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2月1日のイラク市場での自爆テロ事件に関連して、
当ブログでは以下のエントリーで「犯人知的障害女性説」に疑問を呈してきましたが、



その後、
イラクの市場テロの自爆犯女性2人については頭部から身元が判明したようです。

バグダッドの精神病院に入院していたことがあったとのこと。

しかし2人のカルテにはダウン症候群を示す情報はなく、
病院関係者の証言では2人の病気はうつ病と統合失調症などだったと。

(この辺りインタビューを受けた病院関係者の表現が微妙なのか、
 記事の書き方が微妙なのか
 今度はこの診断そのものの信憑性はどうなんだろう……?
 と思わないでもありません。)


Files for Suicide Bombers Show No Down Syndrome
The New York Times, February 21, 2008

ともあれ、
「状況を理解する力の不足と従順であるという障害特性につけこんで
 アルカイダがダウン症の女性を自爆犯に利用した」という
当初流れた情報については未だに裏付けられていない、という話。

しかし、
記事を読んでいて「ウソだろ?」と思わずつぶやいたのは、
テロリストたちが知的障害者を自爆犯に利用するという恐れから
イラク政府はフセイン時代の法律を適用して
物乞いと知的障害者を逮捕し、
知的障害者は病院へ
物乞いは警察その他の施設へと
収容することに決定したとのこと。

なんで、こうなるんだろう──?

自分たちが根拠もなく勝手に流した噂を確認することもなく
今度は一転してその根拠のない噂を根拠に使い
知的障害者が抵抗する力が弱いのをいいことに
捕まえてきては病院に収容するって?

病院に入れるといえば聞こえはいいけど、
障害は病気ではないのだから
要するに体のいい拘禁なわけですよね。それは。

障害に付け込んで卑劣な行為に走っているのは、結局、誰よ?


【追記】
この記事の他にも、
精神病院での調査について詳しい経緯を記したニュースがあり、
そちらを全文掲載してくださっているブログがありましたので
トラックバックさせてもらいました。
2008.03.03 / Top↑
「末期であること」を尊厳死の要件にしながら
その一方で意識の有無を問題にして植物状態を尊厳死の対象にするのは
日本尊厳死協会の矛盾であると指摘した際に小松氏は
植物状態はコミュニケーション障害である」との自説を展開します。

当ブログでも「ステレオタイプという壁」の書庫にあるエントリーで
繰り返し主張してきましたが、
「重症児は表出能力が非常に限られているのであって、
 それが必ずしも認知能力の低さを証明するものではない」
と考えた場合、
重症障害についてもコミュニケーション障害である可能性は常にあると思われます。
これはAnn McDonaldさんやHank Bersani氏らが指摘している点でもあります。

どちらとも証明できない場合に、
医療は「だから、きっと分からない」という立場をとりがちで、
教育は「だから、分かるかもしれない」という立場をとろうとするのかも……
という違いを私は”Ashley療法”論争から感じているのですが、
(私の主観的な印象に過ぎませんが)

それによって害を及ぼす可能性を失くすためには
やはり後者の立場が正解ではないでしょうか。


小松氏の指摘は
「命の末期」がいつのまにやら「意識の末期」にずらされている矛盾を突いたものですが、

そして、
この尊厳死要件における「ずらし」は
米国医療倫理の「無益な治療」議論で見られる
「治療の無益」が実は「命や人の無益」に摩り替わっている「ずらし」と
まさに同質だと私には思えるのですが、

我々一般人が漠然と「尊厳死」を考える際にも
「もうどうせ助からないのに過剰医療で苦しみたくない」と
「意識がなくなって家族に全面的に依存してまで生きていたくない」という
2つの「尊厳死」希望には、
よくよく考えてみると相当な開きがあるにもかかわらず、
その開きはほとんど意識されないまま
混同されているのではないでしょうか。

切り捨てたい側の巧妙な「ずらし」を
我々一般人の側が見過ごしてしまう要因の1つがここにあるように思うのです。

つまり「意識の有無」を巡るステレオタイプの怖さです。

身体的な状況が「悲惨」、「重症」と感じられる場合に、
意識状態まで身体状況と同じ程度に「悲惨」で
「同じくらい障害されている」と短絡してしまう危険。
そして一気に「どうせ分からないのだから」とさらに短絡してしまう危険。

