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町山智浩氏の「キャプテン・アメリカはなぜ死んだか:超大国の悪夢と夢」で取り上げられていた
米国で行われた恐るべき人体実験2つと、

そこにあったわけではないのだけれど、
前から一度整理しておきたいと考えていた「タスキギの梅毒人体実験」について、ついでに
Black Markets:The Supply and Demand of Body Parts(Michele Goodwin、2006)から。


MK ウルトラ計画


町山氏によるとMKウルトラ計画とは
朝鮮戦争で共産主義者が行った「洗脳」に対抗するために米国政府が行った洗脳実験で、

125人のアメリカ人を生体実験のモルモットにしてLSDを投与、
脳に電気ショックを与えながら、スキナーの「条件付け」実験を行った。

ジョナサン・デミ監督、デンゼルワシントン主演の映画「クライシス・オブ・アメリカ」(2005)は
この話を基に作られた1962年の「影なき狙撃者」のリメイクだったとか。

そのデミ監督が作成に当たって参考にしたのが以下の本。


検索してみたら、
この本の多くの部分を著者自身がこちらのサイトで公開しているようで、

著者は情報公開法に基づいてCIAから関連資料を得て、この本を書いたものの
資料の多くは既にCIAによって処分されていたとのこと。

CIAが洗脳実験を行った目的は
アメリカ政府が自由に操れる暗殺者を作り出すこと。

日本語でもMKウルトラ計画の詳細を明らかにしようとする有志の方々のブログがありました。



「生まれか育ちか」で双子を引き裂いた実験


人間の能力や性格を決めるのは遺伝子か環境・体験かを実験する目的で
1968年、児童心理学者ピーター・ニューバウアー博士と
博士に協力した養子縁組の紹介所は、
生まれてすぐの双子を別々の家庭に斡旋。
養父母は「ある調査の対象」とだけ説明され、
双子であることすら知らされなかった。

子どもをモルモット扱いするこの実験は80年に法律で禁じられたが
それまでに双子と三つ子計13人が実験台にされた。
そのうち4人は、まだ自分たちが双子であることも知らずに暮らしている。


タスキギの梅毒実験(Tuskegee Study )


The US Public Health Service(PHS)がTuskegee大学と共同で
1932年から1972年までの40年間行った実験。

梅毒が進行した黒人男性399人を被験者に選んだのは、
彼らの大半がアラバマ州の最も貧しい郡の小作農夫で、
教育を受けておらず文字も読めない人たちだったため。

被験者は病気についても症状や治療についても説明されることはなく、
ただ「血が悪い」とだけ言われていた。

被験者を集めるにあたっては
「無料で治療を受けられる」
「無料で受けられる最後のチャンス」などの誘い文句が使われたが
その「無料治療」の内容は脊髄液採取とピンク色の錠剤(ただのアスピリンだった)のみ。

実際には治療は行われず、
研究者らは無治療の梅毒の進行状態を経過観察していただけ。

なぜなら研究の目的は
治療しないまま梅毒で死んだ人の遺骸からのデータ採取だったから。

被験者にはあたかも治療が行われているように見せかけた、この実験は、
実は被験者が死んだ時が本当の実験の始まりだった、という卑劣な話で、

この実験への政府の関与についてクリントン大統領が1997年に謝罪したが
その時には8人を残して、他の被験者は全員が死亡していた。

28人は梅毒が直接的な原因となって死亡。
100人が梅毒関連の合併症で死亡。
被験者の妻40人が梅毒に感染。
彼らの子ども19人に梅毒の影響による先天性の障害。

死後の研究や解剖から得られたデータは公開されなかった。

さらに驚くのは、
世界中がナチスの人体実験を知り糾弾していた間も
ニュールンベルク裁判の後にも
ペニシリンが発見された後にも
この実験が継続されていたこと。

PHSはこの実験を正当化して、
白人と黒人とで病気や治療への反応が違う、その違いを研究する必要がある、と。

タスキギ実験は世界で最も長期に行われた非治療人体実験であり、
その他にも黒人奴隷が初期の医学実験の素材として使われてきた歴史からも、
黒人の間には医療への不信感が今なお根強く植え付けられている。
2009.03.17 / Top↑
それ自体は、とてもプライベートな物思いなのだけど、
こんなにも重い障害を持って自分で自分の身を守ることのできない非力な子を
この世に残して死んでいく勇気が自分にはあるだろうか……と
ずっと胸に抱えている自問と、その裏にある思いとを
何度か思い切って人に語ってみようとしたことがある。

そのたびに返ってくるのは、こちらの言葉途中からの否定、叱責、非難。

「それは間違っている」と言われれば、それは確かに言われるとおりで、
こっちだって「正しいか間違っているか」というところで煩悶しているわけじゃない。

間違っていると頭で十分に分かっていても、
なおかつ「残していく自信が自分にはないかもしれない」と
誰かに語らないではいられないのは、
伝えたいのが言葉ではなく、言葉の後ろにある気持ちだからなのだけど、

それが相手に届かないうちに言葉だけに反応されて
「あなたは間違っている」と私はいつも指を差されてきたような気がする。

ところが、数日前に見ず知らずの人から、初めて
まったく思いがけない言葉をもらった。

安心して先に行ってください──。

それは半年前に書いたエントリーに数日前にいただいた、
お兄さんが障害をお持ちだという方からのコメントでした。

今の社会状況から不安だと思うけれども
両親には安心して先に行ってもらいたいと思う、
そして、それは同じ境遇にあるすべての親御さんへの気持ちでもある、
すべての親たちに安心して先に行ってくださいといえるようにしたい、と。

