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英国のKatie Thorpe事件を振り返って
ああ、あそこにも「障害児の母親」を巡るステレオタイプがあったなと思うのは

同じことを要求し主張したAshleyの父親に対しては
端的に今回の決定を巡っての批判がされたのに比べて、
Katieの母親Alisonに対する批判には「なんて酷い母親なんだ!」的な嫌悪感が混じっていたこと。

Alisonには確かに思慮の足りない言葉が多かったので、
部分的にはそうした発言が批判を招いた面もあるのですが、

それ以外にも彼女の言葉に滲んでいた「介護にはもうウンザリ」というホンネが
「母親の癖になんだ?」という反発に結びついたところもあったのでは?

娘の子宮を摘出したいと求めたことが非難されたというだけではなく、
Alisonが娘の介護負担を強い言葉でネガティブに表現して見せる姿が
世間の人たちが理想とする「障害児の母親」像から外れていたから
「それでも母親か」的な非難を浴びたのではないか、と。

(この点についてはFRIDAのブログに去年10月19日付で
Alisonを「ひどい母親」だと糾弾することについて
フェミニストの立場から考えようとする姿勢のポストがありました。)

母親であれ父親であれ
また、どんなに深い愛情があろうと、
Alisonのような過酷な介護生活を15年も送れば
「介護にはもうウンザリ」という気持ちになることくらい
生身の人間なら当たり前だろうと思うし、

Alisonが訴える介護負担の苦しさについては
もっと虚心に耳を傾けるべき問題だったとも思う。

それは他の障害児親子にとっても切実な問題なのだから、
それはそれとしてKatieの子宮摘出とは別の問題として整理して
きちんと受け止められなければならなかったはずなのに、

彼女の日常を詳細に取材したDaily Mailは逆に、
その過酷な介護負担を
「こんなに立派に頑張っている母親なんだからやらせてあげよう」
と子宮摘出の正当化に使ってしまった。

あのニュースを読んだ人たちも、その厳しい現実に驚いたはずなのに、
「ここまで頑張れる母親の愛情」に無責任に感動・賞賛して終わってしまった。

「障害児の親は何故ここまで過酷な生活を強いられているのか」と
社会のあり方、福祉制度のあり方に問題意識を向ける
ジャーナリストも新聞読者も
なぜあれほど少なかったのだろう??????

そこにあるのはやはり、
「己を捨てて障害のある子どものケアに尽くし抜く母親」というステレオタイプ、

すなわち裏返してみれば、
北海道の中学生行方不明の記事へのコメントと同じ、
「我が子が障害を持っていたら
どんな事情があろうとも
母親なら優しく明るくたくましくケアし続けるはず」との意識なのでは?

でも私には
個々の表現での思慮不足や言葉の選択は別として、
Katie Thorpeの事件で最も大きな声で響いていたのは
「障害児の母親だって生身の人間なのよ、頑張るには限界があるのよ」
というAlisonの悲鳴だった……という気がしてならない。
2008.03.04 / Top↑
北海道で知的障害のある中学生がずいぶん前から行方不明になっていて
ついに公開捜索に踏み切られたという以下のニュースを読んでいたところ、


ネットではいつものことなのかもしれませんが、
知的障害者を誹謗するコメントがあったらしい痕跡が見かけられるものの
既にコメントそのものは削除されていると思われる中で、
以下のコメントは削除されることもなく残っていたのが目を引いて
つくづく考え込んでしまった。

色々と事情はあるのだろうしこのニュースに書かれている以外の状況もあるのだろうが,18才で産んだ障害のある我が子を人に預けた自分には責めるべき点が全く無かったのか?この母親はどうも障害者版モンスターペアレントみたいに思えてならない。「迎えに行けないから」と説得してやめさせたが、そのときの様子は「いつもと感じが違った。前兆があったのに,どうして気付いてくれなかったのか」って
いやいや…だったらオマエが迎えに行けよw前兆に気付いたなら動くべきは先ず親である君だ。こういう輩に限って,施錠や外出を厳しくしたらしたで障害者の人権がどうのと言うんだろうな。砂浜君は無事に見つかって欲しいのは言うまでもないが,この女には全然同情できない。

重症児に対する「どうせ何も分からないに違いない」というステレオタイプに潜む危険を
当ブログでは「ステレオタイプという壁」という書庫のエントリーで訴えてきたのですが、

そうなのでした。

重症児について、または障害者一般についてのステレオタイプの他にも、
「障害者家族」特に「障害児の母親」についてのステレオタイプというのも
世間には実に根強いのでした。

我が子に障害があれば
それがどんなに過酷な介護生活であろうとも、
自分の身など一切省みずに献身的に笑顔でケアし続ける
明るく優しく強い母親像──。

どんな事情があろうとも
そうした「障害児の母親」というステレオタイプから外れることは
見も知らぬ相手から「オマエ」呼ばわりされ、
「この女」呼ばわりされても当たり前なほどの軽蔑に値することだと、
この人は考えているのでしょう。

「いろいろと事情はあるのだろうし」と書く一方で、
母親の愛情さえもってすれば、
障害のある我が子を人に預けるほどの事情などありえないだろうと
考えてもいるのでしょうか。

だからこそ、
自分で面倒を見ずに他人に預けておいて文句まで言うとはナニゴトか
という非難が出てくるのですね、きっと。

介護保険制度ができて介護は社会で担うものだという認識が広まるにつれて、
障害児の母親をはじめ家族の介護負担についても、
上手にサービスを利用して、むしろ自分だけで抱え込まないようにと
周囲の専門家からも勧められるようになってきたようで、

それでも多くの母親たちは
ほんのわずかのレスパイトさえ
罪悪感と闘いながら利用しているに違いないのだけれど、
なんでもかんでも「母親なんだから頑張れ」と叱咤された時代から比べれば
ずいぶん変わったものだと私は喜んでいたのですが、

障害児の母親を巡る母性神話的ステレオタイプは
まだまだ根強いのだなぁ……と改めて。

もっとも介護保険での保険給付も抑制の方向で
「ノーマライゼーション」だ「地域で暮らす」だのという美名の下に
またしても介護が当人と家族の自己責任へと
逆戻りの様相であることを思えば、

「障害児の親」のステレオタイプと美化もまた
かつての如くに復活するのかも?
2008.03.04 / Top↑