに
病院は氏が高齢、虚弱な障害者だから治療費を使いたくないのだ、
そのくせ裁判では戦う姿勢を見せ、
その費用には税金を投入しようとしていると批判しています。
Golubchuk氏が植物状態でもなければ末期的な病気でもなく苦痛も感じていないのに
病院は氏が高齢、虚弱な障害者だから治療費を使いたくないのだ、
そのくせ裁判では戦う姿勢を見せ、
その費用には税金を投入しようとしていると批判しています。
ちょっと考え込んでしまったのは、
最後のところで、従軍経験を始め現役の間に氏がいかに社会に貢献してきたかを語り、
だから晩年に尊厳をもって扱ってもらう権利がある、と述べてある下り。
最後のところで、従軍経験を始め現役の間に氏がいかに社会に貢献してきたかを語り、
だから晩年に尊厳をもって扱ってもらう権利がある、と述べてある下り。
日本でも重症児への福祉を訴える際に、
この子達から世の中の人が教えられることは沢山あるのだ、
懸命に生きる姿によって彼らは世の中に貴重なメッセージを送っているのだと、
いわば重症児の「存在価値」を訴える言説に出くわすことがあり、
そのたびに私は考え込んでしまうのですが、
この子達から世の中の人が教えられることは沢山あるのだ、
懸命に生きる姿によって彼らは世の中に貴重なメッセージを送っているのだと、
いわば重症児の「存在価値」を訴える言説に出くわすことがあり、
そのたびに私は考え込んでしまうのですが、
「世の中に貢献しているのだから助けてもらう資格や権利がある」という論法には
どこかとても危ういものがありはしないでしょうか。
どこかとても危ういものがありはしないでしょうか。
2008.03.24 / Top↑
初めて「自死」という言葉を見たのは
もうずいぶん前に柳田邦夫の「サクリファイス」を読んだ時。
もうずいぶん前に柳田邦夫の「サクリファイス」を読んだ時。
「サクリファイス」からはいろいろ深く考えさせられたのだけれど、
ちょっと引っかかりを覚えたのが「自死」という見慣れない言葉。
まぁ、その時は親の気持ちとして読み過ごした。
ちょっと引っかかりを覚えたのが「自死」という見慣れない言葉。
まぁ、その時は親の気持ちとして読み過ごした。
しかしその直後に、
同時期にこの本を読んだ友人と会った際に、
彼女が「自死」と何度も口にするのを聞いていると、
ものすごい違和感を覚えた。
同時期にこの本を読んだ友人と会った際に、
彼女が「自死」と何度も口にするのを聞いていると、
ものすごい違和感を覚えた。
親が「自殺」という陰惨で生々しい表現を避けたい気持ちは分からないでもない。
親にとっては我が子の人生はどの他人の人生とも違う特別なものと感じられただろうとも思う。
しかし、いくら柳田ファンで、この本に感銘を受けたとはいえ、
なぜ他人である私の友人までが
柳田邦夫の息子の自殺を「自殺」と言わないのだろう──?
親にとっては我が子の人生はどの他人の人生とも違う特別なものと感じられただろうとも思う。
しかし、いくら柳田ファンで、この本に感銘を受けたとはいえ、
なぜ他人である私の友人までが
柳田邦夫の息子の自殺を「自殺」と言わないのだろう──?
せっかく熱く語っている彼女に水を差すようで遠慮したのだけれど、
あの時「あなたは何故『自殺』と言わないの?」と聞いてみればよかった……
というのがずっと頭に残った。
あの時「あなたは何故『自殺』と言わないの?」と聞いてみればよかった……
というのがずっと頭に残った。
次に「自死」という言葉を頻繁に目にしたのは江藤淳が自殺した時。
追悼の文章を書いた多くの人たちはこぞって「自死」と書いた。
この時の「自死」には
江藤氏ほどの知性も教養も持たない一般人の「自殺」とはモノが違うのだという
明確なメッセージがこめられているようで、
「サクリファイス」の時とは比べ物にならない大きな抵抗感があった。
追悼の文章を書いた多くの人たちはこぞって「自死」と書いた。
この時の「自死」には
江藤氏ほどの知性も教養も持たない一般人の「自殺」とはモノが違うのだという
明確なメッセージがこめられているようで、
「サクリファイス」の時とは比べ物にならない大きな抵抗感があった。
江藤氏の死をどのように解釈するかは一人ひとりの主観だから
無教養な一般人の自殺とはモノが違うと考える人がいても不思議はないし、
配偶者の死や自らの老いと直面した際の苦悩の仕方には
それぞれの人のそれまでの生き方や知性・教養によっても違いがあるというのは
一面では真実かもしれないとは思うのだけれど、
配偶者に先立たれる孤独や自分の老いに直面する苦悩そのものは
本質的には誰でも同じだということもまた一面の真実だと考えるので、
無教養な一般人の自殺とはモノが違うと考える人がいても不思議はないし、
配偶者の死や自らの老いと直面した際の苦悩の仕方には
それぞれの人のそれまでの生き方や知性・教養によっても違いがあるというのは
一面では真実かもしれないとは思うのだけれど、
配偶者に先立たれる孤独や自分の老いに直面する苦悩そのものは
本質的には誰でも同じだということもまた一面の真実だと考えるので、
誰も彼もが江藤氏の自殺をよってたかって「自死」、「自死」と呼ばわるのは
人の死に勝手な格付けをする、なんだかずいぶん嫌らしい行為じゃないのか、と。
人の死に勝手な格付けをする、なんだかずいぶん嫌らしい行為じゃないのか、と。
それ以来
いったい「自殺」と「自死」とはどう使い分けられているのだろう、
使い分けている人は自分の線引きをどのように自覚しているのだろう、
というのが私の疑問なのですが、
いったい「自殺」と「自死」とはどう使い分けられているのだろう、
使い分けている人は自分の線引きをどのように自覚しているのだろう、
というのが私の疑問なのですが、
ここしばらくの間に何度か新聞の広告欄で目にして気になりながら
かといって、読むことにもちょっと抵抗を感じる……という本があって、
それは「自死という生き方」というタイトルの本。
哲学者の自殺に至る生き方を書いた本らしいのですが、
かといって、読むことにもちょっと抵抗を感じる……という本があって、
それは「自死という生き方」というタイトルの本。
哲学者の自殺に至る生き方を書いた本らしいのですが、
これから「自死」という言葉は広まっていくのかもしれないなぁ……。
【追記】
「自死という生き方」を読まれた方の記事があったので、
トラックバックさせていただきました。
「自死という生き方」を読まれた方の記事があったので、
トラックバックさせていただきました。
2008.03.24 / Top↑
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