2月末のFEN幹部の逮捕について米国医師会新聞が取り上げており、
事件そのものについて目新しい内容はないのですが、
一度確認しておきたかった周辺情報があったので、メモとして。
事件そのものについて目新しい内容はないのですが、
一度確認しておきたかった周辺情報があったので、メモとして。
・米国で現在、医師による自殺幇助を合法化しているのは
オレゴン、ワシントン、モンタナの3州。
・現在、検討中なのは
ハワイ、ニュー・ハンプシャー、ニュー・メキシコの3州。
・ なお、米国医師会のスタンスは
「医師による自殺幇助を合法化する如何なる法案にも強く反対する」というもの。
その理由は「癒す者(healer)としての医師の役割に根本的に反するから」。
オレゴン、ワシントン、モンタナの3州。
・現在、検討中なのは
ハワイ、ニュー・ハンプシャー、ニュー・メキシコの3州。
・ なお、米国医師会のスタンスは
「医師による自殺幇助を合法化する如何なる法案にも強く反対する」というもの。
その理由は「癒す者(healer)としての医師の役割に根本的に反するから」。
特に最後の点で、安心した。
医療については州ごとに規制される米国のシステムの中で、
それがどれほどの影響力を持つのか分からないけど、
ちょっと気になっていただけに。
それがどれほどの影響力を持つのか分からないけど、
ちょっと気になっていただけに。
2009.03.23 / Top↑
Benjamin Wilfond 医師と言えば、
シアトル子ども病院Trueman Katz 生命倫理センターのディレクターで
”Ashley療法”論争にもメディアやネットにちょっと怪しげな立場で登場、
去年のワシントン大学の成長抑制シンポにも登場していたし、
その後の成長抑制ワーキング・グループのメンバーでもあり、
1月23日のシンポでは最初にWGの“妥協点”について解説した人物。
シアトル子ども病院Trueman Katz 生命倫理センターのディレクターで
”Ashley療法”論争にもメディアやネットにちょっと怪しげな立場で登場、
去年のワシントン大学の成長抑制シンポにも登場していたし、
その後の成長抑制ワーキング・グループのメンバーでもあり、
1月23日のシンポでは最初にWGの“妥協点”について解説した人物。
そのBenjamin S. WilfondがDouglan J. Opelと共著で書き、
最後の謝辞によるとDiekemaも下書き段階でコメントしたとされている
Hastings Center Report、January-February 2009の論文
最後の謝辞によるとDiekemaも下書き段階でコメントしたとされている
Hastings Center Report、January-February 2009の論文
Cosmetic Surgery in Children in Cognitive Disabilities:
Who benefits?
Who decides?
Who benefits?
Who decides?
正直、何度読んでもワケがわからない。
取り上げられている事例のイチイチがその文脈に妥当な事例だとは思えないし、
またその妥当とも思えない事例を巡る著者らの解釈が
本当に米国の現場の医師の感覚がこんな程度のものなのかどうか、
頭をひねってしまうほど皮相的で人間不在で、
(その中の1つは私がずっとこだわってきた胃ろうについてのものなので
それについては、また別途エントリーを立てようと思います。)
またその妥当とも思えない事例を巡る著者らの解釈が
本当に米国の現場の医師の感覚がこんな程度のものなのかどうか、
頭をひねってしまうほど皮相的で人間不在で、
(その中の1つは私がずっとこだわってきた胃ろうについてのものなので
それについては、また別途エントリーを立てようと思います。)
総じて、
Ashley事件で親の決定権が問題になったことを大いに意識して、
Ashley事件で出た「これはコスメティックな(外見を取り繕うだけの)医療に過ぎない」という批判も
ついでに大いに意識して、
Ashley事件で親の決定権が問題になったことを大いに意識して、
Ashley事件で出た「これはコスメティックな(外見を取り繕うだけの)医療に過ぎない」という批判も
ついでに大いに意識して、
「重症知的障害児へのコスメティックな手術については
どうせ誰の利益かなんて、本人と親の間にはっきり線を引けないのだから
それなら親の決定権を尊重してあげれば、その話し合いの過程によって
親と医療職の間に信頼関係が築かれるというメリットだけはある」
と、結論をとんでもないところに飛躍させるべく、
意図的に組み立てられた論文に過ぎないんじゃないか、と思ってしまった。
どうせ誰の利益かなんて、本人と親の間にはっきり線を引けないのだから
それなら親の決定権を尊重してあげれば、その話し合いの過程によって
親と医療職の間に信頼関係が築かれるというメリットだけはある」
と、結論をとんでもないところに飛躍させるべく、
意図的に組み立てられた論文に過ぎないんじゃないか、と思ってしまった。
Wilfondらは冒頭で
ちょっと理解しかねる事例を引いた後で
ちょっと理解しかねる事例を引いた後で
「発達障害のある子どものコスメティックな手術については
障害のない子どもの場合とは違う倫理基準を用いるべきなのだろうか?