(Diekema医師が繰り返している
「どうせAshleyは生後3ヶ月の赤ん坊と同じなのだから」というセリフが
 こうした短絡と同じではないという保障もどこにもないのです。)

このステレオタイプの短絡にはもう1つ、
端から見る人が感じる「悲惨」であって
それが必ずしも本人の主観的な「悲惨」とは限らないという問題も
含まれています。

こうしたステレオタイプと
それに付け込む「ずらし」には充分に警戒していないと、

やがて行き着くのは
意識状態を問わず一定の要介護状態になったら『尊厳死』の対象。
本人が尊厳死を望まないなら、次には『無益な治療』の適用対象
というところではないでしょうか?
2008.03.03 / Top↑
前回のエントリーで紹介した
「現代思想」2月号の対談「尊厳死をめぐる闘争」から、

そっくりそのまま“Ashley療法”批判にもあてはまると思われる
“尊厳”をめぐる小松氏の発言を以下に。

……ここでやはり問うべきは、尊厳死の前提となる人間の尊厳とは何か、ということです。こんなに惨めな状態で、家族に精神的にも肉体的にも金銭的にも迷惑をかけているし、自分で排便・排尿できない、食べ物も経管に頼っている。それを尊厳のない状態と考えるのがどういうことかといえば、言葉は悪いのですが、「社会的に役立たず」ということでしょう。そこでは人間の価値が社会的に必要か無用という価値になってしまっている。それに対して私は、どんなに無残で変わり果てた姿となっても、ただその人がいる・ある、という存在そのものの価値を体感するところに人間の存在が出来すると思っています。ですから、日本尊厳死協会は意識の有無に拘泥していますが、真に意識がないはずの死体ですら私は平常時では足蹴にできません。そうさせる存在をめぐる何かが人間の存在だと思います。経済政策の中で、存在の価値が有用性の価値にどんどん転化してきているということこそが問題です。
(太字はspitzibara)

昨今の科学と新興テクノロジーの進歩による
「身体は取替え可能な部品の集まりで
自分の自由にできる所有物に過ぎない」
とみなす傾向が拍車をかけて
人間存在が身体と切り離されてしまったように思えることも
小松氏のような尊厳感覚を希薄にしているのではないでしょうか。

太字部分はまさに重症児の状態そのものです。
「社会的に役立たず」であるばかりかコストがかかるのですから、
社会的コストパフォーマンスが悪い最たるものが障害児・者であり、
その中でも重症児ということになる。

「無益な治療」法などは、
まさに経済上の社会のニーズから
「無益な治療」が「無益な人間」を作り出していくマジックでしょう。

小松氏は別の箇所で
日本尊厳死協会は自己決定を前提に尊厳死を個人に限定して認めるようでいて
その実、尊厳死を社会的に認めさせていくという離れ業をやっているのだ
と指摘しているのですが、

「無益な治療」にせよ「ロングフル・ライフ」にせよ選別的中絶にせよ“Ashley療法”にせよ、

個別に検討することが大切といいながら、その実、
障害のある命を生きるに値しない命とする価値観
障害児・者の身体には健常者の身体と同じ尊厳を認めなくても良いとする価値観を
じわじわと着実に社会に蔓延させている

こちらは尊厳死協会以上の離れ業をやってのけているわけですね。

             ―――――

荒川氏の発言の中で目を引いた箇所を1点。

リビング・ウイルなしに
家族が本人の意向を推測して伝えるということを認めるかどうかについて、

植物状態の場合は死が差し迫っているわけではないから
それは認めないという立場だと説明した際に、

かつてDPI(障害者インターナショナル)日本会議で討論したときに
私たちは家族も信用していない」といわれたとのエピソードが
紹介されているのです。

障害児・者の医療やケアの問題を考える際に
「親や家族の愛」をキーワードにした情緒的扇情的なものの言い方には充分に警戒していなければ、

本人と親や家族の利害は必ずしも一致しているわけではないという重大な現実が
容易に見失われてしまいます。

私たちは家族も信用していない――。

心して傾聴すべき言葉ではないでしょうか。
2008.03.03 / Top↑