もちろん、それがたやすいことでないことくらい、この方は十分に分かっているし、
もちろん、障害のある人の兄弟のあり方を押し付けておられるわけでもない。

ただ自分のありのままに素直な気持ちとして
自分の両親に安心して先に行ってもらいたいと思うように
世の中のすべての親に安心して先に行ってくださいと言ってあげたい
そのためにできることを、していきたい、と言葉にしてくださったのだと思う。

初めて贈られた思いがけない言葉から、
それまで味わったことのない大きな安らぎをいただきました。

そして気づかせてもらいました。

ああ、私がずっとずっと言ってもらいたかったのは、この言葉だったんだ、

私だって、きっと他の障害のある子どもの親御さんだって、本当は
できることなら子をこの世に託し、安心して先に行きたいと願っているんだ……と。


いただいたコメントにこめられているのは
すべての障害のある子どもの親に贈っていただいた言葉であり気持ち。

それが一人でも多くの親御さんに届けば、とお願いしたところ、
コメントを下さった方が快く再掲を承諾してくださったので、
以下に、その時のエントリーと、そこにいただいたコメントを。

自分は総体としての人間をどこまで信じることが出来るのか──。

障害のある子どもの親になるということは、
生涯、目の前にこの究極的な問いを突きつけられているということなんじゃないか……と考えることがある。

私たち親子は、それなりに幸運な専門家との出会いにも恵まれて、
今の私は一定のところまで娘を他人に託すことができる。
その程度にまでは人間を総体として信頼できているのだと思う。
そして、そのことは娘にもプラスに働いていると思う。

「お母さん、ミュウはもう1人で生きていけるだけ成長しているよ」と
長い付き合いの看護師さんが言ってくれたのは、もう何年も前のことだ。

親が親として、ここにこうして存在していてやれて
定期的に娘の愛情タンクをいっぱいにしてやれる限りにおいて、
私たち夫婦も娘はそこまで成長してくれたと考えている。

でも、そこに「でも……」がくっつかないわけではない。

もちろん、今の信頼はある長いプロセスを経て少しずつ築かれてきたものなのだけれど、
それでもなお時に大きく揺らいでしまうこともあれば、
裏切られた思いで親も子も傷つかなければならない経験だってないわけじゃない。

自分は総体としての人間をどこまで信じることが出来るのか──。

自分の老いを意識するようになってから
この問いを切実なものとして自問してみることが増えてきた。

それは畢竟、

自分はこの人間の世の中に娘を託して死んでいくことが出来るか。
総体としての人間を信頼して、娘を残して死んでいく勇気が自分にあるか──

という問いなのだと思う。

自分が直接世話をできる能力を失ったとしても、せめて何かがあった時に駆けつけたり、
最後の砦として、親として、ただそこに存在してやることすら出来なくなる時に、
それでもこんなにも非力な我が子を「よろしく」と託すことができるだけ
自分は人間というものを総体として信じられるのかどうか──。

障害のある子どもを持った親が問題意識を持ってものを考えたり、
社会に向けてメッセージを発したり、さまざまな社会活動をしたり、
なんらかの行動をしないではいられないのは、
もしかしたら、この問いへの答えを自分自身の人生を通して
探し続けているんじゃないだろうか。

そして自分自身の人生が終わりに近づいてきたことを実感する時に、
この問いにYESと答えることができる人だけが
子どもを残して死んでいくことが出来る。

YESと答えられない人が子どもを連れていくんじゃないだろうか。

今の私には、まだ答えが出せていません。

ただ、今のところ、
心のどこかに信じたいと願っている自分がいるんだろうな、とおぼろに感じています。

だから自分はいつもこうして言葉を探しているのだと思うし
私に何が出来るというわけでもないのに
Ashley事件に見られる重症児への誤解や無理解を見過ごしておけないのも、
それをきっかけに英米のニュースを読んでは心に点滅する危機感の赤ランプを
こうしてブログで発信しないではいられないのも、
基本的には人間というものを信じていて、
娘のためにもこの先も信じたいと願っているからじゃないかなぁ、という気がするから。

障害のある子どもの親たちは、きっと
自分の生涯を通じて、それぞれ自分にできるやりかたで答えを探している。

みんな、NO と答えたくて探しているわけじゃない。

1人でも多くの親がYESと答えて、子どもを托し、安んじて死んでいける世の中であって欲しい。

「総体として人間を信頼できるか」という問い(2008/8/29)

はじめまして。半年前の記事にコメントすることの是非を考えましたが、一言だけ。

私は親ではなく、障害を持つ人の兄弟です。4歳上の兄がそうです。
彼はすでに親元を離れ、受け入れてもらえる環境を持っています。
しかし、現在の社会状況を見るといつまでそこにいられるかわかりません。

両親は不安なことと思います。ただ、兄には私と弟がいます。
私たちは彼より長く生きることが可能だと思います。
両親には安心して先に行ってもらいたいと思います。
そのためにできることを、していきたいと思います。

そしてそれは、両親だけではなくて同じ境遇の親御さんたちへの気持ちでもあります。
全ての親たちに安心して先に行ってくださいと言える様にしたいです。兄弟の世代として。

不破さん

このエントリーには掲載当初にもJayhawkerさんから、

「障害がある人間にとって本当に心地よい、やさしい社会なら、
万民にとっても信頼できる社会となりえませんか?
そんな社会の実現はむずかしいのだけれども。
そうした社会をつくっていきましょう」

というコメントをいただきました。

こうした出会いの一つ一つ励まされながら、
障害のある子どもの親の自問に少しずつ答えが形作られていくといいな、と思います。
もしかしたら信頼できるかもしれない……きっと信頼できる……という方向へと。
2009.03.17 / Top↑