障害のない子どもの場合とは違う倫理基準を用いるべきなのだろうか?
重症の認知障害のある子どものコスメティックな手術は
そもそも許されるべきなのだろうか?
そもそも許されるべきなのだろうか?
それは親が決定することを許されるべきなのだろうか?」と
3つの問いを立てているのですが、そのすべてに、
この論文の結論はYESと答えているわけです。
この論文の結論はYESと答えているわけです。
つまり、
「どうせ本人は社会心理的利益を感じることもできないし
目的が親の利益だったとしても
親の利益は間接的に本人の利益にも重なるのだから
発達障害のある子どものコスメティックな手術は
障害のない子どもの場合とは別の倫理基準で判断し、やってよい」と。
「どうせ本人は社会心理的利益を感じることもできないし
目的が親の利益だったとしても
親の利益は間接的に本人の利益にも重なるのだから
発達障害のある子どものコスメティックな手術は
障害のない子どもの場合とは別の倫理基準で判断し、やってよい」と。
Ashley事件で一番恐ろしいことは
これまで当ブログで何度か指摘してきたように、
これまで当ブログで何度か指摘してきたように、
このような厳密さを欠いた議論の中で、いつのまにか
「重症の知的障害児の場合には話が別」という一線が
医療において引かれてしまうことなのではないでしょうか。
「重症の知的障害児の場合には話が別」という一線が
医療において引かれてしまうことなのではないでしょうか。
この一線がいかに世間の人にとって受け入れやすいものか、
障害学や障害者運動の人たちですら無意識のうちに
「Ashleyは赤ん坊と同じなのだから他の障害者とは話が別」と考えていたことを思うと、
なぜ、そんなに簡単に多くの人が誤魔化されてしまうのか、
私はその1点が、もう身もだえするほどに悔しくてならない。
「Ashleyは赤ん坊と同じなのだから他の障害者とは話が別」と考えていたことを思うと、
なぜ、そんなに簡単に多くの人が誤魔化されてしまうのか、
私はその1点が、もう身もだえするほどに悔しくてならない。
その線引きを
シアトル子ども病院が完成してしまおうと急いでいるのは
本当にそれが重症障害児のためだと倫理の専門家として心から信じるからではなく
ただただ、もう絶対に認めることが出来ないところまできてしまった
自分たちの失態を隠蔽しきってしまうためかもしれないというのに。
シアトル子ども病院が完成してしまおうと急いでいるのは
本当にそれが重症障害児のためだと倫理の専門家として心から信じるからではなく
ただただ、もう絶対に認めることが出来ないところまできてしまった
自分たちの失態を隠蔽しきってしまうためかもしれないというのに。
そして、こうして一度引かれてしまった線引きは
一方で進む自殺幇助の合法化議論や「無益な治療」議論においても
「重症の知的・認知障害のある人は、それ以外の障害者とは別基準で」と
影響してくるに違いない。
一方で進む自殺幇助の合法化議論や「無益な治療」議論においても
「重症の知的・認知障害のある人は、それ以外の障害者とは別基準で」と
影響してくるに違いない。
しかも恐ろしいことに
ここで別の倫理基準が当てはめられて然りとされる「重症の知的障害」は
論文の中で一切定義されていないのです。
ここで別の倫理基準が当てはめられて然りとされる「重症の知的障害」は
論文の中で一切定義されていないのです。
冒頭で
スケートボードの事故の脳損傷により四肢麻痺になった子どもの事例が出てくるのですが、
そこに「意思疎通が出来ない」と障害の重篤さを説明する箇所があります。
スケートボードの事故の脳損傷により四肢麻痺になった子どもの事例が出てくるのですが、
そこに「意思疎通が出来ない」と障害の重篤さを説明する箇所があります。
成長抑制ワーキング・グループが
当初Diekema医師らが主張していた「重篤な知的障害」という条件を捨て
いつのまにか永続的に「意思疎通が出来ないこと」と「歩けないこと」を
成長抑制を妥当とする対象児の基準としていたことを考えると、
当初Diekema医師らが主張していた「重篤な知的障害」という条件を捨て
いつのまにか永続的に「意思疎通が出来ないこと」と「歩けないこと」を
成長抑制を妥当とする対象児の基準としていたことを考えると、
これから先の米国の医療では
