以下の記事は、これにホスピス関係者が猛反発している、というもの。
こちらの記事に引用された弁護士の発言をそのまま引っ張ると、
こちらの記事に引用された弁護士の発言をそのまま引っ張ると、
「この事件で起こったことはホスピスで起こったこととなんら変わらない。
実際にはホスピスは自殺だ。ただ、ちょっと時間をかけているだけで」
実際にはホスピスは自殺だ。ただ、ちょっと時間をかけているだけで」
the National Hospice and Palliative Care OrganizationのECOは
「ホスピスは命の終わりに近づいている人たちを共感的にケアします。
しかしホスピスが考えるのは死ぬことではなく生きることなのです。
ホスピスと緩和ケアは死に行く人とその人を愛する人たちが一日一日をいかに生きるか
それを安楽とガイダンスを通じて支えようとするもの。
「ホスピスは命の終わりに近づいている人たちを共感的にケアします。
しかしホスピスが考えるのは死ぬことではなく生きることなのです。
ホスピスと緩和ケアは死に行く人とその人を愛する人たちが一日一日をいかに生きるか
それを安楽とガイダンスを通じて支えようとするもの。
ニュース記事にあったあの発言は、
全国のホスピスでケアを受ける人や家族介護者に対して敬意を欠いて無神経です」
全国のホスピスでケアを受ける人や家族介護者に対して敬意を欠いて無神経です」
またHospice of the Western Reserveのディレクターは
「ホスピスと自殺幇助を結びつけるなんて、ありえない。
親切に解釈してあげたとしてもホスピス・ケアを皮相的にしか理解していないし、
悪く解釈すれば、法廷闘争にそなえてカムフラージュにホスピスを使っているだけ」
「ホスピスと自殺幇助を結びつけるなんて、ありえない。
親切に解釈してあげたとしてもホスピス・ケアを皮相的にしか理解していないし、
悪く解釈すれば、法廷闘争にそなえてカムフラージュにホスピスを使っているだけ」
Hospice Leaders Upset Euthanasia Advocate Compares Care to Assisted Suicide
LifeNews.com, March 4, 2009
LifeNews.com, March 4, 2009
Wesley Smith もブログでこの問題を取り上げています。
http://www.wesleyjsmith.com/blog/labels/Hospice.%20Assisted%20Suicide.%20Final%20Exit%20Network..html
http://www.wesleyjsmith.com/blog/labels/Hospice.%20Assisted%20Suicide.%20Final%20Exit%20Network..html
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あの発言を読んだ時に、なんであんなに頭に血が上ったのか
この記事を読んで、ちょっと分かったような気がする。
この記事を読んで、ちょっと分かったような気がする。
娘の脚をマッサージしてやりながら
硬く冷たく固まった脚が少しずつこわばりを解いていくのを感じる時の、あの嬉しさを
アンタらは知らない。
硬く冷たく固まった脚が少しずつこわばりを解いていくのを感じる時の、あの嬉しさを
アンタらは知らない。
ねじれて空洞になった背中にタオルを一枚、詰め沿わせてやることで
寝たきりの娘の体が自分で支える緊張をふっと解く時に、
こちらの身体も一緒にちょっと軽くなる、あの小さな安堵と喜びを
アンタらは知らない。
寝たきりの娘の体が自分で支える緊張をふっと解く時に、
こちらの身体も一緒にちょっと軽くなる、あの小さな安堵と喜びを
アンタらは知らない。
だんだんと食事時にむせることが多くなってきた娘に、
一日でも長く、親と一緒に同じものを口から食べさせてやりたいと、
小鉢と調理スプーンを手に父親が丁寧に刻んでやる
あのおかずのミリ単位の細かさをアンタらは知らない。
一日でも長く、親と一緒に同じものを口から食べさせてやりたいと、
小鉢と調理スプーンを手に父親が丁寧に刻んでやる
あのおかずのミリ単位の細かさをアンタらは知らない。
そうして刻んだ好物を食べてニンマリする娘と
「おいしいね」と目を見合わせる瞬間の豊かさを
アンタらは知らない。
「おいしいね」と目を見合わせる瞬間の豊かさを
アンタらは知らない。
ホスピス・ケアであれ、それ以外のケアであれ、
ケアするというのは私にとって、
「どうせ」と放っておけないことだから、
ケアするというのは私にとって、
「どうせ」と放っておけないことだから、
なにもかも出来ないことだらけ、
してやれないことだらけの中でも、
小さくても「せめて」を1つずつ見つけては重ねていくことだから、
してやれないことだらけの中でも、
小さくても「せめて」を1つずつ見つけては重ねていくことだから、
そして、その積み重ねと繰り返しの中から生まれてくる
喜びや発見や驚きや達成や、通い合いや繋がり合いがあることも身をもって知っているから、
喜びや発見や驚きや達成や、通い合いや繋がり合いがあることも身をもって知っているから、
そういう繊細で丁寧で豊かなものであるケアを
粗雑な手つきで「どうせ無意味」と切って捨てるに等しいアンタらの、
粗雑な手つきで「どうせ無意味」と切って捨てるに等しいアンタらの、
その発言はどうにも許せない。
どうせ死ぬ、
どうせ治らない
どうせ分からない
どうせ重症者だから……と
投げ出したり、切り捨てたりする姿勢と、
どうせ治らない
どうせ分からない
どうせ重症者だから……と
投げ出したり、切り捨てたりする姿勢と、
「せめて」と相手のありのままを受け入れて寄り添うケアの姿勢とは
全く正反対です。
2009.03.07 / Top↑
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