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Diekema & Fost成長抑制論文が
障害学や障害当事者らからの「尊厳を侵す」との批判を
「尊厳は定義なしに使っても無益な概念」だと一蹴していることが
ずっと気持ちに引っかかっていて、ぐるぐる考えている。

ここ数日いろんな人から教えてもらったり助けてもらって、
いくつか分かってきたことや考えたこともあるので、
まだ整理はうまくできていないけど、ここに一応まとめておこうと思って。


①英語圏の生命倫理学では「尊厳」が無益な概念かどうか、ずっと論争になっていて、
ことの発端は2001年にRuth Macklinという人が書いたこちらの論文だとのこと。

Dignity is a useless concept
Editorial, BMJ 2003; 327:1419-1420 (20 December)

どうも「人間の尊厳」とは結局「人格の尊重」とか「自己決定権の尊重」のことだとする主張のようなのだけど、
論文そのものを読んだわけではないし、それがどういうことなのかも、まだイマイチよく分かっていません。

リンク・ページの下部に、掲載直後の数ヶ月にBMJに寄せられた多数の論文が紹介されていて、
タイトルだけを眺めても、かなりの反論が出ている模様。

なんだか、とんでもなく、ややこしい論争なんだなぁ……。
軽い気持ちで「尊厳の定義って?」と疑問を持ったことが悔やまれてしまう。

ただ、DiekemaとFostが尊厳なんて“useless concept”だと引用符をつけているのが
この論争でのMacklinの主張を持ち出したつもりなら、
成長抑制の倫理的妥当性を論じるに当たって尊厳は無益な概念に過ぎないとする彼らの主張にも、
Macklinの論文に対すると同じだけの反論が可能になるということは言えるかもしれない。

この論争をまとめたものとして、
去年、大統領生命倫理評議会から論考集が出されていると教えてもらって、
現在イントロダクション2章分を読んだところ。
これについてはまた別エントリーで。


②もう1つ教えてもらったのが、去年7月の
国連人権理事会特別報告官の報告

この報告書において
「侵襲的で非可逆的な医療が同意なしに障害者に対して行われている」ことが
拷問や虐待として指摘されている点や、

障害者権利条約17条で全ての障害者に対して
「身体的精神的インテグリティ(不可侵性完全性)が尊重される権利が認められている」と
特筆されていることからも、

「尊厳」は定義されていないにしても、
障害を理由にホルモン大量投与による成長抑制を行うことは
身体的インテグリティの侵害であり虐待だと言えるのではないか──。

……とここまで考えて、思い出した。

③去年NYで開かれた認知障害カンファでSingerがAshleyケースを取り上げた時に、
What Sortsブログで、この疑問そのものの議論があったのでした。


カント流に「自己統治できる人だけが尊厳を有する」と考えて
知的障害者に尊厳を認めず、他者から判断できる利益の検討のみでよいと
Singerのように主張するならば、
知的障害者は自己統治ができないことをまず証明しなければならない、と。


④その際に、障害者への虐待を研究してきたカナダ、アルベルタ大学のDick Sobsey氏が
子どもの権利条約を引いて、Singerに見事な反論を行っていました。

これは本当にブラボーな批判なので、関心のある方はぜひ。



⑤そういえば、Ashley療法論争では
Art Caplanなども即座に「障害児にも成長する権利はある」と
具体的に「成長する権利」をあげて批判していたんだった。

だから、DiekemaもFostも、「尊厳を侵す」という批判だけでなく
「成長する権利を侵害している」との批判にも答えなければならないはずなのだけど、

成長抑制の2つの論文とも、この点については
「重症児が背が低いことから蒙る害というものが考えられるだろうか?」
「重症児は背が低いことによる社会心理的な不利益を体験することがない」などと、
書いている部分が、その反論のつもりなのかもしれない。

でも、これ、「利益を検討するより害を避ける方が優先」という慎重論である「害原則」の
逆利用・悪用に過ぎないと思う。

「害原則」というのはDiekema医師自身も
「最善の利益」は医療における意思決定では実は不適切だとして、
それに代わる原則として採用すべきだと主張しているもので、
「いかに利益になるか」ではなく「いかに害を避けるか」を優先する観点。


1月の成長抑制ワーキング・グループでは
身長が低いことでスティグマが強化されて、そのスティグマによって
さらなる侵襲への正当化に繋がる悪循環が起こる「害」が指摘されていたと思うのですが、

これらの論文の「害」は、「害」というよりも
「知的障害が重いからどうせ本人には感じられない」との偏見に過ぎない。


⑤どうも、やっぱり「最善の利益」とか「利益 vs リスクまたは害」検討というのは
どこか、まずいことを言いくるめるためのマヤカシのような気がする。

これについては去年3月にこちらのエントリーにも書いているのですが、

そもそも「利益 vs リスクまたは害」検討というのは
それ以前に「条件さえクリアすれば可」という前提から始まっていて、
本当はそれ以前にあるはずの「無条件に不可か、それとも条件によって可か」という検討段階が
すっとばされていて、「可とする」ことが前提になっているのがマヤカシだと思うし。

ちなみに、Ashleyケースの擁護に出てきたFraderという人が
「最善の利益」はポルノと同じで、見る人によってどうにでもなる、と言っています。



⑥あと、知的障害者への医療介入をめぐる法的判断などを当ブログで読んできた中で
考えておきたいこととして、本人利益の証明責任には必ず
「明白で説得力のあるエビデンスを提示することによって」という条件がくっついていること。

この文言はDiekema医師自身が
2003年に書いた知的障害者への強制的不妊手術に関する論文で使用しているのですが、
AshleyケースにおけるDiekema医師の正当化がこの条件を満たしていたことはない、と思う。


⑦で、総じて、成長抑制論文の「尊厳は無益な概念」という主張について思うのは

本当は「尊厳」の定義の問題ではなくて、
「尊厳」概念を否定する人たちに対抗するために
「尊厳」の定義が必要になっている事態のほうの問題であり、
もしかしたら「必要になっている」と思わされてしまう「向こう側」の戦略そのものを
問題にするべき話なのかもしれない、ということ。

つまり自分たちが説明責任、証明責任を果たせていないことから目を逸らせるために
批判する側にあたかも説明責任があるかのように転化して
批判封じの恫喝をぶちかましてみせているわけだから、

その恫喝に屈しないためには
「いや、説明責任を果たすべきなのはそちらである」との姿勢を崩さず
「そして、あなた方はまだこの点を説明していない」と指摘し続けること──。

なにしろ、ここでもまた、
ない研究は、ないことそのものが見えない、よって何故ないのかも見えなくなってしまうのと同じく、
ない説明は、その説明がないことそのものが見えなくなって
なぜ、その説明はないのかという背景が隠蔽されてしまっているのだから。
2009.06.29 / Top↑