「意思疎通が出来ない」ことが
「別の倫理基準」を当てはめる線引きとなっていく可能性が懸念されます。
「意思疎通が出来ない」ことが
「別の倫理基準」を当てはめる線引きとなっていく可能性が懸念されます。
くれぐれも、この曖昧さと巧妙な論理の摩り替え、ズラしに
乗せられてはならない──と肝に銘じておきたい。
乗せられてはならない──と肝に銘じておきたい。
2009.03.23 / Top↑
米国のNot Dead Yet は「まだ死んでいない」という名前の
障害者の人権活動団体。
障害者の人権活動団体。
Kevorkian医師がターミナルではない障害女性への自殺幇助で無罪になったことを機に1996年に設立され、
その後一貫して自殺幇助の合法化に対して抵抗運動をしています。
その後一貫して自殺幇助の合法化に対して抵抗運動をしています。
サイトのタイトル部分には、以下のように書かれています。
しばしば思いやりのある行為のように説明されるが
医療による合法的な殺人は実際には重症障害のある人を殺すダブルスタンダードであり、
ターミナルと名づけられる人とそうではない人の両方を対象にしている。
医療による合法的な殺人は実際には重症障害のある人を殺すダブルスタンダードであり、
ターミナルと名づけられる人とそうではない人の両方を対象にしている。
NDYのリーダーStephan Drakeが3月13日にラジオ番組で
鋭いFEN批判を展開したようです。
トランスクリプトがNDYの16日付のエントリーにアップされています。
鋭いFEN批判を展開したようです。
トランスクリプトがNDYの16日付のエントリーにアップされています。
(FENの自殺幇助疑惑については、文末に関連エントリーをまとめてあります)
Drake氏の発言から個人的に印象に残った箇所を以下に。
なお、逐語訳ではなく、ある程度まとめています。
なお、逐語訳ではなく、ある程度まとめています。
・本気で自殺したい人は毎日自分で死んでいる。FENを頼る人というのは、誰かが傍にいて力づけてくれないと自殺できないのだから、その時点で既に彼らは揺らいでいるのだ。
・自殺の方法を情報として流すことならネット上でも行われているし規制も難しいが、FENにはヘリウム自殺の間、頭にかぶった袋を脱がないように手を押さえていたという話もある。本能的に脱ごうとする動作と、死ぬのを思いとどまって脱ごうとする動作をどうやって見分けることができるというのか。誰かが本人の希望で自殺を手伝った行為が、実際は殺人に終わっていたとしても見分けることはできない。実際に傍にいたのかどうか、具体的にはどこまで手伝ったのかが問題。
・FENを頼る人たちは、余命6ヶ月以内という条件のあるOregonやWashingtonの尊厳死法では対象にならない人たちなのだということは、重視しなければならない。
・Stephan Drake自身、出生時に脳損傷があったので両親は医師から「植物」だといわれた。新生児でも成人でも、脳損傷があるとなると、次に出てくるのは、まるで物品のように施設に収容しようとか死なせようという話。安楽死推進運動は、こういう状態の人とターミナルな状態の人を十分に区別していないし、さらに言えば、FENで今回逮捕されなかった活動家の中には、以前は障害児殺しの罪を免罪しようと運動していた人もいる。
・(FENの逮捕が、自殺した人の家族からの捜査依頼で行われた囮捜査によるものだったことから、「自殺は本人の自己決定権で行われるものである以上、家族がFENを責めるのはお門違いだろう」とのホストの指摘を受けて)、問題は、その人がもしもFENを知らなかったとしたら、それでも自殺していたかどうか、という点。
・また、意思決定能力のある人なら自殺は自己決定だという場合に、その意思決定能力の有無をどのようにして線引きするかという問題もある。
・自殺の方法を情報として流すことならネット上でも行われているし規制も難しいが、FENにはヘリウム自殺の間、頭にかぶった袋を脱がないように手を押さえていたという話もある。本能的に脱ごうとする動作と、死ぬのを思いとどまって脱ごうとする動作をどうやって見分けることができるというのか。誰かが本人の希望で自殺を手伝った行為が、実際は殺人に終わっていたとしても見分けることはできない。実際に傍にいたのかどうか、具体的にはどこまで手伝ったのかが問題。
・FENを頼る人たちは、余命6ヶ月以内という条件のあるOregonやWashingtonの尊厳死法では対象にならない人たちなのだということは、重視しなければならない。
・Stephan Drake自身、出生時に脳損傷があったので両親は医師から「植物」だといわれた。新生児でも成人でも、脳損傷があるとなると、次に出てくるのは、まるで物品のように施設に収容しようとか死なせようという話。安楽死推進運動は、こういう状態の人とターミナルな状態の人を十分に区別していないし、さらに言えば、FENで今回逮捕されなかった活動家の中には、以前は障害児殺しの罪を免罪しようと運動していた人もいる。
・(FENの逮捕が、自殺した人の家族からの捜査依頼で行われた囮捜査によるものだったことから、「自殺は本人の自己決定権で行われるものである以上、家族がFENを責めるのはお門違いだろう」とのホストの指摘を受けて)、問題は、その人がもしもFENを知らなかったとしたら、それでも自殺していたかどうか、という点。
・また、意思決定能力のある人なら自殺は自己決定だという場合に、その意思決定能力の有無をどのようにして線引きするかという問題もある。
ホスト2人はどちらかというと自殺は個人の自己決定権だと考えて
自殺幇助の合法化に賛成の立場からDrakeに反論していきますが、
Drakeの指摘から、自分たちの見解を部分的に修正しつつ話が進んでいるような印象を受けます。
自殺幇助の合法化に賛成の立場からDrakeに反論していきますが、
Drakeの指摘から、自分たちの見解を部分的に修正しつつ話が進んでいるような印象を受けます。
まず「死にたいのは本人の意思なのだから、それを手伝ったとしても悪いはずはない」と主張し
Drakeの「手を押さえたら本人意思が変わった場合には殺人になる」可能性を指摘され、
「ああ、それはそうだ、実際に手を出してはいけないな」
Drakeの「手を押さえたら本人意思が変わった場合には殺人になる」可能性を指摘され、
「ああ、それはそうだ、実際に手を出してはいけないな」
次に「でも自殺を決めるのは本人の権利なのだから
家族や周りの人間がとやかく言えるものじゃない」と主張し
Drake氏に「その人はFENがなかったとしても自殺していたか」と問いかけられ、
家族や周りの人間がとやかく言えるものじゃない」と主張し
Drake氏に「その人はFENがなかったとしても自殺していたか」と問いかけられ、
Drakeのダブルスタンダード説に
「でも自殺を望むのは障害者や病人でしょ」と突っ込んで、
「本当に自己決定できる人かどうかの線引きはそう簡単ではない」と指摘されて
初めて、そこに問題があることに思い至った様子。
「でも自殺を望むのは障害者や病人でしょ」と突っ込んで、
「本当に自己決定できる人かどうかの線引きはそう簡単ではない」と指摘されて
初めて、そこに問題があることに思い至った様子。
全体に、
当該問題に関する具体的な事実関係を詳細に知り、深く考察してきた人と
そこまで細かい事実関係も知らず、その問題にかかわる周辺事情も知らないままに、
皮相的な抽象論で安易に結論を出してしまった人の差……というのをここでも感じて、
当該問題に関する具体的な事実関係を詳細に知り、深く考察してきた人と
そこまで細かい事実関係も知らず、その問題にかかわる周辺事情も知らないままに、
皮相的な抽象論で安易に結論を出してしまった人の差……というのをここでも感じて、
世間一般の多くの人は、
事件の事実関係をきちんと知って、その上で問題を考えようとする前に
「分かりやすく飲み込みやすい物語」を勝手に頭の中に作り上げて
その怪しげな物語にのっとって自分の意見を決めてしまう。
事件の事実関係をきちんと知って、その上で問題を考えようとする前に
「分かりやすく飲み込みやすい物語」を勝手に頭の中に作り上げて
その怪しげな物語にのっとって自分の意見を決めてしまう。
Ashley事件では
“科学とテクノ万歳文化”にどっぷり浸かったIT企業の幹部である父親の
“お山の大将”的独善性と愚劣な権力者の特権意識と直線思考とに
病院がプロフェッショナルとして抵抗できなかったというだけの
お粗末な事件だった(可能性がある)ものが
「ここまでしてでも重症児のわが子を思う美しい親の愛の物語」になってしまった。
“科学とテクノ万歳文化”にどっぷり浸かったIT企業の幹部である父親の
“お山の大将”的独善性と愚劣な権力者の特権意識と直線思考とに
病院がプロフェッショナルとして抵抗できなかったというだけの
お粗末な事件だった(可能性がある)ものが
「ここまでしてでも重症児のわが子を思う美しい親の愛の物語」になってしまった。
射水事件では
脳死の定義すらおぼつかない、お粗末な意識の医師が
「患者への愛情と高潔な使命感から、保身に汲々とする病院と対決する安楽死信奉者」に変身した。
脳死の定義すらおぼつかない、お粗末な意識の医師が
「患者への愛情と高潔な使命感から、保身に汲々とする病院と対決する安楽死信奉者」に変身した。
いずれの事件でも
分かりやすい物語の蔓延にメディアが果たした役割は大きいけれど、
そういう物語が即座に作られて、また広く一般に歓迎されていくというのも
分かりやすい物語の蔓延にメディアが果たした役割は大きいけれど、
そういう物語が即座に作られて、また広く一般に歓迎されていくというのも
どちらの事件の背景にも、
そうした時代の力動みたいなものが予め蠢いていたからなのだろうと
前に上記リンクのエントリーで考えてみました。
そうした時代の力動みたいなものが予め蠢いていたからなのだろうと
前に上記リンクのエントリーで考えてみました。
その伝で行けば、
このラジオ番組のホストが自殺幇助の問題について事実関係や周辺状況を知らず、
「尊厳ある死に方を選ぶのは自己決定権である。
自分で意思決定能力がある成人なら認められてよい」という
単純明快な論理を何の疑いもなく受け入れて、
このラジオ番組のホストが自殺幇助の問題について事実関係や周辺状況を知らず、
「尊厳ある死に方を選ぶのは自己決定権である。
自分で意思決定能力がある成人なら認められてよい」という
単純明快な論理を何の疑いもなく受け入れて、
経済の行き詰まりから社会的コストのかかる弱者切捨てが広がっている事情、
「意思決定能力(competence)」をめぐる判断に潜んでいるリスクや
代理決定の方法論やセーフガードの問題など、
代理決定の方法論やセーフガードの問題など、
事件そのものの事実関係や、また周辺的な事情を知れば知るほど、
コトはそれほど単純明快ではないことが分かってくるのに、
コトはそれほど単純明快ではないことが分かってくるのに、
それほど丁寧な手間をかけず、
メディアから口移しにされる飲み込みやすい単純できれいな物語を丸呑みして
さっさと結論を出してしまうのも、
メディアから口移しにされる飲み込みやすい単純できれいな物語を丸呑みして
さっさと結論を出してしまうのも、
それはきっと、もともと時代の力動がそういう結論を予め用意しているからだろうし、
また人々の鵜呑み丸呑みがさらに時代の力動を後押することにもなって
ある方向へ向かう世の中の動きを加速させていく……というのが、
今あちこちで加速化する循環のカラクリなのではないか、と思ったりするのですが、
ある方向へ向かう世の中の動きを加速させていく……というのが、
今あちこちで加速化する循環のカラクリなのではないか、と思ったりするのですが、
そもそも世の中にはそういう力動を作り出したい人たちというのがいて、
そういう人たちにとっては、
なるべく多くの人が深く知らず深く考えないままに
単純な物語を丸呑みしてくれるほうが好都合なのだということを考えると、
なるべく多くの人が深く知らず深く考えないままに
単純な物語を丸呑みしてくれるほうが好都合なのだということを考えると、
スローガンのように単純明快で飲み込みやすい物語や理屈というものには、まず警戒感を持ち、
目の前に出てきた時には、とりあえず受け取りは保留にしておいて、
その間に一つ一つの事件で起こっていることの事実関係を自分で確認し、
その周辺で何が起こっているかという事情もある程度まで知ったうえで考えてみる……
……という姿勢を一人でも多くの人が持つことが、
目の前に出てきた時には、とりあえず受け取りは保留にしておいて、
その間に一つ一つの事件で起こっていることの事実関係を自分で確認し、
その周辺で何が起こっているかという事情もある程度まで知ったうえで考えてみる……
……という姿勢を一人でも多くの人が持つことが、
時代の力動を敢えて作り出したい人たちへの抵抗にもなるんじゃないだろうか。
2009.03.23 / Top↑
| Home |